目が覚めて
エンマは病室の戸を開けた。
自分と、七海が初めて出会った場所。あの時は、才蔵や文世もそこにいた。
偶然にも同じ部屋に運ばれたことを、七海が知ったら、彼はどんな風に思うだろうか。
思えば、あの時から三人は子供らしからぬ利害関係で、お互いの仲を確認し合っていたように思えたけれども……やっぱり子供だったから、口ではそう言っていても、本音は互いを慕い合っていたのだろう。
七海は特に、人を素直に好きになれない所があるみたいだ。多分、親に捨てられてしまった時から、彼は人を好きになっても、裏切られることに恐怖を覚えるようになってしまったのだ。
それが分かった時、どうしようもなく彼を守りたいと思った。
彼を一人にさせたらいけない。そう思うようになっていた。
あれから三日。
未だ、七海は目を開くことがなかった。命には別状がない怪我である。
普通なら翌日には目を覚ますはずだ。
それなのに。
医者は、精神的にも肉体的にも、疲れ切っているのだと言っていた。
あまりにもショックな出来事が、一度に襲ってきたのだから。
「七海……」
エンマは未だ眠る少年の額に軽く触れる。
彼はまるで死んだように動かなかった。あまり動かないものだから、本当に死んでしまったのではないか、と思うくらいに。
「お願い……目を開けて……」
やはり動くことのない掌を、両手で包み込みエンマは祈るような声で呟いた。
もう、このまま目を覚まさないのではないか。
この現実は七海にとってあまりにも辛い。
友人を失い、さらに友人に裏切られ……生きる支えとなっていた存在を、二つも失ったショックが、七海を未だ夢のなかへ止まらせているのではないか? そう思った。
このままの方が、七海は幸せなのかもしれない。
今だけは、きっと彼にとって安らげる時なのかもしれない。
それでも……それが分かっていても。
「七海、お願い……」
目を開けてほしかった。
その声を、もう一度聞きたかった。
エンマは両手で包む、七海の手に軽く口づけたその時。
その手が反応したかのように、彼女の手を握り返した。
「七海……?」
声を掛けてみる。しかし、彼の目はまだ閉ざされたままである。
「ちょっと……起きてるんでしょ。七海」
手は確かに自分の手を握っているのだ。
軽く、傷に響かないよう気づかいながら、七海の体を揺さぶってみる。
クスリ……と笑ったような気がした。
たった今。
「馬鹿……早く起きなさいよ」
だんだん、涙が溢れてくる。喉がつまって声が掠れてきた。
「今、この手にしてくれたことと同じことを、口にもしてくれたら、起きれるかもしんない」
その言葉に、エンマは瞠目した。
寝言……ではないようだ。
だけど、『この手にしてくれたことと同じこと……』って───考えてから、先程自分が七海の手に、軽くだけど、キスをしたことを思い出し、エンマは顔を真っ赤にした。
七海はにやにやと口許に笑みを浮かべて更に言う。
「物語であるだろ? 眠っていた王子が、お姫様のキスで目を覚ますって奴がさ」
「馬鹿! 永久に寝てなさいよっ!あんたなんかっっ!」
エンマはベッドの枕を七海の頭から引き抜いて、それを顔面に叩きつけた。
「な、何だよ。それが病人に対するあんたの扱い方かよ」
「病人じゃなきゃ、辞書で叩いてるわよ!」
「ったく……こえー女だな。相変わらず」
七海は枕を避けて、鼻の頭を摩った。
エンマは腰に手を当てて、ふんとそっぽ向く。
「ちなみに、王子様はお姫様のキスで起きるんじゃないのよ。お姫様が王子様のキスできるの! らしくない例えなんか出してたら、ボロが出るわよ」
「じゃあ、俺がお姫様ってことか。王子様、はやくキスしてくれよ」
「あんた、もう起きてるじゃないの。そんな必要ないでしょ」
「起きてないよ。未だ目ぇ閉じてるし」
