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Hexe Complex  作者:
65/85

Order:65

 満天の星々が瞬く夜空の下。

 冷たい夜の空気に頬を赤くした俺とアオイは、静かに向かい合っていた。

 俺はじっとアオイを見つめて、その次の言葉を待っている。

 僅かに目を伏せたアオイは、無表情のまま何かを考えている様だった。あるいは、思い出しているのだろうか。

 償い。

 先ほどアオイが口にしたその言葉は、何を意味するのだろうか。

 アオイがおもむろに尖り帽子を取った。そしてそれを、膝の上に乗せる。

 夜と同じ色の長い髪と、同じく長い睫。透き通るような白い肌に、ピンと伸ばされた背筋。

 聖フィーナの制服に身を包んだその姿は、しかしいつもの泰然としたアオイというよりは、どこか儚げで弱々しいものの様に俺には感じられた。

 「アオイ」

 俺は、思わずポツリとそう呟いていた。

「……教えてくれないか。アオイがどんな風に今まで過ごして来たのかを。今まで何があったのかを。俺に、話して欲しい」

 俺はゆっくりと噛み締める様に話しながら、アオイの顔をじっと見つめる。

 アオイが抱えているもの。

 それに対して、もし俺が何か力になれるのであれば、今度は俺がアオイの助けになりたかった。

 微かに夜風が流れて行く。

 アオイの髪がふわりと揺れ、俺も頬に掛かる髪を押さえた。

「家族、か」

 アオイがポツリと呟いた。

 俺の目を覗き込むようにアオイがこちらを見た。

 朧な星明りの下でも、アオイの暗い瞳には色々な感情の動きが見て取れた。

「……そうだな。ウィル。ウィルには、聞いて欲しい」

 アオイが一旦言葉を切り、すっと息を吸うのがわかった。

「私がこの屋敷に来たのは、5歳の時だった」

 やや伏し目がちに静かに話し始めるアオイ。

 そしてしばらくの沈黙。

 アオイが顔を上げ、再び俺を見た。

 その表情は、既にいつものアオイそのものだった。淡々とした声には動揺や憂いはなく、僅かに笑みも浮かんでいる。

 しかし俺には、その表情も声も、アオイが無理に作り上げているものの様に思えてしまった。



「小さい頃の事など、それ程明確には覚えてはいないものだ。よほど印象的な事でもない限りな。しかしこの屋敷に連れて来られた時の事は、今でもよく覚えている」

 アオイは屋敷の方へと顔を向けた。俺もそれに倣ってエーレルト伯爵邸を見た。

 僅かな灯りが微かに漏れるお屋敷は、黒い大きな塊となって夜の底に沈んでいる。

 この国に来る前。

 アオイは、日本の孤児院で生活していたそうだ。

 物心ついた頃には既に両親はおらず、ビルの間にあった古い孤児院での生活が一番古い記憶だとアオイは語った。

 両親がいない事について、寂しいとか悲しいという事はなかったとアオイは微笑んだ。

 独りなど特別な事ではなく、アオイにとってはそれが当たり前だったのだ。

 アオイがいた孤児院には、他にも10名程の子供たちがいたらしい。恐らくその場所は、何か魔術関連の施設だったのだろう。皆幼いながら、魔術についての勉強や訓練をさせらていた様だ。

