Order:68
俺が聖フィーナ学院への登校を再開してから一週間が過ぎた。
その間、軍警オーリウェル支部襲撃事件に関する捜査については、目立った進展は何もなかった。
捜査活動を続ける一方でさらなる襲撃に対して警戒態勢を敷く軍警だったが、騎士団もまた何も動きを示さないという状況が続いていた。
今のところは平和な毎日が保たれている。
しかしその平穏が嵐の前の静けさでしかないと感じているのは、俺だけでなく軍警皆の共通認識だと思う。
統一国政選挙の期日は近付いている。
上院の一部と各地区での下院議員の選挙が同時に行われる近年稀にみる大規模選挙だ。
騎士団が何かを仕掛けて来るならば、そのタイミングでの可能性が高い。
なんとかそれまでに騎士団を押さえたいというのが、シュリーマン中佐やヘルガ部長ら軍警上層部の考えだった。
俺がバートレットたちの取り調べを受けている間にも、二度ほど作戦部のヘリが出撃していくのを見かけた。
オーリウェル近郊に騎士団の一派が潜伏しているとの情報を得て、その隠れ家を強襲したそうだ。
しかしその結果は、空振りだった。
捜査部でも騎士団拠点と目される場所の特定は行っている様だったが、やはり結果は出ていなかった。
捜査に進展がないまま、俺の取り調べ期間も終わってしまった。
3日前からはもう支部に出頭しなくてもよいと言われていたが、俺は今までと変わらず、学校が終わると必ず支部に行き、捜査の状況を確認していた。
ミルバーグ隊長には、何か任務があれば俺も参加させて欲しいとお願いしていた。
しかし、しばらくは俺を一切の実戦任務に就けてはならないという命令が出ている様で、やんわりと断られてしまった。
俺を作戦に就けない表向きの理由は、騎士団と内通しているという疑いが完全に晴れていない俺を戦闘に加える訳にはいかないというものだ。しかし実際は、ヘルガ部長から圧力が加えられているのだとミルバーグ隊長はこっそり教えてくれた。
ヘルガ部長は、あくまでも俺をアオイの側に置いておきたいのだろう。
それでも、何かが起こった際にはいつでも動けるように、俺はできる限りオーリウェル支部に詰めるようにしていた。
もっとも今のところは、捜査部でコーヒーをもらいながら休憩中の捜査官の話し相手になり、作戦部ではお菓子をもらいながら待機中の隊員の話を聞く事しか出来てない訳なのだが……。
軍警とは別に、アオイにも何か騎士団の動きや居場所について情報がないかを探ってもらっていた。
しかし、そちらも今のところは収穫はなしだ。
オーリウェル支部を襲った騎士団は、軍警に損害を与えた事に満足して地下に潜ってしまったのか。又は、軍警刑事部やアオイですら辿り着けない計画が密かに用意されているのか……。
現在の状況では、安易に前者を選ぶ事など出来なかった。
学校と軍警を行き来する日々を繰り返しながら、俺は得体の知れない焦燥感と不安に胸を焦がしていた。
任務に参加出来ないもどかしさは、俺がこの体になった当初と少し似ているかもしれない。
しかし対魔術師戦に参加出来ないという不満を抱えていたあの頃とは違い、多くの命が犠牲になる大規模なテロへの恐れのようなものが、俺の胸の内をかき乱していた。
明日はお休みというその日も、軍警で無為な時間を過ごした俺は、何だか落ち着かないもやもやを抱えてエーレルトのお屋敷に帰った。
時刻はまだ19時半ぐらいだったが、冬のオーリウェルは夜が始まるのが早い。
オーリウェルの街、お屋敷の近くの村、そしてエーレルトのお屋敷も、もうすっかり真夜中のように静まり返っていた。
「ただいま」
俺はピンクのマフラーを取りながらエントランスホールに入る。
暖房の利いたお屋敷の中は、ほっとする様な暖かさに包まれていた。
「お帰りなさいませ、お嬢さま」
まるで待ちかまえていた様にさっと姿を現した伯爵家執事のアレクスさんが、深々と頭を下げて挨拶してくれる。
俺は微笑みを浮かべながら、ただいまですともう一度挨拶した。
