イトバヤット島
済州島を離れてから五日ほどで海の色が明らかに変わってきた。エメラルドグリーン。南洋の色である。もう日本なら冬を迎える時期なのに、日増しに気温は上がっていく。右手に見えていた台湾も通り過ぎた。幸いなことにあれ以来、追手はなく平穏すぎる毎日であった。夜は三人を休ませて操船を引き受けていたが、日中は何もすることがない朱と健太は、暇にあかせて魚を獲っては干物にすることを繰り返していた。やがて鬼神丸の進行方向に小さな島が見えてきた。航路に狂いがなければバタン諸島北端で一番大きな島。イトバヤット島であった。イトバヤット島は縦に十五キロほど横に五キロほどの細長い小さな島である。東側の中ほどにくびれがあり、くびれによる海流のせいであろうか、少し南下したところに砂が滞留し浜辺が出来ていた。鬼神丸をその砂地に上陸させようと朱が言い出した。鬼神丸の船首が砂地に擦れた頃合いで朱と健太は船を飛び降り、二人で鬼神丸を担ぎ上げる。砂浜を十メートルほど進んだところで、船が倒れないように架台に乗せた。船が安置されたタイミングで、他の仲間も鬼神丸から縄梯子で降りてきた。砂地は深いところで三百メートルほどで途切れて、緑に変わる。日本であれば松などだが、流石に南の島である。フェニックスやココナツが生えている。内陸に視線を向けてジッと観察するフランクの横に朱が立った。暫く待っていると、フランクが話し始める。
「この島は人が住んでいますね。そこの木はすべてバナナです。あれだけまとまって生えているということは、人工的に植林されたものでしょう。上手く島民と馴染めれば良いのですが、とりあえずは刺激をしないように内陸への移動は避けて、探索はなるべくしないほうが良いでしょう。この場所で時を過ごしたほうが良いと思います。」
「そうか。わしと健太は良いが、ぬしらの水と食料は大丈夫か?」
「はい、機材がありますから、火を熾して海水を蒸留して水は取れますし、干物は大量にあります。あと、そこに自然に生えているココナツはとっても怒られないと思います。大丈夫でしょう。」
フランクは砂浜を観察し、海藻屑などで黒い線が引かれているところを満潮時などの海水上限と見当をつけそれより五メートルほど内側に、石を積み上げて竈を作った。その竈の上に使うこともあろうかと積んできた竹材で簡単な櫓を組んだ。竈には一番大きな鍋を置き晒布で濾した海水を注ぐ。櫓にはバナナの葉を敷き詰めて屋根のようにした。屋根は海側に向かって傾斜している。竈の火で沸いた湯気がバナナの葉に結露し、水溜め用のたらいに集まる仕組みだ。海水が干上がってくると鍋に塩が凝固し始める。塩は晒布で濾して天日干しをする。塩を濾した液体がにがりだ。空いた醤油瓶に保存しておく。大豆が手に入ったら豆腐が作れる。流木や枯れ枝を集めれば燃料には困らないし、南国だけあって結構頻繁にスコールが降る。飲水には困らないだろう。
そうやって、のんびりとした砂浜生活が一週間を超えた頃、枯れ枝を探して茂みに入り込んだ健太は、一人の少女にでくわした。身長は健太と同じぐらい。腰ぐらいまでの長い黒髪に褐色の肌。身につけているのは麻布のトランクスのみ、裸足であった。少女は驚いた様子ではあったが、健太が見かけ上同い年ぐらいの子供であったため、警戒はしていないようだ。ぎこちない笑みを健太に向ける。南国の強い日差しも、バナナやヤシの葉に遮られて茂みは薄暗い。それでも健太の目には、少女の歯や大きな瞳が眩しく映る。健太は照れ隠しに、ハローと言ってみた。花が開くように、ぱぁっと少女の笑みは一層広がった。
「ワタシ、英語、ちょっと、しゃべる。がっこ、行ってない。だから。」
たどたどしく喋りながら、健太の両手を握ってニコニコと笑顔を向ける褐色の少女。非常に人懐っこい性格のようだ。木の間を縫って射してくる日差しをキラキラと跳ね返す白い歯や褐色の肌。膨らみ始めている両の乳房が眩しくて固まってしまう健太。