 その中でもアオイには、特に高い魔素適性があったという。

「当時の私は、色々と本ばかり読んでいたな。魔術の扱いや術式の事など、色々と本から学んだ。もっとも、挿し絵ばかりの絵本みたいなものばかりだったが」

 アオイは何かを思い出す様に遠くを見つめ、そっと目を細めた。

 孤児院の中には古い板張りの図書室があって、アオイは良くそこにいたという。むしろ覚えている孤児院での記憶は、そこで本を読んでいる場面ばかりだそうだ。

 そんなある日。アオイのもとに養子の話が舞い込んで来た。

 アオイを養子に迎えたいと名乗り出たのは、エーレルト伯爵家。

 遠い異国の魔術師貴族だった。

「それを聞いた時、私は喜んだんだと思う。内心な。当時、可愛くない私は、一流の魔術師を気取ってクールなフリをしていたから、表立ってそれを表しはしなかったが」

 なるほど。

 小さい頃からアオイはアオイだった訳だ。

 俺は小さく微笑む。

「ウィル?」

 俺が内心うんうんと頷いていると、ギロリとアオイに睨まれた。

「幼い私には、先代のエーレルト伯はまるで物語の登場人物に見えた。外国人など見たこともなかったから、衝撃が大きかったのだ」

 魔術と本に囲まれてひっそりと暮らす小さな女の子。

 そこに現れた外国の貴族。

 貴族は女の子に自分の家族になって一緒に暮らそうと言う。

 それは、女の子に取って、まさに世界が一変する出来事だったのだ。

「私は伯爵さまに連れられて日本を出た。最初は言葉も通じなかったが、伯爵さまは私の使う魔術には大喜びしてくれたな」

 それはそうだろう。

 エーレルト伯爵ヨシュアが求めていたのは、エーレルト伯爵家を特別な存在たらしめる強い魔術師の存在だった。

 5歳にして容易に魔術を操るアオイの存在は、伯爵にとって求めていた通りのものだったのだろう。

 そしてアオイは、この屋敷にやって来た。

 エーレルト伯爵家を担う魔術師として。

「最初、この屋敷を見た時は、不覚にもはしゃいでしまったよ。教会の鐘楼。どこまでも続く森や草原。そして深い緑の中に佇む洋館。そのどれもが、私には素敵なものに見えたからな」

 アオイがそっと微笑んだ。

 期待と不安を小さな胸に押し込めて、アオイの新しい生活が始まったのだ。

 しかしそれは、決して順調なものでは無かった。

 伯爵本人と貴族の家のしきたりに精通している使用人、アレクスさん以外にとっては、アオイはお屋敷に突然飛び込んで来た異物でしかなかった。

 アンリエット夫人は、決してアオイを伯爵家の娘とは認めようとしなかったそうだ。

「あのお方は、立派な貴族夫人になろうと必死だったのだ。一般の出身だったからだろう。人一倍貴族としての振る舞いに固執されている様だった」

 アンリエットは、もともとが生真面目な性質だったのだろう。それがアオイの登場により、娘の溺愛という方向に加速し始めてしまった。それが彼女にとっては、伯爵婦人という役割を果たす手段になってしまったのだ。

 俺はアオイの表情を窺う。

 エーレルト家に来たアオイは、辛い目にあったのだろうか。

「ふふっ、大丈夫だよ、ウィル。あの方は常に気高くあろうとしておられた。だから陰険な方法でいじめられるような事はなかったよ。いささか厳しく教育していただいた事はあるけれど」

 そう言って軽く笑ったアオイは、特に辛そうな顔はしていなかった。

 しかし、逆にそれが、何だか俺にとっては痛々しく感じられてしまう。

 辛く当たられる事を何とも感じていなかったのなら、それはなお悲しい事だと思う。

「やはり優しいな、ウィルは」

 俺が眉をひそめて目を伏せていると、アオイが穏やかに囁いた。

 俺は慌てて笑顔を作り、首を振った。

「でも、前の伯爵は優しくしてくれたんだろう?」

「ふむ、そうだな」

 アオイを連れてきた張本人なら、義理の娘にも優しくしてくれたのではないか。僅かにでも家族の暖かさがあったなら、それは大きな救いだ。

 アオイは胸の下で腕を組み、僅かに首を傾げた。

「西洋魔術の訓練はもちろん、語学や歴史、文化。数学などの一般教養。それに礼儀作法や貴族の勉強など、あの頃の私に自由時間はなかったな。伯爵さまは厳しいお方だった。それに、魔術訓練の時以外、伯爵さまと顔を合わせる事はほとんどなかったな」

 俺は顔を曇らせた。

 それは、娘に対する態度というえるのだろうか。

 親が子に教育を施すのは、その子の将来を思っての事だ。

 しかしアオイに対するそれは、ゲオルグの話を聞いた今、アオイの為というよりもエーレルト伯爵家の為だという事がわかってしまう。

 そこには、アオイ自身の事を思う気持ちなど無い様に俺には感じられた。

 あえて口にはしないが、賢いアオイの事だ。そんな事はわかっているのだろう。

 俺はマントの下に隠した手を、ギュッと握り締めた。

 しかしその目的が何であれ、エーレルト伯ヨシュアがアオイに執心すればするほど、アンリエット夫人とヨシュアの関係に距離が開き始めた事は確かだった。そしてその事は、アオイに対する周囲の目をさらに厳しくする。

