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油思って由縁を賭す

作者: 間人真

「野球を始めたきっかけは?」

 なんて聞かれても、僕には返す言葉が無い。僕は野球をしているという自覚など持っていない。ただ、野球部に在籍しているというだけのことだ。

 それでも意地の悪い人は、重ねて尋ねてくる。

「じゃあなんで野球部に入ったの?」

 そこまで聞くなら答えよう。

「野球は九回裏、ツーアウトからが本番だ」

 そんなことを口癖のように言う、絵に描いたような野球バカに誘われたからだと。


 七月十八日、日曜日。快晴。やや日差しが強く、無風。

 場所は椚山グラウンド、東側ベンチ。対戦相手は、市立鹿山中学校。春の大会では予選ベスト十六。練習試合こそ組んだことはないが、勝てない相手ではない、といったところ。

樋川第二中学軟式野球部。つまり僕らにとって、全国中学軟式野球大会出場をかけた地区予選の、今日は一戦目である。

 我らが樋川第二中は序盤からヒットが続かなかった。走者が出てもホームベースを踏めずに攻守が代わる。打撃の心もとなさは、かねてよりうちの課題ではあったが、相手の守備もなかなかのものだった。

 対する鹿山の攻撃は、我が部のキャプテンにしてエース、藤村を前に凡退の嵐。風を切る剛速球と大柄な肉体から発する威圧感。同級生の僕が見ても、およそ中学生には見えない風格がある藤村は、今日も今日とて調子が良いらしい。三振をぼかぼか量産し、野手のエラーによって出塁をゆるしても牽制で刺しアウトにした。

 ちなみに藤村はランナーの右手目がけて球を投げるので、野手は間にグローブを開くだけでいい。ほとんど、投げ当てアウトである。

 そして、回は進んで現在七回の裏。両校とも無得点のまま、最終回、樋川第二中の攻撃。ここで得点が無ければ、延長である。

 中学野球公式の試合回数は七回までで、七回が終わり同点であれば、無死満塁の状態から始まる延長戦となる。そうなったら点取り合戦の泥仕合は避けられない。何としてもここで決めてしまいたいところだ。

 守備から帰ってきたナインが円陣を組み、声を張り上げるのをベンチから眺める。毎回毎回、ご苦労なことで。

 と、珍しく輪に加わらなかった主将、藤村が審判にタイムを求めた。御年五十八歳の顧問、国語を教える村上先生に代わり、この部では実質、彼が監督を務めている。

「打者交代します。一番、佐貫に代わって、代打、窪塚」

 僕はスコアブックに書き込む。佐貫と書かれた欄の横に破線を二つ、さらにピー、エイチ、窪塚。一瞬、誰だこいつと思ったが、窪塚は僕の名字だった。

 なぜ。

 一打席一安打が明暗を分けるこの局面で。訝しげに藤村を見ると、僕の視線に気づき、こちらを向いた。

「そんな顔すんなよ。お前だって三年なんだから、これが最後の試合になるかもしれないだろ」

「そうならないようにするには、佐貫くんが出た方が勝算があるだろ」

 僕は野球部に二人しかいない三年生でありながら、スタメンではない。どころか、ほとんどマネージャーだ。今だって、スコアブックの記録係としてベンチに入るために背番号を背負い、メンバー表の末席を汚している。

 記録の上でも、僕の試合での打率は一割にも満たない。得意なポジションもない。そんなことはスコアを記している自分が一番分かりきっていて、優秀な後輩達が試合に出るのは至極当然のことだと、割り切っているのに。

