Order:82
沈んでいく。
深く深く。
沈んでいく
暗く冷たい場所へと。
体は動かず、何も考える事も出来ず、ただゆっくりと、先の見えない深みへ向かって沈んでいく。
一瞬どこかで誰かの声が聞こえた気がしたけれど、それが何なのかを理解する事は出来なかった。
もう何の力も残されていない。
それは、良くわかっていた。
ただ沈んで行くだけ。
真っ暗な場所へと。
深く深く。
そこに、恐怖はなかった。
不安も孤独も憂いも、ちろん安堵もない。そして、後悔もなかった。
後悔もない、筈だった。
ただ、ちらりとある少女の顔が思い出される。
長い黒髪の少女。
彼女が泣いている姿だけが、ちくりと胸に突き刺さった。
彼女には泣いて欲しくない。
そんな思いが、まだどこかに残されていたのだろうか。
しかし。
ただ大きな流れに身を任せて、ただ暗い先をぼうっと見つめて、沈んでいく。
それに抗う事は、もう出来なかったのだ。
どれくらいそうしていただろうか。
もしかしたらそれは、沈み始めて一瞬の後の出来事だったのかもしれない。
いや、もしかしたら何時間も何日も沈んだ後の事だったのかもしれない。
不意に、自分が2つに別れた。
一方の自分は、そのまま暗く深い場所へ沈降していく。
一方の自分は、何かに引っ張られ、ガクンとその場で沈むのを止めてしまった。何か力強く、温かなものに捕らわれて……。
ストロベリーブロンドを大きく広げた少女が、優しそうな笑顔を浮かべてこちらを見上げたまま、さらに深みへと沈んでいく。
ああ、そうか。
沈み行く彼女を見送りながら、唐突に理解した。
あれは、自分なんだと。
残った自分から、沈む自分が剥がれ落ちて行くのだと。
ゆっくりとゆっくりと、自分だったものが2つに別れてしまう。
そこで初めて感じたのが、喪失感だった。
胸が痛い。
涙が溢れる。
何か大切なものを、自分は今失おうとしているのだ。
髪をふわふわと広げて沈んで行く少女。
必死に手を差し伸べてみるけれど、届かない。
少女が沈んでいく。
深い深い暗い底へと。
ふと、その少女に一瞬若い男の姿が重なった気がした。
顔は見えなかった。
ただそれも、間違いなく自分の一部であるという事は理解出来た。
懐かしい。
彼が何者なのかはわからなかったけれど、それでもきっと自分にとって大切な何かだったのだろう……。
やがて、もう一人の少女は見えなくなってしまった。
目を瞑る。
膝を抱える。
沈むことも浮き上がる事も出来ず、暗い場所でじっと留まり、ただただ揺蕩う。
「……ル!」
そこに、再び声が聞こえた気がした。
声と共に、光と温かいものがふっと射し込んできた。
すっと、顔を上げる。
「……ィルっ!」
色々な声が叫んでいる。
それは大きな波紋を作り出し、この暗い場所を激しく揺さぶった。
「ウィル!」
ふと聞こえたその声は、あの黒髪の少女なのだとわかった。
懐かしい声だった。
温かい声だった。
思わず叫び返そうとするが、声が出ない。
何とかその声に応えようと体を動かす。
そこで不意に、自分がその声に引っ張り上げられているのだという事に気がついた。
ぐんぐん浮上する。
温かい場所へ。
明るい場所へ。
きっとあの黒髪の少女が待っている場所へ。
でも。
眉をひそめる。
ウィルというのは、いったい何なのだろう……?