「馬鹿」
エンマは七海の額を軽く弾いた。いつもの彼女の仕種だ。
七海は笑いながら、ゆっくりと上体を起こす。
「……随分と眠ってたみたいだな」
「あれから三日経ったわ」
「もしかして、ずっと傍にいてくれたとか?」
「ええ、そうよ。あなたがとても寂しそうだったから、いてあげたのよ。感謝しなさいよね」
「……勝手に決めんなよ」
冗談まじりの口調で、エンマは言ったつもりだったのだが、意外と図星だったのか、七海の顔は忽ち赤くなった。
「何を根拠に、俺が寂しいそうって判断するんだ?」
上擦った七海の口調に、エンマは思わず吹きしながら、更にからかうような口調で言った。
「寝顔が、行かないでーって言ってたわ」
「どういう寝顔だよ、そりゃ。寂しいのはあんたの方だろ」
「私は違うもの。あなたがもう子供みたいに、エンマー、エンマーって言うから、母性本能が生まちゃったのよ」
「そりゃ、嘘だろ!? 俺は寝言でもあんたの名前は呼ばない!」
「困った子ねぇ。証拠動画撮っとけばよかったわ」
困ってないくせに、困ったような顔をするエンマに、七海はますます顔を赤くする。
何しろ、寝ている時のことだから、自分がエンマの名を呼んでいない、とは断言しにくい。もしかしたら、一言ぐらいは寝言で言っているのかもしれないのだ。そう思うと、どうしても赤面せずにはいられなかった。
「例え、寝言であんたの名前言ったとしても、勘違いするな。俺はな、あんたが居なくたって別に───」
内心焦りながら、クールに言い訳しようとする七海であったが、不意に言葉が途切れた。
いや。
口を……唇を塞がれたのだ。
七海の目がこれ以上になく丸くなる。
「目ぇ覚めた?」
悪戯っぽく尋ねてくる少女に、七海はしばらく呆気にとられていた。
まるで金縛りにあったかのような、相手の反応にエンマは首を傾げる。
「変なの。初めてキスされたみたいな反応して」
「ば、馬鹿野郎。い、今のは反則だ」
「あら、イレーネの時は、もっと余裕だったじゃない」
「……な……み、見てたのかよ」
イレーネは何かにつけて、自分にキスをしてきた。
頬が多いが、どさくさに紛れて唇を奪われたことも何度かあった。
最も自分だけじゃなく、才蔵や文世にもそれをやっていたらしいが。
「あの人って、私が来るのを見計らって、男にキスするんだもの。見たくなくても、見ちゃうのよ」
少し拗ねたように口を尖らせるエンマに、七海は気まずいやら、恥ずかしいやら、複雑な心境に陥るものの、開き直ったような口調で言った。
「あれは、彼女の挨拶みたいなものだ。挨拶を無視するわけにいかないだろ」
「じゃあ私のキスも無視しないでよ」
「な、何だよ。あんたも挨拶ってことかよ。挨拶はな、誰にでもするものだぞ」
「知ってるわよ。それくらい」
「だからだな、あんな女の真似をすることないだろ。こう言うキスを誰にでもするのはな、尻が軽い女がやることであってだな……」
エンマはクスクスと笑って、ダークブラウンの目で七海の顔を覗き込んだ。
「それって、私が他の人とキスしちゃいけないってこと?」
「……」
問いかけられて。
しばし返答に詰まった七海であったが、やがて観念したように一度俯き、それからぶっきらぼうな口調で言った。
「……ああ、そうだよ。俺以外の野郎とすんじゃねぇぞ」
七海はエンマの後頭部に手を回し、今度は自分からキスをする。
自分らしくなく、少し緊張していた。
本当に初めてキスをしたような……そんな不思議な感覚。
今まで、本当に自分はキスなんて挨拶程度のものと考えていた。
濃厚なものだって、ベッドへ行く前にする儀式みたいなものだとさえ思っていたくらいである。
こんな風に、もう一度したい欲求にかられたことなんか、なかったような気がする。
