首都マニラ
形と色の揃った真珠は八十個採れた。ネックレス用として売れる。色と形が揃った真珠は価値がグンと跳ね上がる。学校づくりに必要な資金はおよそ五千ドル。まともな交渉でこの真珠が売却できれば一万五千ドルで売れるだろう。資金として充分だ。朱が確認のためカルディンと目を合わせる。カルディンは嬉しそうに一度頷いた。朱は勢いよく立ち上がると、ゆっくりと右手を空に上げる。
「イトヤバットの海は我らに実りをもたらした。サンタ・ルチアの子らが学ぶ場を作る為、多くの真珠をもたらした。我らはこれよりマカオに向けて出航する。マカオで真珠を金に変え、学校を作ろうぞ!」
浜に集まっていた子供たちと、暇な大人たちから歓声が起こる。朱と健太は鬼神丸を担ぎ上げる。何トンもある大きな船を、子供のような二人が担ぐ奇跡に、新たな歓声が沸き起こる。海に浮かべられた鬼神丸に、朱、健太、フランク、菊千代、馬頭、カルディン、クラウディアが乗り込んだ。
「なんだ、クラウディアも行くのか?」
「朱さん、クラウディアが俺から離れんのですわ。勘弁してやってください。」
満更でもない表情で笑う馬頭に、仕方ないのうと笑顔を返す朱。馬頭とクラウディアが出会って既に数日が経っている。少しずつ互いが燃やしていた熱情がこなれてきて、柔らかい優しさに変わってきている。馬頭とクラウディアが見せる表情から、朱にはそんな様に感じている。今の二人にはそういう優しさのような時間を纏っている様に、朱には見える。自分が関わったことで馬頭の人生は大きく舵を切ることになった。そして、どうやらそれがいい方向に向かっている様だ。それが朱には嬉しかった。七百数十年という、気が遠くなるような長い時を振り返ると、大半をなるべく人と関わらないように生きてきた朱であった。ところが、健太を救ってから、あっという間に仲間が四人になった。しかも、今は島の村落の未来に関わるようなことまで、始めようとしている。その事に戸惑いを感じない。といえば嘘になる。しかし、朱が不死の身体を手に入れた時代であれば、その存在は本当に国一つの行く末を変える様な力があったと、思う。だが現代ではどうだ。広島では新型爆弾たった一発で十万を超える人が亡くなったという。爆心地付近は超高熱に晒され人が蒸発してしまったと言う。済州島の悲劇はどうだ。朱がどんなに狂気に駆られようとも、あの島の焼け野原を朱には到底作れないと思う。朱は現在地球上に存在するどの国家であろうと、その国の元首を亡き者にする能力はある。しかし李承晩は朱に対して平然と言ってのけた。私を殺しても韓国の今の状況は変わらないと。この数年で朱が見聞きしてきた様々な悲劇は、朱の想像を超えるスケールで、朱を悲しみの淵に落とした。朱はなるべく人の世を歪ませないようにと、世界の片隅で生きてきた。しかし、時代の移り変わりは朱が想像するよりも、遥かに目まぐるしく高速であった。そして朱が思う以上に、人は強大な狂気を内に秘めて存在しているのだということを朱は理解した。そう言った経験を通して、現在の朱は比較的気軽に世の中に関わって生きても良いと思えるように変わってきていた。現在の朱の感じる戸惑いは、とても小さいものになろうとしていた。キラキラとエメラルドグリーンに光る水面を渡る海風は、船首に立って腕を組む朱の頬を優しく撫でて流れていく。くるりと上半身を捻って後方を振り返ると、仲間たちは皆楽しそうな笑顔を浮かべて、それぞれの仕事に勤しんでいる。朱は満足気に潮風を吸い込むと、幸せのため息を大きく吐き出した。
十日の航海で鬼神丸はマニラ港に到着した。上陸した途端に、ギトギトとした混沌が一行にまとわりついた。道はどこも人で溢れかえり、両側には好き勝手に屋台が軒を連ねている。屋台の売り子の叫び声が乱れ飛ぶ。人混みを縫うように駆けてゆく子供たち。通れないと絶叫を上げる車のクラクション。戦争特需の影響か、アジアでは日本に次いで国民所得が高かったフィリピン首都マニラは、人々の野心や不正や富をひとまとめにして、大鍋で煮込んだような街並みを呈していた。ゴミだらけの街路に立った四人にカルディンは言う。
「フィリピン人に悪い人は少ない。でも小悪党が多いです。スリや詐欺はとても多い。注意が必要です。」
そう言い終わらないうちに、朱の右手が空に溶け込みザ!と乾いた音がした。口ひげを生やし痩せこけた男が、驚愕の表情を貼り付けたまま固まっている。真珠入りの小袋を朱が握っている。男はカルディンの胸ポケットからスりとった筈の小袋が自分の手から消えて、朱の手に移動していることにやっと気がつくと、まろびつつも走って逃げていった。男の慌て様から、今までなかった体験をして慌てたのだということが判る。腕のいいスリだったに違いない。
「朱さん、俺とクラウディアに衣装を買ってください。ヤクザなスーツと、派手なドレスが良いです。」
と、馬頭が言う。硬直しているカルディンに小袋を手渡しながら、朱が聞く。
「何に使うんだ?」
「島でも言いましたが、真珠の交渉は俺に任せてください。ハッタリを利かすのに小芝居を打とうと思います。」
「ふふ。そうか。カルディン、なにか古着屋の様なものはないかの?」
やっと我に返ったカルディンは、あぁ、そしたらちょっと聞いてみます。と小袋を固く手に握りしめたまま、道端のパイナップル売りに話しかけた。
古着屋で衣装を調達し、着替えた馬頭とクラウディア。馬頭は興行に来ていたアメリカのプロレスラーが荷物減らしのために置いていったという、白のボルサリーノにスーツとエナメル靴に黒いネクタイと、ウェイファラーのサングラス。体格の小さな人間が多いフィリピンでは、それしか身体に合うものがなかったのだ。クラウディアは豊満なバストとヒップに強調されたくびれをしっとりと包みこむ紅いドレスに深紅のハイヒール。胸には黒いバラのコサージュを付けている。左の裾から右膝に掛けて柔らかいカーブでスリットが入り、縁には三層にヒダが縫い付けられて、形の良い引き締まったクラウディアの下肢をセクシーに覗かせる。クラウディアはまるでフラメンコダンサーのようであった。姿見の前でクラウディアを抱き寄せた馬頭は、上から下までじっくりと、吟味すると満足気に頷いた。そして、カルディンから真珠の小袋を受け取ると、半球型のゴールドリップを取り出した。店主にそれを渡すとニヤリと笑いかける。店主はこれじゃ足りないと騒ぎ出した。
「おいオヤジ。こんなビッグサイズのスーツ、フィリピン人で誰が着るんだ?良いからこれで納得しろ。これを見ろ。粒の揃ったゴールドリップだ。今から宝石商に行って金に変えてくる。そしたら、俺の仲間たちの衣類もここで買ってやる。だから今はおとなしく待っておけ。な?」
下腹に響くような馬頭の声に、古着屋のオヤジは、すぐに大人しくなった。




