別れ
敗残兵が山中で勝利側の追走軍と増兵軍に最悪のタイミングで挟まれてしまい、一人残らず嬲り殺しにされた。その祟りを恐れた領主が気まぐれに建てた慰霊寺。しかし、その領主の家も早々に絶えてしまって、長い間荒れるだけ荒れるにまかせた廃寺。そんな所以のある寺だった。趺喬たちにとって、それは幸運であったのだろう。杞憂も虚しく、朱と趺喬の生活は誰にも邪魔されず平穏に時だけが過ぎた。既に朱との出会いから七十余年が経っていた。
趺喬はお気に入りの縁側に寝そべり、サラリとした肌触りの気持ちの良い秋風と陽の光を浴びながら、朱との暮らしを思い返していた。考えてみると趺喬も不思議に感じるのであるが、この七十年間をつぶさに思い出すことが出来た。それこそ、日記を読み返すように、「思い出す」というより、時系列順まで正確に「読み返す」という感覚であった。年に数回請われて赴く集落や個人宅での会話を通じて如何にボンボン育ちの趺喬と言えども、たまたまとか偶然で片付く話でないのはとうに判っていた。不意の怪我や病気で命を落とす事も珍しくなく、膝が痛いとか肩が上がらなくて野良仕事もできなくなったという悩みを、訪れた先の年寄り達に散々聞かされてきた。四十越えたら長生きだ。そんな時代の話である。自分が朱と出会った頃、既に四十を越えていたのである。そこから七十年。その時代の水準から言ったら、趺喬は奇跡の長寿様であった。
記憶を読み返してみると、朱に血を分けるようになるのを境にそれまで感じていた体の不調は霧散していた。たまに話を聞く集落の年寄り連中がこぼす、物忘れが激しくなっただの、冷えると関節が痛むだのといった悩みに全く共感が持てない。考えてみると自分より遥かに若い年寄りたちが口々に訴える体の悩みを、趺喬は感じたことがなかった。朱の体の特徴ほどではないが、それに似たようなことが自分の身体にも起こっている。本来ならば何十年も前に利かなくなって当たり前であろう、目も耳も、足腰も、記憶力や思考力に至るまで不自由を覚えたことはなかった。今までの経験と、朱の話を合わせて考えてみると、朱が空から降ってきた火の玉で負った大怪我。その後火の玉から出てきた人が朱の傷口に自分の血を混ぜた。朱はそれから、人ではないものになったという。そして、朱に血を吸われるたびに百をとうに過ぎた故、ひどく気恥ずかしいが、未だに気をやってしまうこと。気恥ずかしい思いも強いのだが、それよりも疑問に思うのは強烈に沸き上がる快感だ。毒や薬のようなものが体に入ったかのような、急変。ひょっとして、朱が血を吸う時に、朱のよだれがわしの身体に流れ込むことで、気をやってしまうのではなかろうか。それよりも、何十年も病知らずで健康そのものの身体も、その御蔭なのではなかろうか。朱の血を我が身に流し込んだら、わしも朱のような不死身性や超人性を持ってしまうのではなかろうか。趺喬はその様に考え至り、苦笑いを奥歯で噛み消した。朱と趺喬は出会ってから生まれた(保護者と娘)の様な関係性で穏やかに暮らしてきた。正直、叶うなら永遠に朱を見守り過ごしていきたい。しかし自分は十分に生きた。朱がこれから一人になっても生きていく術は、幸いに得られたこの長い時間の中で充分に伝えることも出来た。朱が持つ不死身性を、出会った頃であれば自分も望んだかもしれぬ。しかし万が一、狙ったとおりの効果が得られず、自分か朱の身に何か不都合が起こって朱を悲しませる様なことになったらと考えると、不死への魅力は萎れてしまうのだった。居心地の良さについつい長い時間を費やして、記憶を辿ったり、朱の不死性について思いを馳せたが、自分の中で決心が一つついたタイミングでごろりと寝返りを打って、ふうと息を吐いた。
趺喬が吐息をついたことで頃合いと見たのか、いつの間にか傍らに立っていた朱が
「おしょさん。」
と声をかけた。朱は出会った頃と寸分と変わらず五つぐらいの幼女のままであった。が、しかし、朱からにじみ出る雰囲気は大分様変わりしていた。趺喬との会話や経験が彼女を老成させたのであろう。スッと力の抜けた落ち着きを纏っている。
「おぉ。どうした?」
「ずいぶん長いこと考え事してはったから、どうしたかと思ってな。一通りの仕事も終わったえ。」
「そうか、毎日助かるわ。ありがとうさん。朱もどうだ。今日の風は肌に心地よいぞ。」
「そらよいなぁ。」
趺喬と頭を突き合わせた形で寝そべる朱。親子というより、長年連れ添った老夫婦の感がある。
「どないな考え事をしとったん?」
「ん?んー。あー。朱と出会ってから今までのことをな。一つ一つ思い出しとった。わしは家も人生も捨てたつもりやったけど、全然そうやなかった。朱とあえて楽しい人生やったなぁとほんまに思う。あの時はまさかこんなに長い間、ぬしと過ごすことになろうとは思いもせえへんかったわ。何もかも捨てたつもりの人生やったが、朱と出おうて家族を作るような喜びも味わえたわ。朱、おおきになー。」
独り言のように話す趺喬がふと目線を上げると、目を見開いた朱が覆いかぶさるように趺喬の顔を覗き込んでいた。
「なんや!おしょさん、どっか具合悪いんか?死んでしまいそうなんか?いやや。朱を一人にせえへんといて!」
いつも穏やかで感情を表すことのなかった朱だったので、趺喬は驚き身を起こした。
「いやいやいやいや。そうやない。なんもあらへん。ただなんとなくな。あんまりにも良い風が吹くもんやさかい、昔をじっくり思い出してしもうたんや。」
趺喬はニカっと笑う。趺喬お得意の笑顔を見て、やっと朱は落ち着きを取り戻した。
「うち、おしょさんと出おうてから、今が一番驚いたでー」
その日の晩、趺喬が眠りについたので朱も隣の床についた。しかし、夕方一件があったからであろうか、朱は無意識に趺喬へ注意を向けて寝ていたのだろう。趺喬の心拍音が急に弱くなった音を聞き、朱はぱちりと眼を開けた。次第に間延びする心拍音。朱が目を開いてから次第に間延びしていき、七拍目を打つことはなかった。朱もそれなりに覚悟はしていたのだ。趺喬が考えていたのと同じようなことを、まさに朱も考えていた。自分の血を趺喬の身体に入れたらずっと居られるのではないかと。しかし、こんな悲しい世界に大好きなおしょさんを巻き込んではいけない。朱はそう思い口にだすことはしなかった。普通人は五十年も生きれば長生きな時代である。趺喬は百十年近く生きていた。あまり老いもせずに。外見は普通の人の六十歳ぐらいだろうか。それでも朱と比べたら明らかに老いている。不死身性持ってはいないだろうと何となく分かる。ぼんやりと覚悟をしていた時がついに訪れたのであった。趺喬は仏教の作法を一切朱に教えようとはしなかった。人間の救済のために人間の都合で作られた信仰を朱に教えるのは、なにやら畏れ多いと感じたのだ。朱は趺喬の傍らに正座をし、拙い仕草で手を合わせ目を閉じた。そして数時間掛けて趺喬と出会ってから今日までの出来事を噛みしめるように反芻した。そしてゆっくり目を開くと、
「おしょさん。今までおおきにやで」
と、言った。




