回復
たった三日のうちに、天皇陛下と占領軍最高司令官であるマッカーサーと直に会って直筆のメモを受けとってきた。見かけは五、六歳の幼女なのだが、自ら人外だというこの少女。明らかに超人的な能力をもっているのだろう。自分は大日本帝国民として、陛下と日本をお守りすべく、出口のない迷路のような生活をここ何年も続けてきた。しかし、この少女のおかげで初めて出口を見つけられたのだ。こともなげに人の生き死にを語っているが、やはり想像の域を超えた能力と歴史を持っているのだろう。男はそう考えると、少女に問うた。
「それで。具体的に何をすれば?」
「フランクが言うのにはの。わしの細胞を必要以上に増やさずに足してやれば、菊千代の回復が進むだろうというのだ。足しすぎるとの、最悪の場合造血細胞を増やして特殊細胞への書き換えが進んでわしと同じ不死者になってしまうと。現在の菊千代は不死者と人間の境目にいるのだと。わしの唾液を微量静脈注射して様子を見るのがいいだろうと。現在の菊千代は、通常食が摂取できて、かつ排泄が起こっている。その状態を維持しながら慎重に経過観察をして回復を待つべき。というのがフランクの意見だ。」
「わかりました。では早速。」
男はアルコール消毒した試験管を朱に手渡す。男に促されて朱は極微量の唾液を試験管に垂らした。男はそれを二百倍程度に生理食塩水で薄め、一ミリリットルを手慣れた手付きで、菊千代に静脈注射した。革バンドで拘束され虚ろな目を天井に向けていた菊千代は、急に目を見開くと激しく身体が跳ねた。男はギョッとして注射器を取り落としてしまう。
「わしの体液が体に入るとの。男も女も気をやってしまうのよ。」
朱は男にそう声を掛けた。
「そ、そうなんですね。とりあえずこの状態でしばらく観察しましょう。もし、お疲れでしたら、隣の部屋にベッドがありますのでお休みください。」
「いや、わしは休む必要はない。疲れも覚えぬ。眠ろうと思えば眠れるがの。それより、もし時間が大分掛かるようなら、主の血を少し分けてもらうかもしれぬ。まだ当分は大丈夫だがの。」
何年も閉鎖空間で禁欲的な生活をしてきたこともあるのだろうか。少女にそう言われて、倒錯的な性的興奮を男は覚えてしまった。狼狽をごまかそうと男は言った。
「ま、まぁ何かあったらおっしゃってください。なるべく対応いたします。あ、それと私は柴田と言います。家業は医者をしています。そのせいで、徴兵されてここに配属になりました。」
「そう言えば名乗ってなかったの。わしは朱だ。よろしくの。」
男は菊千代に目線を戻した。既に性的な快感は収まったようだが、これと言って変わりはないようだ。二日間、排泄と食事の様子を見てから、唾液の静注を試してみよう。男はそう考えた。そうして六日目の夕を迎えた、柴田は一日観察を続けていた。これから四度目の唾液注入を検討する段階に入った。相変わらず菊千代は虚ろな目で天井を見ている。
「・・・・・こ・・・・」
なにか聞こえて男は菊千代に目線を向けた。
「ここはいずこにてござるか?」
今度はハッキリと聞こえた。菊千代が尋ねているのだ。今までの数年間、話しかけても菊千代と名を言うだけで、意思を示したことはなかった。菊千代に変化が現れたのだ。男は身を乗り出して菊千代に尋ねる。
「判るか?判るのか?あなたは菊千代か?私の声が聞こえるか?」
「さよう、拙者は菊千代にござる。」
「おぉー。は、初めて、会話が成立した。菊千代は回復してきている!」
「菊千代殿、ご気分はいかがか?お体に不快な所はござらぬか?」
柴田は通じやすいのかと、無理をして江戸時代風の言葉を話そうとしている。
