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前編

海が見える場所で暮らすとはどういうことだろう?

そんな疑問が全てを変えた。


声を掛けるのを少し遠慮してしまうほどその猫は背筋を伸ばして真っ直ぐに海を見ていた。

白い毛並みを潮風になびかせ、大きな瞳を青い前面の風景と対峙させていた。

目に映りこむものは水平線に区切られた世界。白い波飛沫を携えた海と、粗雑に契り捨てられた様な雲が浮かぶ。

「ディンガーさん?」

女の子の声でそう呼ばれた彼は振り向きもせず、姿勢を崩さなかった。ただ、灯台のように海と空に対峙する。

「ディンガー、ご飯だぞ」

次の男の声にはすぐに反応して後ろを振り返った。

そして、声の主に一直線に進んでまた直立不動の生真面目さを感じる姿勢で立つ。

「はら、これが君のご飯だ」

男が右手に持った餌が乗った小さな皿を置くと、一瞬の躊躇の後ディンガーと呼ばれた猫は満足そうに餌を頬張り始めた。

「なんで私が呼んだときに来ないの?」

紺地に華をあしらったワンピースを着た女の子が眉間に皺を寄せて猫に抗議する。

「ただの偶然だろう?」

前のボタンを全部留めた半袖シャツを着た青年が、お門違いを指摘した。

「違います、多分「ディンガーさん」より、「ディンガー」の呼び名の方が気に入ってる」

餌を食べる猫の横に少女は座り込んだ。

「猫が呼ばれ方を気にするかな?」

「私以外にディンガーさんはなついたこと無い」

「俺に懐いたんじゃなくて、この家に懐いたんだろう?」

「この家は貴方の家じゃない?」

「借家だよ?」

「じゃあ出てる表札に借家って書けば?」

なんで喧嘩を売られているのか分からないが、少女に不満があることくらいは男は分かった。

「八島さん」

そんなに歳が離れていないように見えたが、男は少女をさん付けで呼んだ。

「俺たちもご飯にしよう」

「分かった」

すくっと立ち上がって零れんばかりの笑顔で応えると、ぱっと切り替わった表情に男は少し面食らって空を仰ぎ見た。

「どうしたの拓也さん?」

いや何でもないと山口拓也は手を振ってテラスから部屋に入った。どうもあの八島という子のコロコロと変わる表情には面食らってしまう。

不機嫌かと思ったら急に明るく晴れる。そのギャップが今まで見てきたどの女の子よりも激しい感じがしていた。別にそれで付き合いにくいというわけではないが、今年で二十八歳になった拓也には八島のそう言った情緒にとまどう事がある。

楽しい・辛いという感情を愛想笑いの下に隠す年になった拓也の気持ちなど高校を卒業したばかりの八島みどりに分かるはずもなく、何事もなく拓也に続いて部屋に入る。

「ちょっと風あるけどドアしめる?」

ガラスで出来た扉のノブを握りながら女の子が声を掛けると、男はまた手を振った。今度は拒否のジャスチャー。

「いや、丁度良いよ開けておこう」

そうだねとみどりは戸を開けたままにする。

しかし、この部屋は扉を開けっ放しにしようと関係ないなあとみどりはあらためで部屋と外の風景を見比べる。

テラスと言うにはあまりにも簡素な白い出っ張りがこの家には付けられている。手すりもなく、ただ転倒防止の為の控えめな敷居が二十センチほど立っているだけの打ちっ放しの空間。

そのテラスから少し体を乗り出すと直ぐしたには海岸線が見える。絶壁とは言わないが、消波用のブロックと堤防が並び、人が歩ける位の狭い海岸がある。

「おい、危ないぞ」

条件反射のように部屋の主である山口拓也が下を覗き込むみどりに声を掛けた。子供じゃないんだからとみどりは苦笑した。

みどりが振り返るとそこにはまた一面に海と空が広がる。

部屋側には壁一面隙間無くミラーガラスが埋め込まれていて、リビングから覗く風景と同じモノを少しトーンを落として移しこんでいた。開けた扉になっている部分からはフローリングの部屋の中が見えたがそれ以外は背中の景色と同じ、空と海だけが切り取られていた。

まるで空に浮かんでいるような気持ちにさせるこの場所がすぐにみどりは気に入ったのだ。最初に見つけたのはディンガーさんでさすがだと感心したのを覚えている。

この家を外から見るとただの四角い箱が斜面に急に現れたような感じだった。まるで海に向かって押し出される白い巨大な箱。

典型的な海沿いの街で観光地でもなく、ましてや港や漁港があるわけでもないこんな僻地にただの白い箱を作って何が面白いのかと思ったモノだが、いざこうしてこの家の唯一の売りである目線の高さに広がる水平線を見ているとこの家を建てた人間の思いみたいなモノがみどりには伝わってくる。

遠くに大きな船が見えた。

タンカーか何かだろうがそれは確実にゆっくりと進んでいた。そう、このテラスから見える風景は絵ではない。

まったくこんなモノを見たためだけにこんな場所に家を建てる物好きが居るんだからと再び感心した。

そんな感心して立ち尽くす八島みどりを窓越しから見ながら、山口拓也は昼食の準備をしていた。

濃い茶色のフローリングの上に置かれた木とガラスで出来たテーブルに、茹でたてのパスタが乗った皿を並べる。

そしてゴザの座布団に座って一息ついて窓を見る。

みどりが「ディンガーさん」と呼ぶ猫と、名付け人が並んで海を見ていた。

それを見ながら拓也は何時もの自問自答を繰り返す。

なんで僕はこの子達とこんな所で昼食を共にして居るんだろう?

現実としてもうパスタはゆであがって、付け合わせのサラダも用意した。みどりが何処から持ってきたのか分からない花が食卓を飾っている。

清潔感溢れる優雅な昼食だと拓也は思う。でもなぜそこに自分が居るのかが分からない。

つい先々月までは、昼食と言えば一人で適当に買ってきたコンビニ弁当だったり夜のあまりだったり、そういったあり合わせのモノをどうでも良いテレビを見ながら適当につまむだけだった。

それが今居る部屋にはテレビもなく、広いリビングには調度の良い家具が一つ二つ備え付けのモノが並ぶ簡素な部屋に一人居る。

自分にこんなこぎれいで、明らかに大量生産にむいてない凝った形の机や椅子が並ぶ部屋が似合わないのは分かっているが、一番似合わないのはこうやって他人と一緒にご飯を食べようとしている事だと拓也は思った。

ペットボトルを開け氷を入れたグラスに水を注ぐ。最初は八島みどりのグラスに、次は自分のグラスに水を注いだ所で準備は完了した。

疑問に思っていても体は動く、何時ものことだ。

「八島さん?」

再び声を掛けるとみどりは未練無く振り返って部屋に入って来た。

そして用意された食事の前に座る。

「見て」

クッションに座ったみどりが指さす方向にはご飯を食べ終えて、再び空と海を見続けるディンガーさんが居た。

「可愛いよね?」

無邪気な動物の様に嬉しそうに笑ったみどりの笑顔を見ながら、君もねという言葉を飲み込んで拓也は苦笑した。

何よとその真意を読み取れなかったみどりはバカにされたような気がして少し目尻を下げた。

「また暗いんだから君は」

「そうかな?」

よくみどりに拓也は怒られていた。

特に食事前にボウッとしていると直ぐに暗いと良く声を掛けられていた。

それは拓也が良く感じる疑問の一つ、自分は何でこんな所で食事をして居るんだろうという疑問のせいなのだが、みどりにはそんなことは気づきもしなかった。

なぜせっかく食べられるご飯を前にため息を付かなければいけないのかがさっぱり分からなかった。拓也もそんなことを疑問に思っているとはみどりには一言も言った事がない。

ご飯を食べることに疑問を持っているなんて事を言ったらそれこそ根が暗いと怒られそうな気がして拓也はその事をみどりに言えないのだ。

「私が作ったこの素晴らしい傑作を前に君は何が不満なのかね?」

「いや、別に不満じゃないけど」

「だったら元気よく食べましょう!」

そう宣言するとみどりはフォーク片手に食事を始めた。吊られて拓也もフォークを動かす。

みどりが作ったのは手際よく十五分程で作られた昨日の晩の残りをオリーブオイルであえたモノだ。

盛りつけは拓也がやった。それしか出来ないからだ。

「うん、まあまあだね」

一口食べた後、調理人は第一印象をそう評した。拓也は結構味が濃いことに少し驚いた。具材から出しが出たのか素朴な見た目とは違うかんじが良かった。

「確かに美味しい」

拓也の顔を見ながらみどりは満足そうに口元に笑みを浮かべる。

「だからパスタはね・・・・・・」

と言いながらまたフォークを巧みに操り黄色い固まりをフォークの先端に作ると、彼女は一気に小さな口に流し込んだ。

「・・・・・・ね!」

口にモノを入れながら喋っているので何を言っているのか聞き取れなかったが、最後の念を押す所だけは拓也にも理解できた。

「何が?」

「君が昨日作ったパスタとは全然比べものにならないでしょう?」

みどりは昨日拓也が作ったパスタと較べていたのだ。

「全く、全然料理上手くならないなあ君は」

フォークで拓也の事を指しながら、みどりは非常に満足げな笑みを浮かべた。対照的に指された拓也はまた暗く下を向いてめんどくさそうにパスタを口に運ぶ。

「そんなに違うか?」

「全然違います、拓也さんの作るベチョベチョで張りのないパスタとは比べものにならないくらい美味しい」

再び皿の上に盛られたパスタをそのまま口に入れる。

「ほひしい」

リスのような膨らんだ口を見せる女の子を見ながら、拓也は表情に笑顔というよりは呆れというか、愛想笑いとしか取れない中途半端な笑みを鼻息と共に浮かべた。

そんな拓也の表情を見て、少しムスっとしながらみどりは再び窓をの方を向いた。

拓也はみどりの横顔を見ては愛想笑いを浮かべる。

なんで僕はこんなに年の離れた女の子とこうやって食事をして居るんだろう?

毎日のように同じ疑問が浮かぶが、飽きもせずにこの青年は自問自答を繰り返してしまう。

拓也がこの部屋を借りたのは約二ヶ月ほど前のことだった。

大学卒業して入った会社を辞めたのはその一ヶ月前で、生まれて初めて得た何もやることがない期間を拓也は海沿いのこの部屋で暮らしていた。季節はいよいよ梅雨が明けて、強い日差しと共に夏が迫ってくる。それを無職の拓也はただ漫然と過ごす。日々の中で徐々に迫り来る熱波を感じていた。

つい半年前までは一年中空調設備が整ったオフィスビルで一週間の大半を過ごしていた。大きなビルで食事も中で出来て、地下には通路で地下鉄が繋がっていた。

実家のある埼玉からは一回の乗り継ぎだけで殆ど外に出ずに会社まで行けた。日々の季節感というものを感じる時は家を出るときくらいで、それ以外は季節を感じる余裕は無かった。

それが今こうして潮風に運ばれてくる四季の移り変わりを感じているのは訳があった。

「なんでディンガーさんは海が好きなんだろう?」

下を向いていた拓也にみどりが呼びかけた。

なにともう一度拓也が聞き直すと、みどりはオイっといった感じでもう一度質問の主旨を説明した。

「ディンガーさんがあの場所が何で好きかって聞いたの」

みどりのしゃべり方は二度も言わせるなと少し抗議混じりの口調だった。そのせいか拓也は真剣にディンガーさんがあのテラスを気に入っている理由を考えた。

「見晴らしが良いからかなあ?」

あごに手を当てながら拓也は呟く。

「猫も景色をみて感動するの?」

身を乗り出してみどりが聞き返すと拓也は腕を組んで説明し始めた。

「すると考えた方が良いと思う」

「なんで?」

「猫は色々な話で傍観者役として出てくるんだよね。なんか人間だとその人物が持つ人生から生まれた主観からの見方になるけど、猫って動物が持つイメージって僕らは勝手ながら身軽で諦観した視線を感じるんだよ」

「諦観?」

「悟りの境地って言うのかなあ、ほらああ言う感じ」

拓也が指した先にはディンガーさんがスクッと立っていた。考えているようで考えていない真っ直ぐな眼差し。澄ました表情に人は勝手な思いを巡らす。

「猫はさ、遠い未来を見ているような気がする。僕もディンガーもこの何もない風景が好きなんだよきっと、過去も今も未来も一緒のこの風景がね」

拓也はテラスに佇むディンガーさんと呼ばれるあの白猫の凛々しい横顔を思い出す。

初めてこの部屋に連れてきて貰った時は不動産屋と一緒だった。

一目で気に入って、もうその時には言われるがままハンコを押して賃貸契約を結んだ。二回目訪れたときには鞄一つで部屋に来た。それで引っ越し終了だった。

家具は殆ど備え付けで準備するモノもが無かったし、埼玉にあった実家の家具はこの綺麗な部屋には何一つ合わないような気がしたので思い切って全部処分してしまった。

前年に母が、今年に入ってから父も病気に倒れて家には一人っ子の拓也だけが残された。

高校入学して直ぐに建て直した家はまだまだ十分に住めるのだがそこに両親が居なくなった後、拓也は住む気にはなれなかった。

生前の母が丹念に手入れした綺麗な庭が雑草だらけになり、父が使っていた書斎も埃が被るままになった家は居心地が悪かった。中学生の時に引っ越してから、それなりに在る思い出と共に売り払ってしまった事に今でも少しは後悔している。けど会社を辞めてすることなく、家族の居ない家にいるのは苦痛が伴った。

生活環境を生まれてこの方変えたことのない、無頓着という名の保守主義者である拓也が一念発起して海沿いの部屋を借りたのは拓也という人間を知っている者であれば誰もが耳を疑った。

