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閑話 枢機卿と修道女見習い2

「……はて、なんでしょうか、リン」


 リンの呼び声に反応し、ゆっくりと顔を向けたその老人の表情はひどく穏やかで、まるでステイル王国における最大級の修道院の院長にはとてもではないが見えない。

 どこか田舎に領地を持ち、その持つもの全てを息子に譲って隠居した貴族のような品を漂わせ、しかしそれでも在りし日の輝きをその瞳の奥に隠しているような、そんな印象だ。

 見つめられているだけで、心の波は凪となり、全てを見抜かれているような気分になるが、リンはそれが心地よく、また落ち着いていく。

 リンは言う。


「院長さま。今回の旅の事で……院長さまのお付きの者が、わたしのような子供一人で本当にいいのでしょうか? 他にももっと、しっかりとした人がいたのではないでしょうか……」


 それは、今回、リンがアルトラスについていくように言われてから、ずっと感じていた疑問であった。

 本来、修道院の院長がどこかへ行くとき、お付きの者としてついていくのは修道院でも特に高位のものであるのが普通だ。

 当然、それは修道僧、修道女の中でも特に優秀な者や、古株の者が選ばれるのが普通で、これまではずっとそうだった。

 しかし、今回、アルトラスはなぜか、リンを指名し、それ以外の者がついてくることを認めなかった。

 これは極めて異例のことで、リンはかなり困惑したのを覚えている。

 不思議なことに、修道僧、修道女たちは素直に納得して、リンに旅路で必要になるだろう常識や作法について叩き込んでくれたが、リンと同じ立場の見習いたちの中にはあからさまに嫉妬心をぶつけてくる者すらいたくらいだ。

 正直言って、困ったのは言うまでもない。

 もともと、悪童の中で生活してきたリンにとって、修道院で小さなころから生活してきた見習いたちの当てつけ程度は大したものではない、というかむしろ可愛らしくすら思ってしまうのでそれは構わないのだが、神は教えている。

 荒んだ行いをすれば、その者の心すらも荒んでしまう、と。

 実際、リンの心はスラムでの生活でかなり荒んでいた。

 かろうじて良心が残っていたのは、共に生活した仲間たちがいたからに過ぎない。

 だからこそ、思うのは、自分が修道僧、修道女見習いたちの諍いの原因になり、その結果として彼らの心が荒れてしまうのは、よき行いではない、ということだ。

 リンが望むのは、修道院の平穏と静謐な心で神に祈れる環境であり、そして修道院にいる者たちが善きものであるということ。

 そのために、自分の、アルトラスとの同道が問題になっていると言うのなら、誰かに譲っても全く構わなかった。

 それなのに……。


 しかし、そんなリンの気持ちをアルトラスはよく理解していたようである。

 アルトラスはリンに向かって、口を開く。


「たしかに、リンにはしっかり説明していませんでしたね。修道僧、修道女たちにはすでに詳しく伝えていたものですから、失念していました……そうです、リン。あなたにはよくよく、説明しなければならないでしょう……」


 そう言ったアルトラスの表情は、いつもとは異なり、少し、難しそうなものだった。

 リンに、何をどう、伝えたらいいものか、と悩んでいるのだろうが、アルトラスは果断な人だった。

 嘘偽りの混じらない、いつも通りの口調で、アルトラスは続ける。


「私はベルグリット大修道院の院長であり、かつ枢機卿です。そして、リン、あなたは修道女見習い……ですから、形式の上では、貴女は私の付き添い、ということになります。それは分かりますね?」


「……はい。よく存じております」


 アルトラスの言葉に、何を当たり前のことを言うのか、とリンが思ったことを、アルトラスは容易に見抜いたのだろう。

 難しそうな表情をふっと緩め、微笑む。

 それから、


「しかし、実際にはそうではありません」


 と、驚くことを言った。

 リンが付き添いでないと言うのなら、何だと言うのか。

 少なくとも、アーレム聖国に行く理由は、リンにはないはずだ。

 あそこは、教会の中でも特に高位の者しか入ることを許されない、聖地だ。

 付き添い、という形であるのならばリンのような立場の者にも入国が可能であるが、そうでないならほぼ、可能性はない。

 けれど、アルトラスはリンがその例外に近い存在であることを告げている。


「訳が分からない、という顔ですね? そうでしょう。よく、分かります。私も若いころに、私の師に当たる人物に似たようなことを言われれば、同じような表情になり、同じような気持ちになったことでしょう」