 エーレルト夫妻の実の娘であるエオリアも、アオイに打ち解ける事はなかったそうだ。

「それも当たり前だな。私は突然現れてエオリアの父親を奪ったようなものなのだから」

 アオイはふと表情を消すと、ポツリと呟いた。

 アオイとエオリアは同い年だった。しかしアオイの誕生日が数ヶ月ばかり先だったため、アオイが姉として扱われる様になった。

 それもあるいは、エオリアがアオイに反感を抱く一因となったのではないかとアオイは苦笑した。



 エオリア・エーレルトは、キラキラと輝くストロベリーブロンドとクリクリとした大きな目が印象的な勝ち気な女の子だったという。ヒラヒラとしたドレスを着て、いつもお屋敷の中を元気良く駆け回っているような子だったらしい。

「初めて出会った時、私には可愛らしいお人形さんに見えたな」

 アオイがチラリと俺を一瞥した。

 俺と同じ髪の少女。

 エーレルト伯爵家の正当な後継者……。

「彼女は活発で、何に対しても一生懸命だった。私に対しても、お姉さんの様に色々と教えてくれようとしていた」

 最初は、アオイとエオリアの関係も良好なものだったのかもしれない。

 しかしヨシュアがアオイを優遇し、母親がそれに悩む姿を目の当たりにしたエオリアは、だんだんとアオイに対抗心を表す様になっていった。

 しかしアオイは、一般の勉強でも魔術においても、その優秀さを示し続けた。特に魔術の分野では、アオイとエオリアの差は歴然としていた。

 もしエオリアが完全に魔術を使えなかったのなら、話はまた違ったのかもしれない。

 しかし衰退し、力が弱まっていたとはいえエーレルトの血脈に連なるエオリアは、何とか汎用術式程度の魔術を行使する事が出来た。

 エオリアもアオイに対抗しようと努力したのだろう。

 幼いなりに父を振り向かせ、母を喜ばせようという思いがあったのかもしれない。

 しかし、魔術の力は才能によるところが大きい。努力で補える範囲には、限界があった。

 小学校に上がる頃には既に西洋式の術式構築もマスターし、オリジナルの術式をも編み出していたアオイには、対抗できる筈もなかったのだ。

 アオイが稀代の魔女と評価され、他の貴族たちに注目され始めると、アンリエットとエオリアの立場はますます弱いものになっていたった。

 しかしアンリエットもただじっとしていた訳ではなかった。

 伯爵夫人は、勝ち目のない魔術とは別の側面から、我が娘エオリアの立場を強化しようとしたのだ。即ち、エーレルト伯爵家の嫡子としての立場を。

 その為にアンリエットがとった手段は、エオリアと有力貴族との婚約だった。

 アンリエットも政治家の娘。父を通し、政界に独自のコネを持っていた。それを利用し、エオリアの結婚相手としてとある大貴族の令息を見出したのだ。

 もちろん小学生になったばかりのエオリアにはまだ早すぎる話ではあったが、それだけアンリエットは必死だったのだろう。

「由緒ある貴族から婿を迎えれば、エオリアがエーレルトを継げる。アンリエットさまはそう考えていた様だ」

 アオイが低い声で呟いた。

 怖い声だった。

 俺はアオイをじっと見つめる。

 無表情な顔とは対照的に、その目だけがギロリと鋭い光を帯びる。

「その結果、あの男を伯爵家に招き入れる事になってしまったのだ。エオリアたちに破滅をもたらしたあの男を……」

 ぞくりとするようなアオイの冷たい声。

 俺の胸の奥が、ズキリとする。

 全身に緊張が走り、俺は身を固くした。

 背筋を冷たいものが流れ落ちる。

 剣呑な表情のアオイ。

 今までアオイがここまで敵対心を露わにしたのは、俺の知る限りあの時だけだった。

 軍警オーリウェル支部が襲撃を受けたあの夜。

 駆けつけてくれたアオイが、鷲の意匠を施したあのエーレクライトと対峙したあの時。

 アオイがジーク先生と出会ったあの瞬間だ。

「そうだ」

 ギラリと光る目でアオイが俺を射抜いた。

 夜の闇に、微かに青い光が飛んだ。

「ジークハルト・フォン・ファーレンクロイツ。あの男が、アンリエットさまが定めたエオリアの婚約者だ」

 俺は目を見開き、アオイの顔を見返した。

 愕然とする。

 ジーク先生が、婚約者……。

「あれは夏至の日の夜会だったと思う。その場で私は、初めてあの男に出会った。あの男は、エオリアより5歳年上だった。エオリアはお兄さまお兄さまとあの男にじゃれついていた。最初は、あの男も紳士的に振る舞っていたのだ」

