菊千代
フランクは二時間以上考えていた。健太は飽きてしまい、夜の散歩にでかけた。縁側に寝そべり虫の声を聞きながら、朱は大人しく待っていた。数百年の人生だ。待つのは慣れている。フランクは三度頭を振ると、顔を上げた。
「朱さんの血が入った時の菊千代の状態ですが、胸部からごっそりと身体が欠損した状態でしたよね。異星由来の特殊細胞に意志があるのかはわかりませんが、特殊細胞が移された身体には造血細胞はほとんどない状態でした。なので、細胞の書き換えが出来る状態ではなかったのだと思われます。特殊細胞が不足状態で均衡が取れてしまった状況だったのではないでしょうか。特殊細胞は宿主の中で絶えないようにするのが精一杯で、自らを増やす余力がなかった。宿主の早い回復や改良が行える状態ではなかったのでしょう。細胞にとって急務だったのは、血液の循環状態を作り出すことだったでしょう。次に酸素交換機能の取得。回復には体内に蓄えられた栄養分が使われます。が、身体の殆どを欠損していたため、それすらままなりませんでした。おそらく特殊細胞は酸素や糖分を多量に必要とする脳の維持回復を放棄し、脳の一部、あるいは殆どを機能停止にしたと思われます。菊千代の記憶が曖昧だったのはそのためでしょう。蓄えも殆ど無い状況から消化器官も作る必要がありましたから。そうやって、本来の機能を発揮できずに長い時間を掛けて身体の復元が行われたのでしょう。現時点では、唾液から混入する特殊細胞と同程度の数しか維持できていない状態なのでしょう。なので、身体の復元力がある程度残っているにもかかわらず、人血を必要としていないのはそのためではないでしょうか。菊千代の記憶についてですが、細胞の判断で機能停止のままになっているのなら、特殊細胞を追加で注入してやれば記憶回復あるいは、そこまで望めなくとも知能回復は出来るかもしれません。ただそうなれば、朱さんたちのように人血以外は口にできなくなると思います。」
「そうか」
辛そうに朱は相槌を打った。長い沈黙の後、朱は口を開いた。
「で。菊千代はどこにおる?」
「ま、全く想像もつきません。あの研究施設は陸軍のトップ数名と、第六陸軍技術研究所の所長しか存在を知らず、記録は一切残されない事になっていました。それと捕虜や物資を運ぶ数名の隊員が研究所の位置を知っていましたが、何をする施設かも知らされていませんでした。アメリカ軍に日本軍は解体されましたが、あそこまで徹底して隠蔽されていた組織の情報を米軍が掴んでいるでしょうか。それすらわかりません。地図があれば、どこの山のどの辺り。まではわかりますが、手がかりはそれだけです。朱さんは菊千代と会って何がしたいのですか?」
「わしが菊千代の身体を変えてしまったのだ。ぬしの推測が正しければ、菊千代の望む状態ではないし今はひょっとすると囚われの身であろう?助け出して話を聞いて希望に沿ってやろうと思う。我らと同じ体を持つか、死にたいかだ。菊千代が望むなら殺してやっても良いな。」
朱が七百年以上の時を生きたことは判っていたが、幼女然とした朱がこともなげに殺してやってもと言うのを目の当たりにして、不死身性による苦悩がどれほどのものなのかとフランクは戦慄した。
「わ、わかりました。明日、地図を買ってきてください。大体の地理を説明します。そして、私の知る限りの陸軍の組織構成や、陸軍軍人の特徴などもお教えしましょう。」
朱はフランクの言葉を背中で聞きながら縁側に移動し座り込む。そして、「何年経っても忌々しい血だ」とつぶやいた。