「もう変更しちゃったんだから、早く行け!」

「ていうか、もっと早く言えよ。こちとら素振りもしてねえんだぞ」

「だって俺、ピッチャーだし」

「六回裏で言っとけよ!」

「だって俺、ランナーだったし」

 くそう。爽やかに笑いやがって。

 本試合、藤村の成績は三打席すべて安打。うち一回はツーベースヒット。軟式の中学野球といえど侮るなかれ、彼の打率は八割を超える。

 僕は開いていたスコアブックを閉じ、席を立つ。派手なロゴがプリントされた金属バットを握り、いざ、バッターボックスへ。

「お願いします」

 白線で区切られた打席に入る前に、アンパイアに一礼。さらに一度、藤村に目をやった。

「絶対出ろよ! ピンチヒッター!」

 意味ありげな笑みを浮かべながら、無責任に藤村が叫ぶ。せめてフリでもいいからサインを出せ。

 白線を越えて一歩前に進み、足元の土をならして前を見据える。

 相手は六回裏から出てきた抑えの投手。先発に比べてコントロールはあまりないが、球威がある。詰まらせて打ち取るタイプのようだ。疲れてもいない。

 さて、どうするか。

 ピッチャーが左足を引き、両手を頭上に掲げ、ワインドアップの体勢をとり――ばしん、とキャッチャーミットを叩く小気味よい音が響いた。

 ストライク。主審が声を上げる。良い球だ。打席を外れて、二度、大袈裟に素振りをする。

 第一球、内角低め、白丸。外れても良いと踏み込んだ、きわどいコース。少しくらいは警戒して貰えている、のか。

「振らなきゃ当たんねーぞ! この腰抜けが!」

 藤村の野次は無視して、足場をならす。スパイクの刃が地面を削る。そして今度はボックスのやや前方、主審と捕手から距離を取って、バットを構えた。

 プレイコールにより、ピッチャーが再び、右足を後ろに下げる。

 僕も膝を曲げて、そして――全力でバットを振った。

 自覚していることだが、僕は太っている。傍目に分かるほどに。ユニフォームとか、ぴっちぴちだ。

 それゆえ運動神経は悪い。守備は壊滅的。出塁したところで期待は出来ない。だから代走必須のピンチヒッターだ。

 しかし、単純なパワー勝負なら、体重を乗せて力任せに振りぬけば、それなりの長打が期待出来る。

「ストライク!」

 ……まあ、それはあくまで期待なわけで。バットに当たらなければ意味がない。

 第二球、外角地面すれすれ、バツ。僕のスイングはボールのはるか上を通過した。それに、バットの長さも届いていなかっただろう。つまり、アウトローに外されたボール球に手を出してしまった。

「よく見ろよ! くそボールだぞ!」

 いちいち言葉が汚い。

 相手投手が不快そうに樋川ベンチを睨む。いやいや、良いボールだったよ、と心の中でフォローしておこう。これで、ツーストライク。後が無い。

「あと一球だぞー!」

 返球する相手方のキャッチャーは語気も明るく、笑顔を浮かべて、かなりリラックスしている。

 どうやら控えのぱっとしない選手が記念打席に出てきたと思われているようだ。既にワンアウトとして処理されていることだろう。

 再び、バッターボックスの前方、投手寄りに立って、さりげなく横目に捕手を見た。深く座り込んで、ミットを前に出している。恐らく僕が苦手な低めを狙ってくる。向こうは余裕もあることだから、一球外してくるかもしれない。

 ならばと僕は前を見る。肩の力を抜いて、左右の手をゆるく握る。

 投手が三度、振りかぶって――投げた。

 低い弾道。僕はそれに応じて――素早く右足を浮かし、捕手の方へとスライドした。

 逆一本足打法、なんて破天荒な技ではなく、ただの位置変更だ。と同時に頭を固定して上半身を捻り、右足で地面を踏みこみ、左足を引くように上げた。

 簡単に言うと、通常よりもはるかにマウンド側、投手寄りに立っていた僕は、サイドステップで後退して、バットを引き、振り下ろした。

 形容し難い、鈍い音が聞こえた。

 金属と皮がぶつかる音。それに続いてバットが地面に転がる。右手どころか両手を添えるだけで握ってすらいなかったバットは、バウンドしかねない低い球を捕るべく、大きく前に突き出したキャッチャーのミットを叩き、抵抗なく僕の手元から零れた。

「バッター、一塁へ!」

 観客席とベンチから小さなどよめきが聞こえる中、主審は僕に進塁を言い渡す。

 そりゃあそうだ。公式戦なんだから、ルールはきちんと守らないと。

 全中ルールブック、ペナルティの項。投球後、守備側が打者の妨害をした場合、妨害を受けた打者は一塁へ出塁する。

 いわゆる、打撃妨害。

 捕手に「怪我はないですか」と形ばかりの気遣いをかけ、落としたバットを次のバッターに預ける。ふと藤村に目をやると、呆れたような顔でこちらを見ていた。僕は小走りで一塁に向かいながら、視線で訴える。