そんな疑問を抱きながら、私は唐突に覚醒した。
目を開けると、そこは薄いベールに包まれた天蓋付きの大きなベッドの上だった。
体が重い。
頭がぼおっとする。
起き上がるのが酷く億劫で、まるで体がベッドと一体になってしまった様に重かった。
起きるのを諦めて、私はそっと目を瞑ると深呼吸した。
ゆっくり息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
微かに甘い香がした。
お花の匂い、だろうか。
私は再び目を開けると、今度は少しだけ頭を動かして周囲を見回した。
視界に入る薄いピンクの髪は、私のものだ。
私はリボンやヒラヒラのついた白いパジャマを着て、クッションが敷き詰められたベッドに埋まる様に横になっていた。
顔のすぐ横には、猫の頭の形をしたぬいぐるみが置かれていた。他にも色々なぬいぐるみが沢山あった。
……可愛い。
私は、小さく微笑んでしまう。
ベッドの左右には、点滴の器具やモニターの並ぶ機械が置かれていた。そこから伸びた何本かのケーブルが私の体に繋がっている。その脇には花瓶が置かれていて、綺麗な花がいけられていた。
ベールの向こうは、広い部屋だった。
豪華そうな置物や飴色に輝く家具が見て取れる。
大きな窓は開け放たれ、たっぷりの日差しと濃い緑の匂いを含んだ微風が部屋の中に流れ込んでいた。
気持ちの良さそうなお天気だ。
時刻はお昼さがりぐらい、だろうか。
静かだった。
カーテンの揺れる音と小鳥のさえずりだけが、微かに聞こえて来た。
広い部屋には、誰もいなかった。
ここはどこなのだろう。
壁には黒に白の花の模様が入った制服が吊られていた。
あれは、誰の服なのだろうか。
私はいったい……。
頭がズキリとする。
私は眉をひそめて、その痛みに耐えた。
「ふうっ……」
ゆっくりと息を吐く。
少し周囲を見回しただけなのに酷く疲れてしまった。
私は、またそっと目を閉じた。
それからしばらく、眠っている様な起きている様な、夢うつつの時間が過ぎた。
どれくらい微睡んでいたのだろう。
次に私が覚醒した時には、もう日が傾きそうになっていた。
不意に、ガチャリとドアを開く音が聞こえた。
ドキリとする。
部屋に入って来たのは、壁に吊られているものと同じ制服を着た少女だった。
短いスカートからすらりと伸びる長い足は、黒いタイツに包まれていた。しゃんと伸ばされた背中。その背で揺れる、艶やかでしっとりと濡れた様な長い黒髪。そしてその顔には、整った美しい容姿に似合わない憂いの表情が浮かんでいた。
頼りになるお姉さんといった風貌のその少女を見た瞬間、私は胸の底から湧き上がってくる温かいものを抑えられなくなってしまった。
ああ……。
でも、何だろう、この気持ち。
「ううっ……」
思わず起き上がろうとするが、重い体は動かす、ただ微かなうめき声が漏れてしまっただけだった。
「ウィル?」
洗面器とタオルを抱えた黒髪のお姉さんは、ポツリとそう呟くとこちらに走り寄って来た。
ベッドの周りに下ろされたベールがさっと開かれた。
黒髪のお姉さんと目があった。
髪と同じ漆黒の瞳が、みるみるうちに大きく見開かれる。
呆然として固まってしまうお姉さん。
「……あの」
私は頑張って声を出してみた。
どれくらいこのベッドで眠っていたのかわからないけれど、声を出すのは随分と久し振りの様で、か細い消える様な私の声は震えてかすれてしまっていた。
ガランと音がする。
黒髪のお姉さんが、洗面器を取り落としてしまった音だ。
「ウィル……」
そう呟いたお姉さんの声も、やっぱり少し震えていた。
「ああ、ウィル! 良かった……。ああ……」
黒髪のお姉さんの頬に、つっと一筋の涙が流れ落ちた。
そのまま、濡れた目でただじっと私を見つめるお姉さん。
む。
何だか恥ずかしくなってしまう……。
「ああ……ウィル!」
長い黒髪をひるがえし、耐え切れなくなったかの様にお姉さんがばっと私に抱き着いて来た。
わわ。
な、何だ?
思わずドキリとしてしまう。
「ああ! 良かった、ウィル! 良かった、本当に、本当にっ……!」
ベッドに体を預け、私の頭を胸に抱いて嗚咽を上げるお姉さん。
お姉さんの甘い香と柔らかい感触に包まれる。
どう反応したらいいのか、私は突然の事に困惑するばかりだった。
「あ、あの、すみません……」
「ウィル! 大丈夫なのだな? どこか不具合はないか、痛いところはないか?」
私の肩を掴んで至近距離からこちらを覗き込むお姉さん。
涙に濡れた黒い瞳が真っ直ぐに私を見据えている。
不具合。
痛いところ……。
……不具合といえば不具合だと思うのだが、私には今の状況が全くわからなかった。
「あの……」
「ん、どうした、ウィル?」
泣き笑いを浮かべる黒髪のお姉さん。
心の底から嬉しそうに安堵の笑みを浮かべるお姉さんに、こんな事を聞くのは心苦しかったけれど……。
「……すみません。その、あの……」
私はそれでも、思い切って尋ねてみる事にした。
「あの、ウィルというのは、その、わ、私の事なんでしょうか?」
私は上目遣いにお姉さんを見上げる。
お姉さんは私の質問が理解出来ないのか、眉をひそめていた。
「ウィル、何を言って……」
その瞬間。
不意に黒髪のお姉さんが、凍り付いた様に固まってしまった。
「あの、私良くわからなくて……。その、私自身の事も良くわからないんです。えっと、ここはどこですか? お姉さんはどなたですか?」
私には記憶がなかった。
物の名前や言語などの一般的な知識は大丈夫の様だ。
しかし、自分に関する記憶がない。
私個人の事と、私に関する事柄が何も思い出せなかった。
黒髪のお姉さんの綺麗な顔が、驚愕に染まる。
それは、先程の歓喜の笑顔とは対照的な、絶望に満ちた顔だった。
何かを必死に考えている様子のお姉さん。
私の肩を掴むその手にギュッと力が込められる。
……痛い。
しかし肩よりも、胸の奥をチクリと刺す痛みの方が大きかった。
私は何かおかしな事を言ってしまったのかな……。
少しだけ視線を泳がせ、私は胸の痛みに耐えた。
「……魔素の消失は防いだ。体の維持は間に合ったのだ。しかし精神は……。まさか……いや、いや、そんなことがある筈がないっ!」
お姉さんは私の顔をじっと見つめながらぶつぶつと何か難しい事を言っていた。
少し怖い顔だった。
私がむうっと眉をひそめていると、お姉さんはその私の顔に気がついたのか、ふっと優しい笑顔を浮かべた。
「ウィルは半年近く眠っていたのだ。きっとその後遺症で、記憶が混乱しているのだろう」
半年……!
