閑話 枢機卿と修道女見習い5
リンは街に出て、大通りを進む。
アーレム聖国は教会の街であるから、修道僧だけが住まう都市と思っていたが、こうして通りに出るとその考え方は間違っていることに気づく。
多くの店が並んでいる大通りを歩く人々は、確かに普通の町の通りよりも遥かに修道僧が多いが、それでも一般の街人もそれなりにいる。
商店を開いている者も、多くが一般人だ。
ただし、教会関係の物品……経典や聖具などを販売している店も多く、そう言った店の番をしている者は修道僧特有の衣裳を身に纏っている。
リンはそんな街中を、明るい気持ちで歩いていた。
もちろん、夜に行われると言う会合のことを考えると平静ではいられない。
教皇様と枢機卿様が一堂に集い、そこでライラのことについて話し合われるのだから、怖くてたまらない気分になってくる。
一体ライラはどのように扱われることになるのだろうかと。
ただし、アルトラス様は最悪な場合を考えてもひどい扱いになることない、と言っていた。
ライラは《魔法使い》であり、ただそれだけで教会にとって神聖で重要な存在であることは間違いないからだ。
しかし、ライラが今いる修道院――ルルラ修道院から引き離され、数々の仕事を任せられて非常に忙しくなってしまう、ということはありうるという。
アルトラスとしては、そのような事態はなるべく避けたい、と考えているようだった。
というのも、ライラにとって、ルルラ修道院と、その院長であるアン様は非常に大事な人であり、突然引き離すのは可哀想であるからだ。
とまず言い、その後に独り言のようにこう付け加えた。
「……心が安定していない者の行使する魔法は時として脅威になることもあります。ライラが心穏やかでいられる環境が大事なのです」
と。
その言葉の意味はタイミングを逸して尋ねることが出来なかったが、とにかく、ライラが穏やかでいられることが大事、という部分だけリンの心に残った。
そのために、リンもまた今日の会合では頑張るのだ……。
「……ええと……あれ? ここ、どこだっけ……」
色々な物事を考えながら道を歩いていたからだろう。
いつの間にか、リンは大通りから外れたところを歩いていた。
路地に入った記憶はないのだが、アーレム聖国は、国が一つの都市であるという特殊な国であり、だからこそ様々な建物がぎゅっと詰まっているように建築されているため、かなり複雑な形をしているので気づかずに迷い込んでしまったのだろう。
「……こっちから来たから、戻れば大丈夫かな……?」
そう思ってリンが振り返り、道を戻ろうとした途端、
「……きゃっ!?」
何かが思い切りリンに体当たりしてきて、リンはバランスを崩した。
といっても、尻餅をつくようなことはなく、すぐに足をついて倒れないように踏ん張る。
それからぶつかってきたものが何なのかをすばやく確認すると、そこには走り去る少年の姿が見えた。
普通であれば、ここで状況確認は終わるだろう。
しかし、リンにとって、《路地で子供に体当たりをされた》という事実は、ある一つの可能性を頭に思い浮かばさせる。
つまりそれは……。
「……やっぱり、お財布……ちょっと! そこの子! 待ちなさい!」
叫びながら、既に追いかけるべく全力で走り出したのはこういう事態になれているからだ。
リンのその反応は少年にとってあまりに予想外だったようで、一瞬振り返った顔が驚きに染まっていた。
獲物が置かれた状況にここまで早く気づき、しかも本気で捕まえにダッシュしているという状況は少年にとってあまりない経験だったのだろう。
それだけに少年も必死になって速度を上げた。
しかも、
「……捕まえられるもんなら捕まえてみやがれ!」
そんな台詞をリンに向かって吐く。
これにぴきり、と、額に血管が浮かんだリン。
「……舐めないで欲しいわ……捕まえてやろうじゃないの!」
そう呟いて、腕をまくり、衣裳の裾をたくし上げて本気で追いかけ始めた。
ここまで適当に追いかけていたわけではないが、今身に付けている衣裳は夜の会合でも纏う正装である。
修道女は、見習いでもアーレム聖国にいる間は、可能な限りこれを身に付けているべきだ、と先輩たちに教わっていた。
だからこそ、汚すわけにはいかないと服に気を遣った走り方をしていたのだが、あそこまで言われて、しかもあの金額の入った財布を持っていかれるわけにはいかない。
ここは、汚れてでもやるべきときだろうと心に決めた。
そこからの二人の追いかけっこは白熱した。
土地勘があるからだろう。
複雑に入り組んだ路地を縦横無尽に駆け回る少年に対し、リンはただひたすらに最短距離で彼をおいかけた。
人や物の間を突っ切り、階段は数段飛ばしで駆けあがり、屋上と屋上の間を飛び越え、物を投げられても弾き飛ばした。
いずれも、昔取った杵柄である。
相手がどんな意図でそんな行動をとっているのか、リンには即座に理解できたからこそ、やれたことだった。
そして、リンのあまりのしつこさと、どんな方法をもってしてもその足を止められないことを理解してか、少年はとうとう、降参するようにその場に倒れ込んだ。
「……ぜぇ、ぜぇ……まじかよ……あんた、修道女見習いだろ……なんで……俺について来れるんだ……」
「……はぁ……はぁ……別に、ずっと修道女見習いだったわけじゃないから、ね。少し前まで、あんたと一緒だったわ……」
「……え?」
「それはいいから、とにかく、お財布を返しなさい。今回は突き出さないで上げるから。次からは……まぁ、もっと相手を選ぶことね。出来れば、もうやめた方がいいと思うけど……そんな簡単な話じゃ、ないのは分かってるから」
そう言って、リンはずい、と手を差し出した。
その手を少年は少し見つめて、それから、
「……あんた……面白いな。分かった。返すよ」
そう言って財布を投げてくる。
それからさらに、
「なぁ、これから時間あるよな?」
「え?」
「ちょっと来い。仲間を紹介してやるから」
「仲間? いえ、でも……」
そんな暇は……なくはないのだが、そんなことをしている場合ではない。
それに加えて、そんなことをしてもらう理由もないのだが……。
「いいから。ほら!」
少年は強引にリンの手を引っ張り、走り出す。
「ちょ、ちょっと!」




