朱と菊千代
後始末をしてから出立する。という柴田を残し、翌朝早くに二人は施設を後にした。フランクが渡してくれた現金はすっかり残っている。東海道本線に乗って京都まで行って。ということも考えたが、菊千代が正気ではなかった百十年のうちに日本がどれだけ変わったのかを見ることも良いと思い、徒歩で三嶽へ向かうことにした。朱は粗末な浴衣姿。菊千代は頭を全て剃って施設に残っていた軍服と下駄履き姿である。貧しい家庭から使いに出された兄妹という設定で街道をのんびりと歩く。兄に手を引かれた妹。という格好だ。暗くなる前に野宿が出来る場所を朱が探すことにした。菊千代は背嚢を背負っていて、水筒と飯盒をぶら下げている。米は柴田が分けてくれた。野宿の場所で朝飯を炊き、半分をその場で食べて、半分を握り飯にして次の野宿先で寝る前に食べた。川や海が近くにあれば朱が潜って木の枝をナイフで尖らせたもので、魚を突いて取った。菊千代の髪の毛は毎日十センチほど伸びてしまうので、寝る前にナイフで剃った。移動中は人目に触れないように、手ぬぐいを頭に巻いた。三嶽までの道のりは五百キロ。二週間の道程だ。
菊千代は、金属管の水道に驚き、舗装道路に驚いた。そして、当然のことながら、自動車やオートバイに驚き、鉄道にも驚いた。
「百年の時間が日本を大きく変えたのは判っていたつもりでしたが、私の想像を遥かに超えていました。これほど変わったとは。今はあの時以上に、世界を見てみたいという気持ちが強いです。それと、私が男だから、そう考えてしまうのかもしれませんが・・・」
「こんな体になったことに意味があるのかなと。私が何かの役に立つ運命だったのかな。と考えてしまいます。」
「菊千代。自分に役目があるとか、運命だとか考えるのは神の存在を意識するということだ。信仰の始まりだぞ。わしは宗教を否定する気は毛頭ないがな。千年この世を見てきてな、思ったことがある。それはな。人の争いは自分や自分が属する組織への利益確保から始まるということだ。人は、金で争う。領土で争う。宗派で争う。思想で争う。血筋で争う。この世から争いを減らしたいのなら、極力自分の肩書は増やさんことだ。」
「まさに施設で私の決心を説明するときに言ったことですよね。物や考え方や血筋が混ざり合っていけば、争いは減るんじゃないかと私は言いました。」
「そうだな。確かにぬしはそう言った。だがしかしの。混ぜよう、伝えようという働き自体が、そもそも思想だ。それはそれで争いを呼ぶかもしれんの。」
「難しいですね。」
「そうじゃな。難しいのぉ。」
二人の頬を、爽やかな秋風が撫でていく。雲ひとつない突き抜けるような青空だ。
「毎日がこんな陽気で、食い物もたっぷりとあって、誰も腹をすかしてなければ、争いなんて起こらんのかもしれんのかのう。」
独り言のように朱がつぶやく。つぶやきに肯定のほほ笑みを浮かべ、菊千代は空を仰いだ。
「しかしの、菊千代よ。世界を知ってどうするのだ?ぬしは不老の身体なのだぞ?ぬしの正体が他人にばれたら、不老の身体を手に入れたいバカ者共がぬしを拘束しに来るぞ。一ヶ所に長期間留まることは、とても危険だ。」
「世界を知ってどうしたいかは今は判りません。ただ、知りたいという強い気持ちがあります。この風のように、ずっと流れ続けていればいいですよね。頭も剃らないといけないですし、修行僧の体裁であちこち歩いてみるのはどうでしょうかね?」
「それはわしも考えておった。できれば力のある寺の有力者の後ろ盾を得られれば、旅券を手に入れることも可能かもしれないのぉ。わしも全く伝手がないわけではないのだ。」