 アオイがきゅっと眉をひそめた。

「もしもあの男が真っ当な貴族であったなら、いや、普通の男だったなら、どんなに良かったか……」

 アオイが唇を噛み締める。

「しかし奴は、既にその年齢にして、騎士団の一員だったのだ」

 騎士団……。

 俺は息を呑む。

 やはりジーク先生は、聖アフェリア騎士団のメンバーだったのだ。

 様々な状況が、ジーク先生が騎士団の一員であるという事を告げていた。もちろん俺も、考えないようにはしていたが、それが隠し様のない事実であるという事は、心の片隅で察知していた。

 しかし。

 それでも面と向かってそう告げられると、やはり俺にとっては大きな衝撃だった。

 ……ジーク先生。

 微かに体が震えた。

 初めて出会った時の事。

 俺が風邪を引いた時、保健室まで運んでもらった事。

 夜会の場で、ジゼルを助けてもらった事。

 そして、沢山の時間を一緒に過ごした魔術講義……。

 今までジーク先生と過ごした時間が目まぐるしく脳裏をよぎる。

 俺はジーク先生を尊敬していた。

 しかしその思い出の全てが、今、すっと色褪せて行く様な気がした。

 何故だろう。

 じわりと視界が滲み始める。

 熱い涙がこぼれ落ちそうになり、俺は慌てて目元を拭った。

「ウィル?」

 アオイが気遣わしげに声を掛けてくれる。

「……だい、じょうぶ」

 俺は声が震えるのを抑えるために、なるべく短く答えた。

 ……今は、俺の事よりもアオイの事だ。

 当時のアオイは、まだ騎士団やこの国に存在する魔術犯罪について詳しく知らなかった。それはエオリアも同様だった。

 当然の事だろう。

 恐らく相当大人びていたと思われるが、彼女たちはまだ小さな少女だった。政治や犯罪の知識など、無縁なものだったのだ。

 しかしエオリアは、時が経つにつれてジーク先生にますます懐く様になって行った。

 それは、必然の流れだった。

 ジーク先生もまた、魔術に関して非凡な才能を持っていた。さらにジーク先生が所属していた騎士団という組織が、魔術の探求や行使に深い関わりを持っていたという事が、エオリアを魅了したのだろう。

 アオイという邪魔者に、貴族のアイデンティティである魔術で劣るというコンプレックスが、エオリアとジーク先生、それに騎士団を結び付けていった。

「そして、あの事件が起こった」

 アオイの低い声に、俺はドキリとしてしまう。

 あの、事件……。

 急速に胸の鼓動が高まり、全身がカッと熱くなり始めた。

 まさか……。

 いや。

 そうだ。

 胸が震える。

「もう10年くらい前か。ショッピングモールで発生した大規模魔術テロ。騎士団が引き起こしたあの惨劇の現場に、あの男とエオリアがいた。あの男は、自らが加担する犯罪に、エオリアを引き込んだのだ」

 アオイが忌々しげに呟いた。

 アオイの目が、一瞬青く光った気がした。ギラリと光る鋭い眼光に、抑えられない怒気が滲んでいた。

 俺はただただ呆然とする。

 あのテロに、エーレルト伯爵家だけでなくジーク先生も関わっているなんて……。

 それも、加害者の側として……!

 一瞬、目の前が真っ白になる。

「あの日。エオリアはあの男とあのショッピングモールに出掛けていった。それを知った伯爵さまは、娘を連れ戻しに行ったのだ」

 貴族派の一員であったエーレルト伯爵ヨシュアは、もしかしたら騎士団の動きをある程度把握していたのかもしれない。

 いくら伯爵家の後継者をアオイと定めていても、父親が実の娘を心配しない筈がない。

 娘を騎士団から引き離すべく、エーレルト伯爵もあのショッピングモールに向かったのだ。

「その魔術テロは、失敗だったそうだ。敷設した術式陣が暴発し、想定以上の広範囲に無秩序な破壊を巻き起こしてしまった。それに、エオリアもエーレルト伯も巻き込まれたのだ」