今度は私が目を丸くしてしまう。
「……無理をしてはいけない。今はゆっくりと休むのだ、ウィル」
黒髪のお姉さんはすっと目を細めると、優しく私の頭を撫でてくれた。
何故かそれだけで、全身からすうっと色々な不安が消えて行く気がした。
私は大きく息を吐きながら、そっと目を瞑った。
まだまだ本調子ではない体が、再び眠りに落ちようとする。急に色々な事があって、少し疲れたみたいだ。
わからない事、不安な事ばかりだけれど、傍らに感じる黒髪のお姉さんの感触が心強かった。
もう一度だけ薄く目を開けてお姉さんを見る。
再び眠りに落ちる前に私が見たのは、微笑みながらもどこか不安そうに瞳を揺らす黒髪のお姉さんの姿だった。
私の名前は、ウィル・アーレンというらしい。
そして、黒髪のお姉さんはアオイ・フォン・エーレルトという名前で、なんと私のお姉さまだった。
ここはエーレルトのお屋敷で、私が寝ていたのは自分の部屋だという事だったが、やっぱり私には良くわからなかった。
家族の、お姉さまの事もわからなくなってしまっているのだから、自分の部屋がわからないのも当然なのかもしれないが……。
何故私がこんな状態になってしまっているかは、アオイお姉様が説明してくれた。
どうやら私は、半年前に大きな事件に巻き込まれたらしい。
それを聞いても、やはり目を覚ます前の事については、何も覚えていなかった。
自分に関する記憶は、まるで深い場所に沈んでしまったかの様に手の届かないものになってしまった。そんな淡い喪失の感覚だけが微かに残っていた。
お屋敷には、アオイお姉さまの他にも執事のアレクスさんという渋いおじ様と銀の髪が綺麗なレーミアさんというメイドさんもいた。
すっかり起き上がれる様になった私がぺこりと頭を下げて挨拶すると、2人とも少し驚いた様な顔をしていた。
今の私は、以前の私と何かが違ったのかもしれない。
アオイお姉様やレーミアさんたちと接していると、そう感じる事が時々あった。
そういう時は、得体のしれない不安感に襲われる。
私はここにいてはいけないのではないかという不安。
私は誰なんだろうという不安に。
でもアオイお姉さまは、そんな私にも優しく接してくれた。
アオイお姉さまは、よく私の髪を梳き、可愛らしいリボンや髪留めで結ってくれた。
優しいお姉さまに髪を触ってもらっていると、何だか胸がぽっと温かくなる。
私にはそれが嬉しくて、アオイお姉さまがお見舞いに来てくれるのが1日で一番の楽しみになっていた。
私はアーレンでアオイお姉さまはエーレルト。
姉妹なのに名字が違う。
それに、黒髪で切れ長の瞳が涼やかなアオイお姉様と、以前よりもすっかり伸びてしまったというストロベリーブロンドの長い髪に少し吊り気味の大きな目の私では、容姿が全然似ていない。
その事が気になって尋ねてみると、アオイお姉さまは優しく微笑んで私をギュッと抱き締めてくれた。
そして、間違いなく私はアオイお姉さまの妹なのだと囁いてくれた。
アオイお姉様の甘い香に包まれながらそんな台詞を聞いてしまうと、私は真っ赤になってむむっと唸るしかなくなってしまうのだった。
でも、その言葉のおかげで、私は前を向こうという決心が出来た。
不安はあったし、自分の事は相変わらず良く思い出せなかったけど、体は日に日に回復していたし、あまりウジウジ悩んでいても仕方がないなと私は思う様にしたのだ。
……うん。
私には、アオイお姉さまというこんなにも素敵な家族がいるのだから。
何も怖がる事なんてないのだ。
しかし、目覚めて数日たった後、私は再び驚愕の事態に遭遇してしまう。
それは、学校に行ってしまったアオイお姉さまの帰りを待ちながら、リハビリも兼ねて部屋の中をうろうろしていた夕方の事だった。
車の音が聞こえたので、アオイお姉さまが帰って来たのかと私はそわそわとし始める。鏡の前で髪なんかをいじって、パジャマの襟も正して、アオイお姉さまを待ち構える。
しかし、ドンっと扉が開いて部屋に入って来たのは、輝く様な金髪のスラリとした長身の女の人だった。
む。
知らない人だ。
「ウィル!」
金髪の人は、私の名前を呼ぶと物凄い勢いでこちらに詰め寄って来た。
私は思わずビクッと体を竦ませる。