 伝わったのか、最初からそのつもりだったのか、藤村が審判に駆けより、「一塁代走、園田です」と短く言った。

 二重破線に、ピー、アール、園田。頭の中のスコアブックに記帳して、僕は僕の仕事を終えた。

 打率は今日も、変わらない。


「どういう神経してたら、意図的に打撃妨害を狙うなんて発想が出るんだよ!」

 痛みに備えるため身構えたが、藤村は僕を殴らなかった。

「なんだよ、随分な言いぐさだな。お前が塁に出ろって言ったんじゃないか」

 投手の肩を冷やすためのアイシングベルトを取り出して言った。ひんやり冷たいそれを、ユニフォームを脱いでシャツ一枚になった藤村の上半身に巻いていく。

「だからってキャッチャーミットを叩くやつがあるか! 万が一怪我させて、うちが大会失格にでもなったらどう責任を取るつもりだったんだ!」

「そうならないよう、バットもゆるく握っただろうが」

 お前も自分のチームのことしか考えていないじゃないか、とは言わない。それよりも相手にワンアウト扱いされても僕は冷静に動いたのだ。そこは褒めて伸ばすべき美点だろう。

「うるさい! だいたい、お前はいつもそうだ! 当てるだけの打法でファール連発してフォアボールになるまで粘ったり、わざとインコースに投げさせて無理やりデッドボールにしたり……お前のこの肉は何のためについている!」

 僕のたるんだ二重あごに人指し指を突き立て、藤村はぎゃあぎゃあと喚く。無論、体積を増やして、死球を頂戴するためだ、と言ったらさすがに拳がとんでくるだろうな。ここは自重しよう。エースの手を守るのも、僕の役目である。

「草野球やってる中年おっさんじゃないんだぞ! そんな狡い手を使って出塁とか、お前の心にはスポーツマンシップというものが無いのか!」

「まったく、お前は何かにつけてスポーツマンシップを主張するな。そんな得体のしれないものに、ほいほいとのっとられてるんじゃねえよ。もっと自分の意志を持て」

「お前にだけは言われたくない!」

 滴る汗をタオルで拭いながら、藤村は怒鳴った。

 荷物を村上先生の車に積み込んでいた一年生が怯えている。あーあー、おっかない先輩だ。

 さりとて、僕と藤村の付き合いは長い。語調は荒くとも、そこまで怒り心頭、というわけでもない。

 結果から言うと、先ほどの試合で、僕たちは勝利を収めた。

 あの後、二死二塁の状況にまで陥ったものの、四番の藤村が左中間を抜けるタイムリーヒットを放った。二塁走者の真上を通過した打球は広い外野を突っ切り、西側のグラウンドまで転がっていく。僕の代走、園田くんがその間にホームイン。彼がベースを踏んだ瞬間、主審が両校の選手を招集し、揃って互いに礼。試合は樋川第二中学の白星で終了した。

 藤村はぶすっとした顔で僕を睨みながらベンチに戻ってきた。説教を垂れる時の顔だ。

 しかし、そこは腐っても野球部主将。その場で僕に文句をつけるでもなく、後輩にてきぱきと指示を出し、ベンチの撤収作業に移った。

 紳士的な態度に少し腹が立ったので、決定打となった最後の打席はヒットではなく、ショートのエラーとしておいた。

 中途半端にデカい図体をしておきながら、器が小さいと自分でも思う。まあ、ショートがあとほんの二メートルほど跳躍していれば捕球できただろうから、嘘ではない。

「ほら、テーピングも終わったぞ。ダウン行ってこい」

 藤村の広い背中を叩き、クーラーバッグと救急箱をしまう。荷物の積み込みもあらかた終わったようで、後輩たちは各々クールダウンやストレッチを行っていた。

「窪塚。学校帰ったら話あるから勝手に帰るなよ!」

「はいはい、分かったよ。後の試合観て、車乗って、用具片付けたら、結城くんだけ帰すから」

 藤村は肩をゆっくり回して、後輩達の方へ駆けて行った。


「なあ、野球部に入ってくれないか」

 入学式後のガイダンスを終え、見知らぬ人間に溢れた教室。隣の席に座る無駄にデカいそいつは唐突に言った。手にした入部届を差し出してきて、野球がしたいのだけれど、この学校には野球部がなかったとかなんとか、そんなことを言った。

「だから作ろうと思う」

 何が「だから」だよ、と思った。学区には軟式野球部がある学校くらいあっただろう、何でそこに行かないんだ、バカじゃないのかこいつ、と思った。その気持ちを十倍くらいに希釈して「じゃあなんで他の学校に行かなかったの?」と柔らかく尋ねたら、

