サンタ・ルチア村
朱の言った通り、男児は一時間ほどで意識を取り戻し、いきなりお腹すいたと言った。男児が助かったことで、ノラは嬉し涙を流した。カルディンも安堵の表情を浮かべた。ノラは抱いていた子供をそっと砂浜に横たえると、朱の前に跪き抱きついてきた。
朱は面食らい固まってしまう。当分の間、朱はスキンシップに慣れそうにない。ノラは島の言葉で何かを話し始めた。カルディンが健太の横に座り、
「ノラは彼女のことを女神だと言っている。神しか起こせない奇跡を起こしたと言っている。そして、とても感謝していると言っている。あなたが望むなら、毎日祈りを捧げるし、供物を持ってくると言っている。昨日は可愛らしいと抱きついて申し訳なかった。あなたが許すなら、村に祟りを起こさないで欲しいと言っている。」
と、ノラの言葉を通訳した。カルディンの言葉は朱の耳にも当然届いている。
「祈りは要らないし、供物も要らない。昨日、抱きつかれたことも怒っていない。もちろん、村に祟りなど起こさない。そして私達は神ではない。しかし、我々が何者であるかを説明するのは難しい。我々のしたことは、当然の行為だ。通りすがりに傷ついている者が居たら、あなたは助けるだろう?我々のしたことはそれと同じ行為だ。あなた方が望まぬなら我々はすぐに立ち去るが、あなた方が受け入れてくれるなら、我々はしばらくこの島に滞在したいと思っている。あなた達の生き方は、とても美しいし、とても正しい。私達はこの島で過ごす時間がとても価値のあるものだと感じている。」
小声で健太に囁いた声が、焚き火を挟んで座っている朱に届いたことに、カルディンはさほど驚かなかった。貝採りで健太に負けたこと、トリガーフィッシュに頸動脈を食いちぎられた少年の深い傷口が、少女のキスで見る見る間にふさがっていったこと。そして死ぬはずだった少年が、目の前でノラが用意した食事を元気に次々と平らげていること。それらを考えると、小声で通訳した言葉を正確に聞き取り、即時に朱が直接答えている事なぞ、奇跡のうちに入らない。カルディンは即座に、朱の言葉を島の言葉にして、ノラに伝える。ノラは即座にひまわりの笑顔を咲かせて、朱に抱きつきそうになり、直前で自制する。そして、島の言葉で怒涛のように話を始めた。カルディンはその言葉を同時通訳の様に英語で話す。
「サンタ・ルチアの誇りにかけて。ルシアーノ家の誇りにかけて。我々はあなた方を歓迎します。そして今日の太陽が沈む時、迎えの者を寄越しますので、サンタ・ルチア村に是非御出下さい。そして我々の歓迎を受けてください。リトルホセが助かったことは、ホセさんも喜ぶ。私は今から村に帰り、父に今日の奇跡を報告し、歓迎の準備に掛かります。」
ノラは話し終えた途端に、全速力で茂みに向かって駆けていく。そして、二百メートルほど先で、思い出したように振り返ると三度飛び跳ねながら両手を振ってまた駆けていった。取り残されたカルディンは、死の淵から踏みとどまったホセを抱えて、残りの子どもたちの安全を守りながら長い村までの道を一人帰ることを思い描き、大きなため息をついた。死にかけていた男児は、あのバナナ畑のホセ家の息子なのであった。一連の流れを見て、健太は仲間の三人を呼ぶ。経緯を説明し、子どもたちと一緒に村に帰る、カルディンを助けて同行する役にフランクを指名した。イトバヤット島は、四方が崖地となっている島であった。唯一、潮流の影響で砂溜まりが出来たところに朱たちは上陸したのであった。そのため、カルディンは寝ている幼児や、幼い子供、命をとりとめたホセまで抱えて急斜面を上がっていく必要があった。日は既に昏れかけているし、子どもたちの安全を考えると、引率の大人が必要であった。馬頭の方が地力はあるが、万が一島民と揉めたら惨事が起こる。かと言って朱や健太では見かけが幼いので、村人たちがどう受け止めるか心配であった。見かけが大人で乱暴をしそうにないフランクが適任であった。カルディンがホセを、フランクが寝ている幼児を抱えて茂みを登っていった。健太が残った仲間と話し合いを始める。
「カルディンが通訳した、ノラの口上が正しいのであれば、ノラはサンタ・ルチア村の有力者の娘かもしれない。ホセの息子を救ったことは間違いないし、ノラの口添えがあればいきなり、酷いことにはならないはずだ。もうすぐ、村から迎えの人間たちが来るはずだ。少なくとも害意がないことを伝えるためにも、我々は武器を持たずに行ったほうがいいと思う。俺と朱は全く問題はない。馬頭はマデュースがないと気持ちが悪いかもしれないが、お前の体格でこの島の人間に勝てるやつは居ないだろう。菊千代もなかなか死なないから、まぁ問題はない。唯一フランクが心配だ。もし騒ぎが起きたら、俺と朱と馬頭が、フランクと菊千代を守るように動こう。」
いつもなら、菊千代と並んで、二歩も三歩も引いたところに立っている健太が、今日はいつにもなく積極的だ。延べで数時間でしかなかったが、ノラ達島の子どもたちと過ごした時間や空気を朱共々貴重なものだと感じ、それを守りたいと思い積極性を得たのであったのかもしれない。やがて村の人間と名乗る男が二人、カルディンと共にやってきた。馬頭の巨躯を見てギョッとしていたが、カルディンも普通にしているので気を取り直したようだ。もう日が落ちて暗い茂みを七人は登っていく。二十分も歩くと、茂みを抜け斜面もなだらかになっていく。退屈に耐えられなくなったのか、男二人が歌を歌い始め、カルディンもそれに続いた。やがて茂みを抜け踏み固められた土の道になる。計四十分も歩いたところで、開けた場所に出た。既に歓迎の準備は進んでいて、広場の中央には枯れたヤシの幹が積み重ねられ、火を放たれて燃え盛っている。焚き火の側に置いた台に乗ってあちこちを指差して叫ぶ年嵩の男が、一行を認めると台から飛び降りて駆けてくる。満面の笑みだ。笑顔からしてノラの血族であろう。話を聞いていたのか、迷わず朱に駆け寄ると頭を垂れて、朱の手の甲を自分の額に軽くつける。フィリピンで相手を敬う礼である。カルディンが男の言葉を訳す。
「彼はノラの父親で、サンタ・ルチアの村長だ。ホセの息子を救ってくれたことに礼を言いたいと言っている。ホセの家から食材と酒が提供されたので、今日はゆっくり楽しんでいってほしいと言っている。」
村長は、朱一行に何度も頭を下げながら、台に戻って大声を上げた。村の人間達に、今日の宴について呼びかけているのだろう。村長の話が終わると広場に集まってきた人々が歓声を挙げる。村総出で宴が始まった。