今日もきっちりと燕尾服を着こみ、細い目をさらに優しげに細めて頭を下げるアレクスさんの挨拶は、今まで執事などとは縁がなかった俺にとっては逆に恐縮してしまう程丁寧だ。
しかし人間、何にでも慣れるものだ。
「お食事のご用意は出来ております」
アレクスさんは俺の後ろに回ると、コートを脱ぐのを手伝ってくれる。ついでにマフラーや鞄も持ってくれた。
「うん、そうですね……」
俺は少しだけ振り返ってアレクスさんを見た。
「アオイもまだですよね」
アレクスさんは深いシワの刻まれた顔にニコリと笑みを浮かべた。
「もちろんでございます。ウィルお嬢さまのお帰りを心待ちにしておられます」
俺はやっぱりそうですかと、はははと笑った。
実は今日も軍警で沢山のお菓子とお茶を食べてきたので、あまりお腹が空いていないのだ。
「ウィルお嬢さまが戻られたと伝えて参りましょう。アオイお嬢さまは先ほどからウィルお嬢さまの名前を読んで唸っておられますので」
アレクスさんは柔らかな笑みを浮かべる。
「お部屋は暖めてございます。ウィルお嬢さまもお着替え下さい」
アレクスさんはそう言うと、再び深々と頭を下げた。
いつも穏やかで優しいアレクスさん。
真っ直ぐに伸ばされた背筋と糸目の奥の鋭い眼差し。それに隙のない物腰は、厳格で厳しい老紳士を体現する様だ。実際バートレットたちみたいな部外者には、厳しい態度を取る姿を目にした事もある。
しかしアオイに対しては常に優しく丁寧に接し、まだ年若い主人を大切にしているのが良くわかった。
アオイに聞いたところによると、前伯爵やエオリア、それに伯爵夫人アンリエットがいなくなり、アオイが正式にエーレルトの家督を継ぐ事になった際、それまで勤めていた殆どの使用人たちがお屋敷を出て行ったという。
その中で唯一残ったのが、アレクスさんだったそうだ。
アレクスさんの息子夫婦が病気で亡くなり、孫娘のレーミアが屋敷にやって来るまでは、幼いアオイを助けてくれたのはアレクスさんだけだったという。
古くから魔術師である貴族の家に仕えて来たアレクスさんにとっては、前伯爵が迎えたアオイは、実子のエオリアと等しく大事な伯爵家の後継者だったのだろう。
俺はアレクスさんと並んで2階に上がりながら、その横顔を見上げた。
アレクスさんは凄く背が高い。
深い皺が刻まれたその横顔。
それはまるで、エーレルト伯爵家の歴史そのものの様だ。
……む。
そうだ……。
俺はその顔を見てふと思い付いた。
「あの、アレクスさん」
「はい、何でしょうか」
アレクスさんは微笑みながら俺を見た。
「お願いがあるんです」
俺は立ち止まり、アレクスさんの顔をじっと見つめた。
「あの、もし良ければ、エオリアと婚約者のジーク先……ジークハルトの事、教えてくれませんか?」
アレクスさんが僅かに眉を寄せ、目を細めた。
その鋭い眼光に、俺は一瞬気圧されてしまう。
今のところ、ジーク先生に至る手掛かりは掴めていない。
しかしエオリアとジーク先生の過去について詳しく知れば、何かしらの情報を得られるかもしれないと思ったのだ。
アオイは、当時のエーレルト家の中で孤立していた。しかし当時も変わらず家内を取り仕切っていたアレクスさんなら、何か情報を持っているかもしれないと思ったのだ。
「……ウィルお嬢さま。アオイお嬢さまは、ウィルさまと一緒にいる様になり、変わられました。特に最近は顕著に。これは良い変化だと思っております。このまま、お二人で前を向いて進むだけではいけないのでしょうか」
アレクスさんはこう言っているのだ。
暗い過去より、これからの事が大事なのだと。
それは、その通りかもしれない。
しかし俺は、静かに首を振った。
「エオリアとジーク先生の過去をちゃんと知っておく事は、アオイには、いえ、俺たちには必要な事なんです」
……過去の悲しい出来事にケリをつけるために。
「それにもしかしたら、これから起こるかもしれない事件を防ぐ手掛かりがそこにあるかもしれないんです」
