呪縛
「七崎七海、か……」
李焔が淹れた紅茶を受け取りながら、老龍総帥である和大文は可笑しそうな口調でその名を呟く。
デスクの上には七海の写真と、それに関する資料が置いてあった。
「随分、気に入ったようですね」
くすくすと笑う李焔に、大文は紅茶を一口飲んでから答える。
「ああ、あれ程可愛げがないと、かえって愛しくなるものだな」
「彼はもはや考え方が大人のそれに近いのだと思いますよ。それに教師の話によると、馮才蔵と有馬文世と仲良くしているようですね」
「総帥の最有力候補を二人を真先に見抜いたか……まぁ、文世は七海と同じ日本人だ。声を掛けやすい相手ではあるだろうな」
「馮才蔵は七海が、ギル達に絡まれている所を助けたようですね。それで親しくなった、という話です」
「ふん、前回の子供の時には、そんな報告は聞かなかったな。才蔵は才蔵で七海の能力を見抜いたということか……」
「不良少年気取りですけど、あれで頭のいい少年ですから」
「奴を引き入れておくのに、損はないと思ったわけか」
大文は紅茶の香りに満足そうな笑みを浮かべながら言った。
「それに七海の順応性には驚かされましたね。まさか中国語が話せるとは思いませんでしたけど」
「くっくっく、あのガキある程度は中国語を知っていたようだな。例の道場では体術だけではなく、中国語も学んでいたか」
「周囲の様子を見るために、最初は知らぬ振りをしていたのですね。……私も見事に騙されました」
李焔は驚きが禁じえないのか感嘆の息をつく。
大文は紅茶をもう一口飲みながら、資料へ目をやる。
そこには七海の家族構成、七海の経歴などが事細かに書かれていた。
「父親も随分とやり手のようだな。政治家一族とはいえ、若くして代議士として名を高めている。しかし、次回の総選挙の相手は、与党内の大物が後ろ楯についている。勝負所といった所であろうな」
「だから息子を手放したのでしょう。最初は世間体を気にしてか、息子は渡さないと抵抗していましたがね。会社の借金の補填を申し出たら、あっさりと承諾しましたよ」
「何、それほど会社の方面は首が回らなくなっていたのか」
「不況の煽りをもろに受けたようです。大手の企業ならともかく、証券会社も窮地に立たされているところが多いようですね」
「くっくっく……何億掛かった?」
「ざっと数百億ですかね」
「うむ、今までの中で一番高額な買い物になったか」
「でも必要経費ですから」
「くくく、お前も鬼だな」
まるで喜劇でも見ているかのように、声を立てて笑う大文に対し、李焔は穏やかな顔に複雑な陰りを浮かべる。
「しかし跡取りである長男を、こうもあっさり手放すとは、正直思ってもみませんでした」
「長男がいなくても次男がいる。父親は長男よりも、むしろ次男の方に期待をしているのだろうな」
大文は紅茶を飲み干すと、カップを李焔に差し出した。言われるまでもなく、李焔は紅茶のお代わりを入れる。
「そうなんですかね。私からすれば、あの次男では政治家としても厳しいと思えますがね」
「親というのは、勉学が長けて、自分に素直に従う子供の方が可愛く見えるからな」
「できるだけ、あの子を傷つけないよう、我々が攫ったかのように演出しましたけどね。子供騙しだったかもしれません」
「子供だから、騙せたのであろう?」
「ええ、しかし聡明な子ですから……いずれは気づくことになるかもしれませんね」
どこか不安げな李焔の口ぶりに対し、大文はせせら笑った。
「それで人生に絶望する程度の人間なら、この老龍には必要ない。親に売られる子供なんぞ、その辺にゴロゴロ転がっているしな。自分の力だけで生きていける奴だけが、ここに生き残る資格があるというもの……聞こえているな?、七海。そういうことだ」