日が昇ると、朱とフランクは相談を始めた。日常の作業は全て健太が引き受けた。健太も見かけは十二歳の少年だが、五年が経ち精神的にもかなり成長している。三月に一度、血契三家を朱が訪れる際、同行した健太は闇に紛れて家族にこっそり会うことがある。最初の頃家族と会うと、三日ほどは元気がなかったりしたものだが、今はそれもなくなってきた。朱とフランクは出立に向けて何を用意したら良いか相談していたのだ。日が昇ると朱は買い物の為に街に出た。三時間ほどで朱が戻る。古本屋で日本地図を、それと着替えを買ってきた。基本的に朱は着替えを持たない。髪の毛や爪の類は伸びないし、身体も汚れないのだ。汗も出ないし、垢も出ない。基本的に特殊細胞が入ったときの形態を保つようになっているようだ。フランクが言っていたが、菊千代の場合、結っていた髷の形を保とうとするため、どうも頭髪表面から整髪のための脂まで分泌されているらしい。朱にとって衣類は周りの人間に不審がられないように、いわば変装のために身につけているに過ぎない。しかし、今回はどんな展開が待ち受けているかもわからない。敵対した組織に攻撃を受けることもありえる。そのため、予備を含めて二着の着物と状況によっては使うかもしれないと、白いワンピースを用意した。そして、貯めてあった現金から相当な額をフランクは朱に手渡した。朱はこんなに要らんと言ったが、情報を得るために人を買収する必要もあると言い、晒布にくるんで腰に巻くように言った。そして日が暮れるまで、秘密研究施設の見取り図を書いて説明したり、フランクはかなり真剣に気づいたことなどを朱に伝えた。
日もとっぷりと暮れて真夜中になった。朱が活動するには最適の時間帯だ。今は敗戦の混乱も大分収まってきている。見かけない幼な子が、一人で歩いていたら心配して声をかけてくる大人もいるのだ。闇に乗じて山の中を移動したほうが安全で早い。
この五年の間、毎日は日常の積み重ねだった。朱も他の二人も、変化が起きた今の状況に少し心が浮ついているようだ。朱は咳払い一つすると、きちんと正座をして居住まいを正した。健太も正座で相対する。フランクも健太に習い、慣れない正座をする。
「これから、どうなるかはわからん。菊千代が囚われている組織もないかも知らんし、組織が潰されて別の場所に菊千代が囚われている可能性もある。フランクの言うには、回復には時間がかかったが、かなりの不死性を維持していたというから、生きておるかもしらん。何しろわしは、ああいう身体にしてしまったけじめをつけに行かねばならん。もし万が一、この場所が誰かに知られて、場所を移す必要があった場合は行き先が決まったら沓島の祠に居場所を記して置いておいてくれ。万が一、フランクと健太が一緒に逃亡できないような状況になった場合。健太は軽く追手を二、三人痛めつけて超人的な能力を見せつけた後、一人で逃げろ。フランクはナチスから協力を強制されて研究者として日本に来たが、敗戦のどさくさで脱走して山に逃げ込み正体のわからない少年に襲われた。というふうに言えば、証拠もないし保護されるだろう。その後日本に留まる場合には、居場所を記して縁側の沓脱石の下にでも挟んでおけ。それを見に来て会いに行く。今までどおり、平穏に二人が過ごすことを願うぞ」
未練もみせず踵を返す朱にフランクが声を掛ける。
「朱さん、なるべく他人との接触は避けたほうが良いです。私の血を吸ってから行ってください。」
「朱。気をつけるんやで。もし、長くなるようなら、血契三家へ参るのはどうするんや?」
フランクの首から血の滴る唇を離し、
「海神様に掘り返されて生き返らされた。今は海神様の使いをしている。とでも言って、健太が代わりを勤めろ」
自分の思いついた嘘が面白かったのか、朱は久しぶりにクスリと笑うと闇に向かって跳んだ。
当初考えていたストーリーが、少し変遷してきています。書き溜めてあったのも10話ぐらいまでで、現在は毎日一話ずつ書き上げている状態です。一日一話アップというペースは少し崩れてしまうかもしれません。