俺たち2人だけの事ではない。
多くの人々の未来を守る事になる何かヒントが、そこにあるかもしれないのだ。
俺はじっとアレクスさんを見た。
アレクスさんもシワの奥の細い目から俺を見据える。
「わかりました」
アレクスさんは小さく溜め息を吐いた。
「アオイお嬢さまにお話をして下さい。アオイお嬢さまもウィルお嬢さまと同じお考えなら……」
アレクスさんはそこで一瞬言葉をきり、ふっと息を吐いた。
「明日朝、私のところにいらして下さい。お掃除のお手伝をしていただきましょう」
俺は突然の話の流れにきょとんとしてしまう。
「明日はお天気も良い様です。大掃除と参りましょうか」
アレクスさんはそう言うと、ニコッと微笑み、深々と一礼した。
休日の朝は、ついつい寝坊してしまう。
いつもならそのままお昼頃まで寝てしまい、後でアオイに注意されるのだが、今朝はアレクスさんとの約束もあって、レーミアが起こしに来てくれた。
ベッドから出た俺は、目をしょぼしょぼさせながらパジャマを脱ぎ去る。暖房の利いた屋敷の中は、下着だけになっても寒くなかった。
淡いグリーンの下着の上にジーンズを穿き、セーターに首を突っ込む。
身支度を終わらせた俺は、アオイと合流して手早く朝食を済ませる。そしてそのまま、俺たちはアレクスさんのもとへと向かった。
昨夜遅く。
並んでベッドに横になりながら、俺はエオリアとジーク先生の事について詳しく調べてみようとアオイに提案してみた。
アオイは俺の話を聞きながら、少し渋い顔をしていた。
それはそうだろう。
アオイとエオリア、それにジーク先生との間に起こった出来事は、アオイにとっては辛い思い出の筈なのだから。
俺はじっと天井を見上げて何かを考えているアオイに、ならば俺だけでもアレクスさんに話を聞いてみるとそっと伝えた。
しかしアオイは、静かに首を振って一緒に行こうと言ってくれた。
「過去と向かい合うと決めたからな」
アオイは俺を見ると、そう言ってふわりと微笑んだ。そしてそっと手を伸ばし、俺の手に絡めてくる。
「ウィルと一緒に、な」
アオイの手はひんやりとしていたが、ぎゅっと握り締められると、芯にある温かさが確かに伝わってきた。
俺とアオイは、休日の朝日が降り注ぐ廊下を並んで歩く。
俺に色々と話し掛けてくれるアオイは、昨晩と違っていつもの明るい表情をしていた。
アレクスさんは、使用人部屋のある一角、アレクスさんやレーミアの私室がある近くの倉庫前で俺たちを待っていた。
「それではお嬢さま方。お手数ですが、そちらのバケツと布巾をお持ち下さい。そちらのハタキもお願い致します」
目を細めて微笑むアレクスさん。
そう言えば昨日も掃除だと言っていたが……。
話を聞くのだと思っていたのだろう、アオイも少し驚いた顔をしていた。
俺たちは掃除道具を携え、そのままアレクスさんの後ろについてお屋敷の西棟へと向かった。
アオイや俺の部屋、それに食堂やお風呂なども全てお屋敷の東棟に集まっている。そのため、今までわざわざ西棟にまで来たことはなかった。
以前レーミアに、こちらは空き部屋があるだけだと聞いていたし……。
エーレルトのお屋敷は大きい。
そこに住んでいるのがアオイだけで、それに間借りしている俺と住み込みのアレクスさん、レーミアを加えても、とてもお屋敷の全部を使用する事など出来なかった。
西棟の廊下は、しかし普段使われていないにも関わらず丁寧に掃除されていて、塵一つ見当たらなかった。
アレクスさんは俺たちを引き連れて西棟の二階に上がる。そして廊下の突き当たりの部屋に辿り着くと、鍵を取り出してドアを開いた。
チラリと隣を窺うと、アオイが無表情のまま部屋の中をじっと見ていた。
「どうぞ」
アレクスさんがその部屋の中へ入るように促してくれる。
「お嬢さま方には、本日はこのお部屋のお掃除をお手伝いいただきたいと思います」
優しく微笑むアレクスさんは、普段と変わった様子はなかった。