(柔らかくて……いいにおいがする……)
今までのキスとまるで違う。
絡み合う吐息も甘く、七海はさらに深いキスを味わう。
「な……七海……」
やや、恥じらうような上目使い。
欧米人だからキスは慣れたものだろうと思っていたが、意外にも濃厚なキスは初めてだったらしい。
「挨拶が過ぎたか?」
七海の問いかけに、エンマは首を横に振る。
そんな彼女の反応に安堵し、再び唇を重ねた。
いつしかエンマの手は自分の背中に回っていて、自分もまた彼女をきつく抱きしめていた。
どんなにエンマの存在に救われたか分からない。
彼女がいなければ、自分は───
失いたくない存在が、まだいることを七海は知った。
絶対に失いたくない思いが、彼女を抱きしめる力を強くする。
温かな陽光が病室の窓に差し込んでいた。
寒い冬。けれいども、その空間だけが春のように思えて。
少女の温もりとともに、その温かさは束の間、七海の心身を癒したのであった。
それから半年。
総帥候補生は四十人から二十三人に減っていった。
挫折をしたり、逃げ出そうとしたり……または、粗暴な候補生に殺されるなどして、その存在を消されていった。
総帥の後継者を巡る、候補生同士の戦いはますます激化していった。馮才蔵と有馬文世の死を機に、候補者同士の対立が深まったと言ってもいい。
そして、その日も一人の候補生が、ギル達に目をつけられた。
「前からお前のこと気に入らなかったんだよなぁ」
にやにや笑いながら、ギルは取り巻きと共に提力栄を取り囲んだ。
図書室から出てきた所を待ち伏せされていたのだ。
「……」
最近、馮才蔵についていた仲間達が、この連中にターゲットにされている。
幸い自分たちのグループは、まだ死傷者は出ていないが、いつどこでやられるか分かったものではなかった。
(ギル一人ならなんとか出来るかもしれないけど、多勢に無勢だな……)
正直、無傷で帰れる自信はない。
せめて、怪我した仲間の分ぐらいの仕返しは出来たらいいのだけど。
力栄は密かに拳を握りしめた。
ギルは肉厚の唇をゆがめ、力栄に掴みかかる。
「あいつさえいなくなれば、お前なんか───」
太い腕を振り上げたその時。
ギルの手首をがしっと捉える手があった。
「……っ!」
最初に戦いたのは周囲にいた取り巻きであった。
そしてギルも。
自分の腕を掴んできた人物の顔を見て、たちまち顔を蒼白にする。
「いい加減にしやがれ」
冷ややかな声で、その人物は言った。
それこそ自分よりも小さかった筈のその人物は、今では自分より背が高く、体格も精悍そのものに成長していた。
今や、彼に逆らえる候補生は誰一人いない。
そうじゃなくても、武力自体最初から彼に勝てたことがなかった。
「ち……七海」
ギルは掠れた声で、その名を呼ぶ。
「出会った時から一つも成長してねぇなっ、てめぇは」
七海は吐き捨てるように言ってから、捉えた腕をひねった。
瞬間、激痛が走り、ギルは「ぎゃっ」と叫んだ。
「な……」
「なにをしやが───」
大文の側近に等しい彼に逆らうのは得策ではないと分かっていつつも、リーダーを締め上げられ、怒声を上げようとする取り巻きだが、七海はその内の一人の額に銃口を突き付ける。
「動いたら撃つぞ」
さらに鋭い声。
取り巻き全員が凍り付く。
それがただの脅しではないことは、既に彼らにも分かっていた。
同じ候補生である有馬文世を撃ったのは、七海であることは老龍でも噂になっていたからである。
「言っておくぞ、お前等。提力栄をはじめ才蔵についていた奴らに手を出したら、俺がタダじゃおかないからな」
「───」
驚いたのはギルたちだけではなかった。
提力栄もまじまじと七海の方を見る。
「得に力栄は、将来老龍の主治医になってもらわなきゃならないからな」