暮らすと言うことに関して至極無関心なあの若者が、買い物も交通も不便な所にわざわざ引っ越すのが理解できなかった。それよりも本当に親が居なくて生きていけるのかと心配した者も少なからず居た。

そんな周りの心配を余所に、拓也は引っ越しの準備を始める。

元から服や靴もそんなに持っていないし、全部新しく買いそろえた方がよいかもと思って当面必要な分だけ鞄に詰めて持って来た。引っ越しも一人暮らしも初めてだったので、何をして良いのか全然分からなかった。

友人に相談しようにも、さすがに二十八歳にもなると結婚しているヤツも多く、また仕事も忙しく手伝ってくれる人間は殆ど居なかった。拓也の場合はさらに仕事が忙しかったので、ここ数年友達と呼べる人間の数が片手で十分くらい減少していたのも事実だ。

少ないツテと有り余る時間を使って引っ越しの準備、家の売却などを終えて今海沿いのこの家に住んでいる。

そんな風に一人で新しい土地で生活を始めようと思ったとき、誰も居ないはずのこの部屋に居た先客がディンガーさんだった。

荷物を置いてテラスに出ても、ディンガーは身動き一つせずにテラスに立ち尽くして海を見ていた。なにが楽しくて見ているのだろうと拓也も海の方を見てみた。

借りた部屋からは空と海が同じ色で広がっていた。

CMで見る人が水着で跳ね回る海岸でもない。

飛行機に乗るときに見たごちゃごちゃとクレーンが並ぶ港でもない。

何もない、ただ広い地平線が広がっていた。たぶん何十年も、もっと前から変わらない景色なんだろうと思うと拓也は嬉しくなった。

自分が前に住んでいた埼玉の実家の窓から見る風景は良く変わった。気が付くと大きなマンションが建ち並んで居て、忙しなく街の風景が変わっていった。東京近郊のベットタウンとして街が大きくなって行くこと自体が悪いことではない事を知ってはいるが、面白くなかった。

(お前もこの景色が好きなんだろうなあ)

口に出さずに隣で立ち尽くす猫に向かって拓也は問いかけた。もちろん猫は振り向かず、ただ一心不乱に海を見続けていた。

それがこの部屋での最初の出来事だった。

「自分が気に入った風景をあの猫も気に入っていると思うと、すこしこの部屋を選んだ甲斐があるんだけど・・・・・・」

そんな台詞を喋ってから拓也はしまったという顔をして、みどりの方に視線を戻した。案の定みどりは満面の笑みで口元を緩めて、からへえーと言う甘い声を出した。

「いやあ拓也さんは相変わらずのロマンチストですなあ」

拓也は自分よりも全然年下の女の子にそう言われると照れるを通り越して、なんとも罪深い気持ちになる。なんか適当な事を言っているつもりではないけれども、どうしても自分より年下には説教を少し含めた形で語りかけてしまうクセがあった。

「そうか、ディンガーさんが見ているのは未来か」

納得しているのかからかっているのか拓也には分からないが、目の前のみどりは満足そうに笑って水を一気に飲み干した。

「通りで見ていて飽きないはずだね」

テーブルに肘をついてみどりは嬉しそうに猫と外の風景を見た。照れ隠しが終わった拓也も続いて視線を窓に映す。

二人の目の前には地平線を挟んで二つの青い空間が広がる。空の方は大きな雲を、海は白い波の線が複雑に折り重なっている。

「ガラス、汚れてない?」

大パノラマを写す大きな窓をよく見ると、うっすらと汚れが浮かんでいた。

「また掃除しなくちゃね」

海沿いの暮らしは見た目には良いかもしれないが、絶えず潮風にさらされて色んなモノが汚れて駄目になっていく。

拓也は海岸が無い県生まれだったので、初めて海沿いに暮らして何でこんなに掃除しなければいけないのだろうと酷く疑問に思った。毎日吹いても当たり前の様に窓や部屋は毎日汚れる。砂埃が舞い込むときもあれば、何もかもがベタ付く感じになる。

「食べ終わったら掃除するよ」

「じゃあ私やる!」

みどりが元気に手を挙げた。

「いや、君はこっち片付けて」

テーブルに並んだ食器を指さすと、女の子は不満げな顔をした。

テラスの床に在る蛇口から水を出して、デッキブラシで一気に窓ガラスを掃除する。見晴らしが良い分掃除する部分も多い。リゾートホテルの様な景観も、誰かが維持してくれれば優雅だが。そこで暮らすと言うことは旅行客とハウスメイドの二役をキッチリとこなさなくてはいけない。

「私も雑巾がけしたい」

「君のやり方は雑すぎる」

「そんな事無いよ」

水を掛けてただ擦ればいいってもんじゃない。意外と潮風の汚れは落ちないのと、虫やら何やらがこびり付いているのでしっかりと力を入れて擦らなければならない。

女の子の細い腕ではそう言った擦り落とす力が不足しているのだ。

「それよりちょっと埃っぽいから部屋の中掃除してくれる?」

「うん、わかった」

物分かりの良い返事に男は満足すると、食器をかさねてキッチンへと運ぶ。

何故だか知らないが八島みどりは片付けするのが妙に楽しそうだった。すっかり拓也は彼女に任せられるようになった。

ついこの間まで全く知らない他人を部屋に上げて一緒に掃除していると、また疑問が浮かび上がってくる。

なぜ自分は十歳近く離れた女の子とこうやって掃除をしているのだろうか?

例えば一年前そんな未来が待っていると想像できただろうか、いや、だれかとご飯を自宅で食べる事自体ないと拓也は思っていた。

(初めてあの子にあった時も掃除しているときだった)

引っ越してから数日後ディンガーが海を見ていて、拓也が汚れた窓を掃除していると一人の女の子が声を掛けてきた。

「すみません、この辺で猫見ませんでした?」

大きな声で女の子は気軽に声を掛けてきた。

拓也の住む家の横には地形沿いに海岸まで降りる小さなコンクリートの階段が有って、そこから彼女は上がってきた。

「猫?」

調度死角になって、みどりにはディンガーが見えなかったらしい。拓也は海を見ているディンガーを抱えてみどりに見えるように持ち上げた。

「この猫のこと?」

嫌がりもせずだらっと下半身を伸ばした姿の猫を見ると、女の子は歓喜の声を上げた。

「ディンガーさん!」

変わった名前だなあと拓也が思った時、ディンガーは素早く上体を動かして身を翻して再び自分のお気に入りの展望ポジションに座わりこんでしまった。

まったくと拓也は再び手を伸ばして持ち上げようとするが、何度も同じ事を繰り返してしまう。

「ごめん」

拓也は下で待つみどりに謝辞を述べると、女の子は苦笑した。

「余程気に入ってるんだその場所」

嬉しそうに女の子は笑う。まぶしそうに拓也を見上げる少女、日差しを遮っている手は遠目から見ても棒のように細かった。

「あがるかい?」

このとき拓也は全く意識せずにみどりに部屋に上がるように声を掛けた。

「良いんですか?」

「僕にはこの猫動かせないようだから、玄関空いているからどうぞ」

拓也の声を聴くと日差しを遮っていた手を退ける。黒い綺麗に整えられたショートカットの髪が輝くと、拓也は少し見とれてしまった。

「直ぐ行きます!」

薄いベージュのワンピースを翻して上がってきた少女は、自分よりずっと背が低い若々しい女の子だった。

ドアを開けると足早にテラスに向かい、猫の横に立つ。

「ディンガーさん!」

嬉しそうに手を伸ばて猫を捕まえる。少女の細い腕に抱かれた猫は、拓也の時と違って暴れもせずか細い鳴き声を上げる。

「久しぶりだね・・・・・・」

「君の飼い猫じゃないの?」

「違います」

少女が猫の首元を指さす。確かに首輪は付いていない。

「さっき名前を呼んでいたよね?」

「私が勝手に名前を付けたんです」

首元をくすぐってやると、名前を付けられた猫は嬉しそうにまた鳴いた。

「ディンガーって言う名前は、あれなのかな「シュレーディンガーの猫」から来ているの?」

「何ですかそれ?」

「あっ違うのか?」

「お父さんがそう呼んでいたから・・・・・・なんですかそのシュレ何とかって?」

「僕も詳しくは覚えていないんだけど、量子力学って学問の中のたとえ話でね」

人恋しかったからのなのか、拓也は喋り出した。

「箱の中に猫と毒ガスの発生装置を入れておいて、何かのタイミングで毒ガスが箱の中に流れるようにするんだ。そこで問題、その箱を開けずに猫が生きているか死んでいるかを確認出来るかな?」

「叩いて確認する?」

「叩いたら毒ガスが流れてしまうかもしれないとしたら?」

「えー狡い!」

「はは、まあ思考実験だからその辺の条件はおいといて結局猫が死んでいるか生きているかは箱を開けて覗いてみるしかない」

そりゃそうだと少女は頷く。

「箱を開けたときだけが、猫が生きているか死んでいるかを確認つまり決定できるっていうこと。量子力学って学問では見た人が「生きてる」「死んでる」を決定できるんだ、箱を開けるまでその猫は「生きているかもしれないし、死んでいるかもしれない猫」つまりどっちかという確率上の存在でしかないっていう思考実験なんだけど・・・・・・」

女の子は可愛い顔の眉間に思いっきり皺を寄せて、酷く訝しげな表情を浮かべた。

「えっつまりゾンビみたいな状態だって事なの?」

「いや、どちらかなんだ。中間という概念は無い」

「だってどっちでもないんでしょ?」

「そう、開けるまで死んでいるのか生きているのか分からない、確率だけの存在。どっちかを決めるのは箱を開けた人なんだ」

ああやっぱり上手く説明できないなあと拓也は頭を抱えた。パソコンを触る者として原理を勉強しているときに出て来たコラムの一文を必死で思い出しつつ、やっぱり何も知らない人にはだからどうしたと言う話になってしまう。

ましてや相手は女の子だった。

「分からないけど」

ハッキリと女の子は分からないと言い切った。そして、曇った表情のまま抱きかかえたディンガーを見つめる。

「死んだか生きているかを決めるのは自分じゃなくて・・・・・・他人なんだ。そう言うことでしょ?」

「うん、まあ」

上目遣いで聞かれて、自信なく後頭部に手を当てながら頷く。

「何処にいて何をしているか会うまで分からないこの子にピッタリの名前だね」

飼い猫ではないこの猫を誰かがその生き方を見て名付けたのかもしれない。

「凄いねお兄さん、もの知り。この家に住む人ってどんな人だろうと思ったけど、もしかして学者さんかなにかなの?」

「いや、偶々知ってただけで。今は・・・・・・無職の何もしてない社会人だよ」

「働いてないのにこんな綺麗な家に住んでいるの?」

「まあ貯金で細々と・・・・・・」

素朴な疑問を口にすると、拓也は何処か後ろめたい気分になった。五年以上働いて殆ど手つかずの貯金と、会社が上場したときのストックオプションを含めると当面の心配はする必要のない蓄えはあった。

「ここで何してるの?」

「何って・・・・・・」

自分でも明確な目的があってこの家に越してきたわけではないので、直ぐには応えられなかった。必死で考えても答えは出てこない。

「前はどこに住んでいたの?」

「埼玉県だよ、だから海沿いに住んでみようかなって」

「だからってこんな近くに住まなくても良いのに」

真下に海がある家は確かに一番海に近い家だ。

「まあ、何となくね」

夏の手前の海はまだ薄暗い青さの空の下で広がっていた。見ながら拓也は自然と前の家の事を思い出した。

「隠遁するにはこういう場所が良いかなあって思ったんだけど」

「隠遁?変な言葉」

「一番今の自分の状況を表していると思ったんだけどなあ、人里離れて一人で暮らすって」

「凄く暗くないですかそれ」

「そうだね、まあ両親も居ないし、会社も辞めたし、全部捨ててきてここに流れ着いた」

自分で全部決めたことなのにと、拓也は周りの状況に流されてここで暮らしていると女の子に語る。会ったばかりの女の子に何を話して居るんだろうと自分で呆れたが、会ったばかりだから出来るどうでもいい話というのを理解はしていた。

「凄いなあ」

ところが少女は酷く同意を含んだ視線を拓也に投げ込んだ。鈍感な拓也も直ぐにその瞳に吸い寄せられた。

「私も今一人で居るんです」

黒い目が拓也の顔を覗く。

「全部私と同じだ」

俯きながら呟く彼女の笑みは何処か感情を捨てきった醒めた笑い声だった。

このときの事を拓也は後に何度も思い返す事になる。目の前に佇む少女と自分の交じり合うことのない何かが、少女の胸に抱きかかえられている猫によって強く結びつけられたと。核分裂のように、小さな切っ掛けが大きな熱を帯びた反応を生み出したのだと。

同じって?