「ワタシ、そっち行く。そっち、浜、だけ、取れる、貝。とても、美味しい。」
少女は健太の手を取ると浜に向けてずんずんと進み始める。
「え、あ、ちょ、な、」
健太は少女に引かれることで半回転しながらよろけてしまう。健太の身体能力でよろけることなどありえないのだが、褐色の少女の眩しさに健太は狼狽えてしまっていた。なんとか体制を立て直しながら、健太は少女に引かれ浜に戻っていく。健太の手を引く少女は、少し痩せていて長い手足をしている。背中を見ると第二次性徴は始まったばかりのようで、少年でもなく女性にもなっていない、中性的な美しさを持った、いくつかのなだらかな輪郭で形作られていた。やがて二人は茂みを抜けて視界がひらけた。カッと南国の太陽が二人を照りつける。随分と前から、健太の足音に他の人物の足音が混ざり、こちらに向かっていることを察していた朱は仁王立ちで二人を待ち構えていた。目がいいのか、かなり離れたところに立つ朱を見つけた褐色少女は、健太の手を未練もなく振りほどくと朱に向かって駆け出した。健太は握る手がいなくなった左手に寂しさを憶えた。褐色少女は一切の迷いを見せず、朱に向かって一直線に掛けていく。十メートルに距離が縮まっても速度が落ちない褐色少女に、さすがの朱も、な、何だというのだと狼狽えた声をあげる。二メートルほどの距離から少女はしゃがんだ姿勢になる。その姿勢のまま、左右に砂を分け上げるラッセル車の様に滑り込んで来たまま朱を抱き上げ、熱烈に頬ずりを始める。
「マハケィ、アレケィ!アレケィ、マハケィ!」
「な、なんだ!なんだというのだ!や、やめないか!おろせ!おろしてくれ!」
朱は突然のことに狼狽え、日本語で叫んでいた。それでも、本気で朱が暴れたら少女もただでは済むまい。朱は細心の注意を払ってジタバタと暴れる。嫌がっているのを流石に少女も察したのか、朱をそっと砂浜に下ろす。そしてしゃがみ込み、目線の高さを同じにすると、満面の笑みで朱の頭を優しく撫でながら、蕩けたような笑みを浮かべて
「マブチアナ。マブチアナァ~」
と言う。朱は数百年無かった他人とのスキンシップに赤面していた。この様な熱烈な抱擁は趺喬とでさえなかった経験である。少女にとって、和風な美少女の朱が珍しい存在なのだろう。そして、おそらくプリミティブな生活をしてきた彼らにとって、年下の子供を愛することは生きるための大事な習慣なのだ。彼女は全身全霊を駆使して朱に愛情を注ごうとしていた。朱もその覚悟をなんとなく察したじろぐしかなかった。赤面した朱。という珍しい状況に、ずっと向こうからニヤニヤ笑いを押さえられずに居た健太が近づいてきた。健太の顔面筋肉の緊張の音から、健太が自分を笑いものにしていることを知り、赤面したまま健太を睨みつける朱。せめてもの抗議の為、こめかみの緊張音を健太に届けようとシカメ面をする朱だ。三嶽に移って数年一緒に暮した朱が、これほど感情を表に出すこともなかった。健太にとっては新鮮で楽しい現象であったが、本気で朱が怒ったこともあまりないので、怖いと言えば怖い。とりあえず場を取り持とうと、健太もしゃがみ込み目線を合わせると、少女に英語で話しかけた。
「私達は、この島に来るのは初めて。この島の人達の習慣が判りません。私も、この愛らしい少女も、この島の人々と仲良くしたいと思っています。あなた達と友だちになりたい。どうすれば友だちになれますか?」
少女は半分も理解できていないかもしれない。しかし、笑顔で答える。
「いっしょ、タベ物、さがす。いっしょ、食べる。いっしょ、笑う。トモダチ。」
そう言って笑顔を向けた少女の、輝く瞳と輝く白い歯が眩しくて目をそらしてしまう健太であった。
もう、辻褄合わせの必要はないと良いのですが・・・(;▽; おっかなびっくりで、すっかり新展開の話を考えつつ、筆を進めています。楽しい話だと思ってもらえると嬉しいです。




