神の子朱
広場はいつの間にか水を打ったように、しんと静まり返っていた。生暖かい風が吹き抜け棕櫚の葉を揺らす。全力を振り絞った馬頭は全身に玉の汗を浮かべたまま、固まっていた。それまで熱狂的に歓声をあげていた島の男も、女も、子供たちも口を開いたまま放心している。幼い男の子がアヒェッと叫んだことが引き金となり大きなうねりが巻き起こった。子供たちがピョンピョンと飛び跳ねながら、アヒェッとか、アクンィと叫んでいる。男たちも大興奮で足を踏み鳴らす。足踏みの音は少しずつ揃っていき、リズムを刻み始める。フィリピン人のリズム感は素晴らしい。二本の竹で互いに挟むように音を鳴らし、地面に打ち付けリズムを刻みながら、その竹に足を挟まれないように踊る伝統舞踊が伝わっている。リズムに合わせて女が、良く通る歌声をあげる。他の女達もそれに続き、男たちが合いの手を入れる。島中の人間で大合唱が始まった。丁度その時、話し合いが終わったのか、村長とカルディン達がぞろぞろと集会所から出てきた。ご機嫌で大合唱している島の連中を見て、何事かと朱に駆け寄ってカルディンが尋ねた。朱はそれに上機嫌で答える。
「いやなに、島の皆に相撲を教えたのだ。」
「スモ?なんですか?」
「相撲だ。スモウ。日本の国技だ。神儀にも用いられる神聖な競技だ。それでわしが馬頭を下したら、この騒ぎよ。」
「スモウとはどういうものですか?」
「本来は太いロープで円を作る。円の中央で向かい合って、合図と共に力をぶつけ合う。力比べだ。円から出てしまうか、先に足の裏以外が地面についたほうが負けだ。」
「え?その勝負で、朱さんが馬頭さんに勝ったんですか?もしかして、この二本の筋は馬頭さんの足の跡?」
「そうだ。わしが馬頭を土俵外に押し出してやった。」
ふんぞり返って、得意げな朱と先程の島民の様に、あんぐりと口を開けたまま固まるカルディン。
「だから、この歌ですか。」
「なんて歌っているのだ?」
「神が舞い降りた。神が舞い降りた。小さい天使のような。神が舞い降りた。神が舞い降りた。この喜びを分かち合おう。アケは神の子。奇跡の子。アケは神の子。奇跡の子。と歌っています。男たちの合いの手は、喜びだ。幸せだ。です。朱さんの力がこんなにも凄いなんて。驚きました。島の連中は、驚きが喜びに変わった様で、皆が浮かれています。」
「あんたが、神の子アケかぃ!ばはははー!わたしゃリビエラだ。よろしく頼むよ!あんたたちが、学校を作ってくれるんだって?馬鹿な男どもが、学校づくりに反対とか抜かしやがるから、じゃぁ島の女は今晩からオマンコさせてやらないよ!と言ってやった!ばはははは!一発だよ!学校づくりはOKが出たよ!」
サンタ・ルチア村で、一番の女傑リビエラであった。夫を漁の事故で亡くし、乳飲み子を背負ってマニラに渡り、洗濯婦や家政婦を掛け持ちして働き、見事に子供を育て上げて島に帰ってきた女であった。人手が足りない家庭で、子供を育てることがどれほど大変であるか、彼女は骨身にしみて判っていた。だから、せっかくの学校づくりに、反対と抜かす男どもにかつて無い剣幕で食って掛かったのであった。女達を束ねる親分肌のリビエラがそう言えば、男たちは妻との時間を失うことになりかねない。あっけなく降参した反対派であった。勢いよく朱の背中をバシバシと叩きながら、豪快に笑うリビエラ。朱たちのもとに集まってきた、健太と菊千代とフランク。当然、健太はリビエラの話を聞いて飛び上がった。フランクと菊千代も手を握り合っている。しかし、馬頭は電車道の終点で未だに固まっていた。今まで無敵であった馬頭にとって、自信を破壊されたショックは大きかったようだ。朱は馬頭の傍らに移動すると、背中をパァーンと叩いた。馬頭はその事で意識を取り戻し、朱と目線を交わす。
「馬頭、相撲でわしに負けたのがショックなのか?島の連中はわしを神だと歌っているのだそうだ。お前は神に勝つつもりでいたのか?」
「いや、そうですよね。朱さんが、高射砲台の壁面を駆け上ってきた時点で、かなわないなと俺は思っていたのを忘れていました。朱さんと健太さんは別格ですよね。」
そう言って馬頭は寂しそうに笑う。暴力の世界で行きてきた人間は、力で負けることはアイデンティティの喪失を感じるのだろう。学校づくりの話し合いをするよ!と大きな声で呼びかけるリビエラに応えて、朱達一行は集会所に戻っていった。
集会所には、朱達、村長、カルディン、リビエラ、馬頭にくっついて離れようとしないクラウディアが集まった。集まった人間が少ないのは、話がまとまったとなれば、反対派も賛成派もケロッとして、それぞれ仕事に戻っていったからだ。遺恨を残すような性格の人間が極端に少ないのだろう。
「さぁ!それで、あんたたちは学校を作って何を教えるつもりなんだい?」
リビエラの問いに、フランクが口を開く。
「さっき、健太さんと菊千代さんと三人で色々相談しました。三歳ぐらいから、七歳ぐらい。八歳ぐらいから十二歳ぐらい。十三歳ぐらいから、十六歳ぐらいの三つにクラスを分けようと思います。島のみなさんの、この島を変えたくない。と言う気持ちも尊重したいと思っています。下のクラスは託児所的な意味合いが強いでしょう。真ん中のクラスでは英語を教えようと思います。英語の教師は、朱さんにやってもらおうと思います。私と菊千代さんは文学書を買い集めて来て、上位クラスの子供たちに、それを読んで貰いながら理解力や、考える力を育てていこうと思っています。本来は世界史を学んでもらって、人間の失敗や、歴史の悲惨な出来事から、また失敗をしないことを学んでもらいたかったのですが、それは思想的な事も絡んでくるので、ゆくゆくは島の皆さんと話し合いながら進めていきたいと思っています。まずは英語力を得て、世界の人々と話し合える力を。そして、考える力を得て、正しい交渉ができるように。そう思っています。」
「そうかい。私は賛成だ。あんたたちは慎重に事を運ぼうとしてくれている。とても信頼ができる。どうだい村長、文句はあるかい?」
「いや、私もフランクさんの話を聞いて信頼できると感じた。そして教育が進むに連れて、私達に相談までしてくれるという。ありがたいと思った。ありがとう。」
村長はそう言うと、取った手を額に押し頂く仕草を見せた。
すみません!非常に更新が空きました。実はフィリピンの文化はあまりサイト上でも見つけることが出来ず、本当に情報量が少ないんです(日本語サイトだと)。特にフィリピンの伝統文化とかの情報は少ない。そこに来て、歩いていど書き進めていた文章をセーブし忘れ消失する事件が発生。心が折れて少し立ち直るのに時間を要しました。バタン諸島の習慣や伝統などは全く見つからず、もう既に全てでっち上げレベルで物語を作っています。昔2ヶ月間(滞在可能日数を勘違いしていてオーバーステイで罰金を払った汗)マニラとレイテ島とハゴノイで過ごした、子供たちと大人たちの笑顔を思い出しながら書いています。