「え。別に他のところに行く必要なんてないだろう? 部活は作ればできるんだから」

 バカだった。手間も手順も考えない、正真正銘の、本物の野球バカだった。

「でも部員が俺だけでは部として認められないらしい。それに一人じゃあキャッチボールさえできない。本当に困っている。だから、入ってくれ。野球部」

 お願いというよりは、命令に近かった。あいつの言う「だから」には、こちらの意思などまるで含まれていなかった。

「……いいよ」

 だから、かもしれない。

 バカで、真っ直ぐで、自分本意で。絵に描いたような、漫画の主人公のような藤村に、僕は憧れた。

 僕が野球部に入ったのは、自分もそうなりたかったからかもしれない。


「窪塚先輩は、どうして野球やってるんすか?」

 野球部顧問、村上先生がハンドルを握る軽自動車。制限速度ぴったりの速さでゆったり動く車内。野球部一年生で補欠の結城君が微妙な言葉使いで言った。彼は遺憾なことに、僕と似てふくよかなため、「ポスト窪塚」という蔑称を与えられている。

「べつに、野球やってるつもりはないんだけど……。僕はほとんどマネージャーみたいなものだし」

「じゃあなんで野球部に入ったんすか? マネージャーがやりたかったんすか?」

「いや……そういうわけでもないけど」

 今まで何十回と繰り返してきた問答。このやり取りから僕が得られるメリットはないが、年の離れた先輩と耳の遠い先生と車中に三人きりという状況は、さぞ居心地も悪いだろう。名ばかりでも先輩として、会話を盛り上げるべきか。

「まあ、強いて言うなら藤村だけじゃあ心配だから、かな」

 結城くんはきょとんとした表情を浮かべる。

「あいつは、ああいう熱血なキャラだからさ、けっこう無茶苦茶なところがあるんだよ。ふと気付いたら周りがついていけてないっていうか……。僕はその食い違いを補う潤滑油みたいなもんかな。ほら、グローブってグリス塗らないと皮が剥がれちゃうじゃん? 火に油を注ぐって言うとまた意味が変わってくるけどさ、それも結局はよく燃えるってことだし」

 グリスとはグローブの手入れに使う、脂肪酸を含んだ潤滑剤のことだ。つまるところ、自虐ネタなのだが。この場合同じような体型の彼には相性が良くなかったかもしれない。変わらず微妙な表情のまま、結城くんは「ジュンカツユって何すか?」と首をかしげた。

 野球部に二人しかいない、三年生。

 一人は体に脂が詰まったような、運動音痴のマネージャーもどき。一人は皮膚から油が流れているかのような、年中よく燃える野球バカ。

 しかし、二年の歴史しか持たない樋川第二中軟式野球部には現三年生の生徒も過去それなりに籍をおいていた。

 野球に情熱を注ぎ、熱心に勧誘する藤村に感化され、野球部に入った人間は僕一人ではなかった。興味半分、本気半分。理由はどうあれ、藤村の先導に煽られたものが、両の指の数以上には存在したのだ。

 そうして規定人数に達し、定年間近の老教師に頼み込んで、何とか形作った野球部の部員は、二学期を迎えた時点で、半数に減っていた。

 それもそのはず。

 経験者であり先駆者である藤村のカリスマ性、指導力は十二分に発揮されたのだが、現代っ子の中学生が純粋すぎる生粋の野球バカの熱意についていけるはずがなかった。ましてや、そもそも野球部に入るつもりなどなく、野球部のない中学に進学してきた者たちに。

 運動神経の良さで残っていた僅かな部員も、冬の間の厳しい基礎体力作りで心身ともに折れ、辞めてしまった。

 残ったのは皮肉にも、興味十割で入部した、僕のみ。

「なにが悪いんだろうなー」

 部員数が三人から二人になった寒い冬の日。

 キャッチボールの最中に藤村は言った。滑らかなフォームでボールを投げ、そう呟いた。

 本当に、なにが原因なのか分かっていないようだった。

 こいつはバカで、自分が野球をすることしか考えていない。他人が野球を嫌いになっても構わない。自分のできることが、他人にできないことだという、たったそれだけの事実が理解できない人間なんだ。