 そして、エオリアとエーレルト伯爵ヨシュアは命を落とした。

 胸がキュッとなり、息苦しくなる。

 心臓は激しく脈打ち、俺は肩を揺らして荒い息を吐いた。

 ……そこに、俺の家族もいたのだ。

 父さんに母さんに姉貴がいたのだ。

 俺は握り締めた拳を胸に当て、何度も深呼吸を繰り返した。

 ……大丈夫だ。

 大丈夫だから……。

「伯爵さまとエオリアが魔術テロの犠牲になったという知らせは、夜になってから屋敷にももたらされた。あの瞬間のアンリエットさまの絶叫は、忘れられない」

 ぼそりと、何かを押し殺した平板な声でアオイはそう告げた。

 アンリエットはその場で卒倒した。エオリアの名前をうわ言の様に唱え、しばらく意識が戻らなかったという。

 そしてそのまま、アンリエットは現実世界で生きる事を放棄したのだ。

 もちろんアンリエットは、もうアオイを認識する事はなかった。

 そして約一年後、伯爵夫人は夫と娘の元に旅立った。

 アオイは長い話を終え、深く長く息を吐いた。

 白くなった息が夜空に向かって立ち登り、消える。

 耳に痛い程の静寂が俺たちを包み込む。微かに聞こえるのは、自分の呼吸の音だけだった。

 アオイやエオリアについてだけではない。

 ジーク先生や騎士団。

 そしてあの魔術テロ事件。

 俺にとっても衝撃的な事ばかりで、容易に受け止める事など出来なかった。

 ……アオイの経験して来た事。

 俺は咄嗟に掛ける言葉を見つけられず、ただ唇を引き結んで沈黙するしかなかった。



「……わかっただろう」

 しばらくして、ぽつりとアオイが呟いた。

「確かにエオリアを騎士団に巻き込んだのはアンリエットさまであり、あの男だ。しかし、そうなる状況を作り出したのは、私なんだ」

 アオイが暗い顔をして俺を見た。

「私という異物が入り込まなければ、エーレルト伯爵家は幸せなままだったかもしれない。エオリアも今頃、聖フィーナに通っていたかもしれない。それを、私が壊してしまったのだ」

 淡々と続けるアオイ。

 その言葉は、後悔とか苦悩とかそうした感情任せのものではなかった。アオイはただ、胸の内にある物をそのまま吐露しているだけの様だった。

 しかしそれを聞いて、俺は眉をひそめる。

「それは、違うと思う、アオイ! だってアオイは、ただ連れて来ら……」

「違わないさ」

 俺の言葉をアオイが遮った。刃の様に鋭い声だった。

「私の、私という存在が、エーレルト家を壊した。それは、間違いない事実だ」

 ……しかしそういう風に考えてしまうのは、悲しいと思う。

 事実は、もしかしたらアオイの言う通りなのかもしれない。しかしそれは、アオイの負うべき責任ではないと思う。

 これでは、誰にも救いがない。

 ただ悲しい事が起こってしまった事実が、今もアオイを縛り付けている。

 ……これでは、いけない。

 俺は、きゅっと唇を噛み締めた。

「だから私は償わなければならない。エーレルト伯爵家を破壊したという罪を。それを成すために、私は今まで仮初の伯爵を続けてきたのだから」

 アオイが俺から視線を外して、遠く夜空を見上げた。

 キラキラと輝く無数の星々を見上げたその顔は、しかしその美しさなど見えていない様に、無表情なままだった。

「失われた命は、二度とは戻らない。それは、魔術の力を持ってしても覆らない真理だ。わかっているのだ。わかっている。でも、それでも私は、エオリアを求めずにはいられなかった。エオリアはエーレルト夫妻の愛した娘であり、伯爵家の正当な後継者なだから」