厚いカーテンが閉じられた部屋の中は薄暗い。
アレクスさんが素早く部屋を横断すると、さっとカーテンを開いた。そして大きく窓を開け放つ。
眩い陽光と冷たい冬の朝の空気が、一斉に流れ込んで来た。
「ここは……」
俺はその部屋に足を踏み入れながら、キョロキョロと周囲を見回した。
そこはピンクの可愛らしい部屋だった。
家具や小物は、角の丸い可愛らしいデザインで、ピンク色のレース生地で飾り付けられていた。
俺がレインから貰ったぬいぐるみなど比べられない程の数と大きさのぬいぐるみたちが所狭しと並び、天井や壁も可愛らしいピンクの花柄の壁紙に覆われていた。
ぬいぐるみのラインナップを見ていると、俺は猫派だが、この部屋の持ち主は熊派の様だ。
小さな女の子の部屋。
そんな感想以外思い付かない飾り付けの部屋だった。
「エオリアさまのお部屋にございます」
掃除道具を用意しながら、アレクスさんがそう教えてくれた。
ここが……。
俺は改めて室内を見回す。
ふと視界にアオイが入った。
アオイは部屋の入り口近くで壁にもたれかかり、何やら難しい顔で腕組みをしていた。どうやらアレクスさんの掃除に参加する気が無いようだ。
「でも、そのまま部屋が残してあるんですね」
俺はアレクスさんからハタキを受け取る。
この部屋の主はもういないのだ。
しかし今にもエオリアが戻って来るかのように、室内はきちんと整えられていた。
「定期的に掃除しております。アオイお嬢さまのご要望でございます」
アレクスさんはいつも通りの笑顔でそう告げた。
一瞥すると、対してアオイはムスッとしたままだった。
……そうか。
この部屋には、エオリアを取り戻したいというアオイの気持ちが詰まっている。
しかし同時に、この主のいない部屋は、そのアオイの願いが虚しいものだということ示している場所でもあるのだ。
俺とりあえずハタキを脇に挟み、セーターの袖をまくり上げる。そしてズボンのポケットに忍ばせておいた髪ゴムで簡単に髪をまとめた。
「……アレクスさん。この部屋には、ジーク先生……ジークハルト……さんは来ていたんですか」
俺は棚の上に並ぶ置物たちをハタキでポンポンしながら、アレクスさんに尋ねてみた。
アオイには辛い場所かもしれないが、エオリアから何かジーク先生につながる手掛かりが得られれば……。
「良くいらっしゃっておられました。このお部屋で話し込んだり、お庭でお茶をされたり」
アレクスさんは小さな鍵を取り出すと、小学生向けの小さく可愛い机の隣に置かれた本棚のガラス戸を開けた。
俺はふと視線を感じて振り返る。
アオイがじっとこちらを見ていた。
その目は、あの星空の夜以来明るくなったアオイの目ではなかった。
俺をエオリアだと思い込もうとしていた時の顔だ。
エオリアの部屋にエオリアに似た容姿の俺がいるんだ。
当然かもしれないが……。
俺はアレクスさんのバケツセットから雑巾とガラスクリーナーを取り出すと、足早にアオイに歩み寄った。
そして至近距離からアオイをぬっと見上げた。
「ウ、ウィル?」
突然の俺の行動に、アオイが目を大きくする。
「はい、これ」
俺はアオイに掃除道具を押し付けた。
「エオリアの部屋、俺たちで掃除しよう。俺とアオイが家族なら、エオリアも妹みたいなものだ。俺たち2人で掃除してやろう」
俺はアオイを見ながらふっと微笑んだ。
しばらく呆気にとられたように俺の顔を見ていたアオイは、しかし根負けした様に大きく溜め息を吐いた。
「……そう、だな」
しばらくぎゅっと目を閉じるアオイ。
しかし直ぐにまた俺を見ると、ふっと微笑んだ。
「私とウィルで一緒に掃除しようか」
アオイは俺が押し付けた布巾とガラスクリーナーを手に取る。
俺は微笑みながら、コクリと頷いた。
「しかし、もしエオリアがいたとしても、ウィルは末の妹だぞ」
アオイは窓に向かいながら髪を振って振り返り、悪戯っぽく微笑んだ。
む。
そうなるのか……?
