鍋割山採掘場跡
朱は三嶽から鳥羽を目指した。山中を高速で移動し、まだ暗いうちに鳥羽に着いた。およそ二百キロの道のりを時速五十キロ平均で移動したことになる。鳥羽からいくつかの島を中継して泳いで伊良湖に渡る予定だ。日本地図は昼間に眺めたので全て鮮明に思い描くことが出来る。目指しているのは丹沢山の隣、鍋割山にあるマンガン採掘場跡だ。マンガンを掘り出した穴を利用して作られた極秘施設だった。伊良湖に上陸した後は、人の目があるので徒歩で進む。道を避けて山中を移動することで、能力をフルに活用でき高速で移動できた。遠回りになるが南アルプスから富士吉田を抜けて鍋割山には翌日の深夜に到着した。
フランクから大まかな地図で指し示されただけだったが、山中で起きない異質な音を探すことで、採掘場はすぐに見つかった。深い茂みを分け入らないと岩肌にはめ込まれた鉄扉は見つからないようになっている。サビの浮いた黒く塗られた鉄扉からはディーゼル発電機の振動音が漏れ出ていた。そろそろ辺りも明るくなる頃だったので、朱はそのまま樹上から暗くなるまで出入りを観察した。不思議なことに、人が移動する足音や機材が触れ合う音などは伺い聞こえたが、話し声は全く聞こえなかった。結局もう一度辺りが闇に包まれるまで、人の出入りは一切認められなかった。仕方がないので朱は木上から飛び降りるとスタスタと鉄扉に向かって歩き出した。一切の遅滞も躊躇もなく朱は鉄扉に歩み寄ると頑丈な取っ手に手をかけて引く。バカンっという音を立てて鉄扉が開いた。覗くと鉄製の階段が下に降りている。真っ暗な空間に向けて朱は階段を降りていった。降りると真っ直ぐな通路になっている。左右の壁には真鍮の網に保護された白熱球が等間隔で取り付けられて居た。通路は真っ暗だったが、朱には全く問題がない。通路の一番奥の閉まっている扉の隙間から微かに明かりが漏れていた。朱はその扉のノブを引く。やはりバカンっと音を立ててラッチが壊れてドアが空いた。警戒心も微塵も見せず朱は室内に入り込んだ。朱の目に写ったのは、死相と言えるほどの落ち窪んでギラギラした瞳をし、薄汚れた白衣を着て伸ばし放題の髭を伸ばした男だった。男の左手には軍用拳銃が握られ、右手は点滴瓶のチューブに取り付けたクリップに伸びていた。乱暴にドアを壊した侵入者が幼女と知り男は暫く放心していたが、気を取り戻し朱に叫んだ。
「こ、ここは子供の出入りして良いところではないぞっ!き、貴様は誰だ!?」
「わしのことはどうでもよいわ。それより、そこに寝ているのは菊千代よのう?返してもらいに来た。」
「そ、そんな事出来るかっ!自分は大日本帝国最後の希望を、命に変えても守り抜く使命がある!」
「何を言うとるのじゃ?わしは京からここまで徒歩で移動してきたが、大日本帝国とやらのかけらも見かけなかったぞ。どこもかしこも駐留米軍の兵士がうじゃうじゃしておったわ。ぬしがどうやって最後の希望になるというのじゃ?言うてみい?」
ほとんど交流もなかったため情は薄かったが、それでも自分が関わった菊千代が、大日本帝国の都合とやらで好き勝手に切った張ったで弄くり回されている光景を目の当たりにして、こみ上げてきた怒りは朱の瞳を紅く光らせた。自制心を保つために放った意地の悪い皮肉であった。
「け、研究の成果は極秘である!ぶ、部外者に教えるわけにはいかん!貴様が少しでも怪しい動きをしたら、自分はこのクリップを外す!点滴には濃硫酸が入っておる!唯一残ったこの貴重な検体は全身に巡った硫酸に灼かれて息絶えるぞ!それでもよいか!」