七海は力栄の方を見て、少し笑った。
「七海……」
力栄は大きく目を瞠る。
才蔵が死んでしまった時。
いっそのこと自分もその後を追った方がいいかもしれないと思った時期があった。
リーダーを失った候補生の末路は知れている。
今のように、粗暴な連中の狩りの対象にされたり、色んな形で陥れられたり、追い詰められたり───
だが、自分にはどうしても諦めきれない夢があった。
死ぬほどツライ目に合うかもしれないけれども、なんとか食らいついていくしかない。
そう、心に決めていた所だったのだ。
自分に笑いかけてくれる、七海は才蔵のサングラスをしていた。
まだ、才蔵は彼の中で生きている。
自分にはまだ着いていくべき人物が、そこにいたのだ。
力栄の目から、次から次へ嬉し涙が零れていた。
後に、馮才蔵に付いていた候補生たちは、七海の側近として活躍するようになり、特に聡明だった提力栄は、主席で医大を卒業し後に老龍の主治医として働くことになるのだった。
また、いなくなった候補者と入れ代わるように、新たな候補者も入ってきた。
馮才蔵と有馬文世が死んだ翌年、今まで以上に幼い少年が、老龍の子供として大文自身の手によって、連れて来られた。
一年後――――
「今回、新しく入ってきた子供だ。一応、アメリカ出身だって、本人は言っているがな」
新しい面子を紹介する時、大文は講義室の教壇の前にその人物を立たせるのであるが。
どどどどどっ!
どどどどどっ!
推定年齢四、五歳。
新しい子供は些か落ち着きがなく、講義室をあちらこちら走り回っている。
【同じアメリカ出身かよ、こんなガキと一緒にされたくねぇな】
嫌そうに文句垂れるのは、何時ものように最前列を牛耳っているギルである。
子供はその言葉を、耳をダンボの如くして聞いたらしい。ぴたりと走っている足を止めてギルを指さした。
【ローラン君を侮辱したなっ!お前みたいなブタに言われたくないね!】
【何だと、クソガキ!】
【やーい、クソ大人】
顔を真っ赤にして立ち上がるギルに、子供はアカンベーと舌を出して、再び走り出す。
その時、用事があって後から講義室にやって来た七海が、出入口の戸を開いた。
「……!」
ものの見事に、子供は七海に弾丸のようにぶつかってきた。
七海は驚くものの、しっかりと小さな身体を抱き止めて、目をまん丸にする。
【OH,ローラン君に抱きつくなんて、さてはローランLOVEかい!?】
【何言ってやがる、てめぇが飛び込んだんだろうが。気をつけろ】
【照れなくてもいいのだよっ!】
「……」
何となく、この子供は大文に似ているような気がする。
特に自分が解釈したこと以外の意見を、聞き入れようとしない所が。
子供は七海を見上げて、大きな緑色の目をくるくるさせた。
「───っ!」
その姿を認めた瞬間、七海は僅かに瞠目した。
どこかくせ毛がある金色の髪、白い肌に翡翠を思わせる緑色の目。
それは角度によっては、青にも見える不思議な碧眼だった。
まるで絵に出てくる天使のような少年。
しかし双眸は、まるで野性の獣を思わせる強い輝きにあふれていた。
ああ、コイツだ……。
その瞬間、七海は老龍の総帥になるべき子供が、ここにやって来たことを悟った。
馮才蔵にも、有馬文世にもなかったものが、この子供にはある。
生きようとする目の輝き。
どんな場所でも、生き抜こうとする力強さがこの子供には溢れていた。
七海は大文の方を見る。
この人物が自ら連れてきた子供である。本来なら選考委員や、老龍に使える一族たちが選ぶはずの総帥候補の子供を、この男が自ら……。
大文は愛しそうな眼差しを、暫く子供に向けていたが、七海の視線に気づき、くすりと笑った。
「七海、その子供は楽蘭と私が名付けた。せいぜい可愛がってやるといい」