大文の言葉に、李焔ははっとドアの方へ顔を向ける。
ドア越しに、噂の当人が会話を聞いていたらしい。
いつから、そこにいたのかは分からないが。
「七海、そこにいるのは分かっている。呼ばれたからには、私を無視することは許されないことぐらいは分かっているだろう?」
「……」
ドアの向こうからの答えはない。
大文は舌打ちをして、低く脅しつけるような声で告げる。
「総帥命令だ。七海、私の所に来るんだ」
「……」
それでも返事はない。
些細な事でも、命令違反は命取りになることを、知らぬはずはあるまいが。
李焔が見かねて、ドアを開く。
そこに佇む子供の顔を見た彼は、息を呑んだ。
宙を見つめる虚ろな眼差し。
微動だにできないでいるのか、瞬き一つしていない。
その目からは、一筋の涙が零れていた。
「七海……」
それまで常に落ちついた態度で、どんな事にも動じなかったこの少年が、初めて露にした動揺であった。
「七海、聞こえていなかったようだな。もう一度言う。部屋に入れ」
さらに低く、それでいて鋭さを加えた大文の声に、七海はこの時、初めて我に返る。
慌てて涙を拭い、李焔に促されながら部屋へと入る。
老龍総帥は、この時席を立ち七海に近づいた。
そして近づくなり七海の頭に手を置き───
「───!」
容赦なく腹を蹴られた。
まだ幼い体はあっけなく吹っ飛び、床に落下する。
大文は蹴った脇腹をさらに踏みつけた。
七海は声にはならぬ悲鳴を上げる。
踏みつけられた場所は、肋骨にも衝撃を与えた。
罅が入ったであろう、その部分をいたぶるかのように、さらに爪先をねじ込むように踏む。
「あ……ああ……」
苦しげに喘ぐ少年に、李焔が声を上げる。
「大文様、何を!?」
「貴様は黙れ、李焔。七海、今後、今のように命令に背いたら、私はお前を処分する。今、自分が置かれている状況を弁えぬ愚か者は、老龍には必要のない人材だ」
「……」
慈悲のかけらも感じられぬ、総帥のお言葉であった。
「それと、私は涙という見苦しいものは見たくもない。二度と私の前で、その顔をさらすなっ!」
荒らげた声とともに、再び脇腹を蹴られる。
あまりの激痛に、七海は体をくの字にした状態のまま動けずにいた。
李焔はその姿を前に、痛々しく思いながらも、黙ってその様子を見守る。
これが、和大文のやり方なのだ。
例え子供でも、気に入らなければ容赦なく制裁を加える。
大文は不機嫌そうに眉を潜め、動かぬ七海の姿を見下ろしていたが。
「───」
七海の指がぴくりと動いた。
先程まで微動一つ出来なかった少年が。
彼はゆっくりと拳を握り、腕を支えに上体を起こす。
肋骨の部分を押さえながら、立ち上がろうとする少年に、大文はふっと口許を緩めた。
少年の目には最早涙はない。
代わりに憎しみを込めて睨み付ける眼差しがあった。
大文はそんな少年の顎を捕らえ、しげしげとその顔を覗き込む。
そして悪戯っぽく尋ねた。
「私が憎いか?」
「……」
「憎みたければ、いくらでも憎むがいい。私はそういった眼差しが、好きで好きでたまらないからな」
「……変態だ、お前」
吐き捨てるように言う少年に、大文は唇をつり上げた。
「くっくっく、幾らでも言うがいいさ。お前が噛みついてくるほど、私はお前に愛しさを覚えることだろうよ」
大文はその時、顎を捕らえていた手で、七海の前髪をかき分け、額に軽く口づける。
先程とは打って変わった、優しく慈しむ行為。
大文の手は七海の髪を梳き、そして頬を両手で挟んだ。
七海を見つめる眼差しは、この上もなく愛しい存在を見つめるそれにも似ている。
しかし、次に彼が告げた言葉は、七海の身も心も拘束することになる呪詛あった。
「七海、お前はもう老龍のものだ……」