 そこでアオイは、ふっと微笑んだ。

 自嘲気味に。

 少し悲しそうに。

「しかし時が経つに連れて、私の中でも諦めが大きくなっていた。徐々に、エオリアの事よりも騎士団や魔術犯罪者を懲らしめる事に贖罪を見出すようになっていた」

 魔術で傷つく人を減らすためにな、とアオイは付け足した。

 それが魔術師犯罪者たちを粛正し、ごろつき共から恐れられていたレディ・ヘクセの活動の動機という事なのか。

 以前語ってくれた、アオイの戦う理由。

 争うのが嫌だ。魔術で悲しむ人を無くしたいという言葉の根底には、こういう理由があったのだ。

「しかしそこで、私は出会ったのだ。ウィル、君に」

 俺ははっとして、アオイの顔を見た。

 あの廃工場の夜。

 自爆術式陣が起動し、多くの仲間たちが吹き飛ばされた。

 その中に、俺もいた。

 力尽きる仲間たち。

 恐らく俺も、そうなっていた筈だった。

 しかし。

 俺の前には、黒衣の魔女が現れた。

「瀕死に際してもなお強い意志の光を宿す目を見て、私はこの人を助けよう思った。しかし、ただの治癒術式では、既に手遅れだったのだ。だから私は、その肉体を魔素で再構成する術式を使用した。それは、エオリアを救えないかと研究し、準備していた術だった」

 アオイがゆっくりと真実を紡いでいく。

 そうして、今の俺が生まれた。

 エオリアに良く似た容姿のウィル・アーレンという存在が。

 アオイが一瞬目を瞑り、微かに俯いた。

「……最初は、ただウィルを助けられただけで良かったのだ。しかし私は、エオリアの姿をした少女にどうしても会いたくなってしまった。だから軍警に手を回し、ウィルが屋敷に派遣されてくる様にし向けた」

 アオイが俺を見る。

 そして、ふわりと微笑んだ。

「そして、私はウィルに出会った」

 そう、俺はアオイに出会った。

「会ってみれば、ウィルは本当に良い子だった。正義感に溢れ、可愛くて凛々しくて時々頑固で、それで可愛くて……。私は、こんな娘が本当の妹であったならと思った。しかし……」

 アオイはふっと笑みを消す。

「私は家族など望んではいけない。望めはしない」

「そんな事は……!」

 思わず叫びそうになった俺を、アオイはすっと細めた視線で制した。

「共に過ごすうちに、私はますますウィルに惹かれていった。そしてだんだんと、ウィルにこそ、エオリアになって欲しいと思う様になっていた。ウィルなら、ウィルならばきっとエオリアになってくれる。エオリアに相応しい。そう思うようになった。それこそが、私の成すべき事なのだと……」

 ……アオイ。

 顔だけでなく体ごと俺の方へ向いたアオイが、俺に向かって手を伸ばそうとする。

 しかしその手は、何かを躊躇う様に中空で止まると、すっとベンチの上に落ちた。

「……そんな時、あの男が再び現れた。ジークハルト・フォン・ファーレンクロイツ。ファーレンクロイツ侯爵家の次男にして、エオリアの元婚約者。そしてエオリアを騎士団へと引き込んだ男だ」

 キッとアオイの目が鋭くなった。ベンチの上の手が、ギュッと握り締められた。

 ……ジーク先生。

 俺はアオイから目を逸らして肩を落とすと、地面を見た。

「だから私は、ウィルをエオリアとして守ると決めたのだ。今度こそ……。ウィルがもしこのままこの伯爵家にいてくれるならば、私は、私はあの男と刺し違えても……!」

「……アオイ!」

 俺は思わず顔を上げ、アオイを見た。

 微かに青く光るアオイの瞳が、真っ直ぐに俺を射抜いていた。

 感情の高ぶりと共に抑えきれない魔素が、青い光となってアオイから飛ぶ。

 その瞳には、魔素の輝きと共に強い決意の光があった。

 俺は髪を揺らして頭を振る。

 ……ダメだ。

 差し違えるなんて、そんな事を……!