「うーむ。少しも存念られぬ。頭に靄がかかとはゐるごとし。」
柴田はもう一歩だろうと判断し、朱を呼びに部屋を飛び出た。柴田と共に菊千代の傍らに立った朱は、
「菊千代どの。それがしが判るか?お手前は死にかけて海に浮かみておりき。覚ゑておるか?」
「海でござるか?海。うーむ。思ゐ出せぬ。頭がいと痛ゐ。」
「朱さん、まだ回復が完全ではないようです。でも回復することがわかっただけ大きな前進です。今唾液注入するのは過剰投与になりかねません。このまま二日ほど様子を見ましょう。」
「菊千代殿。お手前は少しずつ体躯が度復しておる。今はお休みになり申して度復に努めて願いたもうぞ。」
朱が菊千代に声を掛けると、よほど消耗していたのか目を閉じた後すぐに寝息を立て始めた。二日待ってみたが、回復が見られなかったので、唾液注入して二日様子を見る。というスパンを五回繰り返した。音声が脳を刺激するかもしれないという柴田の提案で、枕元に置いたラジオを鳴らしっぱなしにしてみた。十日目の朝に菊千代は大きな回復を見せた。朝様子を見に行きた柴田に突然菊千代は、
「ここでは、この話し方のほうがよいのでしょうか?」
「おぉ!菊千代さん。ご気分はどうでしょうか?今の時代では、その話し方を誰もがしております。言葉をどうやって覚えましたか?」
「そこの、しゃべる箱から出てくる言葉を聞いていたら、自然に覚えました。時代というのはどういうことでしょうか?」
「い、今事情を知る大事な方をお呼びします。その方の話を聞いてみてください。」
柴田は慌てて朱を呼びに行った。菊千代を覗き込んだ朱は、菊千代の瞳に今までなかった理性が宿っていることを見て取った。菊千代が立てている、鼓動や呼吸音、発汗の匂い、どれも菊千代が平静を保っていることを、朱に伝えた。朱は菊千代が肩から上だけ残して、瀕死の状態で赤穂の沖を漂っていたこと。それを救うために、菊千代の血に朱の血を混ぜたこと。怪我が重すぎたので、完全な不死者になっていないこと。その時からすでに百十年近い時が流れていること。朱の身体のこと。人血しか飲めなくなること。死ねなくなること。七百年以上生きていて、死ぬことがかなわないことが、どれくらい辛いか。今ならまだ完全な不死者になっていない菊千代は死ぬことも可能かもしれないこと。それらのことをゆっくりと話して聞かせた。大事な部分はきちんと理解しているか、何度も確認しながら話した。朱と菊千代の会話は二時間にも及んだ。
「それでぬしは、なぜあんな状態になっていたのだ?」
「私は村上水軍の末裔、村上家の次男でした。村上家は、ほそぼそと海運業を営んでおりましたが、天保の大飢饉の影響で米の価格が上がっておりました。そのため人夫に裏切られたのだと思います。米を輸送しているあの船で、村上家の人間は私だけでした。私は背後から殴られ気を失い、海に放り込まれたのだと思います。幸いすぐに気がついたので溺れずすみましたが、既に追いつける距離に船はありませんでした。強い海流に乗ってしまっていて、無駄にあがくと危険だと思い浮いて漂うことにしました。なかなか陸地に近づけず、海流からも抜けれず一日漂っていて途方に暮れていたら、フカに襲われてしまいました。その後の記憶はなく、気がついたらここに寝ていました。」
「で。ぬしはどうしたい?死ぬか。我々と同じ不死者になるか。決められるか?」
「うーん。今すぐに答えを出さないとダメですか?なんだかとても腹が減っているんです。」
「百年越しの回復をしたのだ。腹もへろうよ。よし、わしが猪か鹿を採ってきてやろう。柴田。火をおこしておいてくれ。」
朱はそう言うと、部屋を後にした。




