老龍の総帥
上海老龍邸─── モダンな建築物が並ぶ外灘の中に、その洋館も堂々とした風格で黄浦江が望める場所に存在していた。
アン女王復古スタイルと呼ばれる建築様式が取り入れられたそれは、邸宅というよりは、城と表現
した方が的確かもしれない。自分が住んでいる所も、俗に言う豪邸に属するものだった筈なのであるが、この老龍邸と比較する
と小屋にしか思えなくなる。
それに、手入れが隅から隅まで行き届いた、広大な庭。市松模様状に広がっている白のタイルと、短く刈られた芝生の緑。真ん中には噴水が水柱を上げ、門から邸宅の入り口を繋ぐ道路脇は桜並木
で今は、満開の時期だった。
それまで目隠しをされていた七海だが、ここにたどり着いてようやく外された時、目の前に現れたのがこの風景である。しばらく開いた口が塞がらない状態が続ていた。
「この大都会に、よくもまぁ、こんな広大な敷地をキープできたもんだなぁ……」
やっと口に出てきた言葉は、実に小学生らしくない言動であった。
妙なところで感心している子供に、李焔はくすくすと笑う。
「行きましょう。屋敷の中で和大文様がお待ちです」
「うん」
大文様とやらが、どんな人なのかは分からないものの、七海はとりあえず素直に頷いた。
屋敷内に入って最初、目についたものは、鏡のように磨かれた大理石の壁。床はビロードの絨毯が敷かれ、屋敷を支えている柱や、階段の手すりには細やかな唐草模様の細工がほどこされている。さり気なく掲げてある絵などは、歴史に名を残す画家が描いたものであった。
階段を上り、二階の廊下を少し歩くと、執務室と書かれた部屋の前にたどり着く。
李焔がノックすると、応答の声が聞こえてきた。
言われるままに部屋に入った七海は、目を見開く。
最初、そこにいるのが女の人だと思った。
窓に差し込む光にきらめく、艶やかな黒髪があまりに綺麗で、しかも長かったから。だが長身にフォーマルの長衣を纏ったその姿は、女にはあり得ぬ精悍さが感じられた。
歳の頃は三十代前半くらいか。もう少し若いようにも感じて、何だか年齢不詳だ。
少しつり上がった眉に、口許、整った鼻筋。細く切れ長の目は面白そうにこちらを見下ろしている。
悠然とマホガニーのデスクに肘を着き、手の甲に顎を乗せて、ソファーに腰掛けるその姿は、身震いするような威圧が感じられた。
「そいつが日本からの候補者か」
中国語で、その人物は尋ねてくる。何だか不遜な口調だ。
「まだまだ、子供だな。いくつになる?」
「今年で十一歳になるそうですよ。恐らく、彼が最有力候補として残ると見て良いと思います」
「ほう……随分と買ってるな」
彼は椅子から立ち上がり、こちらに近寄ったかと思うと徐に、七海の顎を捕らえ、顔を上向かせる。
「いい面構えだな。坊主」
中国語で彼は声をかけてくる。
キョトンとしてこちらを見る少年に、彼は更に言った。
「こんなふてぶてしい面構えのガキを見るのは初めてだ……くくく、可愛げの一つも感じられない」
「あ、あの大文様……」
「何だ、じい。そんな心配せずとも、日本語では喋らんよ。顔は女ウケするだろうから、社交界では使えるな。その内、女とオトす術も仕込んで、スパイに仕立てるのも一つの手だな」
「大文様……」
「それとも少年趣味の男をたらし込まれるか……いや、男にはあんまりウケない顔かもしれんな。くくくく……」
「……」
七海は僅かに眉を潜めたが、すぐに平然とした顔に戻って大文を見上げていた。
子供が中国語を理解できないことをいいことに、言いたいことを言っていた大文は、にこやかに笑いながらその頭を撫でる。
「お前、名前は何という?」
日本語で尋ねてくる大文に、七海は口をへの字に曲げる。
「そういうおじさんは?」
「お……おじ……く……くくく。貴様、命が惜しかったらお兄さんと呼ぶか、大文様と呼ぶかどちらかにするんだな」
顔はにこやかにさせたまま、大文は低い声を漏らす。
明らかに怒りを押さえつけた声に、普通の子供なら震え上がるところであるが、七海は一つも動じることなく言った。
「じゃあ、総帥。自己紹介をどうぞ」
お兄さんでもなく、大文様でもない答えを返す少年に、大文は中国語で李焔に言った。
「おい……このガキそこの川に沈めないか?」
「大文様、大人げがありませんよ」
ぴしゃりと言われてしまい、大文は閉口した。無茶を言いだす主人を諌めるのが、側近である李焔の役目であった。
「私は老龍総帥の和大文だ。貴様は何という名だ」
「七崎七海」
「ナナサキナナミ……? 妙な名前だな。漢字でどう書く?」
「七つに、山と奇妙の奇を合わせた崎……えーと音読だとキとも読むけど。下の名前は七つの海と書くんだ」
「なるほど、七つの海か。それなら、七海だな」
「チーハイ?」
「中国語で七海をチーハイと呼ぶんだ。私はお前のことを七海と呼ぶ」
チーハイ……変な呼ばれ方だと思ったが、中国風に読んだらそうなるのだから仕方がない。
「じゃあ、俺は総帥と呼ぶさ」
「お兄さんか、大文様にしないか」
「総帥じゃ嫌なの?」
「嫌…………じゃないが。お前こそ、お兄さんか、大文様と呼ぶのが嫌だというのか」
「ううん、総帥の方がカッコいいと思ったから」
「む……そうかな」
「うん、絶対そう」
「じゃあ、総帥と呼ぶことを許そう」
「うん、ありがとう」
子供相応の可愛らしい笑顔で、七海は言った。しかし内心では。
(このおじさんを丸め込むのは、そう難しくないみたいだな)
と、自分の言動によって相手がどう出るか、冷静に観察しているのであった。