「ダメだ、そんな事を言っては!」

 俺は身を乗り出して、先ほど引っ込められたアオイの手を強引に握った。 夜気にさらされたアオイの手は、とても冷たくなっていた。

 俺は至近距離から、真っ直ぐにアオイを見つめる。

 アオイも決して目を逸らさずに、俺を見つめる。

 俺たちはそのまま微動だにせず、じっと対峙した。

 握ったアオイの手は冷たかったけれど、その芯には確かな温かさがあった。

「……刺し違えるとか、家族を望めないとか、悲しい事言うな」

 先にその静寂を切り裂いたのは、俺だった。

 僅かに震えた小さな声で、俺は呟く。

「アオイは俺の事を認めてくれたんだろう? だったら、エオリアの代わりとしてじゃなく、俺を俺として、アオイの家族にして欲しいんだ」

 今度は恥ずかしがる事などなく、俺はそう言い切っていた。

 過去を省みて過ちを償う事と、自分を痛めつけて陥れる事とは違う。

 エーレルト家が崩壊した原因が僅かでもアオイにあったとしても、だからといってアオイが独りきりでいなければならない理由にはならない筈だ。

 ましてや、俺やエーレルト家の為にジーク先生と刺し違えるなんて……。

 しかし俺の言葉に苦しげに表情を曇らせたアオイは、俺の手を振り解いて顔を逸らした。

「……しかし、私はウィルを巻き込んだのだ。そんな姿にしたのもエオリアの代わりにしようとしたのも、私の勝手な都合だ。ウィルには全く関係のない事ばかりだ。私はウィルを利用した。今も、利用しようとしている」