むむ。
何だかおっかない……。
「何よ! 目が覚めたなら連絡ぐらいしなさいよ! 私がどれだけ心配したか……!」
突然金髪の人が目に涙を溜めた。
「良かった……もう起きないかもって思ったら、怖くて、私……!」
金髪の女の人は私をギュッと抱き締めた。
……少し、痛い。
この人も私の知り合いだった人なのだろう。
涙を流してまで私の事を心配してくれて、きっと近しい関係の人だという事は良くわかったけれど……。
「ソフィア先生。お話した通りです。ウィルには今、以前の記憶がないんです」
不意に部屋の入り口の方からアオイお姉さまの声がした。
学校の制服姿のアオイお姉さまは、胸の下で腕を組ながら扉に背を預け、こちらを横目で見ていた。
アオイお姉さまの表情は沈んでいた。
私と一緒にいる時にたま見せる、少し悲しそうな表情だった。
金髪のお姉さんは私を解放すると、ばっとアオイお姉さまの方に向き直った。
「どうしてよ! どうしてこんな事になったのよ……!」
金髪の人が叫ぶ。大きな声ではなかったけれど、爆発しそうな感情を何とか押し止めているのがわかった。
金髪のお姉さんは再びこちらを向くと、覗き込む様に私の顔を見た。
「ウィル、わかるわよね。私が誰だか、忘れる筈がないわよねっ!」
私は眉をひそめて首を傾げる。
「あの、えっと……私の……先生、ですか?」
先ほどのアオイお姉さまの言葉から推測して答えてみる。
しかし、金髪のソフィア先生は、ショックを受けた様な表情で固まってしまった。
……違った、みたいだ。
「あの、良ければ教えて下さい。先生は私の……」
「幼なじ……姉みたいなものよ! 私は、その、ウィルのお姉さんだったの!」
微かに涙を滲ませながらソフィアさんが声を上げた。
姉……。
私には、アオイお姉様の他にもまだお姉さんがいたなんて……。
私、何だか複雑な家庭環境だったのだろうか。
ソフィアお姉さまは難しい顔をして考え込む私からふらふらと後退りで離れると、くるりと踵を返し、ばっとアオイお姉さまに詰め寄った。
「……何で、何でこんな事に! ウィルが、ウィルバートがどうしてこんな目に遭わなければならないの!」
ソフィアお姉さまの剣幕に、アオイお姉さまは目を伏せてしまう。
「……あの時、地下の戦いの場で、ウィルはその身を挺して私を、私たちの街を守ってくれたのです」
「……半年前の魔術師テロ。選挙会場でのテロよね」
ソフィアお姉さまが忌々しげに呟いた。
テロ?
「自爆術式陣の威力を弱めるため、ウィルは自分を構成する全ての魔素をつぎ込み、防御場を展開した。その結果、自爆術式陣の完全発動は抑えられ、私や軍警の人たちは助かったのです」
……軍警。
その言葉の厳めしい雰囲気を、身近なものに感じてしまうのは何故だろう。
「その説明は、もう聞いたわよ」
ぶっきらぼうなソフィアお姉さまに、アオイお姉さまがこくりと頷いた。
「本来なら、ウィルは消えてしまう筈だった。ウィルを構成するすべての魔素を使い切って。しかし、間一髪、私の手はウィルに届いた。ウィルをこちら側に繋ぎとめておくための魔素を届ける事に成功したのです」
アオイお姉さまがそこで一旦言葉を切った。
「……ただ、その魔素が足りなかった。ここからは推測に過ぎませんが、ウィルの体は消滅を免れても、その精神、魂は、繋ぎ止める事が出来なかった……」
アオイお姉様がつらそうに唇を噛み締めた。
私はきゅっと眉を寄せる。
胸が痛かった。
話の内容は難しくて良く分からなかったけれど、私がアオイお姉さまにそんな顔をさせているという事が、胸をギュッと締め付ける。
ソフィアお姉さまが呆然としながら、僅かに後退った。
「ウィルをこんな姿にしたのはエーレルトさんでしょ。だったら何とか……」
「……無理、なのです」
辛そう顔をするアオイお姉さま。
涙を滲ませるソフィアお姉さま。
「何で……魔術師ならっ!」
「あの時、とっさにウィルに魔素を注いだのは私だけではなかった。……あの男も、ジークハルト・ファーレンクロイツも、最期の力をウィルに注いでいたのです」
アオイお姉さまが目線を逸らしながら一瞬険しい顔をした。
胸の奥がドクンと一際強く鳴る。
ジーク……ハルト?