極度の緊張と披露があるのだろう。満足に言葉も話せずブルブルと震えながら男は絞り出すように叫ぶ。朱は菊千代の命を惜しいとは思っていない。都合が悪い部分といえば、菊千代に状況を説明して自らの選択で死か不死かを選ばせたいだけである。すでに朱にとって命の尊厳という考え方なぞ毛ほども残っていなかった。
「フランクに聞いてここまで来た。そこの菊千代は、百年前にわしが救ってやった少年じゃ。それ以上の縁はない。ただ、わしも未熟な知識で菊千代を中途半端な身体にしてしまった故にな。なんとも寝覚めが悪いだけだ。菊千代の希望を聞いて、殺すかわしと同じ完全な不死の身体にしてやろうかと思ってきたのだ。」
男は空いた口から涎が垂れるのも構わず、息をするのも忘れているようであった。
「そ、それでは入り口の鉄扉を開けたのも、そのドアを壊して開けたのも、き、きみ、あ、あなただというのか?菊千代をこうしたのはあなた?菊千代は中途半端?ば、バンザーイ!バンザーイ!大日本帝国バンザーイ!」
ブルブルと激しく震えながら滂沱の涙を流し、口の端から泡を吹いて狂喜する男にさすがの朱もたじろいだ。
「何がバンザイだ。気でも狂ったのか?」
「あぁぁああああぁぁぁあなたがいれば、日本は大日本帝国は、絶望の淵から這い上がることが出来ます!ど、どうかどうか協力してください!あなたの協力で不死者を作れば日本は戦況を覆すことが出来る!」
聞いて朱は男に跳びついて両肩を掴んだ。一連の流れで自制についての覚悟が出来ていたのか、最後の一線でかろうじて自分を保てていた。それでも男の両肩はコキンコキンときれいな音を一度ずつ立てて脱臼する。急に襲った両肩の激痛に男は床に膝をつき歯をカチカチと震え鳴らした。朱は冷たい目で男を見下ろしながら、
「何を自分勝手なことばかり言うておるか。ぬしらが勝手に始めた戦争でどれだけの民が苦しんだか。死んだか。幸せが壊れたか?ここに及んでまだその様な世迷い言を抜かせるとは、わしも驚いたわ。」
「じぶんわぁ!じぶんわぁっ・・・・・・・・・・・自分は後に引くわけにはいかんのです!五年前に所長がみえました。そして二人の助手をいきなり射殺しました。驚く私に所長は言いました。資材や食料をありったけかき集めて持ってきた。そしてこの研究施設に関する資料や証拠を全て焼却した。自分より目上の人間は襲えなかったが、同僚とただの運搬人などこの施設を知る者はすべて殺した。自分はここにはもう来れない。研究所に着いたら早々に自決する。これで、この施設と陸軍を結びつけるものは何もなくなる。君はこの検体の秘密を調べ上げ、遊撃的に行動できる兵士を作れ。そう言っておられました。これから大日本帝国は米兵の進駐を許し支配を受けることになる。我々は沢山の人間の命を奪ってきた。命だけではない。尊厳もだ。到底赦される罪ではない。だが、その罪も意味のないものになろうとしている。せめて、君がこの研究の形を成して、成果を残してほしい。そうすれば、罪を犯した我々も、尊厳もなく命を奪われた大勢の死も少しだけ意味のあるものになる。だから命がけでこの研究を最後までやり抜いてほしい。日本を、天皇陛下を、お救いできるのはお前だけだ。そう言われたであります。沢山の仲間や上官殿が私に望みを託して英霊になられました。私にはもう託す人間がいません。死んでいった仲間のためにも私は後に引くわけにはいかんのです。」
四つん這いのまま絞り出すように話し終えた男の元には、涙や涎、鼻水で水溜りができていた。朱は急にこの男が哀れに思えてきた。
「では、どうしたらぬしはぬしの使命を捨てて諦めてくれるか?その、天皇陛下というものから一筆書かかせたものを持ってきたら諦めてくれるか?どうだ?」
「へ?ま?そ。そんなことが」
あまりの申し出に絶句した男と菊千代を残して、朱は部屋を出ていった。