俺が眉をひそめると、アオイは楽しそうに笑った。
「お嬢さま方にお手伝いいただき、大変恐縮にございます」
アレクスさんが俺たちに向かって深々と頭を下げた。
「あ、大丈夫です。頭を上げて下さい」
俺はブンブンと手を振る。
頭を上げたアレクスさんは、優しく目を細めながらアオイを見た。
アオイは少し照れくさそうにアレクスさんを見た。
「……ウィルと一緒ならば、掃除もよいものだ」
その言葉を聞いたアレクスは、再び頭を下げた。
アレクスさんにも伝わったのだと思う。
アオイが、今まで立ち止まっていた所から少しずつ歩き初めているという事に。
アレクスさんと目が合う。
今も昔もアオイを支える老紳士は、柔らかな表情で俺に目礼した。
「奥さまの紹介でお会いになったエオリアさまとジークハルトさまは、お会いになる度に仲良くなられていきました」
アレクスさんが本棚の中の引き出しを確認しながら、当時のエオリアたちについて説明してくれる。
エオリアたちの様子については、やはり前伯爵以外からは距離をおかれていたアオイよりもアレクスさんの方が詳しかった。
ジーク先生はエオリアの5歳年上だったが、エオリアにとってはそれが良かったようだ。
年上でしっかりしていて、憧れの魔術も立派に使いこなすジーク先生は、エオリアにとって大きな存在になっていった様だった。
「ジークハルトさまも、エオリアお嬢さまと楽しく過ごしておられました。奥さまと3人で過ごされる事も多く、お屋敷にお泊まりになられる事もございました」
窓を磨いているアオイが、少し驚いたような顔をしていた。
ジーク先生がこの屋敷に泊まっていたという事を知らなかったのだろう。
アレクスさんの話は、俺にも少し意外だった。
俺が会っていたジーク先生は、冷静で知的で、あまり感情を表に出さない感じの人だった。親の決めた許嫁とはいえ、誰かとそれ程親身になる様なイメージではなかったのだが……。
「……あいつは、伯爵さまを騎士団に取り込もうと考えていたのだ。だからエオリアとの婚約話に飛び付き、エーレルト家に入り込んだのだ」
アオイが低い声で言い放つ。
アレクスさんが少し困った様に微笑んだ。
確かにあのジーク先生なら、何か別の目論みがあったのかもしれない。
物静かに鋭い目でじっと何かを考え込んでいるジーク先生の姿を思い出す。
……俺に魔術を教えてくれたのだって、きっと何か目的があったに違いないのだ。
「これをご覧ください」
アレクスさんは本棚の下段から引き出しを引き抜き、テーブルの上に置いた。
俺はハタキを握り締めながらそのテーブルに駆け寄る。
「手紙、ですか」
俺はアレクスさん手元を覗き込んだ。
「左様でございます」
引き出しの中には、複雑な紋章が刻まれた高級そうな便箋が沢山詰まっていた。
表書きはエオリア・エーレルトさまへとなっている。裏にはジーク先生の名前があった。
俺はチラリとアレクスさんを見た。
アレクスさんがそっと頷いてくれた。
俺は一通の手紙を取り出し、中を覗く。
びっしりと几帳面に綴られた綺麗な文字を目で追う。
む。
むむ。
……むむむ。
何だか背筋がこそばゆくなって来る。
手紙の内容は、ジーク先生からエオリアに向けたものだった。
昨日は一緒に遊んで楽しかったとか、最近学校や家でこんな事があったとか、またエオリアに会いたいとか……。
年相応に内容は稚拙だったが、それでもこれが相手の事を良く思って書かれたものだという事は直ぐにわかった。
「これは……」
何故か俺の顔が熱くなる。
ぬぬ……。
「はい、恋文にございます」
俺は気恥ずかしさを隠すために、むうっと顔をしかめた。
……なんとマセた事だ。
全く、最近の子供は。
……もう10年以上前のものだけど。
俺は恐る恐る次の手紙を手に取った。
ざっと目を通して、むむむと顔をしかめてから、また次に手を伸ばす。
ここにあるのは全て、ジーク先生からエオリアに送られた手紙の様だった。