「奴が何故その様な事をしたのかはわからない。しかし奴の魔素も、ウィルを救う一助になったのは確かなのです。力を使い果たしていた私だけでは、ウィルを救えなかったかもしれない。しかし、結果として、ウィルの中には私の魔素とあの男の魔素が混在する事になってしまった。他人の魔素が存在する以上、私がウィルに干渉する事は難しくなってしまったのです」
自分を責めるようにそう言いきったアオイお姉さまは、目を伏せる。
私がそんな状態に……。
残念ながら理解の追い付かない私は、ただ呆然と口をパクパクさせるしかなかった。
「……何でよ。どうしてウィルばっかり! ウィルバート……いえ、以前のウィルでもいい! 私を、おじさまたち家族の事を覚えているウィルに戻してあげて……。戻して、あげてよ……!」
厳しい表情で声を震わせながら、アオイお姉さまに迫るソフィアお姉さま。
私はふっと息を吐いた。
実は、不謹慎かもしれないが、こんな状況でも私は少し嬉しかったのだ。
自分の事はわからなくても、こんなにも私を心配してくれるお姉さまが2人もいる。
こんな家族が2人もいるのだ。
私には、それが嬉しかった。
私はふっと微笑む。そして、とととっと髪を揺らして小走りに、アオイお姉さまとソフィアお姉さまの間に割って入った。
「あの、喧嘩は止めて下さい!」
私は思い切って声を上げる。
「2人とも私のお姉さまだから、私の大事な家族なんです! 家族なら、仲良くしないと! えっと、家族は大事ですから! あの、その……」
両側からこちらを見るお姉さま達の視線に耐えきれなくなって、私はごにょごにょと最後の方の言葉を飲み込んだ。
……む。
ぼんっと顔が赤くなる。
胸の奥にある思いを上手く言葉に出来ない。
「あの、えっと、その……」
「ウィル……!」
私がモジモジとしながら言い淀んでいると、突然アオイお姉さまが抱き付いて来た。
「必ず、必ず私が救うから! 私の全てを掛けて!」
むぐ。
くるしひ……。
「ちょっと、エ、エーレルトさん! ウィル、私もっ!」
焦った様に声を上げたソフィアお姉さまが、アオイお姉さまごと私を抱き締めてきた。
むご……。
もっとくるしひ……。
2人のお姉さまにぎゅうぎゅうされながら、しかし私はふっと笑っていた。
このお姉さまたちとずっと一瞬にいられたら、きっとこれからの事に不安を抱く必要はないのだろうと思う。
昔の事を思い出すのも、焦らなくてもいいと思う。
まずはリハビリをキチンとこなして、体調を戻す。それで学校にも復帰して勉強もきちんとして、お姉さまたちを安心させてあげるのだ。
この素敵な家族に心配を掛けないように、私なりに頑張ろう。
……うん。
お姉さまたちの間で、私は密かに決意を固めた。
季節は初夏。
空が青く輝き、木々の緑が一層鮮やかになる季節。
眩しい日差しがエーレルトのお屋敷を包み込む。
じっと日向ぼっこをしていると暑くなってくるけれど、お屋敷を取り囲む森から吹いてくる風は爽やかで心地よく、私はなるべく外で過ごす様にしていた。
私が意識を取り戻してから約一か月が経過していた。
私は体を動かす為にお屋敷の敷地内を散歩したり、裏庭のテラスや東屋で読書し、時々アレクスさんに勉強を教えてもらったりしながら日々を過ごしていた。
日中はアオイお姉さまもレーミアさんも学校に行っていて少し寂しかったが、夜にはソフィアお姉さまもやって来て賑やかになるので、それまでの辛抱なのだ。
私も早く学校に行きたかったけれど、お医者さまやアオイお姉さまの判断で、復帰は夏休み明けからという事になっていた。
それまでに勉強の遅れを取り戻しておかなければならない。
お姉さまたちに心配を掛けない様に、私はしっかりしないといけないのだ。
少し前、その学校の友達がお見舞いに来てくれた事があった。
ジゼルにアリシア、エマにラミア、そしてイングリッドさんたちだ。
残念ながら私は、彼女たちの事も良く覚えていなかった。
アオイお姉さまからの事前説明もあったのだろうけど、その事を告白してもみんなは笑顔で私を受け入れてくれた。
やはりみんな、複雑そうな顔はしていたけれど。
……それは、私に出会う人たちがみんな最初に浮かべる表情だ。
もうこの頃には、その表情にも慣れっこになっていたのだけれど。
最初は少しぎこちなかったけど、直ぐにみんなとは打ち解けることが出来た。それはやはり、ジゼルの明るい人柄のおかげだったと思う。
ジゼルは、「記憶がない事よりもウィルが随分と女の子らしくなった事の方が驚きね」と冗談を言っていた。
む、それ何だか失礼だと思う。
しかしそれで、私たちは互いに笑う事が出来たのだ。