朱はそれをきっかけにして、趺喬のことを話し始めた。趺喬は京都にある天台宗の大きな寺の跡取りであった。趺喬と朱が過ごした長い時間の中で、趺喬はふとした気まぐれのように朱を呼ぶと数珠を手渡した。趺喬は朱に信仰を持たせようとはしなかったので、朱が驚いていると趺喬は話し始めた。
「別段なんかある。という話ではないがな。もし万が一、わしになにかあって困った事態になったらこの数珠を持って曼珠院にいる、わしの母親を尋ねると良い。あの方なら理解して下さるはずやから、朱の体のことも全部正直に話すと良い。そして、趺喬の娘として育てられましたと言えば大抵のことは引き受けてくれるはずや。」
朱は趺喬の母親を尋ねることはしなかったが、趺喬がくれた形見として数珠は大事に持っていたのだ。趺喬の話では、数珠の親玉には三諦章が掘られており、曼殊院の人間であれば身内が持つ数珠であることは判るといっていた。
「まぁ七百年も経ってしまっておるでの。今更のこのこ尋ねてみたところで、協力を得られることもないかもしれんがの。」
朱はそう言ったあと、健太とフランクのこと。三嶽の小屋のこと。小屋での生活のこと。江戸から現在まで大まかな歴史の流れ。廃藩置県により地名が変わり、行政が整ったこと。現在の貨幣や物価。様々な単位を説明した。朱のような絶対記憶があるのかはまだわからないが、菊千代の記憶力は飛躍的に上がっていて、朱の説明をほぼ一度で記憶した。朱の言葉が足りなかったり、解釈が別れる場合、何時間も後にそれについて朱に質問をする。そうして、菊千代は現代日本の基礎的知識を急速に学んだ。二人は名古屋を過ぎた辺りには、すっかり打ち解けて軽口も言うようになっていた。施設を後にしてから既に十日ほど経っていたが、菊千代の身体の様子は特に変わりは見られなかった。
朱は京都に入ると味噌や醤油などの調味料と、米や乾物などを、ほとんど手付かずで残っていたフランクから渡された現金を使って買い込んだ。食事を摂るのはフランクと菊千代のみだが、余らすことはないだろうという朱の判断であった。古本屋で菊千代が知識を得るための書籍も何冊か買った。それと衣類と菊千代用の布団も購入した。結構な量の荷物になったが、朱にとっては造作もないことだ。菊千代の背嚢に軽くてかさばるものを入れて、重いものを風呂敷に包み朱が背負った。菊千代は既に誰と話しても違和感のないほど当時の言葉を覚え、操れるようになっていた。小屋に到着して早々に朱はフランクに、菊千代の回復に取った方法や、今までの経過を話す。菊千代はフランクのことを覚えていなかった。フランクはいくつかの質問を菊千代にした後、いつもの熟考の末、菊千代は概ね問題が居ないだろうという推測と根拠を、長々と述べた。朱はまずは一安心と健太とフランクに、施設から天皇やマッカーサーに会った経緯などを話して聞かせた。
すみません!アップに酷く間が空いてしまいました。途中で菊千代の運命を、大して考えもなく百八十度変えてしまったことで、寺院ネットワークを使って菊千代が旅に出ることが可能になる。というストーリーを書く必要が出てしまいました。昭和天皇やマッカーサーは大戦を語るにあたり沢山の人が描いてきた避けて通れない人物だという気軽さもあってスルスルっと書けたのですが、神を信じるなら、俺を信じなよぉというぐらい、ナチュラルボーン無信心で生きてきた私にとって仏教とか宗派とか全然しらなくて、調べれば調べるほど混迷を極め… 大分長く逃避してしまいました。信仰を大切になさっている方がこの文章を読まれて不快に感じないだろうかという畏れもありました。結局下手の考え休むに似たりということであまり掘り下げずにサラッと書こうということで、やっと文章をかき進められるように。またこういう詰まりが出てしまったらすみません。なるべく無いようにいたしますが(^_^;




