Order:64
灯りの抑えられた薄暗い廊下の先から聞こえてくるのは、断続的な銃声と建物全体を揺るがす爆音だった。
左に曲がっている廊下のその向こうから、マズルフラッシュの輝きが広がっては消える。
戦闘は、もう直ぐそこまで迫って来ている様だった。
……どういう状況だ。
俺はいつでも動ける様に重心を落としながら、その光を睨みつけ、考える。
……どうする。どう動く。
「ふんっ」
内心焦る俺の隣から、不敵な笑い声が聞こえた。
見上げれば、ゲオルグが口元に獰猛な笑みを浮かべ、戦闘が繰り広げられている廊下の先を睨み付けていた。
まるで、この状況を楽しんでいるかの様だ。
「行け。まずは敵を排除しろ」
ボスの命令のもと、サブマシンガンを構えたダークスーツ達が突撃する。
「はっ! 時代遅れの手品師どもがっ! 何の目的があるのか知らんが、どこを攻めているか思い知らせてやる!」
ゲオルグが吠えた。
その脇に残ったリーザさんが、恭しく革製のホルスターをボスへと差し出した。もちろんその中には、ハンドガンが収められている。
ホルスターを肩に掛けたゲオルグは、さっと銃を抜きはなった。
巨躯を誇るマフィアのボスが手にするのは、シルバーに輝く大型拳銃。50口径弾を使用する強力な銃だ。
装飾彫刻が施されたハンドガンを振り上げ、今にも発砲しそうなゲオルグ。その前に、ボスを守るかのようにリーザさんが立ちはだかり、臨戦態勢に入った。
……この襲撃。リーザさんは、魔術師による攻撃だと言っていた。
グリンデマン・ゲゼルシャフトと事を構えるなんて、ただのゴロツキ魔術師ではないだろう。
まさかアオイが乗り込んで来たわけではないだろうし、恐らくは組織的な襲撃だと思われる。
魔術師の組織。
俺は眉をひそめた。
……まさか、騎士団。
胸の間がすうっと冷たくなる。
まさか……。
今までアオイの事ばかりに集中していて、あえて考えないようにしてきた事がある。
問題を先送りにして考えないようにしていたそれが、不意に鎌首をもたげた様な気がした。
まさか……。
もしかして、ジーク、先生が……。
顔が強張る。背中を、冷たい汗がつっと流れ落ちていく。
もし再びジーク先生と対峙したら、俺は……。
握りしめた拳が、微かに震えた。
その時。
何の前触れもなく、俺たちの背後の窓が砕け散った。
ガラスの吹き飛ぶ甲高い音が響き渡る。
「後ろか!」
ゲオルグが振り返り、銃を構えた。
湖の濃い水気を含んだ夜の空気が、一斉に押し寄せて来る。
ドレスからむき出しの肩に、冷気が触れる。
ここは、オーリウェルよりさらに寒い。
「……あれは」
しかし俺には、そんな寒さなど気にしている余裕はなかった。
部屋の中に侵入して来たのは、冷気だけではない。
窓の外の夜闇に、ぼうっと白い仮面が浮かび上がる。
その数は5つ。
まるで重さなど無いように、その仮面たちがふわりと部屋の中へ、俺たちの前へと飛び込んで来た。
「……騎士団」
俺はキッと白い面を睨み付けた。
「ウィル、何だ、知っている奴らか?」
チラリとこちらを一瞥したゲオルグに、俺はコクリと頷いた。
目と口だけにスリットが入った白い仮面。そして簡略化されてはいるが、中世騎士を思わせる鎧とマント。
間違いない。
こいつらのこの格好。
軍警オーリウェル支部を襲った魔術師と同じだ。
それはつまり、ジーク先生の仲間を意味する……。
「何者だ。俺に何か用か」
ゲオルグが銀色に輝く大型拳銃を、5人組みの真ん中の仮面へと向けた。
「貴様になど用はないよ。下賤な犯罪者の親玉風情が」
仮面の向こうから、嘲笑を含んだ若い男の声が響いた。
銃を向けられた仮面は、他とは違い、仮面や鎧に金の装飾が入った派手な格好をしていた。恐らくコイツがリーダーという事なのだろう。
「我々が用があるのは、そこの麗しの姫君さ。さぁ、姫よ」
芝居がかった口調の仮面がこちらを向いた。無機質な白い面が、正面から俺を捉える。
「お迎えに上がりましたよ。ファーレンクロイツ卿がお待ちです!」
大仰に腕を開く仮面のリーダー。
俺は無言でその面を睨み返す。
俺が目的……?
こいつは何を言っているんだ。
ファーレンクロイツという名は、どこかで聞き覚えがあるが……。
その名……。
俺は大きく目を見開いた。
ファーレンクロイツ。
それは、アオイがジーク先生を指して叫んだ名だ。
やはりこいつらは、ジーク先生たちの配下。騎士団なのか。
俺は、思わず半歩だけ後ずさってしまった。
強く歯を食いしばり、俺は仮面たちを睨みつける。
俺がグリンデマン・ゲゼルシャフトに合流して、間を置かずにこの騎士団の襲撃。まさか、ゲオルグがジーク先生に通じているのか……?