と聞こうとした拓也の言葉を、ディンガーは鳴き声で遮った。

「どうしたのディンガーさん?」

両手で持ち上げなおして、女の子は目線を併せる。

「お腹すいたの?」

覗き込むように聞き直すと、またディンガーさんは鳴き声を上げる。どうやら女の子の意見に同意したようだ。

「なんかあったかなあ?」

冷蔵庫は空っぽだし、保存が効く様なものも思い付かなかった。

「じゃあ私たちもお昼にしましょう」

「えっ?」

足下にディンガーを置いて、女の子は部屋を覗く。

「キッチン借りても良いですよね?」

「えっ、ああ」

気のない返事を聞いて直ぐに女の子は玄関で靴を履き替える。

「どこに?」

「調度お昼だし、ディンガーさんと私たちの分のお昼買ってきますよ」

「スーパーまで遠いよ・・・・・・」

平気っと元気よく応えて少女は出て行った、ただ呆然と拓也は見送ってしまった。そして、直ぐに表においてある自転車の鍵を取って、女の子に追いついた。

「待って」

海岸から離れた大きな道で、女の子の華奢な後ろ姿を見ながら一つ気が付いた。

「どうしたんですか?」

「いや、自転車使った方が良いと思って持ってきた」

少し漕いだだけで妙に疲れた、坂が多い土地なので自伝車は疲れる。ただでさえ体力がない拓也には応える。

「ここまで来ちゃったなら一緒に行きましょうか」

「うん、その前に一つ確認したいことが・・・・・・名前・・・・・・」

「名前?」

「猫じゃなくて君の名前聞いてなかった」

そうかと言う顔をして女の子はまた笑った。良く笑う子だと拓也は思った。

「あれだけ猫の名前の話しておいて、自分の名前言うの忘れてたんだ」

手を併せながら何処かはにかみながら笑う。

「みどりです、八島みどりです」

「僕は山口、山口拓也」

改めて自己紹介すると何だか気恥ずかしさだけが残った。二人とも直ぐに横に並んで食材を買いに往復一時間の道のりを歩み始めた。こうやって人と並んで歩くのも久しぶりなら、隣が女の子だというのはもっと希だった。この日から山口拓也はこの奇妙な感覚を味わい続けることになる。振りかえればどちらも寂しさを表情の下に隠していた。


ミラーが貼られた窓に水を掛けながら、外の景色と水を掛けている自分の姿が写る。こんな髭剃りの後がある男と、若々しい綺麗な女の子が並んで歩いて買い物に行ったんだから面白いなあと感心してしまった。

本人の話によると八島みどりは今年高校を卒業したそうだ。大学にも行かず、就職もせずにこの辺をうろついている放蕩娘、と本人は語った。拓也は話していて彼女の利発さは直ぐに理解できた。何故大学に進まなかったのだろうと疑問には思ったが口にはしない。

事情はどうあれ彼女は自分と同じ無職であると言うことは確かだった。

そのため拓也は妙なシンパシーを感じていたりもする。それは八島みどりも同じようで、最初にあったときからすんなりとディンガーを挟んで時々昼食を食べる仲になった。

ディンガーの様子を見に拓也の家を八島みどりが訪ねる形で二人のつきあいは続いた。

「毎日掃除してない?」

食器の片付けを簡単に済ませて、テラスに来て簡単に箒で払う。

「海の近くで暮らすのって大変だ」

暮らしてみて改めて海沿いの生活が楽じゃないことに気が付いた。

掃除をさぼると直ぐ埃っぽい感じがする。また、これは一人暮らしをしてから気が付いたことだが洗濯も大変だった。普通に暮らしていて当然服は汚れるが、クリーニング屋も使い捨ての安い服を売っている店も近くにないこの環境ではともかく洗濯をしなければいけない。今まで実家で母親にやって貰っていた部分を全部自分でやるのは大変だったが、数ヶ月たつとご飯を食べたり歩くのと同じような感覚で洗濯している自分に気が付いて驚いた。

「なんでこんな大変なところに来たの?」

素朴な疑問をみどりが放つ。

「こんな所で君の方が長く暮らしてるだろう?」

話の本質を回避したい拓也は質問を聞き返した。すると、みどりは食器を持ち上げて台所の方へと進む。

「私あんまり家の掃除しない」

そう言って音を立てながら食器を洗い始めた。

料理の事はともかく掃除のやり方等を見ていると、八島みどりという女の子はお金持ちの箱入り娘なのではと思う時がある。動作に生活感が無いのが拓也の抱く印象だった。例えば雑巾の掛け方とかが如何にも腰が入っておらず、ただ面をなぞるだけの様な感じがするのだ。

偉そうに拓也が他人の掃除にケチを付けられるようになったのもこの家に越してきたからだ。しっかりと拭かないと潮風に運び込まれたモノは落ちないし、何処かザラザラする感じが海のない県育ちの拓也には落ち着かなかった。

「確かにここに引っ越してきてから掃除とかそういうことしかやってないなあ」

「じゃあ何かしたいことがあってここに来たの?」

みどりの質問に拓也は直ぐに応えられなかった。

いや、答えなんか何処を捜しても無かった。

ただ目の前には広い海が広がっていた。ディンガーと一緒に眺めていると、どっかにみどりの問いの応えが在るような気がした。

「何もしたくなかったっていうのは覚えているんだけどね」

気が付くと目的と行為が一致していた時のことを思い出していた。大学を卒業して入った会社は出来たばっかりの若くて小さい会社で、色んな事をやらされた。今考えれば若い会社だったから組織がしっかりと出来ておらず、役割分担も曖昧だっただけだと思う。

人が入っては辞め、新入社員として正式にシステムエンジニアとして採用された社員で三年後残ったのは拓也だけだった。みんなが文句を言って辞めていった。残業が多い、給料が安いなど理由は様々だった。確かにそういう不満を拓也も思うことはあったが、彼女もおらず、無趣味な拓也にとってはシステム開発というのはハマル仕事だった。

システム開発という一つ一つ会社のルールを決めていくのは大変な作業で、なによりも忍耐力や責任感というものが一番問われる仕事だった。部署毎に違う思惑を一つにまとめ、仕様書というルールブックを作っていく作業は非常に疲れる。

ましてや人間はめんどくさがりやで自己中心的なルールを破りたがるのが常だ、そんな生き物がルール通りしか動かないコンピュータを使うのだから問題は必然的に上積みされていく。

その度に色々な人間の意見を聞き調停役としてかり出されたのが新人の拓也だった。

普通こういった仕事は経験豊かなベテランがやるのだが、あいにく拓也が入った会社は三十歳代の若い社長が興したベンチャー企業で、他に人もおらず拓也に白羽の矢が立った。

「会社に勤めている間はずっと誰かと話していた様な気がする」

「ふーん、どんな事を話すの?」

「このソフトが使いづらいとか、やりにくいとかそう言ったこと」

会社として思惑があって作った機械も、使う側からすればめんどくさい使いずらい仕組みでしかない場合が多い。

「例えばさあ、一枚の書類を出すのに毎回誰かに内容を確認して了解を出して貰わないといけない仕組みを作る。ところがその了解を出す人が毎日画面を見てチェックしないとどんどん書類がたまってしまう事になった、悪いのは誰だと思う」

「チェックをしない人?」

「違う、チェックが必要でないのにチェックが必要な仕組みを作った人間」

「なんで必要だから作ったんでしょう?」

「会社としては見て確認してから書類を出して貰いたかったんだろうけど、そのチェックする人にとってはそんなもの各員の責任で勝手にやって貰えば良い程度のものだったんだ。そりゃそうだ、鉛筆一本貰うのに毎回画面開いて毎日外に出ている営業部長が確認なんかしないんだよ」

拓也が関わったのは部内の文房具注文書の仕組みだった。

経営者としては一円でも経費削減をしたかったので、ちゃんと上司に確認の指示を貰うように、チェックして貰うように徹底したかったのだ。所が実際外にでてばっかりで出張など一週間帰ってこない場合がある営業に所属している人間にとっては毎回細かいことも確認を取らなくてはいけないこの仕組みはすこぶる評判が悪かった。

「そう言うのを幾らまでは承認が要らないとか、すぐ発注して後で精算時まとめて確認するとか色々と会社内のルールを作りながら調整していくんだ、一つ一つを決めていく地味な作業の連続だったんだ」

隣で拓也のことを見上げながら頻りにみどりは感心していた。

「地味な仕事ね」

「そうだね。けど会社ってそう言う細かい仕組みで動いているんだ」

「めんどくさそう」

「だからみんな苦労している。早く家に帰りたいからなるべく簡単にすませようとするんだけど、どうしても沢山の人間と連絡を取って作業する為にはルールが必要になってくる。仕事が自分一人の中で収まる限りは簡単で単純なんだけど、二人三人と足並みを揃えるのは大変なんだ」

拓也はいつの間にか窓を拭く手を止めて、みどりに向かって熱心に説明をし始めてしまった事に気が付いた。

「ああ、ええと何の話してたんだっけ」

「ここで何がしたいかって話」

ずいぶん話が逸れたなあと拓也は感心した。

「まあそれでもう人と話すのは疲れたと思ったんだ、誰も居ないところに行きたいなあって。たぶんそれだけだったんだ」

「じゃあこうやって私と話すのも嫌」

悪戯っぽくみどりが顔を覗き込むと拓也は手を振って否定した。

「いや、君はちゃんとこうやって話を聞いてくれるじゃないか」

「でも多分よく分かってないよ?」

シュレイディンガーの猫の話も、システム開発の話もみどりは話を打ち切ることなく聞いていた。

「正直自分の話を聞いてくれないときが一番辛かったんだ、多分喋ることは嫌いじゃないから。自分の話を聞いても何も理解を示さない人を見たときが一番辛かったかなあ。そのたびに自分の子供っぽさみたいなのが嫌だった」

再び窓を拭く手を動かし始める。

「仕事って大変だね」

「ああ、けどやっぱり苦労した分だけの達成感みたいなものはあった。それは間違えないよ」

やっぱり手は止まって、窓に写り込む景色を見た。色が落ちた海は暗く沈んで見える。

「結果的に最後の大仕事があってね」

今でも良くやったなあと思うことがある。

会社のシステム更新で途中まで別の部署が進めていた作業が、急に数人が退職し開発がストップしてしまった事があった。原因は仕組みを作った管理部側と実作業を行うグループとの対立だった。

「いつの間にかプロジェクトの中心に居て、なんだか知らないうちに全部の責任を押しつけられた」

気が付くとシステム開発部署で、一番勤続年数が長くて会社の内容を把握しているのは拓也だけになっていた。いくら何でもまだ役職も付いていない自分が全体の面倒を見るなんて無理だと断り続けたが、社長から直接君がやれと指示が出た。

「もちろん直ぐに会社を辞めたくなった。辞めて自由になりたかった」

毎日会社を辞めようと考えながら会社に向かう日々は苦痛意外なにものでもなかった。

「けど、そんな無責任な事は僕には出来なかった。何故だか分からないんだけど出来なかった。

今考えればたぶん、僕が辞めて誰かが同じように困るのが嫌だと思ったのかもしれない。効率の悪い考え方だとは思ったけど、やっぱり誰かが嫌な思いをするんだったら自分がやると思った。あの時そうやって踏ん切りを付けたからあの仕事を乗り切れた」

残業土日の区別もなく全力で仕事に取り組んだ、夏休みも正月もなかったがそれでも妙な充実感はあった。自分が決めたことが周りの人間の便利になって画面に現れたとき、前よりもずっと良くなったと言われる度に次へ次へと進むことが出来た。

そして、年明けにはどうにか全ての目処が立った。目処すら立たなかった一年前に比べて格段の進歩だと誰もが拓也を褒めた。

「仕事が終わったときの達成感は今まで生きてきた中で一番嬉しかった。うん、なんか自分の想う通りにモノが出来たことに本当に満足していたんだ。初めて色を塗って作ったプラモデルが輝いて見えるように、本当に自分の作ったモノが誇らしかった」

周りから比べたらつぎはぎだらけの仕組みだったのかもしれない、後悔は沢山傷として形としてできあがったものに残っている。けどその傷や形の一つずつに思い入れがあった。

「自分だけの、世界でただ一つだけのモノ僕は凄く満足していたんだ」

初めてやった大仕事に確かな充実感を覚えていた。そして、その数ヶ月病院に入っていた親父の様態が悪化した。

「会社が大きくなって、それなりにお金と人が入ってくるとそれは僕の手を離れてどんどん大きくなっていった。僕はいつの間にかその輪からはずれてしまった。いや、本当は自分から離れていったんだ中心を見ながら段々と気持ちが離れていった。そして親父も母ちゃんの所に行ってしまって僕は一人になった、燃え尽きたと言うよりはただなんか全てが遠くに行ってしまった」

ガラスに映る自分は確実に歳を取っていた。

まだ二八歳だと世間では言うかもしれないが、自分には二八年も立ってしまったと言う思いが強い。毎日鏡に立っていて気が付かない変化をあらためてガラスに見せ付けられた気がした。

「それで会社を辞めようって思い付いた。もう、自分がこの会社にいる理由なんか無いって思って。出世とかこれからのことを考えれば辞めるのなんてばからしいことだったんだろうけど、ともかく会社に自分の場所を見つけられなくなった。辞表を書いて出したとき、周り全員から反対されて、残ってくれって頼まれた時は本当に嬉しかったし申し訳なかったけど。それだけ色んな人の役に立ったんだって最後確認できて良かった」

