閑話 枢機卿と修道女見習い1
ごとり、ごとりと馬車が進んでいく。
ステイル王国の王都に存在するベルグリット大修道院、そこを後にしてから数日が過ぎた。
ベルグリット大修道院の修道女見習いである少女、リンは、隣に腰かける穏やかな雰囲気の老人の方へと顔を向け、何かを言おうと口を開く。
「……あの」
本来であれば、大修道院の修道院長であり、かつ教会の枢機卿でもあるアルトラス・ポラリスに直接話しかけることなど、一修道女見習いでしかないリンには許されないことであるし、実際、ベルグリット大修道院以外の場所では、修道院長に直接何かを尋ねる機会は修道女見習いには存在しない。
しかし、ベルグリット大修道院においては、アルトラス枢機卿はすべての修道僧、修道女、そしてその見習いたちと直接話をし、話しかけ、また話しかけられることを許している一風変わった人物であった。
見た目通りに穏やかな性格をしているアルトラスだが、しかし、その見識は高く、教会における地位もそれに見合って枢機卿を務めているほどだ。
それに、噂でしか聞いたことはないが、若いころは魔物や魔族相手にかなり暴れまわったらしく、絶対に怒らせてはならない、と先輩修道女に修道院に入るにあたって、一番最初に言われたのを覚えている。
修道院に入る方法は様々で、ライラのように実家で手におえないために修道院に押し込められる貴族の姫、というのもいるが、リンはもちろんそんなものではなかった。
リンは、修道院に来るまで、親から捨てられ、街で浮浪者として生きていた。
ステイル王国は治安のいい国であるが、それでもそう言った影の部分というのは拭うことはできない。
リンは、今よりも遥かに小さなころのことなので詳しくは覚えていないが、王都から遠い村から両親と共に王都にやってきて、そのまま置いていかれてそれっきりだった、ということは記憶がある。
アルトラスの推測によれば、リンの両親はおそらく食い詰めた村人であるだろう、ということだった。
リンが捨てられた時期は、かなりの飢饉が国中を襲っていて、食料もほとんどなく、多くの国民が餓死したという。
リンの両親は、そんな時期にあって、リンを養うことが出来なくなったために、王都まで連れて来たのではないか、ということだった。
そしてそれは必ずしも、無慈悲な心だけでなく、むしろ、王都であれば、孤児院や修道院が保護し、食べさせてくれるかもしれない、という期待もあったのだろうとも。
そんな説明をされ、さらに色々と記憶を深くさかのぼってみれば、確かに両親の身に付けているものはおそろしいほどの襤褸だったような気がするし、体もやせ細って骨と皮だけに近かったような記憶がある。
村にいたときも、食べ物はほとんどなく、そのない食べ物も、ほとんどリンに与えられていたとも。
両親の愛が、なかったわけではなかったとそれで理解した。
そして、それだけの飢餓状態にあったのなら、村まで帰れたとも考えにくい。
途中で死んだ可能性が高い、というところまで推測が立ってしまった。
アルトラスはそこまで語りはしなかったが、しかし同様の結論に至っていると言うことは話しぶりで分かった。
だから、リンは両親を責めようとは思わない。
極限状態で、なんとかリンを生きさせようとしたのだと、今は思っている。
その後、リンは両親の希望とは異なり、スラム街で悪童に保護され、スリやかっぱらいをしながら生きる羽目になったが、しかし命はつなげた。
そして、最後にリンのスリの手にかかったのが、今、隣にいる老人その人なのであった。
高価なものを奪おうとしたリンの手を掴んだ老人は、リンを突き出すことなく、修道院に連れていき、人の道や、神について、また世に存在する善なるものについて、押しつけでなく話した。
リンは、他人から道徳について教えられたことがなく、そのときに聞いた話がなぜか深く染み入り、そして修道院の説教に通うようになり……。
アルトラスから勧められ、修道女の道に入ることになった。
スラムの悪童たちからは裏切り者扱いされるかと思ったが、実際にはそんなことはなく、真っ当な道に戻れたことを喜んでくれた。
ただ、もう自分たちに関わってはならないとも言われた。
悪童たちはともかく、スラムの大人たちはリンを利用しようとするだろうから、と。
リンはそれが事実であることを、スラム暮らしの中でよく理解していた。
いつもずるがしこく、何かを他人から奪うことだけを考えて生きている。
それがスラムの大人たちで、リンたちからですら奪い取ろうとしていた。
それを、子供たちで固まって、自分たちの身を守ってきたのだ。
悪童たちの絆は強かった。
それだけに、リンの先行きを心配してくれたのだろう。
だから、そのときは頷いた。
けれど、今でも彼らとの付き合いは続いている。
誰にも秘密なのだが、アルトラスだけは察しているような気がしてならない。
以前、ひっそりと悪童たちのいるスラムへ行こうと襤褸に着替えて修道院の裏を歩いていたところ、話しかけられたのだ。
見た目も、動きも、すべてスラム街の住人らしくしていて、他の修道女や修道僧たちからは汚いもののように扱われて邪険にされたのに、アルトラスは何気ない声と表情で、
「……よく化けたものですね。気を付けるのですよ、リン」
と言って来たのだ。
あのときほど驚いたことはない。
そんなアルトラスだからこそ、リンは彼を深く信頼している。
だから彼のすることに疑いを持つことはないのだが、しかし今回のことについてはただ、不思議だった。
というのも、今回、リンはアルトラスに付き合って、大修道院を出て、教会本庁へと向かっているところだった。
教会本庁はステイル王国の外、アーレム聖国という国に存在しており、他のありとあらゆる権力から干渉されないと言われる。
というのも、多くの国においてその国王の権力は聖国の教皇から与えられるものであり、したがって攻撃するわけにはいかないからだ。
そもそも、アーレム聖国の領土はひどく狭く、大体ステイルの王都と同じくらいの大きさでしかない。
攻めて切り取る価値もない土地だ、というのが実際のところかもしれないが、ただ、その存在の価値は大きい。
教会という巨大宗教団体のすべてを差配できる権力は、世界中の人間の意識を左右できるというにほかならず、一国の王を越える権力があると言っても間違いではない。
そんな教会の中でも教皇に次いで地位の高い枢機卿であるアルトラス、彼は今、教皇や他の枢機卿に会うためにアーレムに向かっているわけだが、彼はリンをその付き添いに任命したのだ。
なぜ、自分が。
リンはそれについて不思議でたまらなく、その理由を尋ねたく思って数日が過ぎた。
しかし、ついに今日、たった今、我慢することが出来なくなって、口を開いたのだった……。