 胸の前に構えたグローブにまっすぐボールが吸い込まれた瞬間、そう確信した。

「お前はなにも悪くないよ」

 僕は山なりにボールを返す。そうしないと、僕の見た目ばかりの太い腕では届きもしない。

「僕がなんとかしてみる」

 目標の一メートルほど手前で地面にバウンドした球は、そのまま藤村の頭上を越えて跳ねていった。それでも藤村は動かない。突っ立ったまま、じっと僕の方を見ていた。

 どうやら、僕の言ったことは藤村の耳に届いてしまったようだった。

 思い出すだけでも、恥ずかしい。黒歴史だ。


 正門の方から威勢の良い声が聞こえた。

「お疲れっしたー!」

「おう、気いつけて帰れよー」

 電車で帰ってきた藤村と後輩たちは、学校の正門前で別れたようだ。後輩はそれぞれの家路に。藤村は、僕が待っていた野球部部室前に。

「後輩の引率、お疲れさん」

「用具手入れ、お疲れさん」

 短く言葉を交わして、部室の中に入った。待っている間に整理整頓はしておいたから見映えはそれなりだ。扉の正面の壁には、全中予選のトーナメント表が貼ってある。

「来週の試合、どっちとだ?」

「筑紫大付属中学。去年の地区予選準優勝だな」

 今日試合を行ってきた、椚山グラウンド。僕たちの二つ後に行われた試合で筑紫大付属中は対戦相手にコールドで勝った。ビデオは予算的に厳しいので撮っていないが、大まかに記入したスコア表を藤村に渡す。

「強そうだな」

 忙しなくインクが走るクリーンナップのスコアに、顔がニヤけている。相手が強くて笑うって、いや本当、少年漫画の住人かよ。

「そんなことより、話ってなんだ?」

 緩み切った顔の藤村に本題を促した。こっちはお前のために居残りしていたというのに。さっさと話せ。

「まさかまだ説教し足りないとかじゃないだろうな?」

「いや、進路のことなんだけど」

 まさかの真面目な話だった。

「お前が色々と教えてくれた野球の強豪高校。えーっと……名前は忘れちまったけど、そこのスポーツ推薦、受けることにしたわ」

「お、おう……そうか。頑張れよ」

「ああ、頑張る! つってもスポーツテストと面接くらいらしいけどな」

 藤村の進路について、僕は憚りながらかなりの文句と注文を付けた。

 というのもこのバカは三年前と変わらず、近いというだけの理由で近所の私立高校を受験する気でいたのである。ちなみに、超がつくほどの進学校。硬式野球部はあるものの、とてもスポーツに力を入れているとは言えない。

 というか、野球云々の前に、そもそも藤村の学力では到底合格しそうになかった。こいつは、とてつもなく高い塀を裸一貫、素手で登ろうとしていたのだ。

 そこでパンフレットやら専門雑誌やらを総当たりして野球部が有名な学校を探してやった。藤村の話というのはどうやらその高校に進学希望した、ということらしい。

 ……なんだろう。ふざけてしまった自分が少し恥ずかしい。

「とにかく良かったな! 高校でも野球ができそうで」

「ああ。窪塚はどうすんだ?」

「うーん、無難に近くの公立かなあ……」

 進路。やりたいこと。将来の夢。

 能動的に動くことが苦手な僕にはそういうビジョンが一切ない。若者としては由々しき事態、なんだろうが、自覚がないというのはどうにも始末に負えない。

「野球はしないのか?」

「今だって、野球と呼べるようなことはしてねえよ」

 不出来なキャプテンを陰で支えるマネージャー、だからな。

 逆に言えば、それ以外のことはしたくてもできなかった。

 選手として、藤村の力になってはやれなかった。

「じゃあお前はなんで野球部に入ったんだよ」

「言うかバーカ」

 お前が誘ったからだろうが。その言葉を返すには、僕は恥ずかしがり屋が過ぎて言葉にならない。

「なんでだよー教えろよ。さっき帰り道で……えー、なんて名前だったっけ?」

「背番号」

「七番」

「佐貫くん。一番レフト」

 本日の試合成績は二打数ゼロ安打。フォアボールでの出塁が一回。僕と途中交代した二年生。部内二位の俊足(一位は藤村)。守備は少しお粗末だが、伸びしろもあるいい選手だ。