「では、どうして……」


 困惑するリンに、アルトラスは、


「……ライラに関係することです、と言えばなんとなく想像がつくでしょう?」


 そう言った。

 これにリンはすとん、と納得する気持ちと共に、おそろしさを感じた。

 ライラは、つい先日、友人となった他の修道院の少女だ。

 高位の貴族の生まれであり、特別な力を持つ、美しい少女。

 それなのになぜかひどく自信がなく、自らを愚かだと蔑み、また美しくもない、と思っているのが不思議だった。

 リンからすれば、すべてを持っているように見えるのに、そのすべてが透明な壊れやすいもので出来ていて、しかもすでにすべてを落としてしまったとでも覆っているかのような、儚げな少女。

 だから興味を持ったのかもしれない。

 そして沢山話し、近づいて分かったのは、ライラという少女が、他の何者にも並べられないほど美しい少女だ、ということだった。

 見た目が、という話ではない。

 魂の形の話だ。

 彼女は、ありとあらゆるものに慈愛を持ち、すべてを受け入れ、優しくすることの出来る人だった。

 見た目も……よく見なければあまり目立たないが、目鼻立ちも整っていて、髪も綺麗だった。

 肌の滑らかさも羨ましいほどで……なるほど、魔法、という特別な力が宿るのもよくわかるような、そんな人だった。

 そんな彼女が自らの属する修道院に帰る前に残していったもの。

 それは、不思議な木人形である。

 リンとしては、ライラが魔法の力で作り出した奇妙な存在というくらいの認識だったが、アルトラスが言うにはおそろしく珍しい、古木霊エントと呼ばれる古い精霊なのだと言うことだった。

 その価値は、王都の一等地に家が建つほどで……。

 そんなものを何の気なしに生み出してしまえる特別な少女、ライラ。

 彼女に関することで、というなら、リンが呼ばれる理由も理解できた。

 そして、リンのアーレム聖国での振る舞いで、ライラの立場が色々と変わってしまうかもしれないことにも考えが及び……怖くなった。

 リンにとって、ライラは短い付き合いしかしていないが、かけがえのない、大事な友達だという認識だった。

 そんな彼女のこれからを自分が左右してしまうかもしれないと考えると、その恐ろしさは、ぽっかりと空いた穴の手前、崖の一番端に立たされているような気持だった。

 とてもそんなことは出来ない、というのではない。

 もしも、自分のせいでライラが酷い目にあったら、と思わずにはいられなかったのだ。


 そんなリンの頭に、アルトラスは手を優しくおいて言う。


「……申し訳なく思います。少し、脅かしすぎたかもしれませんが……それほど心配することはありません。何かがあっても、私があなたも、ライラも守ります。そのために必要なのが、今回の訪問なのです。リン……ライラのために、共に戦いましょう。私と貴女は、これからは同志です」


「ライラのために……」


 リンが何をするのか、アルトラスが何をしたいのかはまるで分からない。

 けれど、そう言ったアルトラスの瞳は真剣で、嘘はひとつもないようだった。

 だからリンは頷く。


「……はい。頑張ります。院長さま」


「いい返事です……おっと、そろそろ聖国が見えてきましたね」


 そう言ってアルトラスが窓の外を見ると、そこからは一つ二つどころではない数の尖塔が突き立っている街が見えて来た。

 

 ……あれが、アーレム聖国。


 リンは荘厳な景色に一瞬見とれながらも、しかし、足元がぐらつかないように、自分が何のためにここにいるのかを忘れないように、心を強く奮い立たせたのだった。


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