沢山の引き留めも逆に会社を辞める決意を強くさせてくれた。天の邪鬼と言えばそれまでだが、拓也にとってそれが自分の限界の様な気がした。

「ごめんつまんない話したね、何だかなあ結局自分から逃げておいて偉そうだ」

何時のまにか隣にいた女の子に自分の過去を愚痴っていた。たった数年の自分のやってきたこと、今此所にいる理由を話した。

「そんなことない」

みどりは立ち上がって、拓也の顔を見た。

「凄いことだと思いますよ、頑張ったからいまこうやって毎日ゆっくりと暮らしているんでしょ?」

「それで良いのかなあ」

「私は羨ましいなあ」

「何処が?」

「また、何処かに行こうと思ったら何時でも行けるんでしょ?」

みどりは拓也の状況を非常にポジティブに捉えた。たしかに、自分で決めてこの海沿いの家に来たのだから、また気に入らなければ出て行けばいい。

「羨ましいですよ、私はこの辺から出たことないから」

みどりは寂しそうに海の方へと振り返った。

「八島さんはどうして就職とか、大学とか行かなかったの?」

前から思っていた疑問を、自分の事を話した引き替えというわけではないがすんなりと拓也は聞けた。

みどりは少し考えながら口を開く。

「私も疲れちゃったんです、人と話すのが」

「疲れた?」

「高校、頑張って行ったんだけどやっぱり何か違和感みたいなものを感じて」

「そうか・・・・・・」

伏し目がちに話すみどりを見て、拓也は聞かなければ良かったと後悔した。それ以上話を進めるつもりなんかなく、ただ大きな窓ガラスを強く拭き始めた。

「別にいじめられていた訳じゃないんです、本当に学校は楽しかったし通っていて良かったなあ」

拓也の露骨な態度に気が付いてみどりは慌てて言葉を紡いだ。

「ただみんなはやりたいことがあるのに、私にはそういうのはなくって。結局何も決められなかった。」

「みんなそんなもんだと思うけど」

「私いま何にもしてないんです、毎日起きてご飯を食べてまた寝る。それの繰り返し」

「僕と同じだ」

「良くないですよねきっと・・・・・・」

小さくなった声が心配で、拓也はガラスに映るみどりの姿を追った。細い手足が何だか痛ましかった。

「けど、考えもしないで決めてもあんまり良い結果を生むとは思えないなあ。僕は君より長く生きているけどあの時こうやっておけばとか後悔ばかりしている。もっと言葉を考えて話せばあの人を傷付けなかったとか色々ね、此所で考えるよ」

「そういうの考えてどうするんですか?」

「どうするんだろ?」

その時またディンガーが鳴き声を上げた。まるでとりとめのない二人の会話を止めた。

「ああ本当にごめん、なんか結論が出ない話ばっかして」

拓也は頭を何度も掻いた、ボサボサになった髪の毛を潮風が撫でる。

「ううん、なんか私は楽しいですよ」

「本当に?」

「なんか拓也さんと話していると色々ハッとするときがあります」

そう言ってくれるとありがたいけどと拓也は照れながらもう一度みどりの方を見た。綺麗な黒髪が何時も野様に風に揺れていた。

みどりの顔を見る度に疑問に思う。何で彼女は僕の話を聞いてくれるのだろうか? よく分からないが少なくとも若い女の子が聞いていて楽しい話ではないと思った。

「私も誰かにありがとうって言って貰える人間になりたいなあ」

「なれるよ君なら」

「どうして?」

「いや、まあなんとなく」

何故か拓也はこのとき一緒に昼ご飯を食べたり、掃除してくれてありがとうと感謝の言葉を飲み込んでしまった。照れからなのは分かるが、なんで照れているのかは自分には分からなかった。

「ディンガーさん、どっか行きたくない?」

みどりが足下でまだ海を見ているディンガーに声を掛けると、そそくさとディンガーは身を翻してテラスから起用に海岸を降りていった。

「今日は何処に行くんだろう?」

嬉しそうにみどりはディンガーの姿を見送った。

「ディンガーさんも私もこの辺に住む亡霊みたいなものなんですよ」

それにしてはずいぶんと元気な幽霊だと拓也は思った。

「ここから抜け出せない、ただ居るだけの亡霊」

目線も会わせずにみどりは部屋の中に入って玄関に置いてある靴を履く。拓也は何だかそれを声も掛けずに見送ってしまった。

「さよなら」

拓也は返事もせずにまた掃除を続けた。

何時もの様にディンガーが帰るとみどりも帰る。そう、八島みどりが居るのはディンガーという猫が家に迷い込んだからだ。それ以外の理由があるわけでない。

そう心の中で理屈を付けても拓也の中にはもう一つの理由が直ぐにちらつく。

あの子は自分に会いに来てくれている。

「そんなばかな」

自分に会いに来てくれていると拓也は信じたくなかった。その考えが浮かぶ度に、必死にそれを消す理由を考える。若く利発な女の子が自分みたいな無職で人付き合いに疲れて隠遁している男に興味を持ってくれること何て無い。あったとしても、それは直ぐに飽きられる短い付き合いなのだと。

極度の潔癖性の様に拓也は自分の心に浮かび上がる期待を必死に消していた。それでも後で明日の昼ご飯の材料を二人と一匹分買いに行く自分を何だろうなと反省した。

掃除は何処か反省という行為に似ているなあと、今日も拓也は掃除をしながら一日を終えた。


台風が来たわけではないのに、横殴りの雨が大きな窓ガラスを叩き続ける。

ため込んだ小説や書籍を片っ端から読みふけっていた拓也にとっては別に雑音にもならない。それよりも一週間以上、あの猫も八島みどりも家に尋ねてこない理由の方が、拓也の心を落ち着かせなかった。

「あんな事話したからかなあ・・・・・・」

自分の後ろめたい会社を辞めた理由を独り言のように喋ってから、ディンガーもみどりもこの家にやって来なかった。

「まずったかなあ・・・・・・」

自分への反省と併せて本当に八島みどりの事を自分は全然知らないのだと言うことを思い出した。これだけ自分はどこに住んでて何をやっていているのかを話したのに、みどりがどこに住んでて居て何をしているのかは本当に断片的な内容しかしらない。

そもそも数年来仕事しかしてこなかった拓也には理由もなく人に会いに行くと言うことが出来なかった。仕事という目的があってそれをこなす為に行動するというパターンが染みこんだ拓也にとって、本能に従って動くというのは何処かに忘れたロジックだった。

本を読んでも思い出すのは風が気持ちよかった昼食だった。一人で食べるのがこんなにも寂しいことだとは考えたこともなかった拓也にとって、あの猫と女の子の行方は気がかりでしょうがなかった。

それでも拓也は一週間みどりを探しにも行かず、ただ何時もの様に掃除や食事を繰り返してしまった。

「つまらないなあ」

呟いたと同時に最初呼び出し音が鳴ったときは意味が理解できなかった。

二回目鳴ったときはそれが呼び出し音で、玄関の表にある人が来たときに部屋の中の人間を呼び出す音だと言うことを思い出した。

三回目の音で飛び跳ねて、わざとらしく音を立てて玄関に拓也は向かった。

淡い期待と共にドアを開ける。

現れたのは細いシルエット、赤い傘を持った八島みどりだった。

「いっ、いらっしゃい」

凄くわざとらしいなあと拓也は慌てて出てしまったことに恥ずかしくなった。もうちょっと余裕を持って出ればこんな格好悪くは出なかったのに。しかし、それで不在だと思われてさっさと帰られても嫌だしと様々な思いが巡ったが、そんな事はみどりの寂しげな表情の前では直ぐに消散する。

「どうしたの?」

「ディンガーさんが居ないんです」

か細い声が頼りなく拓也に届く。

「居ない?」

「何処にも、いつも居るところに居ない」

「ウチにもここ数日来てないけど・・・・・・」

どうするとりあえず部屋に上げたほうが良いかと思って、拓也は後ろを見て部屋の状況を確認する。本は散らかっているが人を上げられない状態ではない。

「とりあえず・・・・・・」

と声を掛けるよりも早く、みどりはもう歩き始めていた。

「ちょっとまって」

慌てて拓也は靴を履いてみどりを追いかける。横殴りの強い雨は直ぐに足下を濡らして、Tシャツに水がへばり付いた。

「こんな雨の強いときに歩き回って大丈夫なの?」

声を掛けてみどりを振り向かせると、水色の涼しげなワンピースが更に寒々しい印象を強くした。よく見たら髪も濡れ、足下も泥を被っている。

「一度家で休んだらどう、雨拭かないと風邪をひくよ」

「うん、それだったらここ数日ひいたばかりだから・・・・・・」

病み上がりなら尚更だと、拓也はみどりを説得した。みどりもずぶ濡れの拓也を見て、すこし申し訳なくなったのか黙って拓也についてきた。

「酷い雨だなあ」

確かにあの猫がどうなっているかは心配になる。海の波は消波ブロックに強く叩き付けられているし、くすんだ雲は一部の隙もなく海上を埋め尽くしていた。

「ともかくこれで体を拭いて」

バスタオルを渡すが、どこかみどりは心此所に在らずといった風に佇んでいた。

「今日ずっと捜していたの?」

首を縦にしてみどりは応える。久しぶりにあった彼女は何時ものような抜けるような笑顔とは別の、暗く沈んだ表情を終始変えなかった。言葉少なく人形のように佇む。

「猫はこういうとき何処かでじっとしているもんじゃないのかな? こんな状況だし、下手に動いても君が大変だよ。家に来たら連絡するし、とりあえず今日は家に帰った方が良いんじゃないかなあ」

とりあえず拓也は自分では建設的で合理的な判断を下していると思っていた。しかし、そんなことはみどりにも分かっているみたいだった。

「わかった俺も捜すの手伝うよ」

「良いです」

簡単に拒絶されて拓也は困ってしまった。サンダルも泥だらけで一人苦労している年下の女の子を当然放っておけるわけもなく、更には会いたくてやっと会えたみどりの役に少しでも立ちたかった。

「タオルありがとうございました」

簡単に頭と肩を拭いただけで、拓也にタオルを返してみどりは直ぐにまた出かけようとした。簡単な拒絶にすっかり動揺してしまった拓也はそれでもう声を掛けられなくなってしまった。

そんな情けなさを感じながらみどりを見ていたら、みどりは立ち上がって直ぐに足下をふらつかせてその場に座り込んでしまった。

「八島さん大丈夫?」

今度は体が反応して、みどりにもう一度タオルを掛け直した。

「ごめんなさい・・・・・・ちょっと疲れて」

「もう少し休んだ方が良いよ、今掛けるもの持ってくるから少し体を温めた方が良い」

壁際のソファーをみどりに勧めて拓也はお湯を沸かす準備をした。人の介護なんてしたことはあまりないが、とりあえず思い付くことを全部やってみることにした。この前買ったタオルケットを用意して、暖かいコーヒーを容れてソファーで横になっているみどりへ差し出す。

上体を起こしてコーヒーを受け取ると直ぐに一口飲み込む。拓也はそんなに必死で一匹の猫をこの雨の中探し続けたのかと思うと、目の前でタオルケットに包まれている少女の不思議さに改めて考えさせられた。

飼い猫でもない猫の安否確認のために此所まで普通やるだろうか? 幾ら無職で暇だとしてもだ。この子には何処か世間一般の常識的な基準が抜けているような気がしてならなかった。

まあだから自分の部屋に居るんだろうと言うことは分かる。

まるで漂流してきたかのように小さく部屋の隅で丸くなるみどりを見ていると、拓也は自分が何か悪いことをしているような気分になって落ち着かなかった。

外を見ると雨は当分止みそうもなかった、それどころか今が一番雨脚は強いかもしれない。少しは彼女の役に立ったと拓也は思う事にした。

二人で大きな窓を滝のように落ちる雨を見ながら気が付くと数十分たっていた。言葉もなくただ雨音だけが部屋に響く。それが不快でも何でもなく、拓也とみどりは雨を見続けた。

「ディンガーさん、最近元気なかったんです」

沈黙に耐えきれなくて発した言葉ではなく、遠くにばやける海を見ながらみどりは語り始めた。

「私が小学校の時からの知り合いなんです」

「そうか」

確か猫の寿命は十年位だったハズだと拓也も気が付いた。なるほど彼女も心配になるはずだ。

「なんでディンガーを飼わないの?」

直ぐに浮かんできたのは素朴な疑問だった。簡単な質問のハズがみどりはタオルケットで表情を隠してしまった。

「今住んでいる家は猫とかペット駄目で・・・・・・」

「そうか、せめて首輪とかに連絡先とか付ければ?」

「多分ディンガーさんはそう言うの嫌がりそうな気がする、ホント誇り高いんですよディンガーさんは」

「ああ、偉そうな顔で僕の家の敷居を跨ぐよね」

「ディンガーさんにとってこの辺は全部自分のものなんだと思うんですよ」

初めて今日楽しそうな声を聞いた。

「何時も何処かで海が見える場所を捜していて、最近はこの家のテラスがお気に入りだったみたいで。これだけ同じ所にずっと来るのは珍しいんですよ」

嬉しそうにみどりは最後の一口分のコーヒーを口に含んだ。新しいのを拓也の勧めを断って、みどりは立ち上がって窓へと近づく。

「ここから見える風景が本当に気に入ったんだディンガーさんは・・・・・・ずっと捜してやっと自分の気に入った場所にたどり着いたのに」

「八島さん?」

「もう寿命かもしれないんですディンガーさん、最近ご飯もあまり食べなかったし」

あまり悲観的になるのはどうかと思ったが、拓也は掛ける言葉を思い付かなかった。自分に容れたコーヒーを口にしながら必死に言葉を探したが。寂しげに窓際に立つ彼女に掛ける言葉は全て無意味な気がした。

「やっぱり僕も捜すの手伝うよ、一人より二人の方が絶対早いし。もし高いところで休んでいたら、僕の方が背が高いから見つける可能性が高くなるからきっと役に立つよ。それに、ほら君の家で飼えないのなら僕の家で飼えばいいじゃないか?」

立ち上がって拓也は思い付く限りのことを言ってみた。

「ごめんなさい、ありがとう」

謝罪と謝辞をまとめて言ってから、みどりはその場で座り込んで茫然自失と外を眺める。薄暗い明かりが彼女の周りを包むと、何か近寄りがたいものを拓也は感じる。見たこと無いが聖堂で一人懺悔する修道士を連想して、あまりの非現実な雰囲気に口は閉口気味になる。

なぜ彼女は猫一匹の安否で此所まで静かになれるのか? 感受性が豊かなのは分かるが、それでも猫一匹の安否だ・・・・・・ペットも飼ったこともなく、ましてや十年来の付き合いのペットは居ないから、安否が分からないのがどれくらい悲しいか拓也には分からない、いや想像できなかった。

