馬頭の恋
朱は綿布に横たわると両腕を枕に天井を眺め、考え込んだ。周りから聞こえてくる脈拍や呼吸音から、菊千代はまだ眠れていないようだ。フランクは寝入っていて、健太は横たわったままじっとしている。自分と同じく、色々考え込んでいるのかもしれない。(あの何時も控えめで大人しく、滅多に意見も言わない菊千代のあの興奮具合には驚いた。わしも腹を抱えて笑ったのは、初めての事かもしれない。健太も笑顔が増えているし、この島は不思議な島だ。しかし、馬頭には驚いた。不遇な人生を過ごしてきたのは判るが、生きるために沢山の人の命を奪い、荒んだままの人生を歩むのは実に哀れだと思っていたが。これであのおなごと家庭でも作ったら、明るい人生になるかもしれん。そうなってほしいのお。わしにとって、趺喬との出会いがそうであったように、馬頭とあのおなごの出会いが幸せなものになってくれたら良いの。しかし、学校か。こんな小さな島に学校を作ったから世界が平和になるということにはならんとは思うが、良いことじゃの。村の人間の賛同を得られればよいが。)朱は、この島に来て、のんびりとした時間を過ごしている。だが、その実、なかったようなことや、思っても見なかったことが、こののんびりとした時間の中で次々と起こる。何百年も過ごしてやっと仲間を得て、毎日が楽しい生活を送っていると思っていたが、この島での時間はたった数日なのに、鮮度が違った。実にのびのびとした気分になっていた。そしてそのまま、趺喬と過ごした数十年の記憶を一ページ一ページ丁寧に繰りながら、懐かしさを噛み締めて過ごした。やがて赤紫の光が窓から流れ込むと、一気に朝が来た。鶏の声が村のあちこちで立ち始め、村人も活動を始める。その生活音に混じって、かすかに地響きがする。朱達が休む部屋に向かってくる足音だった。やがて入り口に掛けられた布をめくりかがみ込んで男が入ってきた。
「朱さん!見つけましたよ!俺見つけました!」
二メートルを超える巨体は耳たぶの先まで赤く火照っていて、湯気まで立っている。馬頭だった。
「なんだ、ぬしか。赤鬼かと思うたぞ。」
朱は昨日の情景を思い出し、ニヤニヤと笑いながら声を掛けた。綿布に足を投げ出して座る朱の元へにじり寄る馬頭。二百キロを超える真っ赤に上気した巨体が寄ってくる様は、時の横綱が大一番の勝負で、さぁ!これから電車道を描こうかという迫力があった。思わず朱も後ずさってしまう。
「朱さん!朱さんは世界が平和になることを願ってるんですよね!俺見つけましたよ!昨日、クラウディアの家で・・・」
と、言ったまま天井を見上げ固まる馬頭。半開きの口からは、今にも涎が垂れそうな表情だ。昨晩はさも糖蜜のような時間を過ごしたに違いない。三十秒ほど固まったままであった馬頭が、またスイッチが入ったかのように、朱ににじり寄ると、
「あんな!あんな!気持ちいい事が・・・」
また固まってしまう馬頭。性の目覚めを迎えていない朱にとっては、全く理解できない挙動である。
「ダメだ。馬頭はポンコツになった。」
と、理解のかけらすら見せず肩をすくめる朱だ。
「あぁ!すみません。だから朱さん!気持ちいい事を広めればきっと人は争う暇もなくなりますよ!どうですか!」
「いやいや、馬頭さん、それは逆の話ですよ。」
割って入ったのはフランクだった。
「昨日も話したんですがね。争いの元というものは、権利を守るためだったり、権力を得るためだったり、仲間を守るためだったり色々なんですが、争いに至る衝動は本能的なものなんだと思うんですよ。今の馬頭さんに、一番簡単であろう例えを話しますよ。馬頭さん、昨日クラウディアさんと素敵な時間を過ごしましたよね。馬頭さんはクラウディアさんに好意を持ったでしょう?しかし、横から他の男がしゃしゃり出てきて、クラウディアさんに言い寄ったらどうしますか?」
「そっかぁ!そうだよねぇ!色街でも客の取り合いで女達がつかみ合いの喧嘩してたし、人気の女に先につくのは俺だ、いやいや俺だで客同士が取っ組み合い始めることも多かった。ダメだねぇ、逆効果だ!アハハ。」
「異性を守りたい、自分のものにしておきたい。というのが争いの根源的な形なのかもしれませんねぇ。他に、権力欲とか、金銭欲とかも、とどのつまり、金や権力のある男には女が寄ってきますからねぇ。なかなか難しい問題です。」
「まぁあれだな。馬頭は我を忘れるほどの、甘美な時間を過ごしてきたのだな。わしは良いことだと思うぞ。馬頭もクラウディアとお互いが受け入れ合えたら、ここで暮して家族を作るのもいいだろ。ただの、クラウディアは村一番の人気の娘だったそうだ。今の話のように、横やりを入れてくる男も出ないとも限らん。それでホイホイ争ってしまっては駄目だぞ。クラウディアの幸せはこの村の暮らし込みの幸せだ。ぬしが暴れてクラウディアの肩身が狭くなったら台無しだ。クラウディアを守るということは、クラウディアの幸せや夢も守るということだ。クラウディア込みでこの村も守るぐらいの気持ちで居るのがよいぞ。」
「朱さん!ありがとうございます!ほんとに、俺。俺。人生がこんなに変わったのは朱さんのおかげです!」
馬頭はいきなり天井を仰ぐと男泣きに号泣を始めた。幼くして身寄りを失くし、本当の意味での味方を持たぬまま、荒んだ生活を送ってきた馬頭にとって、人に愛情を感じるとか、未来を考えるなどという発想がなかったのだろう。生きるためには人殺しも辞さないという、単純でひどく偏った考え方しかしていなかった馬頭だ。芋虫が変態のために、体の中身が全部ドロドロに溶けて、蛹の中で成虫として再構成されるように、馬頭の頭の中も今徹底的に再構築が行われているのかもしれない。朱や健太が冷たい目で見やるほど、馬頭の情緒は不安定であった。朱は立ち上がると出口に向かい歩く。そして振り返り、
「馬頭。ぬしは寝てないのだろ?何しろ、午後から菊千代が熱烈に願っている学校づくりについて、村と話し合いがある。お前も少し寝ておけ。わしは少し散歩してこよう。」
と、言うと外に出ていった。