 目を逸らしたまま、アオイはふっと笑う。

「やはり私には、ウィルの家族になる資格などない。だから……」

 カッとなる。

 俺は思わず立ち上がり、アオイを見下ろした。

「俺は、アオイに助けられたんだっ!」

 夜の静寂を切り裂いて、俺はそう叫んでいた。

 確かにアオイには、目的があったかもしれない。

 でも俺が命を救われた事実は、変わらない。

 俺はもぞもぞとアオイのマントを脱ぎ捨てる。そしてシルクの手袋に包まれた手を、真っ赤なドレスの胸の膨らみに当てた。

「俺は、この姿になった事を後悔していないぞ! この姿になったからこそ経験出来た事がいっぱいある! 前のままの俺だったら、見つけられなかったものばかりだ!」

 魔術師たちの社会。

 貴族の生活。

 聖フィーナ学院。

 ジゼルたちと過ごす時間。

 そして、アオイという存在。

 魔術犯罪者と戦うだけだった俺の世界は、一変したしたのだ。

 俺は胸のドキドキを抑えるために、大きく深呼吸して少し間を開けた。

「アオイ」

 そして再び、静かにアオイに呼び掛ける。

 僅かに顔を上げて俺を見るアオイ。

 こちらが立ち上がり、見下ろしているからだろうか。ベンチに座る黒髪の少女は、普段より随分と小さく見えた。

 それは若く有能なエーレルト伯爵でも、稀代の魔女でも、ましてやレディ・ヘクセと恐れられる魔術師の姿ではない。

 期待と後ろめたさと様々な物が入り混じった苦悩の表情で俺を見る、アオイという少女そのままの姿だった。

 俺は少しだけ歩いて、東屋の屋根の下から出た。

 遙か頭上には、星を散りばめた天球が広がる。

 白い星。赤い星。青い星に、星の集団。星座と天の川と無限に広がる宇宙が、俺たちを包み込んでいる。

 俺はそっとその夜空を見上げて短く息を吐く。

 そして、勢い良くくるりと振り返った。

 赤いドレスの裾が、ふわりと広がった。

 不思議と寒さは感じなかった。

「……アオイ。悲しかった事とか辛かった事とか、怒りや憎しみみたいな強い感情を忘れるっていうのは、簡単な事じゃない。それは良くわかる」

 俺は一瞬言葉を切る。

 それは、俺自身も実感している事だった。

 家族を奪われた怒りと魔術師達への憎しみは、時間が経てば経つほど胸の奥に凝り固まって離れなくなった。

「……でも、忘れる事は出来なくても、新しい経験や楽しい思い出で塗り潰す事はできると思うんだ」

 俺が、アオイたちと出会ってそう出来た様に。

「アオイ。俺と一緒にいるのは嫌か?」

 俺の問いに、アオイは微笑みを作り上げながら首を振った。

「……そんな事、ある筈がない。ウィルがいなかったこの2日間は、胸が張り裂けるようだった」

 アオイは微笑む。冗談めかして言おうとしているが、その声は微かに震えてしまっていた。

「……怖かった。ウィルがいなくなる事が」

 微かに、消え入る様な声でアオイが囁いた。

 その告白に、俺もぎゅっと胸が締め付けられる。

 それでも俺は、ニカッと精一杯微笑んだ。

「やっぱり、家族を求めていないなんて嘘だな、アオイ。難しく考えなくてもいいだろう。俺はアオイと一緒にいたい。アオイもそう思ってくれた。それで十分だ」

 俺はさっとアオイに向かって手をだした。


「一緒に行こう、アオイ。償いとか誰かの代わりじゃない。俺たちにしか出来ない事、成すべき事を見つけよう、一緒に!」


 アオイが大きく目を見開いて俺を見上げる。

 俺は微笑みながら、コクリと頷いた。

 あの夜。

 廃工場でアオイから投げかけられた問いの、これが今の俺の答えだった。

「……ウィル」

 アオイがそっと手を伸ばしてくる。

 しかしその動きは何かを躊躇うように緩慢だった。

 アオイのその手が届くその前に、俺はこちらからばっとアオイの手を掴んだ。そして、その手を力任せに引っ張った。

 アオイが立ち上がる。

 寒い中にしばらくじっと座っていたからだろう。アオイは長い足をもつれさせて、転びそうになった。

 俺はとっさに腕を伸ばしてアオイを抱き留めようとした。

 しかし逆に、ガバッと覆い被さる様にアオイに抱き締められる。

 ……む。

 俺はむぎゅっとアオイに包み込まれた。

 いつもの通りに。

 ……おかしい。

 ここは俺が、しっかりとアオイを受け止めなければいけないところなのに……。

 む。

 むむ……。

 俺を抱き締めるアオイの腕に、力がこもる。

 少し苦しかった。

 しかし微かにアオイの嗚咽が聞こえた気がして、そんなものは気にならなくなった。

 俺もアオイを抱き締め返した。

「……逃げ出してごめん」

 俺はアオイの耳元に囁いた。

「……帰って来てくれて嬉しい」

 アオイが俺の耳元で囁いた。

 その声には、微かに笑みをが含まれていた。

 透き通った綺麗なアオイの声。

 胸の奥が温かくなる。

 アオイと接している体が温かくなる。

 何だか嬉しくなって、俺はふっと微笑んだ。



 長い間夢中で話し込んでしまい、俺とアオイの体はすっかり冷えてしまっていた。

 アオイのマントには温度調節機能が備わっているらしく、身に着けている間は良かったのだが、勢いに任せて脱いでしまった今、俺はガクガクと震える破目になってしまっていた。

 俺とアオイは、一緒にお風呂に入ろうと手を繋ぎながらお屋敷に戻り始める。

 2人で並んで歩きながら、俺は隣のアオイを見た。

「……アオイ。俺たち2人で、ジーク先生を探し出そう。そして、話をしてみよう」

「……ウィル?」

 アオイが俺を見て、眉をひそめた。

「あの10年前の魔術テロ。あの事件は、俺の、アオイの運命を大きく変えてしまった事件だ。過去に捕らわれるのは良くないけど、かといってあの魔術テロを忘れる訳にはいかない」

 アオイがコクリと頷いてくれる。

「もしジーク先生があの魔術テロに深く関係しているなら、ケリはつけないとダメだ。そう思うんだ」

 ……そしてもしかしたら、それがこれから起こるかもしれない騎士団の魔術テロを防ぐ事になるかもしれないのだ。

 俺は真っ直ぐにアオイを見て、頷いた。

 アオイが繋ぐ手に力を込めた。

「ふっ、そうだな。そうしよう。私たち2人で」

 不敵に微笑むアオイ。

 そこには、もうすっかりいつもの自信に満ちた顔を取り戻したアオイがいた。

 俺は前を向く。

 ……ジーク先生。

 不意に、前方に灯りが点いた。闇に沈むお屋敷の、その一階の真ん中。エントランスホールから続くテラスの辺りだ。

 ガラス戸が開く音がして、その光の中から2人の人影が現れれる。

 お屋敷に近付くと、それが燕尾服姿のアレクスさんとメイド服を着たレーミアだとわかった。

 俺とアオイがテラスに上がると、アレクスさんたちは俺たちに深々と頭を下げた。

「お帰りなさい、お嬢さま方」

 アレクスさんの声は低く、穏やかだった。

 顔を上げたアレクスさんが、俺を見て深く目礼する。

 俺は、ふっと微笑んだ。

「ただいま戻りました」

 そして俺は、隣のアオイをそっと見る。

 アオイも、俺を見ていた。

 2人でふわりと微笑み合う。

 帰れる場所がある。

 一緒に帰れる家族がいる。

 それは当たり前の様であって、しかしとても素晴らしい事なんだ。

 笑いながら、俺はそう思った。

 俺たちを包み込む夜は、そして静かに更けて行く。

 読んでいただき、ありがとうございました。

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