「本当は分かって居るんです・・・・・・」

懺悔のように外を見上げながらみどりは話す。

「もうディンガーさんがこの世に居ないのは」

「そんな事・・・・・・」

彼女が悲観的な事を口にするとは思わなかったので、拓也は思わず駆け寄って彼女の顔を覗き込んだ。その表情は悲観でもなく諦めでもなく、伏し目がちな表情は凍り付いた様な死者を思わせる生気の無い顔だった。

「昨日会ったんです、ディンガーさんと」

「昨日? 何処で?」

少なくても昨日までは生きているって事かと拓也はなぜみどりが悲観に暮れる必要があるのかますます分からなかった。

「海岸で・・・・・・見たんです。ディンガーさん一人で海を見ていて、怖くて声を掛けられなかった」

「怖い?」

「何時かディンガーさんの名前の由来話してくれましたよね、見つけた人がその人が生きているかどうかを決めるって・・・・・・」

拓也とみどりが最初にあったときに話した話題。シュレーディンガーの猫、箱の中に毒ガス発生装置と一緒に容れられた猫が生きているか死んでいるかを判定する方法。それは開けてみなければ分からない、当たり前だが開けた人間がその猫の生死を確認する。つまり、開けた人間がその猫の生死を決定しているのだという理屈。

「私は何時も誰かが居なくなるのを決めちゃうんです、見えた瞬間諦めなくちゃいけない」

うわごとのように窓に向かってみどりは語った。

「ディンガーさんはきっともうこの風景を見れないところに居るんです、分かっていたんだけどディンガーさんだったら、あっちに行っても帰ってこれる様な気がして・・・・・・けど見てしまったんです夜に・・・・・・」

顔に手を当てながら、みどりは後悔する。

「私はディンガーさんを殺してしまった」

うわごとのように呟く彼女、震える肩をただ拓也は見ていた。

こういうときに物語の主人公達だったら抱きしめてあげたりするのだろう。しかし、当事者の拓也にはそんなことは出来なかった。

それは触れた瞬間消え入りそうなものだった。自分がここに住んでいることすら夢のようなのに、そこに現れた少女はもっと儚げだった。拓也は隣で同じ景色を見ていることしかできなかった。

「帰ります」

曇り空はさらに黒く濁り、もうじき日が暮れる時間だった。タオルケットを脱いで、みどりは再び外に出ようとする。

「送るよ、体具合悪いし心配だから」

送っていく車もないのだが、付き添うことしかできないがそれでも何もしないよりはましだと思った。

「いいです」

簡単にみどりは拓也の申し出を拒絶した。拒絶されると拓也はどうしたらいいか途端に分からなくなる。でもと言い訳しようとする前にさっさとサンダルを履いて彼女は部屋を出て行った。

残された部屋で拓也は少し唖然としてしまった。ただ以前の彼ならばそのままだっただろうが、五分ばかし悩んだ後直ぐに靴を履いて部屋を飛び出した。人を心配する感受性はこの海沿いの部屋に住むようになって大分増えたような気がする。

敏感になったのか、余裕が出来たからか分からないがそれでも拓也は部屋を飛び出してみどりを追った。

しかし、みどりは何処にも居なかった。

たった五分で何もないこの辺で、見失うようなことは無いと思うが。日が暮れるまで拓也は捜したが、ついにみどりの姿を見つけることが出来なかった。

家から一時間くらい歩いたところで、拓也はやっと諦めた。いや、それでも帰りは何時も下を向いて歩くのに、前を真っ直ぐ向きながら歩いた。猫か女の子を見逃さないためだが、あいにく帰りも車以外のものが道路を通るのを見なかった。

猫どころかみどりすらも見つけられず、拓也はとぼとぼと帰宅をした。

(俺は何をやっているんだろう?)

何も出来なかった脱力感からだろうか、拓也は色々なことを疑問に思う。

あのみどりという少女が言っていた事は一体何処までが現実なのだろうか? 自分が猫を殺してしまったとか言っていたが何が何だか分からなかった。

結局、思い知らされるのは自分が今必死で捜しているみどりの事を自分は何も知らないと言うことだった。住んでる家も、過去も、知っているのは顔を名前くらいで何も知らなかった。幾らでも聞く時間はあったはずなのに、何も聞かなかった。彼女が楽しそうに話す言葉だけで何か満ち足りたような気がしていたが、それでは自分の知りたいことは何も得られていないことに拓也は気が付く。

体良くあしらわれただけだったのか、何だか全てがこの横殴りの雨で雨に流されているような気がした。考えれば考えるほどみどりという少女は不思議な女の子だった、彼女の言ってることの信憑性以前に彼女自身が幻ではないか・・・・・・妄想が膨らみすぎているのを承知で拓也は考えた。

考えたところで彼女が目の前に現れるわけでもないが妄想で浮かんだみどりだったら何時でも頭の中に居る。浮かんだ姿はテラスでディンガーと一緒に海を眺めている姿だった。

(海か・・・・・・)

帰宅時に思い立ったように拓也は海岸に降りてみることにした。未整備の小さな海岸だが、散歩ぐらいは出来る幅と長さはある。越してきたときに一回行ったきりの海岸で、拓也が付いた時にはさすがに波が荒く人は居なかった。

見渡しても誰も居ない、居るわけ無いと分かっていても期待してしまった自分を恥ずかしながら拓也は海岸をとぼとぼ歩いた。湿り気を拭くんだ海岸は意外に歩きやすく、スニーカーを砂で汚しながら前を進む。

右手に海岸、左手にはテトラポット郡が並んでいた、さすがにそのテトラポット郡まで波は届きそうもないが、台風でも来たときにはそこまで波が届くのだろうか?

そんな風な事を考えながら歩くと、そのテトラポット郡の中に鮮やかな赤い点が見えた。そして、その赤い点から青いワンピースの裾が零れているのを見えたとき、拓也は急いでその点へと駆けた。

「八島さん?」

声を掛けると彼女は振り向いた。その腕には何時も野様にディンガーさんが居た。

何時もの光景だが、みどりの表情は笑顔でなく、天気は雨が降り、ディンガーさんはその相貌を閉じて力なくみどりの胸に沈んでいた。

その時拓也は初めて見たものがある。

眉間に皺を寄せて怒るみどりの表情に思わず見とれた。

その時は拓也はまだみどりが何に対して怒っているのか分からなかった。やがてその理由に気が付いたとき、だから彼女はあんなにも真剣に怒っていたのかと思うと、その孤独な生い立ちにやるせない気持ちになる。

ただディンガーさんの死んだ日はただその姿にとまどうだけだった。


「後は病院の人がやってくれるって」

濡れた服を乾かすために、病院で借りたタオルを羽織りながらみどりはベンチで俯いていた。

自転車で二十分ほどの所にある駅前で開業している動物病院は天気のせいか誰も居なかった。動物病院なんか来たことのない拓也にはそれが普通かどうか分からないが寂しい感じがした。

狭い廊下のベンチで二人して肩を並べて座る。さっきからみどりは口を開かない。

表情はやはり何処か怒っている。

時間は五時を指そうとしているところだった。まだ暗くなるには時間がかかるが、薄暗い窓の景色は段々と色を落としていく。

「ディンガーさんがあそこに居るってどうして分かったんですか?」

「えっ、いや何となく」

突然みどりが口を開いたので驚いた。向けられた表情は何時ものみどりに戻ったようだった。

「私馬鹿だった、よく考えたらディンガーさんが行く所なんて拓也さんの所か、あそこしか無いのに・・・・・・どうして思い付かなかったんだろう?」

よかったじゃないかディンガーさんが見つかってっと拓也は言おうと思ったが、結果は望んだものではなかった。

「ディンガーさんは最後、海を見ながら眠りたかったのかな?」

「どうして?」

「拓也さんはどう思います?」

みどりの眼差しは明らかに回答を求めていた。拓也はぼんやりと上の蛍光灯を見ながら考えてみる。

「本当にあの猫は海が好きなんだね、死ぬ前も死んだ後も海のそばに居たかったのかな?」

思い出すのは背筋を立てて遠くの海を見続けるあの凛々しい姿だった。最後までその姿勢を貫いてあの猫は死んだのだろうか?それともテトラポットの間で背を丸めながら海を眺めて衰弱していったのだろうか?

「なんでディンガーさんは海が好きだったんだろう?」

落ち着いたのか、みどりは何時もの様に思い付いたことを拓也にぶつける。

「ごめんなさい、前にも聞いたね」

何時か話した猫も景色を見て感動すると言う話を思い出してみどりは質問を取り下げた。

「もしかしたら考え事をしていたのかもしれない、僕らはどこから来て何処に行くのかとかね」

哲学者の様に自信に満ちた凛々しいディンガーの横顔を思い出しながら、拓也は下を向きながら話す。

「なにそれ?」

「そんなこと考えてどうするとは思うんだけどね、時々考えるんだ自分のやらなければ行けない事ってあるのかなあと」

少し恥ずかしそうに拓也は手を組む。

「ディンガーは何処か遠いものを見ていたような気がするんだ。明日のご飯よりも先のことを考えていた、遠くに何があるのか想像する様に、自分がいずれ辿り着くところを想像していたのかもね」

みどりにロマンチストと言われたことを思い出しながら、拓也はこの際とばかりに情緒たっぷりに死んだディンガーさんに自分の事を重ねた。

海の先を見たいなら船を造ればいい。将来のことを考えるなら銀行に行って老後の生活プランを立てて貰ってそれに従って貯金していけばいい。それで安心出来るのであればそうすべきなのだと分かっている。

それでも大きなものを見るとそんなちっぽけな現実感は何処かへ行ってしまう気がした。

みどりに偉そうな話をしつつ、拓也は自分の結論は話さなかった。

「死んだら何処に行くと思います?」

「僕はエンジニアだから、あまり魂とか天国・地獄があるとは考えないなあ。多分死んだら電源が切れたテレビみたいに何も写らないし、音もしないんじゃないかなあ」

「拓也さんはロマンチストなのかリアリストなのか意味が分からないですね」

意味が分からないと言われて拓也は少し可笑しかった。訳ではなく意味と言うところが可笑しかった。

「死んだらみんな来る場所があるんですよ」

「何処?」

「海岸」

少し笑いながら聞いた拓也の質問にみどりは即断で答えた。拓也はどういう宗教の死生観だったけなあと考えたが答えは浮かばなかった。

「なんで海岸なの?」

軽く聞いたつもりだったが、今度はみどりが下を向き顔を背けた。

「その意味が分かったら・・・・・・苦労はしない」

戸惑う拓也とまた黙り始めたみどりに割ってはいるように、病院の玄関が開く音がした。

「先生」

みどりは玄関に立った人影を見ると直ぐに席を立って、その人物に近づいた。

「みどり、大丈夫か?」

背が高く、細い眼鏡を掛けた男は拓也よりは少しだけ年上くらいに見えた。着ているものが長い白衣をまとっている以外は先生と呼ばれる理由は想像できなかった。

「すみません呼び出しちゃって」

「仕方がない、時間も無いしな」

手短な挨拶の後、先生と呼ばれた男は直ぐにドアを開けてみどりに退室を即した。

「外に車を止めてあるから、外で待ってなさい」

みどりが一瞬躊躇して後ろの拓也の方を見る。拓也に気が付くと先生と呼ばれた男はみどりの視界を遮るように拓也の前に出る。

「君は?」

「八島さんの付き添いで・・・・・・」

疑問にも思わず納得したか無視したか分からないが、軽い愛想笑いみたいに意味のない会釈をして先生はみどりを奪い取るように身を翻して拓也に背を向けた。

反射神経の鈍い拓也はそれを思わず見送りそうになったが、隠れたみどりの事が気になって二人の後を追った。

銀色二人乗りの外車の助手席には既にみどりが座っていた。

「何か?」

全て手短にすませようというのか、先生は傘を差しながら運転席の横から声を掛けた。

「いや、その」

あんたは誰でこれから何処に行くのかを聞きたかったが、聞いたところでどうするという事も考えた。

車の座席に座り込んだみどりは既にぐったりとシートに体を沈めていた。

「色々と面倒駆けたようだが、今日の所は急ぐので」

男は傘を畳み運転席に体を滑り込ませた。直ぐにエンジンが掛かり車はそのまま走り去っていった。

「何だよ一体?」

あっという間にみどりは連れ去られてしまった。

何時連絡したのかも分からない、多分自分が病院の人と話している時なのだろうと思った。それよりも先生と呼ばれた人間は誰なのだろうか?

単純に考えて高級スポーツカーと白衣を結びつけるのは医者と言う単語だった。

一つの答えが連鎖の如く新しい疑問を生んだ。

何故みどりは医者の先生に連絡したのか? 何故医者はあんなに早く彼女を連れ去ったのか? みどりの掛かり付けの医者なのだろうか? 親戚の者か? 彼女は何か病気に掛かっているのか?