エオリアからジーク先生に宛てられた手紙は無いが、2人は相当な頻度で手紙のやり取りをしていた事がわかる。
……これが、エオリアの父を騎士団に取り込む工作のためだけに送られた手紙なのだろうか。
「凄いですね、これ」
俺は手紙に当てられ、少し赤くなってしまった頬を無視してアレクスさんを見上げた。
「はい。エオリアさまとジークハルトさまは仲睦まじく、良い関係にあったと存じております」
アレクスさんは俺を見て柔らかな表情を浮かべる。
ふと視線を感じて振り返ると、アオイが半眼でこちらを睨んでいた。
「ジーク先生、やっぱり優しい人だったのかな……」
俺はぽつりと呟いて、手元の手紙に目を戻した。
もう一度手紙を確認すると、結びの署名の脇に手紙が書かれた場所も綴られていた。他の便箋には、差出人欄に住所が書かれているものもあった。
そうだ、捜査の手掛かりだ。
俺はズボンのお尻ポケットに忍ばせておいたメモ帳を取り出し、その住所を控えていく。
この手紙はもうずっと昔に書かれたものだが、もしかしたら今もジーク先生に繋がる手掛かりがあるかもしれない。
「年は離れておられましたが、エオリアさまとジークハルトさまはお互いを好いておられたと思います」
アレクスさんが山ほどの手紙を見ながら目を細めた。
「でもまだ子供だったのに……」
俺はメモを取りながら眉をひそめた。
俺がその位の歳の時はどうだっただろうか。
ソフィアや姉貴と一緒に、ただ元気よく走り回っていただけの気がする。
「大切な方に恋い焦がれるのに、老いも若きもございません。真に大切だと思える方が現れば、その時から自動的に、恋は始まるのです」
アレクスさんは俺を見ると、そこでふっと悪戯っぽく微笑んだ。
今までの真面目なものとは違う老執事の言葉に、俺は一瞬呆気に取られてしまい、その顔をまじまじと見てしまう。
「ウィルお嬢さまにもいずれおわかりに時が来るでしょう。いえ、もう既にウィルお嬢さまに恋い焦がれている方がいらっしゃるかもしれませんね」
微笑みながら俺に頷きかけるアレクスさん。
む。
……馬鹿な。
そんな人、いる訳がない。
ジーク先生のラブレターのせいで熱くなっていた俺の顔が、さらに赤くなってしまった様な気がした。
俺は体と中身が合っていない中途半端な存在だ。見てくれは少女でも、中身は銃を振り回す軍警隊員だし……。
何かアレクスさんに反論しなければと口を開き掛けた瞬間、俺の肩がガシリと掴まれた。
「あまり余計な事を吹き込むな、アレクス」
俺の肩を抱き寄せながら、いつの間にか俺の傍に来ていたアオイが、低い声でアレクスさんを威嚇した。
「ウィルは私の家族だ。お嫁になど出さない。私がいる間はな」
肩が痛い。
失礼しましたとアレクスさんが腰を折った。
「しかし、恋人にしろ姉妹にしろ夫や妻にしろ、つらい時に一緒にいてくれる人がいるという事は、とても大切な事でございます」
アレクスさんは、エオリアの宝物であったのだろう便箋にそっと触れた。
「エオリアさまにはジークハルトさまがそうでした。そしてアオイお嬢さまにはウィルお嬢さまがそうなのです」
アレクスさんの台詞に、俺は思わずドキリとしてしまう。
いつの間にか、俺の肩を掴むアオイの手も優しくなっていた。
俺はそっと溜め息を吐く。
そしてジーク先生に繋がるかもしれない手掛かりを記した手帳を握る手に力を込めた。
ジーク先生の新たな一面を知って、俺は少し混乱していた。
この手紙の中のジーク先生は、ただの優しい少年に思えた。ジゼルを助けてくれたあの時のジーク先生と同じ……。
俺は眉をひそめ、じっと手紙を凝視する。
「ウィル……?」
アオイが俺の顔を覗き込む。
俺はそっと深呼吸する。
そしてアオイに微笑み掛けてから、再びアレクスさんを見た。
「もう少し、ジーク先生とエオリアの事、聞かせてもらえますか?」
エオリアの部屋を掃除した翌週も、俺は学校が終わると軍警に出頭するという生活を続けていた。