みんなに聞いたが、何でも以前の私は一人称が俺だったらしい。
何で俺だったんだろう、前の私よ……。
その話を聞いてから私は、少しでも昔を思い出せるかと考え、しばらく「俺」を使ってみた期間もあった。
アオイお姉さまは一瞬、私が昔を思い出したんじゃないかと期待したみたいだったけど、残念ながら違和感しかなくて直ぐに使うのを止めてしまったのだ。
そうだ。
お見舞いに来てくれたロイドさんという方は、私が「俺」を使っていない事に対しては何も言わなかったっけ。
見知らぬ大人の男の人と話すのは苦手だけど、ロイドさんとは話しやすかった。ロイドさんはくしゃっと少年みたいに笑う人で、まるでジゼルたち同級生と話している様だった。
どうやらロイドさんにはアオイお姉さまから何の説明もなかった様だ。
ロイドさんは未だ私が病床にあると思っていた様で、早く元気になって元のウィルちゃんに戻ってねという台詞を繰り返していた。
もう既に私は、記憶以外は完全に問題なしの状態だったのだけれど……。
ロイドさんは、「僕は凛々しいウィルちゃんが大好きなんだっ。早く元気になってね!」と捨て台詞を残すと、顔を真っ赤にして逃げる様にして帰ってしまった。
私はその勢いに呆気にとられ、ただ見送る事しか出来なかった。
学校の友達であるジゼルたちはともかく、刑事さんだというロイドさんまでお見舞いに来てくれるなんて、以前の私にはどんな交友関係があったのだろう。
昔の私の事は、アオイお姉さまにお願いして色々と教えてもらっていた。
一度に全てを知るのは負担になるからと、少しずつしか教えてくれなかったけれど、やっぱり以前の私は複雑な環境にいたみたいだ。
どうやら私は、軍警の一員だったらしい。
軍警。
悪い魔術師と戦う警察だ。
私もその辺りの事はちゃんと調べたのだ。学校の図書館で。
でも、何で私がそんな怖そうな所にいたのかは全くわからなかった。
軍警。
魔術師。
そしてアオイお姉さまが以前言っていたジークという人。
そんなキーワードについてぼんやりと考えていると、何だか足元がふわふわしてたまらなく不安になってしまう。
胸の奥がざわざわとしてくる。
その軍警の人が、私に会いに来てくれた事もあった。
厳めしい制服を着た大きな体のおじさんと無精髭のスーツのおじさん、それとやはりスーツ姿の女の人がエーレルトのお屋敷を訪ねて来てくれたのだ。
彼らの鋭い雰囲気とギラっとした目つきが怖くて、私は思わずアオイお姉さまの後ろに隠れてしまった。
でも話してみると、皆さん本当に私の事を心配してくれている様だった。
軍警の皆さんが帰られる前に、私は失礼な態度をとってしまった事を何度も謝った。
実際に軍警の方々に会っても、やはり胸のもやもやの正体を突き止める事は出来ず、何も思い出す事は出来なかった。
ロイドさんや軍警のみなさんと会えば、何か私に変化があるかもしれないと期待していたアオイお姉さまには申し訳なかったけれど……。
その軍警の関係だと思うが、アオイお姉さまが突拍子もない事を仕掛けて来た事もあった。
ある日。
私がお風呂から上がって部屋に戻った時、机の上に鉄砲が置いてあった事があったのだ。
私は思わずびくっと身をすくませてしまった。
まさか本物だとは思わなかったが、自分の部屋に鉄砲があれば誰だって驚くだろう。
イルカさんのワンポイントのパジャマに身を包んだ私は、どうしていいかわからずにしばらく部屋の中でウロウロとしてしまった。
そしてやっとの事で何とかアオイお姉さまに相談しようと思い至り、振り返った時、ドアの隙間からこちらを窺っているそのアオイお姉さまと目があったのだった。
恐らくあれは、軍警にいたという私の記憶を刺激する作戦の一環だったのだろう。
でも、「本気でびっくりしたんですよっ!」とアオイお姉さまには厳重に抗議しておいた。
夏休みになると、私がアオイお姉さまと一瞬に過ごす時間はぐっと増えた。ソフィアお姉さまも、頻繁にお屋敷に来てくれた。
しかしアオイお姉さまはもう聖フィーナ学院の3年生。大学の受験が控えている身なのだ。
一緒にいられるのは嬉しかったけれど、私はなるべくアオイお姉さまのお勉強の邪魔をしないように務めた。
涼しい朝。
暑いけれど、気持ち良く晴れ渡った昼間。
ヒグラシが鳴く切ない夕方。
平和で穏やかな毎日が過ぎて行く。
夜にはアオイお姉さまと同じベッドに横になり、色々なお話をした。
アオイお姉さまは勉強や伯爵さまのお仕事はもちろんの事、以前にも増して魔術の研究に熱心に取り組んでいる様だった。
毎日忙しくしているみたいだったけど、それでも私の話にはきちんと付き合ってくれた。
