春夢
尼僧となった小町は托鉢をして京の街を歩いていた。近頃は貴族の邸宅を訪ねても知らない顔が多いが、小町は街に出る時は笠を深くかぶって顔を隠すようにするのが常であった。老いた自らの顔を見られたくはなかった。
歩き回った末、小町は桜の木の下に座った。春風に桜の花びらが散って、都の大路を舞っている。この光景ばかりは、昔も今も変わらない。散りゆく桜を眺めていると、昔のことが思い出されてくる。
小町はかつては絶世の美女と呼ばれて世にときめき、都の貴族たちの間で浮き名を流したものであった。
とはいえ、彼女もたわむれで彼らと付き合っていたわけではない。貴族や文人墨客の間に知己を得ることは、出世する上でも、また都で生きていくためにも欠くべからざることであったのだ。
そしてまた彼女にも、そのような打算的な付き合いではない、これはと心に決めた人がいた。その人と小町とは深い絆で結ばれていたけれども、しかしその人の立場ゆえに、関係を公にすることはできない、ひそかな付き合いであった。
それは心苦しいことではあったけれども、それでもその人は小町にとても優しくて、己が生きている間は、また死後であっても、彼女を守り、生活に困らないようにすると言ってくれていた。
しかしその人は生まれつき病弱な質で、それほど歳も経ないうちに志半ばで世を去った。そしてその後を継いだ人々は、彼女を屋敷から追い払ってしまった。
想い人と死に別れた小町は、想い人の菩提を弔い、また自らも往生を遂げようと、髪を落として出家してしまったのだった。
小町がそんな昔のことを思い出しながら木の下に座っていると、貴族の若者たちが何人か連れだって、大路を歩いてくるのが見えた。小町は笠を深くかぶり直して後ろを向いた。
彼らの話す声が聞こえる。
「なあ、知ってるか?この近くの寺に一人の尼僧がいるんだけど、それがけっこう綺麗な人なんだって、見た人が言ってたよ。まあもう年寄りなんだけど、若い頃はさぞかし美人だったろうと言われてるよ」
「ああ、知ってる。見たこともある。俺も結婚するなら、あの人の若い頃のような人と結婚したいものだな」
「いやいや、そう言うけどね、あの人は若い頃は問題児だったらしいよ。絶世の美女だからと言うんで皆からちやほやされて、それでいい気になって男をとっかえひっかえして遊び暮らしてたんだってさ。
でも誰か一人に操を立てるということをしなかったんで、年取ってからは誰にも相手にされなくなり、やむを得ず出家することになったんだってさ」
「へえ、そうなのか。俺だったら、美人でもそういう人は御免だな」
(──違う!!)
小町は悔しく思いながらその言葉を聞いていたけれど、あの人との関係を公にしてしまえばその名誉を傷つけ、世の中にも騒擾を引き起こすかも知れないと思うと言うことが出来ない。それに、今となってはこの秘密を守ることが操を立てることであり、愛情の証でもあるように思われるのだった。
小町は、そろそろ立って行かなければと思ったが、心が重いせいか体も重く、ひどく疲れたような気がしていた。
それで少し休もうと思って、そのまま桜の下で目を閉じていると、いつしか夢と現が曖昧になり、過ぎし昔に心が引き戻された。
春の夜、桜の舞い散る木の下、空には月がかかり、薄い霞のような雲がたなびく。星々の明かりの下、屋敷の庭にはかがり火がたかれ、庭の片隅の木の下で、懐かしい想い人が小町を待っていた。若き日の小町はその人に駆け寄って体をあずけ、想いをこめた歌を詠む。そして言う。返しの歌を詠んではくれないのですか?それにその人は微笑んで、あなたの歌の才能にはいつも驚かされる、私はあなたほどとっさには詠めないので、今考えていたのですと言い、そしておもむろに口を開いて、返しの歌を詠もうとする……
そこでふと目が覚めてしまい、小町は現実に引き戻された。その口元には夢の名残で笑みが浮かぶが、目には涙が浮かんでしまう。小町は独りごちた。
「あの人のことを思って寝たために、夢に出てきたのだろうか。夢だとわかっていれば、覚めないようにしたものを」
そこでその心を歌に詠んでいわく、
“
思ひつつ寝ればや人の見えつらむ
夢と知りせば覚めざらましを
”
そう詠んでしまうと、そのためにか、再び哀しみがこみ上げてきて、小町は顔を覆ってうつむいた。
相変わらず春風が吹いて桜の花を散らし、その風が頬を撫でると、かつて愛した人の手が思い出されて、それがまた涙を誘うのであった。