「って、審判にタイムかけた時は言えてたじゃねえか! お前チームメイトを背番号でしか判別できないって人として致命的だろ!」

「あん時はメンバー表持ってたからなー。で、その佐貫も気にしてたぞ。ヅカさんはなんで野球部にいるんすかって」

 それって悪口じゃないのか。べつにいいけど。

「お前はなんて答えたんだよ」

「なんでいるのかは知らないけど、あいつがいなくなったらたぶん、お前らもいたくなくなるぞって」

「………………」

「まああいつらは、お前が誰よりチームの勝利に貢献してるってことに気が付いていないからな」

「………………」

「今日の試合でも、あの場面では佐貫が打つより、お前が出塁する可能性の方が高いと思ったから、俺はお前にチェンジしたんだぞ。打率は低くても出塁率と得点率は、俺を除けばお前が一番だ」

「………………」

「ん? どした?」

「……いや、なんでもない。そろそろ帰るか」

 荷物を手に、立ち上がった。僕に続き、藤村もセカンドバックを左肩にかける。忘れ物はないかの確認をして、僕は部室の鍵をかけた。

 並んで歩く通学路。沈む夕日が綺麗だった。チープな表現だけど、まるで蝋燭に灯る火のようだ。僕はオレンジ色に染まる空を見上げながら、藤村に尋ねた。

「お前ってさ、なんでシニアとか行かなかったの?」

 入部後に知ったことだが、シニアリーグと呼ばれる中学生対象の野球チームが、学校の部活動とは別に存在している。そういった有志のチームの方が必然、レベルも高い。

「シニアは言うほど野球できないからなあ。学校の部活なら、授業が終わって放課後すぐに始められるだろ?」

 そういうことには頭が回るのか。なんという野球脳だろう。

「ほんと好きな、野球」

「ほんとは家でもやりたいくらい好きだぞ、野球」

 常に野球していないと死ぬ病気とかじゃないだろうな、こいつ。

「そんなに好きなら野球のゲームとかすればいいじゃん」

「なんでわざわざ屋外でやるスポーツを部屋でテレビに向かってやるんだよ」

「いやいや、あれはあれで面白いぞ。自分の好きなように選手育てたりとかできるし」

「それは知ってるけど、でもやっぱり好きじゃないな」

「なんで?」

「お前知らないのか? ああいう選手育成モードって、ただボタンを連打したり、恋人とデートしたりするだけで腕力や走力が上がるんだぞ。そんなの、現実であるわけないじゃないか」

「いや、そりゃあゲームだからな……」

 ものは言いようだな。そんな風に考えたことはなかった。

「俺が知ってるやつは、なんか名前も気に食わなかったなあ。なんかさあ、よく分からない謎の科学者に肉体改造手術依頼して一気にパラメータ上げようとするイベントとかあるんだぜ。そんなご都合主義のくせに手術失敗したりしてよ。そいつの人生そこで終わっちゃうだろなんだよ成功モードって」

「分かったからそれ以上は言うな」

 危ないところに火の粉を飛ばすな。世の中には作業が好きなやつだっているんだよ。ほっとけ。

「まあお前のポテンシャルならスポーツテストくらい、余裕で通れるだろ。あとは中学の勉強を最低限やっとけば、問題なしだ」

「だったらいいな」

 他愛ない雑談は続く。夕日は半分以上沈んで、空が急激に暗くなっていく。灯した火が、少しずつ消えていくように。

「もうすぐ、僕らの三年間も終わっちゃうんだな」

 部活を作ることから始めた三年間。

 藤村は僕が得意でない野球に打ち込み、僕は藤村が苦手とする部の運営や人間関係に費やした、中学校生活。

 漫画みたいな毎日だった。

 夢物語みたいな毎日だった。

 でもそれは、絵に描いたようなフィクションじゃない。

 きちんと僕が積み立てた、現実だった。

「なあに言ってんだよ。まだ終わってねーだろうが!」

 にしし、と藤村は快活に笑う。

「そうだな。来週も勝って、再来週も勝って、なんなら地区優勝して、ついでに全中も制覇しちゃうか!」

 僕も笑った。

「野球は九回裏、ツーアウトからが本番だからな」

 いつもの言葉を藤村は口にした。

「前から思ってたんだけどさ、中学の試合だったら七回で終わるじゃん」

「だから良いんだろ。まだ始まってもないんだぜ」

 俺達の野球は、と藤村は言った。

 恥ずかしいセリフを恥ずかしがらずに。

 空想に出てくる、バカみたいにカッコいいセリフを。

「……勝手に僕を勘定に入れるな」

 もう、本当に。

 お前ってやつは。


 僕たちの暑苦しい青春は、もう少しだけ続く。

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