答えは車と共に消え去って、拓也は雨の中また茫然自失と立ち尽くしてしまった。


「みどり、あの男は?」

静かな社内で男はみどりに声を掛けた。みどりは目を閉じたままだった。

「何処まで話した?」

男もどうでも良いように、信号を見ながら話を続ける。

「何も話してない」

「そうか」

安心も納得もしてなさそうに気のない返事を先生は返した。

「話してたらどうしたんですか?」

「別にどうもしないさ」

青になった信号と共に、車は猛然と走り始めた。

みどりはじっと目を閉じ続ける。それは眠たいわけでもなく、ただもう何も見たくなかったからだ。

(暗いのは落ち着く・・・・・・)

エンジンから伝わる微妙な振動とワイパーが動く音を聞きながら、冷えた体をシートに沈める。

(タオル持ってきちゃった)

肩に掛かったタオルを握って見る。

(拓也さんに悪いことをした)

今日はずっと拓也には一緒に居てもらった、最後は挨拶もまともに出来ずに車の中に座り込んでしまった。

(なんか疲れた)

一日中雨の中を歩き回ったので足が痛い、体は湿っぽくて怠い感じがした。それでも意識だけは何処か別の所にあるように色々と考えた。

「お母さん、猫さんが・・・・・・」

みどりは家の庭に初めてディンガーさんが現れた時のことを思い出した。

塀の上に登って何時も何処か遠くを見ていた。

猫は飽きもせずに毎日の様に塀の上から遠くを見ていた。庭から煉瓦塀の上に何時もあの白い猫が遠くを見ている姿が見えた。

何を見ているのか気になって家から椅子を持ってきて、初めて塀の上に登ろうと思った。

平屋の家を覆う塀は高く、食卓用の椅子では届かなかった。背もたれの所に足を掛けて、もう一踏ん張りと足を伸ばしたところで塀の上にしがみつくことが出来た。

ドサッと言う音に気が付いてみどりが後ろを向くと、椅子が横に転がっていた。子供心に不味いと思って、思わず泣きそうになってしまった。どうやって降りるのか、登った塀は高く一人で降りれそうには無かったからだ。

途方に暮れたみどりに鳴き声が聞こえた、顔を上げるとさっきよりも近くに猫が来て、こっちを見ていた。

直ぐに興味を無くしたかのように猫は顔を横に向け遠くを見る。

釣られてみどりも振り向くと、そこには今まで見たことのない景色が広がる。

所々に見える緑達と、大小様々な建物。道が続きその先には日を浴びて輝く海が見えた。

「きれい」

塀を跨ぐように座り込んで、みどりはそのパノラマに見とれた。今まで見たことのない輝く景色に心を奪われた。

どれくらい見ていたか分からないが、ずっと猫と一緒に遠くの海を眺めた。

「みどり危ないわよ」

心配したお母さんが近づいて来て手を伸ばす。みどりは抱きつくように下から抱えてもらう。

「大丈夫?」

「凄いの海!」

お母さんの質問を無視してみどりは、今見たばかりの景色のすごさをつたない言葉で大好きな母に伝えようとした。

「海がどうしたの?」

「キラキラってしてる」

嬉しそうに母親が頬擦りをしてくれると、みどりは更に嬉しくなって身振り手振りで説明し始めた。そのたびに母が笑うのでどうしようもなく楽しかった。

「猫さんに教えてもらったの」

この快挙の殊勲賞を上げようと、猫を紹介しようと思って振り向くともうそこには猫は居なかった。

「あれ猫さんは?」

「猫?」

「さっきまで一緒に居たのに・・・・・・」

「何処行ったのかしら、見あたらないわね?」

次の日から猫は急に家に来なくなった。

みどりが幾ら庭で待ていても、あんなに毎日来ていたのに急に来なくなった。

「みどり、そんな風にじっと待っていたら猫さんも怖くて逃げちゃうわよ」

「だって・・・・・・」

塀の上で腕を組みながら猫を待つみどりを母親は微笑まく諭した。

「猫さん死んじゃったの?」

「なんで?」

「だって居ないもの、お祖父ちゃんみたいにいなくなっちゃった」

先月お祖父ちゃんの葬式があって、みどりは初めて死というものを知った様な気がした。何時もいる人が忽然と居なくなってしまうとても怖いものだと思った。

「きっと帰ってくるわよみどりの所に」

みどりは優しいお母さんの話を何となく信用はしてなかった。元気になるっと言っていても、お祖父ちゃんは元気にならなかったからだ。

ディンガーさんと会ったのは、みどりが何となく嘘というものが世界にあると感じ始めていた頃だった。

「あっお父さん!」

塀の上から坂を登ってくる父の姿が見えた、元気よくみどりが手を振ると。お父さんは大きく手を振りかえして、駆け足で坂道を上がってきた。

「お帰りなさい」

みどりとお母さんの声が重なる。

「ただいま」

海外出張から父が久しぶりに帰ってきた。

「みどり大丈夫かい」

愛娘が塀の上に登っていて慌てて手を伸ばす。みどりも直ぐに優しいお父さんに抱きついた。

「どうしたんだい、塀によじ登って?」

「猫さんを待っていたの」

「猫?」

「最近家の塀にね、良く来るみどりのお友達さんなの」

そうかと再び頬擦りをして、大きくなった娘を抱きしめた。

「けどもう来ないかもしれないの、死んじゃったのかも・・・・・・」

「見たのかい?」

「何を?」

「猫さんが死んだところを見たの?」

あなたとお母さんはお父さんの近くによって耳打ちする。お父さんはまあまあと手を添える。

「見てない」

みどりは大きく首を振った。

「じゃあ猫さんは生きているよ」

「なんで?」

「死んだところを見てないのに決めつけるのは良くない事だよ」

「ずっと待っていても来ないんだよ」

「けどみどりは来て欲しいんだよね?」

うん、と首を縦に振ると。お父さんはまた抱き寄せた。

「だったらずっと待たなくちゃ、待つと言うことは相手を信じると言うことだからね」

「信じる?」

「信じていればきっと来てくれるからね」

何かいい加減なことを言われているような気がしつつも、みどりは優しいお父さんの手を握っていた。

もう暗くなるから部屋に入りましょうとお母さんが即すと右手をお父さん、左手をお母さんが握ってくれた。

もう猫のことは忘れて久しぶり揃ったお父さんとお母さんに挟まれてみどりはご機嫌だった。

その時小さな鳴き声が聞こえてみどりを振り向かせた。

「猫さん」

何事もなかったように猫はまた何時もの様に塀の上に居た。

背筋をピンと伸ばして遠くの景色に向かって佇む。

「よかった」

何処にも行かなくて、また自分の目の前に猫が戻ってきてくれて良かったと無邪気にみどりは喜んだ。

「お父さん肩車して」

分かったと直ぐにみどりを乗せて塀に近づく。大丈夫とお母さんは心配そうに見守る中、みどりは猫に向かって手を伸ばした。猫はたいして暴れもせずに、みどりの腕の中に収まった。

「見つけた」

もう逃げないでねとお願いするようにみどりは猫に抱きついた。

「みどりが見つけたんだよ、お父さん。生きてるって見つけた」

「はは、シュレイディンガーの猫だね」

「ディンガー?」

「観測者が状態を決定するってヤツだよ」

お父さんは時々難しい事を言う、みどりは何だかそう言うときは馬鹿にされたみたいで嫌いなのだが。妙に言葉の語感が気に入った。

「ディンガーさん! この子ディンガーって言う名前なの?」

「はは、なかなか格好いい名前だ」

喜ぶ二人を置いてお母さんはご飯の準備に台所に行った、ディンガーという名前をもらった猫は少しめんどくさそうに鳴き声を上げたが満更でもなさそうだった。

その日みどりは遠くに輝く海を見てまた満足した。一人で見るよりこうやってお父さんやディンガーさんと見る海の方がきれいなのは何でだろうと思いながら、腕の中にいるディンガーさんの瞳を見ると、本当に嬉しそうな自分が写っていた。


再びみどりが目を開けると海が見えた、どんよりとした空に薄暗い色が落ちた海が広がる。あれが思い出の中で輝く金色の海と同じだと思うと毎度の事ながら不思議に思う。

(ディンガーさん・・・・・・今日は久しぶりにお父さんとお母さんに会えるよ)

嬉しくなさそうにみどりは再び目を閉じた。

「今日は早そうかい?」

「いえ、まだ眠くないです」

そうかと医者はアクセルを踏み込んで先へと急いだ。



次の日、拓也の部屋には強烈な陽射しが差し込んだ。

今日から夏が始まりますと挨拶するような、この部屋に引っ越してきて初めて見る色合いだった。何もかもハッキリと映し出す強烈な光、エアコンを付けずにまた窓を開けて潮風の臭いを嗅いだ。

「掃除しないとなあ」

拓也の体は自然にテラスへと出た。バケツに水を汲んで雑巾を絞る、ボロボロの雑巾で普通に掃除し始めた。昨日、あんな事があっても今日掃除しなければまた汚れる。当たり前だが、世界は何があっても人を放って置いてはくれない。

手を振りながら窓ガラスを拭く、写り込む自分の情けない顔を見ながらも拓也が思い出すのは昨日のみどりの表情だった。

(なんで彼女は怒っていたのだろう)

その理由が拓也には知りたかった。確かに感情豊かな子だから猫が死んでも、ましてやずっと一緒にいた猫だったら泣いたりしても可笑しくないと思った。

けど横にいて感じたのは怒りだった、何か理不尽な思いに彼女は駆り立てられていた。

本当に考えれば考えるほど不思議な少女だと思った。何処かもう少し生活の臭いが感じられない子だと思っていたが、昨日の一件でその印象を更に強くした。

会って話がしたい。

今度は素直にそう思っても、拓也には彼女と連絡を取る手段が無かった。今時携帯電話も持っていないみどりとどうやって連絡を取ればいいのか?

結局考えても仕方がないことで、拓也にはせめて部屋を掃除して待つ以外方法が無かった。

ただ掃除していても心は晴れない。ディンガーさんが来ない自分の部屋に、彼女が訪れる理由があるのだろうか?

ネガティブな事ばかり考えていると、手が動くスピードが直ぐに遅くなる。慌てて早く動かしても、直ぐにまた遅くなる。さっきからそんなことばかり繰り返している自分はさぞ無様なんだろうなあと写り込む姿を見て笑った。

「なにやってんの?」

突然横に黒のワンピースを着たみどりが座り込んでいた。幽霊のようにいつの間にか、さっきまで考えていた人物が横にいて拓也は素直に驚いた。

「えっ何で此所に?」

「なんかドア飽きっぱなしだったからベルも鳴らさないで入っちゃった」

風が通ると思って玄関は開けっ放しだった。それにしても拓也の心配をあっさりと無視して、みどりは再び拓也の部屋を訪れた。

「まるで幽霊でも見たみたい」

拓也の驚きぶりをみどりは面白そうにからかった。拓也は拓也でからかわれた事より、嬉しそうに笑うみどりの笑顔に気を取られた。昨日、消え入りそうな儚げな表情を浮かべていた女の子は、天気そのままに明るい笑顔で自分の顔を覗き込んでいる。

「いや、その」

聞きたい事は山ほどあったハズだった、でもいざ明るい表情を浮かべるみどりの前に立つと拓也は口をつぐんでしまう。別の誰かが目の前に立っている、そんな気持ちになった。

「何か聞きたいんですか?」

そんな拓也を察したのか、みどりは助け船を出す。

「そりゃあまあ・・・・・・色々と」

何から喋って良いのか分からずにぐるぐると頭の中を何かが暴れる。

「昨日は・・・・・・あの後どうしたの?」

「家に帰っただけです」

即答を聞いてそうと拓也は納得した。

「あの車を運転していた人は?」

「私の主治医で小野田さんって言います」

「主治医?」

やっぱり何かの病気に掛かっているのだろうか、みどりを見ていると、とても病気に掛かっているようには見えない。まだ不摂生な自分の方が何か病気を持っているような気がする。

「他にも聞きたいこと沢山あります?」

あるよねと申し訳なさそうにみどりは拓也の顔を覗き込む。

「ごめん、沢山あるんだけどなんかどう聞いたらいいのか・・・・・・」

「じゃあ少し外歩きませんか?」

みどりは明るく拓也を外に誘う。何処にと言う拓也の問いにみどりは外に広がる海を指さした。


連れ出されるまま拓也がみどりについて来たのは昨日の海岸だった。昨日ディンガーが亡くなっていた海岸だ。

遊泳禁止の小さな海岸、散歩するには確かに丁度良い長さ。歩いていると嫌でも昨日のことを思い出す。

みどりが先を行って拓也が後に続いた。

拓也はみどりの背中を見ながら考える。やっぱり聞かなければ行けない事は一つだけなのだ。

「ねえ八島さん・・・・・・一つだけにする質問」

何ですかとみどりは澄ました表情で振りかえる。

「昨日は何に対して怒っていたの?」

「怒ってた?」

「僕にはそう見えた」

私が? っとみどりは自分を指さす。

「ディンガーさんを抱いているときの君は確かに怒ってた」

立ち止まってみどりは何処か恥ずかしそうに髪を弄る。

「眉間に皺を寄せて怒ってたけど・・・・・・覚えてない?」

照れながらみどりは頷いた。

「いや本当に君の怒った顔初めて見たというか」

目の前の俯き加減で微笑むみどりを見ながら、拓也は不思議なものを見るように困惑する。やはり昨日の彼女と今目の前にいる彼女は違う人間ではないかと。

光と闇、風と雨、黒い海岸と焼けた砂、何もかもが昨日と違う。

「やっぱり変わってますね拓也さんは」

改めて言われても実感はわかなかった、それよりもみどりの方が変わっている。

「小野田さんの事とか聞かないんですか?」

「なんで」

「ちょっと急すぎたでしょ?」

「別に、不愉快な思いはしてないよ」

これくらいの嘘はついても良いだろうと、拓也は思った。

「御免なさい質問をはぶらかしちゃった?」

「いや、話したくないなら・・・・・・」

「本当に優しいね拓也さんて、けどそれで納得できますか?」

まるで拓也を子供扱いしてみどりは話を進める。

「ごめんやっぱり聞きたいんだ理由を」

自分の臆病を引っ込めて拓也はみどりに昨日のことを聞いた。

「たぶん納得いかなかったんです。私の前から好きな人が消えていくのが」

みどりは淡々と語りはじめた。

「みんな私だけ残して消えていくんです。お父さんもお母さんもおじいちゃんも、ディンガーさんもこの世から居なくなっちゃった」

「君も両親が・・・・・・」

「言ったでしょ私は拓也さんと同じなんです、誰とも繋がりがないんです」

拓也はこのとき初めてみどりが自分にシンパシーを感じている理由を知った。

「私が中学に上がるときに事故で・・・・・・」

「今は何処で暮らしているの?」

「小野田さんの所に厄介になっているんです」

拓也はあの若い医者がみどりの保護者と言うことなのかと理解した。

「ディンガーさんがこっち側での最後の友達だったんです、私のことを昔から知っている最後の友達。私昔から小野田さんの家の病院に通ってて友達少ないんです。小学校、中学校も殆ど通えなかったし、高校は頑張って行ったけど、友達はあまり出来なかった」