ヘルガ部長からは、毎日出頭しなくてもよいからアオイに張り付いておいてと言われ、バートレットには何も仕事はないぞとぞんざいに扱われていたが、それでも俺は必ず軍警に顔を出した。
近い内に必ず何かが起こる。
そんか予感が、どうしても俺を軍警に向かわせていた。
バートレットたちには、もちろんエオリアの手紙から得たジーク先生の所在に繋がるかもしれない手掛かりを報告しておいた。
しかしファーレンクロイツの名が判明した時点で、刑事部はファーレンクロイツ家に関わる場所は一通り捜索した様で、俺の情報にはめぼしい物があまりなかった様だ。
現在に致も、ジーク先生、それに騎士団に関わる有力な情報は得られていない。
俺は刑事部から作戦部に移り、色々お菓子もらってから、今日はそのまま教練棟に向かった。いつもならお屋敷に帰る時間だが、少し用事があったのだ。
既に日没の時間は過ぎていた。
真っ暗になってしまった支部内の連絡道路を、俺はポツポツと点在する街灯の灯りを頼りに歩く。
聖フィーナの白いコートを揺らし、鞄を両手で持って歩く俺の息は、既に白くなってしまっていた。
曇っているのか、頭上に星は見えない。
周囲には微かに虫の音が聞こえ、さらに遠く崩壊した支部棟の方から未だに続く工事の音が響いていた。
それに加え、どこか遠くからヘリのエンジン音が聞こえてくる。
独りになると、ジーク先生やエオリアの事、そして10年前の事件の事など色々と考えてしまう。
考えていても答が出る問題ではない事はわかっている。
それでも、考えずにはいられないのだ。
……今のまま、緊張したまま支部の中でじっとしていてもしょがないのだ。
俺は、いつかみたいにまたアオイと協力して、エオリアの手紙にあったジーク先生の所在地を自分の足で回ってみようと考えていた。
その為には、銃が必要だった。
最初から戦う事ばかり考えている訳ではないが、ジーク先生はあの鷲のエーレクライトなのだ。それに、ゲオルグの屋敷を襲った魔術師たちもいる。
戦闘の備えは必要だ。
しかし今俺の手元にあるのは、アオイから返還してもらったたハンドガンだけだった。
その他の装備は、俺が魔術使用の影響で倒れている間に軍警に回収されてしまったのだ。
そのため俺は、新たなライフルを借りるべく教練棟の銃器庫へと向かっていた。
教練棟の辺りは、オーリウェル支部の中でも殆ど被害がなかったところだ。
銃器管理課のある棟に入ると、奥の射撃場から響いて来る銃声と、独特のガンパウダーの匂いが漂って来た。
そういえば、ここしばらくは発砲訓練をしていない。
射撃のスキルを維持するためには、定期的な実弾訓練が必要だ。
ライフルを借りられたら、ついでに訓練していこうか。
俺は小走りに銃器貸し出し窓口に向かった。
「お疲れ様です」
カウンターの内側に声を掛ける。
そこには、渋い顔をして人差し指でキーボードを叩く銃器管理係のオットー軍曹が座っていた。
「あ?」
軍曹がギロリと俺を睨む。
「何だ、ウィルちゃんか」
俺を認めた瞬間、軍曹の厳つい顔が笑顔に変わった。
「久し振りだな、ウィルちゃん。活躍してるそうじゃないか」
「あ、はい。ありがとうございます」
俺は微笑みながら、学生鞄を開く。そして先ほど作戦部でミルバーグ隊長から決裁をもらった書類を差し出した。
「おうおう、9ミリ弾の補給だな」
オットー軍曹が手早く書類を確認し、カウンターの奥の棚から箱に入った9ミリ弾を持って来てくれた。
ライフルを借りるついでに、ハンドガンの弾の補給もしておこうと思ったのだ。
「ついでに銃もみてやるよ。今持ってるか」
「あ、はい」
俺は聖フィーナ指定の鞄をごそごそと漁り、ハンドガンを取り出した。
俺から銃を受け取った軍曹は、弾倉を抜き、スライドを外して手早く分解してしまう。
「ふむ。ちゃんと手入れはしているみたいだな」
オットー軍曹が銃のパーツを机の上に並べていく。
「あの、軍曹。えっと、実はお願いがあるんですが……」