アオイお姉さまとは、私の記憶に関する重たい話ばかりではなくて、取り留めのない話も沢山した。邪魔をしてはいけないと思っていたのに、一晩中話し込んでしまう事もあった。
静かで穏やかな夏休みは、永遠に続くかの様に思えた。
明日の明日もきっとまた今日みたいな日が続く。
続いて欲しいと思っていた。
この幸せで平穏な日々が、私にはとてもとても愛おしかった。
でも秋の入り口は直ぐにやって来て、夏休みはやがて終わりを告げた。
随分先だと思っていた私の学校復帰の日がやって来る。
聖フィーナ学院エーデルヴァイスの制服に身を包んだ私は、まるで新入生の様に緊張していた。
いつの間にか腰近くまで伸びた髪を赤いリボンでまとめた私は、学院指定の鞄を両手で握り締めて聖フィーナ学院に登校した。
近頃難しい顔をしている事が多くなっていたアオイお姉さまも、そんな私の姿を見て少し笑ってくれた。
ジゼルたちクラスメイトのみんなは、温かく私を受け入れてくれた。
最初は、やはりみんな私の変化に驚いていた。しかし担任のヒュリツ先生から説明があると、こんな私もすんなり受け入れてもらう事が出来た。
眩い日差しが射し込むアンティークで可愛らしい学院。
静かに笑い合う少女たち。
休学していた分の補習は大変だったけれど、私はあっという間にこの聖フィーナ学院が好きになっていた。
それに美人で伯爵さまなアオイお姉さまは学院でも特別な存在で、それが私には誇らしかった。
勉強に打ち込み、クラスのみんなと一緒に過ごす楽しい日々は、あっという間に過ぎていく。
学院でも家でもアオイお姉さまとソフィアお姉さまという2人の頼もしい姉に囲まれた私は、今の状態でも十二分に幸せだった。
制服が冬服のブレザーに変わり、オーリウェル伝統の秋巡りの収穫祭が終わる頃には、私はもう以前の記憶について気にする事は少なくなっていた。
私と話していると、アオイお姉さまやソフィアお姉さまがふと遠い目をして悲しそうな顔をしている事は、良くあったけれど……。
でもきっと、私自身が過去を振り切って精一杯今を楽しんでいれば、きっとお姉さまたちに余計な心配を掛けないで済むと思うのだ。
だから私は、ふわりと微笑んでおく事にした。
お姉さまたちには、いつでも笑顔を向けておく事にした。
それが、こんな私をいつも支えてくれるお姉さま、家族への恩返しになると思ったから。
秋が終わりに差し掛かり、冬がじわじわと始まる。
いつの間にかもう、コートが手放せない季節になってしまった。
この間まで蝉の声が聞こえていたと思っていたのに……。
「月日が経つというのは早いものですね」
聖フィーナ学院の食堂で、アオイお姉さまとお昼ご飯を共にしながら、私はしみじみとそんな事を口にする。
それを聞いたアオイお姉さまが、白いご飯のお手製のお弁当に箸を入れながらふっと微笑んだ。
「何だかおばあちゃんみたいだぞ、ウィル」
……むむ。
私は一瞬唇を尖らせる。
しかし、その私を見て吹き出す様に笑ったアオイお姉さまに吊られて、私も思わず笑ってしまった。
近頃アオイお姉さまは、以前にも増して疲れた表情している事が多かった。微笑む回数も随分と減ってしまった様に思う。
受験勉強が大変なのかなと思っていたけど、どうやらそちらよりも魔術の研究に行き詰まっているらしい。
私はその事を、アレクスさんから聞いていた。
……もしかして、私の記憶を取り戻す研究をされているのかもしれない。
そう思った私は、無理をしないで下さいと訴えたけれど、アオイお姉さまは微笑んで首を振るだけだった。
だから私は、アオイお姉さまの前では努めて明るく振る舞った。いつでも、出来る限り笑顔でいる事を心掛けていた。
もっとも、アオイお姉さまにからかわれてしまうと、直ぐにむうっと頬を膨らませてしまう事になってしまうのだけれど。
お昼はアオイお姉さまと一緒にお昼ご飯を食べて、放課後は図書館かソフィアお姉さまの音楽準備室で勉強する。
それが、私の聖フィーナ学院での日課になっていた。
そんなとある日。
私とアオイお姉さまの日常に、ちょっとした変化が起こった。
それは、カレンダーにクリスマスが見えてきた頃の事だった。
冬のオーリウェルは日が落ちるのが早い。さらにどんよりと曇っている日も多く、私が帰宅する頃にはもうすっかり真っ暗になっている事が多かった。
冷え込みは日に日に強くなり、その日も強い北風も相まって、私は1日ガタガタと震えていた。
聖フィーナから戻った私は、コートの前をきっちりと合わせて、マーベリックの車からお屋敷までの短い間を逃げる様にして走った。
暖房の効いたお屋敷の中に飛び込むと、私はほっと息を吐く。