二人とも向き合いながら立ち止まって話をする。

「だから、ディンガーさんが昨日死んでいるのを見て納得いかなかったんです」

みどりの声に怒気は無かった、何かを諦めている。

「また私は一人でこっちに置いてかれた気がするんです」

「置いて行かれた?」

「拓也さん私これから変な話をします」

「えっ?」

唐突な申し出に拓也は面食らった。

「たぶん拓也さんの好きな類の話です」

「どんな話?」

「死んでいるか死んでないかを決めるのは見た人が決めるって話しありましたよね?」

「シュレイディンガーの猫?」

「そうあの話、私お父さんに聞いたことがあったんです、昨日思い出しました。最初あの話を聞いたときに父は言ったんです、誰かが死んだか生きているかを決めるのは自分なんだって。自分が決めない限りその人は生きている、生きていることを信じて待つのは良いことだって」

「優しいお父さんだね」

「拓也さんみたいに」

彼女は自分に抱いた親近感は身の上だけでなく、自分に亡くなった父親を重ねていた。それに気が付いて拓也は少し寂しくなった。

「だから信じて待っていれば、居なくなってしまった人ともきっと会えると小さい頃は信じていたんです。けど、信じたって人は死んでいく。そして、流れ着くように海岸に集まるんです。」

拓也は昨日の話を思い出した。みどりが言った死んだらみんな来る場所、海岸があるという話。その話のことをみどりはしているのだと。

「私は何時も気が付くとその海岸で待ってるんです誰かが来るのを、でもそこに来た人はもう二度と他の場所では会えない。そこで会ったら最後なんです。私が海岸でその人に会うのはその人はもうこの世には居ないんです。だから来ないで欲しいと思っても、そこで会ってしまったんですディンガーさんに。だから、昨日は悔しかった、ディンガーさんだったらきっと海岸で会ってもこっちで生きていてくれると思ったのに」

何か熱に浮かされているかのように、みどりは昨日の理由を喋った。

「そう言う夢を見たの?」

「たとえ話です」

それにしてはやけにリアルだと思った。みどりのような少女がそこまで様々な死生観を取り入れた世界を作ることが出来るとは思わない。

「ディンガーさんも遠くに行ってしまった、この日が当たる海岸にはもう居ない」

確かに八島みどりの話した話は変な話だった。たぶん、初めて会って聞かされたら何一つ理解できないだろう。

ちょっと前の自分だったら絶対聞かないと拓也は思った。

それでも今は違った、昨日までのみどりの姿を見ていると彼女が語った怒った理由は何となく分かるような気がした。

言葉にすれば死に対する理不尽な思い、残された人間の悲しさなのだろう。猫でも、長い間一緒に居れば情が移る。ましてや飼い猫でない猫が死んでいるか生きているか何て毎日分かるわけがない、偶に会ってお互いの生死を確認しあう。

そう考えると毎日実家に居たときも、朝親に顔を合わせるだけだった。別に毎日生きているか死んでいるか何て確認しなかった。それでも、両親が死んだ後に実家に住んでいたとき、ふとドアを開けると両親が家で待っているような気がした。朝起きれば朝食を取っている親が居るような気がしたりもした。

けど、実際は遺影だったり墓だったりを見て、もうこの世には居ないのだと心に記憶を焼き付けていく。

(それが辛くて僕はこんな所に来てしまったんだろうなあ)

自分が他人よりどれだけ心が弱いのかを思い知らされたような気がした。けど、目の前の少女の方がもっと感受性が豊で儚げな印象を与える。何処かに何か大事なものを忘れてきた、そんな感じがした。

拓也にはどういう気持ちからみどりが自分にあんな話をしてきたのか分からない。

言葉を忘れて八島みどりを見続ける。海岸で女の子と二人っきりで居る事自体、もう少し甘い空気に浸っても良いはずだが、お互いが遠いところで会話しているようだった。

「変な話だったでしょ?」

「いや・・・・・・何となく分かった君が怒っていた理由」

「今の話で?」

「今の話だから・・・・・・」

会話を切るように拓也は動き出す。少しでも動いてないと間が持たなかった。みどりもそれに続く。短い海岸が終わってしまう前に、何かの回答を出さないと行けない。そう思って拓也は歩き出した。

ただ歩いたからと言って簡単には答えが出てこない。

自分も一人になりたいと思って此所に辿り着いたが、八島みどりの孤独の方が根が深いと思った。自分なんかと比べものにならないくらい、誰よりも明るい表情の下には濃い影のように

静かな孤独が合った。

「八島さん、何処か体悪いの?」

振り向きながら声を掛ける。

「昨日の小野田さんだっけ?多分凄く心配していたと思うんだけど」

不遜な態度のことは忘れて、直ぐに車を飛ばしてきたところだけ思い出してみどりに聞いた。

「ううん、別に悪いところは無い」

そうかと拓也は訝しんだ。

「本当に?」

みどりは言葉を噤む。

「八島さん、この後予定は?」

「予定?」

「何か用事ある?」

再び二人は立ち止まる。

「別に・・・・・・」

「じゃあ、これから昼ご飯の材料買いに行こうよ」

珍しく、いや初めて拓也がみどりを誘った。少しみどりは驚いた。

「ああ本当に用事がなければだよ、大丈夫?」

「ううん本当に用事はないけど」

みどりは手を振って嘘がないことを証明する。

「じゃあまたご飯食べよう」

拓也は自然に右手が出た。とりあえず答えが出ないのなら、次に伸ばしたかった。次に伸ばしたければ、次会う約束を、理由を、場所を作らなければいけない。

今までの拓也だったら多分手なんか差し出さなかっただろう、けど今だったら付き合う時間がある。まじめな拓也は仕事も人付き合いも手が抜けないのだ、だからどちらかしか選択できない。

今はその余裕がある。

「僕らはまだ死んじゃいない、ご飯食べて生きるしかない」

みどりは一瞬手を胸元に当てて躊躇した。それでも直ぐに差し出された手に触れた。拓也の手に自分の小さな手が収まると拓也それを強く握った。

少し痛いと思ったが懐かしい感じがした。昔、こうやって手を引っ張ってもらったことがある。

(ああお父さんか)

また拓也に父を重ねている自分に気が付いて寂しくなる。何だか急に自分が弱くなったような気がした。ディンガーさんの居ない寂しさを、拓也に預けているようだった。

(女の子の手ってこんなに柔らかかったっけ?)

一方拓也は自分で誘っておいて、握った手の柔らかさや小ささに驚いていた。

ぎこちないカップルの歩みは端から見て面白く、お互いが下を向いて歩いている。だが直ぐに慣れて面白そうに前を向くみどりとは対照的に拓也はやけに真剣な目付きで下を向く。

こんなんで良いのかと疑問が浮かんでは、後ろを振り向くと付いてくるみどりの笑顔に拓也は救われた。

この選択は間違ってなかったとそのたびに嬉しくなるが、そんな幸福は一つの偶然が簡単に変えてしまう。

みどりが一瞬はっとした表情を浮かべ、拓也の手を振りほどいた。

何だろうとみどりの驚いた表情の視線の先にある者を見る。

「小島君・・・・・・」

「みどり?」

みどりと同い年位の少年が目の前に現れて名前で呼んだ。

「久しぶり」

少し日に焼けた健康的な肌をした少年がみどりに声を掛けるとみどりは少し後ずさりながら返事をした。

「こんな所で何やってんの?」

「散歩」

ふーんと少年は少し鼻を鳴らした後、わざとらしく拓也を指さした。

「誰?」

その質問に少しみどりは戸惑った。その戸惑った態度を見て少年は更に何かを鼻に掛けた。

「今付き合ってるヤツ?」

「べつにそういう関係じゃない」

拓也が語気を強くして言うと、少年は更に笑顔をにやつかせた。

「変わったな趣味」

拓也を一瞥して評した後、少年は真っ直ぐにみどりを見据える。何処かバツが悪そうにみどりは視線をそらす。

「久しぶりにあったのに何も挨拶もなしかよ」

背が高く、明らかにスポーツを嗜む健康そうな少年とみどりの間に拓也が立つ。日に焼けた健康的な肌と、引きこもり体質の白い肌が対照的に立ち並ぶ。

「あんた、歳は幾つだ?」

「ニジュウハチ」

「犯罪だろ? 十歳も年下の子と付き合うなんて」

「だから付き合うとかそんな仲じゃ」

「さっき手を握って歩いていたじゃん」

手を握ったから付き合っているって事でもないだろう?と反論しようとしたが、その反論も別に嬉しくない事に拓也は気が付いた。

どうあれみどりが自分のことをどう見てくれているかは目下の不安なのだ。

「みどりが誰かと二人っきりで居ることなんか、それ以外考えられないじゃないか」

「君は一体なんなんだ」

気が付かないのかよといった感じで少年は肩を竦める。

「元カレだよ」

疑問符が思いっきり顔に出ている拓也にもう一度少年は念を押す。

「モ・ト・カ・レ、みどりの高校時代付き合ってたんだよ俺?」

「君が八島さんと?」

八島さんと聞いて、更に小島直樹はおもしろがって拓也を見た。

「なんだよ、やっぱり三ヶ月で終わった元カレの話なんかしないのかよ?」

まあ好きこのんでする話ではないと拓也は思った。それでも小島は無視されたことに腹を立てるようにみどりを追いつめる。

「僕もそう言う話は聞きたくない」

「みどりは付き合っても何にも面白くないぜ、何もやらしてくれないぜ」

小島が言った瞬間拓也は自分でも信じられないくらい我を忘れて小島に飛びかかった。生まれて初めてかもしれないが、自分から喧嘩を仕掛けた。

そして初めてだったので飛びかかった後どうして良いのか分からなかった。直ぐに小島の拳が喧嘩なれしているのか、的確に拓也の顔を捉える。

糸の切れた操り人形のように膝から拓也は崩れた。

一瞬身を退いたみどりはハッとして倒れた拓也に膝を付いて寄り添った。

「弱え」

大きな小島が見下ろすように二人の前に立つ。みどりが見上げて覗き込んだ表情は本当に寂しそうだった。

「小島君・・・・・・」

「なんでそんな弱いヤツと付き合ってるんだよ」

「私の次に付き合った子は?」

「直ぐに別れたよ・・・・・・」

そう、と静かにみどりはため息をついた。

「運んで」

直ぐに立ち上がって小島に毅然とした態度で立ち並ぶ。

「なんで俺が!」

「貴方のせいでしょ拓也さんが倒れているのは!」

「先に手を出したのはそっちだぜ!」

先に挑発したのは貴方でしょ? 眼光鋭くみどりは小島に釘を刺した。蛇に睨まれた蛙のように小島は何も反論が出来なかった。

伸びている拓也を抱き起こして肩に担ぐ。ひょろいなあと体を抱きかかえながら、小島は次の指示を待った。

「あそこのベンチが在るところに」

みどりは遠くにある道路脇のベンチを指した。

「チキショウ」

悪態を付きながらも、小島は拓也を背負いながら先に歩くみどりの後に続いた。

「まったくコイツいったい誰なんだよ?」

「知り合い」

簡単にみどりは拓也との関係を称した。

「珍しいな、お前が友達作るなんて」

「気が付いたら友達になってた」

ふーんと拓也を引きずりながら、小島は隣で前を向いて歩くみどりを見た。何処か不思議そうに考えていた。

「ディンガーさん覚えてる?」

「ああ、みどりの飼い猫だろ?」

「飼い猫じゃない」

「あれだけ一緒にいれば飼い猫も同然だ」

何時も学校の帰りに寄った公園、少し高台の所にあるハヤシにかこまれたその場所で良くみどりはディンガーさんと言う猫を見つけては、抱きかかえて楽しそうに笑っていた。

「ディンガーさんが昨日亡くなったの」

「死んだのか?」

小さくみどりが頷くと、小島はバツが悪そうな顔をした。

「そうか、ごめん・・・・・・」

何で謝るのか分からないが、小島はしまったという表情をした。別に小島君が何をした訳じゃないのにとみどりは苦笑した。別れてからお互い意識して話す機会がなかったが、小島の素直な所は変わっていなかったのでみどりは微笑んだ。

「それまで面倒見てくれたのが拓也さんだったの、拓也さんのお家にディンガーさんがお邪魔してた」

「へえ、あの猫がみどり以外の人間に懐くなんてなあ」

小島は自分が何度抱きかかえようとしても、直ぐ逃げる憎たらしい姿を思い出した。別に手元から逃げる度にみどりが可笑しいと笑うので、実際はそんなに恨みがあるわけではない。あの猫とみどりは小島にとって大事な思い出だった。

急に昔話に話が進んだかと思えば、それ以上みどりは黙ってしまった。小島も声を掛けそびれベンチまで歩く。

長いベンチに寝そべるように拓也を降ろすと頭の方にみどり、足下に小島は立つ。

心配そうに拓也の顔を覗き込むみどりを見ていると小島は頭を掻き始めた。

「小島君」

みどりに声を掛けられて、ハッとして振り向く。

(ああこの顔だ・・・・・・)