俺はハンドガンを整備し始めた軍曹に、おずおずと声を掛けた。
「何だい。あ、チョコたべるか」
俺は苦笑しながら、取りあえず1つだけもらう。今はお腹一杯なので、後で食べようとその包をポケットにしまった。
「あの、またライフルも一丁貸してもらいたいんです。ミルバーグ隊長にお話はしてますので……」
「ああ、ウィルちゃんには前に評価試験してもらってたやつがあったが……」
軍曹はそこで何かを思い付いたのか、近くにあった書類の束をペラペラとめくった。
「ああ、すまない、ウィルちゃん。ウィルちゃんには新規貸与できないな。刑事部長名で命令が来ている」
……う。
俺は眉をひそめてぎゅっと手を握った。
少しだけ予想はしていたが、やはりか。
俺が戦闘任務に就かないよう、こちらまで手を回されているのだ。
俺は目を伏せて考え込む。
このまま騎士団と対峙すれば、俺は足手まといだ。ただアオイに守ってもらう事になってしまう。
しかし、だからと言ってヘルガ部長の言うようにこのままじっとしているのも嫌だった。
……どうする。
俺は肩を落としてそっと溜め息を吐いた。
「ほらよ。9ミリだって、そこいらの魔術師を制圧するには十分だ。正しく扱えば防御場だって抜ける。大切に扱ってくれ」
再び組み上げたハンドガンを、軍曹はゴトリとカウンターに置いた。
「……はい。ありがとうございました」
俺はお礼をいいながら銃と弾を鞄にしまった。
オットー軍曹にもう一度礼を言い、俺は外に出た。
確かに、並みの魔術師相手ならハンドガンでも遅れを取るつもりはない。
しかしジーク先生のエーレクライトが相手であれば……。
俺は眉をひそめながらとぼとぼと一般棟へ戻る。
その俺の前方で、軽機動車と装甲輸送車が車列をなして現れ、近くの格納庫前で停車した。
「総員、速やかに乗車!」
鋭い指示の声が聞こえてくる。
訓練という雰囲気ではなかった。
任務出動だ……。
俺はスカートを揺らし、思わずそちらに駆け寄った。
恐らく待機場にされていたのだろう格納庫から、完全武装の隊員たちが現れる。全身黒い装備に包まれた彼らは、まるで夜闇そのものが動いている様だった。
分隊出動ではない。一個小隊はいる。
「任務ですか」
俺は軽機動車の近くに立つ隊長と思われる背中に思わず声を掛けていた。
「何だ? ああ、ウィル・アーレンか」
「ハーミット隊長」
防弾帽の下の鋭い目が、ギロリと俺を睨んだ。
「お怪我はもうよろしいのですか」
俺は少し驚いて目を大きくしながら、身長の高いハーミット隊長を見上げた。
「ああ。何とかな」
隊長は俺を一瞥して頷いた。
ハーミット隊長はオーリウェル支部襲撃があった際に支部の残存部隊を指揮し、防衛戦を展開。そこで負傷したと聞いていた。
「選挙の時期が近付いている。時間の猶予はもうない。おちおち寝てはおられんよ」
胸の奥がドキリと跳ねる。
「騎士団、ですか」
俺は鞄を持つ両手にぎゅっと力を込めた。
「ああ。奴らが動く前に、押さえてみせるさ」
ハーミット隊長の低い声には、僅かな焦りの様なものが感じられた。
統一国政選挙の告示は、もう3週間先に迫っている。
そのタイミングで騎士団は必ず動いて来る。
それまでに俺たちがジーク先生に追い付けなければ……。
「総員乗車完了!」
「よし、行くぞ。アーレン。お前は帰りなさい。こんな所にいては風邪を引くぞ」
ハーミット隊長は一瞬優しく微笑むと、軽機動車に乗り込んだ。
軽機動車や輸送車の運転手が、俺に手を振っていた。
車列が動き出す。
俺は邪魔にならない様に脇に避けながら、それを見送った。
冷たい風が吹き抜け、俺のコートの裾と髪をふわりと揺らした。
恐らくは騎士団を制圧に向かうのであろうみんなが、無事に帰ってこれますように。
そして、その任務が成功しますように。
俺は髪を押さえ、目を細める。
今の俺には、ただじっと祈る事しか出来ない。
ご一読、ありがとうございました!