ピンクのマフラーを取り、お出迎えのアレクスさんにコートを預けながら、私はスカートの下の足をもじもじさせた。
やはり剥き出しの足が一番寒かった。タイツでも穿いて行けばよかったなと思う。
しかしどんなに寒くても、このスカートに耐える事こそが女子学生の戦いなのだ。
うむ。
私は自主勉強で遅くなってしまったが、アオイお姉さまは先に帰っている筈だった。先にお姉さまに挨拶しようかと思ったけど、その前に着替えを済ませておく事にする。
ポニーテールにした長い髪を揺らしてたたたっと階段を駆け上がり、自分の部屋に入る。机に鞄を置いてタイを解きながら、私はぼすっとベッドに腰掛け、携帯をチェックする。
アリシアと、軍警のアリスさんからメールが来ていた。
返信は後にして、取りあえずテレビを付ける。
少し見たい番組があったのだ。夕方に少しだけ流れる今日の猫特集。それを毎日チェックすするのが、学校帰りの私の癒しの時間だった。
ブレザーをハンガーに掛け、ブラウスのボタンを外しながら私は何となくテレビに目を向けた。丁度猫特集の前の夕方のニュースが流れていた。
スカートを落とし、代わりにアレクスさんが用意してくれたズボンを穿く。上はふわふわの白ニットに首を通し、髪を背中から引き抜いた。
ふむっ……よしっ。
その時不意に、テレビから不穏な警報が鳴り響いた。
私は思わずびくりと体をすくませる。
む。
何かな……。
『……ここで緊急ニュースをお伝え致します』
画面の中のニュースキャスターが、少し慌てて新しい原稿を読み上げ始めた。
『先ほど入って来た情報によりますと、首都で小規模な爆発があった模様です。首都、中央駅付近で爆発があった模様です。えー、詳しい情報は……』
私はきゅっと眉をひそめた。
何だろう。
嫌な感じのするニュースだったので、私はテレビのリモコンを取り上げてチャンネルを変えようとした。そこに、扉をノックする音が響いた。
「あっ、はい、どうぞ」
「ウィル、帰ったのか?」
あ、アオイお姉さまだ。
『……新しい情報が入りました。首都の爆発は、魔術テロの模様です』
私はばっとテレビを見た。
背中の髪がふわりと宙を舞った。
『聖アフィリア騎士団より犯行声明が出されたとの情報が入りました。これを受け、軍警が緊急出動した様です。現場では多数の死傷者が出ており、既に救出活動は始められていますが……』
ゴトリと音がした。
その音が私がリモコンを落としてしまった音だと気がつくのに、しばらく時間が掛かってしまった。
『この犯行声明が本物ならば、魔術師によるテロは昨年の大規模同時多発魔術テロ以来1年ぶりの発生となります。当局からは現在、情報確認を行っているとの発表がなされており……』
私は目を見開き、テレビ画面から目が離せなくなる。
視界がぐうっと狭くなる。
魔術、テロ……。
死傷者……?
背筋を冷たいものが走り抜け、全身が何故かわなわなと震え始めた。
冷や汗が噴き出す。
これは遠い首都の出来事で、オーリウェルにいる私たちには関係のない事件の筈なのに……。
怖い、というのとは違う。
何だか胸の奥が熱くなる。
この感情は怒りだろうか。
……いや。
やり場のない悲しみ。
そんな感じの、複雑な感情だった。
私は、無意識にぐっと手を握り締めていた。
「……ウィル」
いつの間にか私の横に立っていたアオイお姉さまが、すっと私の肩を抱き寄せてくれた。そこでやっと私は、爪が食い込むほど握り締めていたいた手を緩める事が出来た。
「やはり、ウィルはウィルなのだな……」
アオイお姉さまが、抱き寄せた私の頭にこつっと自分の頭を当てながらポツリと呟いた。
「そうだな。ウィルはここにいる。その思いも、ここに……」
アオイお姉さまがそっと私の胸の膨らみの上に手を置いた。
「アオイ、お姉さま……?」
私はこの状況も、さらに自分の感情も上手く把握出来なくて、呆然とアオイお姉さまを見てしまう。
「泣くな、ウィル」
アオイお姉さまがそっと涙を拭ってくれた。
いつの間にか、私は泣いてしまっていたみたいだ……。
「……過ぎた事を悔やみ、嘆くばかりではダメだな。過去を取り戻そうとするばかりでは、以前の私と同じだ。私はウィルの姉として、出来る事をしなければな。ウィルの思いを携えて、前を向いて、な」
ふっと微笑むアオイお姉さま。
それは輝く様な笑顔で、一瞬にして私は目を奪われてしまった。
私が目覚めたあの時に見たのと同じ、アオイお姉さまの本当の笑顔。
その笑顔に、この大好きな穏やかで静かな日々の何かが変わってしまう予感を、この時の私は、確かに感じていたのだ。
読んでいただき、ありがとうございました。