少し不安そうな確認を含んだ笑顔でみどりが自分を見ている。つい一年前つきあい始めた頃の笑顔だ。何時もみどりは自分を覗き込んでいたような気がした。

「なんだよ」

「運んでくれてありがとう」

小島は運べって言ったのはお前だろと言う悪態を飲み込んだ。みどりにありがとうと言われて悪い気はしなかったからだ。

「なあ」

と声を掛けて少し拓也の足を退けて小島もベンチに腰を下ろした。伸びた人間一人挟んだ微妙な距離でみどりに話しかける。

「どうしてた、学校卒業してから」

「うーん、何もしてなかった」

大学に行くわけでもなく、働くわけでもなく、将来をどうするという決定が何もない彼女を小島は不思議そうに見た。

「本当に?」

「うん、毎日この辺を散歩してご飯食べて寝るだけ」

「楽しいのか?」

「楽しいよ」

みどりは即答した。

「俺と付き合っていた頃よりも?」

今度はみどりは即答できなかった。小島は意地悪な事を聞いているのだろうと思った。

「なんか学校に通っていたときは不安があったの、ほら私って変わっているから」

「病気の事なら誰も・・・・・・気にしてなかった」

休みがちで修学旅行やらのイベントに何も参加しない彼女を訝しむ奴らがクラスに居たのは事実だ、特に同じ女子には不人気だった。

「他の人がどうこうじゃなくて、沢山の人を見ているとどうしても不安になるの。私と違う人達を見ていると自分は何で違うんだろうとか考えちゃって。今は一人の時間が多いから、そういうこと考えなくて済むから楽なの」

凄く寂しいことだが事実だった。

「コイツは?」

小島は横で寝そべる拓也を見る。

「拓也さんも一人なんだ、私と同じ」

「だから気が合う」

「気が合うというか・・・・・・一緒にいて苦痛じゃないって感じ」

「俺の時は辛かったの?」

「そんなことなかった、本当に楽しかったよ小島君と毎日一緒に帰ってた時は」

「じゃあ何で・・・・・・」

二人ともお互いに向き合う。半年以上前はお互い肩を寄せ合っていたのに今は遠くに居る。小島は都内で一人暮らしの学生生活を過ごしている。今日は偶々親に呼ばれて実家に帰ってきた。

そして、直ぐにみどりの影を追うように散歩をした。そして今目の前に別れた彼女が居る。見つけるために捜したのに、いざ目の前に居ると掛ける言葉が見つからなかった。

「俺はあの時・・・・・・」

「あれっ、ここは?」

小島が何か言いかけたとき、拓也が目を覚ました。

「大丈夫ですか拓也さん?」

「ああ、ちょっとボーっとするかな?」

心配そうに拓也の顔を覗き込むみどりを見て、小島は掛けようと思った言葉を飲み込む。

「あれ位で伸びるなんてホント弱いヤツ」

悪態を付いて小島は席を立った。

「そんなんでみどりとつきあえるのかよ?」

悪態付く小島にみどりが目を向けると、その顔は何処か安心した様な優しい顔だった。

「じゃあな、もう大丈夫だろ?」

「小島君」

「俺もう少し実家にいるけど・・・・・・何でもない、元気でな」

多分もうみどりは自分に会いに来ないという事は分かっていた。自分がもう少しこの近くにいると告げても意味がないことくらい分かっているのに、どうしても言ってしまった。

照れ隠しのため小島は振り向かずにそのまま帰った。

「追っかけなくて良いの?」

余計なことを聞いているのを承知で拓也はみどりに聞いた。

「うん、良い」

寂しそうにみどりが微笑む。

「あー多分初めてだなあ人に殴られたの」

人の胸ぐらを掴んだのも初めてなら、殴られたのも初めてだった。体全体がビックリして気を失った感じだった。

「大丈夫」

うん、と言いながら上体を起こそうとしたが、やはり目眩みたいなモノを覚えてまた横になった。瞼を閉じても昼の垂直に振り下ろされた日光が体全体に注いできて熱かった。

「水か何か買って来るね」

「いいよ、それより・・・・・・」

手で日光を遮りながら、呻くように拓也は呟く。

「アイツ、多分君のことが心配だったんだろうね」

拓也はさっきの小島の顔を思い出しながらそう結論付けた。

「殴られたのに他人の心配しているの?」

すこし呆れながらみどりは拓也の優しさに苦笑する。

「君のことやっぱり心配だったんだろう。だから最初に走って僕らの所に来た」

みどりも少し息が荒かったのを思い出した。道路の上から自分たちを見つけて直ぐに駆けてきたのだろうか?

「良いヤツなんだろうね?」

拓也さんほど人が良い人は居ないけどねとみどりは思った。この人は本当に他人の事はよく見えているのだと感心した。

「拓也さんは誰かと付き合ってたことあるんですか?」

「唐突だね」

「私ばっかり聞かれるのも不公平でしょ?」

妙な説得力を感じてか、それともボーッとする頭のせいか、みどりが思っていたより拓也は素直に喋り始めた。

「大学の時一回だけ、付き合ってと言われて付き合ったことあるよ。三ヶ月くらいだったかな?」

「三ヶ月で別れたんですか?」

「ああ、相手の子がねツマラナイから別れようって言って来た」

もう数年前の事になるのかと考えると、拓也は時間がたったなあと思った。何もかもが初めてであっという間の三ヶ月だった。自分なりに気を遣ったつもりだが、相手にはどうも伝わらなかったらしい。

「別れた事、後悔してます?」

こっちを向いているのか分からない、みどりの声だけが拓也に届く。

「後悔はしている、未練はないけど」

ふふっと笑いが零れた。また変な事を言ったかなあと拓也は目を開ける。

「後悔してるけど未練はないかあ、さすが拓也さんだなあ」

拓也にしては何と前向きなコメントだろうとみどりは絶賛した。

「後悔はしてるんだよね、相手を傷つけてしまったのかもしれないって」

自分が何か至らなかった事があるから別れてと言われたんだろうと、自問自答を繰り返した事を拓也は思い出した。出会ってから、つきあい始めてから彼女との一日一日を思い出しては、もっとこうすればと思うことはあった。

「でも未練はないんですか?」

「格好いいこと言ってるだけかな」

けどあの時は未練がましく寄りを戻そうとは考なかった。

「けど良いなあ未練が無いって」

「何か未練があったの?」

拓也は失礼だと思いつつも、小島との関係を聞いてみた。ううんとみどりは首を振る。

「私も後悔はしてます、酷いことしたのかなあって。別れようっていったのは私なんです、私から離れたんです。こんな事になるんだったら最初から付き合わなければいいのにって何度も後悔した」

拓也はみどりの話を聞いて再び起きあがった。今度は特に何もなく、すんなりと隣に座るみどりの顔が覗けた。

「最初に付き合って言ったのは?」

「小島君から」

そうかと拓也は何となく納得した。

「けど小島君にとって八島さんと付き合ってた頃って楽しかった方が多かったんじゃないかな?」

「そうだったら良いけど」

自信がなさそうにみどりは下を向いた。

「そうだよ、君を見ても楽しいことしか思い出せないんだ。じゃなきゃ声は掛けてこないよ」

「別れても?」

「たった一度のお別れが、沢山あった楽しかった事を帳消しにするとは思いたくない」

拓也は背中にある海岸の事を思い出した。そうだ、昨日ここでも別れがあったと。

「最初の彼女と別れた時、正直何か軽くなったような気がするんだ。次に進む浮力を得たと言うか、ああ前に進んでいるんだなあって思った」

「凄いね、私はどうしても立ち止まってしまう」

「そういうときは別のモノに引っ張ってもらうのが一番楽なんだけどね・・・・・・僕の場合は仕事だった」

寂しいかもしれないが事実だった。没頭できるモノがあれば人間は生きていける。

「これからも私は沢山の楽しい事と哀しい事を繰り返していくのかな?」

「そうだね」

拓也は少し残酷かなあと思いつつも真実を口にした。若いみどりには説教臭い話だろうが、二十八年間生きた実感としては世の中そういうモノらしいということは分かってきたつもりだ。

「楽しいことが多ければいいけど、みどりちゃんは何が一番楽しい?」

うーんと足をぶらつかせながらみどりは考えた。

「ああ、私のことみどりって呼んだ!」

指を指してみどりは声を上げた。

「えっ!」

初めて拓也は無意識にみどりを名前で呼んだ。

「謝らないでくださいね、嬉しいんだから」

謝ろうとしていた拓也を制止して、みどりは立ち上がって喜んだ。

「今ひとつ楽しかったなあ」

裾を翻してみどりは笑う。

「そんな事で?」

拓也はバツが悪そうに下を向いた。

「なんでかは分からないけど、今楽しかった」

雲一つ無い快晴の下、みどりの笑顔は輝きを増したようだった。

全く、昨日と何もかもが違う。雲の数、波の音、太陽の光、そして目の前にいる八島みどりの表情。全てが喜怒哀楽を持って様々な姿で拓也の前を通り過ぎていく。

「拓也さん」

みどりは海岸の方を見る、遠くに見える海を見ながら何かを思い出している。拓也にはそれがディンガーさんの事か、小島の事か分からなかった。ただ、彼女が納得して立ち上がったのはよく分かった。

「家まで一人で帰れます?」

「ああ、大丈夫だけど・・・・・・」

「じゃあ私お昼の材料買いにスーパーに行って来ます」

「僕も行くよ」

「先に行って休んでて下さい、まだ心配だから」

分かりましたと素直に拓也は頭を下げると、みどりはまた笑った。

「じゃあ行きましょう」

言葉と共にみどりは手を差し出した。

「えっ?」

さっきは自分から握ったのに今度は駄目なのと悪戯っぽくみどりは微笑む。海岸の勢いは何処へ行ったのか、拓也はおっかなびっくりに手を出した。

出された手を強く握ってみどりは歩き始めた、拓也も釣られて歩き出す。

途中まで手を繋いで歩いた。今度は肩を並べて、何を食べようかとあれこれ二人で考えながら家とスーパーの途中まで歩いた。

そしてみどりはスーパーへ、拓也は家へと戻った。

家に戻った拓也は一目散に、少し埃っぽかった家を掃除し始めた。

みどりが家に来る間に完璧に掃除しておかなければと、忙しなく体を動かす。何時もの拓也だったら本当に家に来るのかと心配しながら掃除していただろうが、今日だけはそんな不安は微塵も無かった。

「ああ、休んでてって言ったのに」

程なくスーパーの袋を下げてみどりが部屋に帰ってくる。

「お帰りなさい」

「ただいま」

簡単な挨拶の後直ぐにみどりの料理は始まった。

拓也が何か手伝おうかと言うと、大丈夫だから座っててと釘を刺された。

テーブルに腰を下ろすと、開けた窓から涼しい風が入ってきた。一緒に砂も運んでくるのだが、この際どうでも良かった。昨日の湿りきった風とは違う感触を楽しんだ。

(楽しい事なんて簡単に沢山出てくるもんだなあ)

何かさっきから自分の周りには楽しいことしかないなあと少し上せていると拓也は思った、これは殴られたときの後遺症かと思ったりもした。

食事をしているときもそうで、みどりが時々思い出したように楽しそうに喋る。拓也はそれを落ち着いてよく聞く事が出来た、何時もだったら緊張して口にモノが通らないときもあったが。今日に限ってそんな事は無かった。

何もかもが楽しいなあと、食べ終わったら直ぐに眠くなって横になった。

(そりゃそうか、お腹いっぱいの食事をして眠くなったら寝ればいいんだもんな)

これ以上の楽しい事なんて、拓也には思い付かなかった。

仕事が終わった後の充実感とも違う、何だかただ不安が無くて落ち着いている感じだけが身の回りに漂っていた。

「大丈夫、疲れたの?」

みどりが心配そうに顔を覗き込んできた。

「大丈夫、今何の不満も不安もないから」

そう言って拓也は目を閉じた。みどりが居るのに失礼かなと思ったが、どうにも心地良く睡魔には勝てなかった。

(あっそうだ)

今日はあと一つやることが残っている。

寝てる場合ではないなあと目を開けて、体を起こそうと思った。しかし、体はもう言うことを聞いてくれなかった。

手が熱い。

日の光や燃える時の熱とは違う、緩やかな温もりを手に感じた。

右手に添えられた手の感触が暖かい、そうか心地良い温もりの元はこれかと拓也は悟った。目を閉じて居るが、みどりが横で自分を見取ってくれているのを感じて少し恥ずかしかった。大事なこと伝えてないと、懺悔したい気持ちになりながら拓也は寝息を立てる。

猫が鳴いているような気がしたが、その可能性を否定しながら目を開けるとそこには何もなかった。

窓からは大きな暗闇が迫っていて、起きても真っ暗だった。

「やばいなあ、すっかり寝ちゃった」

いつの間にか掛かっていたタオルケットの温もりを感じると、拓也はもう一度眠りに付こうと決意した。

しかし直ぐに一つだけ起きたらやろうとしたことを思い出した。

右手を顔の前に出して眺めてみる。恥ずかしいなあと分かっていても、手を何度か握り直してみどりの手の温かさを思い出す。

「告白できなかったなあ」

付き合ってと自分から起きたら言おうと拓也は決めていた。

しかし、みどりはもう帰ってしまった。

「明日で良いか?」

そう考えると体は直ぐに睡眠を欲した。また、暗闇から暗闇へと落ちる。きっと明るくなる頃には自分はみどりと一緒に居る、また遭えるという確信を抱いて拓也は眠りに落ちていった。

次の日、拓也の部屋にみどりは来なかった。


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