俺はチラリとゲオルグを窺った。
オーリウェルを牛耳るマフィアのボスは、無表情に冷たい顔で仮面の魔術師を睨み付けていた。
「ふむ、やはりお美しい。ファーレンクロイツ卿がご執心なのも頷ける。麗しの貴公子と姫君! これほど我々の象徴に相応しいものはない!」
周囲の緊張が高まる中、1人朗々と演説を続ける仮面のリーダー。
ゲオルグはその仮面の台詞に、不快そうに顔をしかめていた。
「……うるさい。少し黙れ」
ぼそりと呟いたゲオルグが僅かに首を傾げ、無造作にトリガーを引いた。
室内に発砲音が響き渡る。
大口径ハンドガンが反動で跳ね上がる。
強力な反動がある筈のその銃を、ゲオルグは片手で扱っていた。
「な!」
仮面のリーダーが驚愕の声を上げる。
銃弾は、しかしその仮面に届かない。あらかじめ防御場を展開していた様だ。
しかしその1発の銃弾が、場の均衡を打ち破った。
仮面の魔術師たちとゲオルグ、そしてリーザさんが、それぞれ一斉に動き始めた。
大口径ハンドガンの重い銃声が連続する。それに混じってサブマシンガンの高い連射音が響いた。
ばらまかれた銃弾は、防御場に阻まれてしまう。ゲオルグの放つ大口径弾は確実に防御場を突き崩していたが、さすがに容易に直撃は与えられない。
対して仮面の魔術師たちは、ゲオルグとリーザさんの苛烈な銃撃に、強力な攻撃術式を詠唱する隙がない様だった。
両者はもつれ合うようにして、極至近距離での混戦を展開する。
ゲオルグが狭い室内を走りながら、発砲を続ける。
それに追随するのは、仮面の1人から伸びる魔素で編まれた光の鞭だった。
リーザさんは、拳に光をまとった仮面と対峙していた。
繰り出される光の拳に、リーザさんのサブマシンガンが弾き飛ばされる。
しかし流れる様な動作で腰の後ろからナイフを抜きはなったリーザさんは、白刃を煌めかせて魔術師に切り込んだ。
残りの魔術師たちもリーザさんとゲオルグに向かう。どうやら俺は、後回しにされてしまった様だ。
仮面の魔術師がゲオルグに向けて手をかざした。
ゲオルグは他の魔術師と対峙していて、気が付いていない。
……くっ!
俺はテーブルに駆け寄ると、椅子を手にする。そしてそれを、ゲオルグを狙う魔術師にえいっと投げつけた。
鎧の背に当たった椅子が、呆気なく砕け散る。
しかし仮面の魔術師にダメージはなさそうだ。
無機質な仮面がギロリとこちらを向いた。
……む、まずいか。
「リーザ!」
ゲオルグが俺を見て叫んだ。
2人の魔術師の間を舞うように駆け抜け、ナイフを振るっていたリーザさんが、突如動きを変える。
バックステップで魔術師から距離を取るとさっとしゃがみ込み、足払いをするように長い足を振るった。
リーザさんの爪先が、先ほど弾き飛ばされたサブマシンガンを蹴り飛ばす。
カラカラと音を立て、蹴飛ばされたサブマシンガンが俺の方へと滑走して来る。
俺はドレスの裾をはためかせ、そちらへと走った。
さっとすくい上げる様にしてサブマシンガンを拾い上げる。
そして俺は、ふわりとスカートを広げてターン。こちらに迫る魔術師に、ピタリと銃口を向けた。
仮面の魔術師が、咄嗟に手を掲げる。
しかし、遅い!
トリガーを引く。
フルオートで吐き出される9ミリ弾。
銃撃の反動が、俺の体を駆け抜ける。
銃身が極端に短いこの銃をろくに狙いも定めずに連射すれば、正確な射撃など望めるはずもない。ただばら撒かれた銃弾が弾幕を形成するだけだ。
しかし今はそれで十分だ。
至近距離から防御場を面で攻撃すれば、結節点を破壊出来る可能性が高まる。敵もそれを承知しているから、仮面の魔術師は俺の弾幕に押されて後退した。
俺は姿勢を低くし、ゲオルグの援護に向かおうと駆け出す。
しかしその時。
「後ろだ!」
ゲオルグがこちらを睨んで叫んだ。
はっとして振り返る。
「なるほど! 美しいだけでなく、勇敢な姫君だ!」
俺の直ぐ後ろに、装飾が施された仮面が迫っていた。
手甲に覆われた長く大きな手が、俺を捕らえようと伸びて来る。
無機質な面が、ニヤリと笑った気がした。
「くっ!」
俺はとっさに銃口を振り上げた。
トリガー……!
銃が跳ねる。
ガラスの割れるような音が響き、防御場が崩れた。
結節点を撃ち抜いたのだ。
銃弾が、華美なその仮面にも直撃した。
「ぐあっ!」
外れ、吹き飛ぶ仮面。派手な悲鳴を上げて、素顔を晒した魔術師のリーダーも吹き飛んだ。
しかしそこで、サブマシンガンの弾が切れてしまった。
「うっ、くっ……!」
「妹さん!」
リーザさんの叫び声。
ぞくりとしたものを感じて咄嗟に左を見ると、ゲオルグと戦っていた光の鞭使いが、その光の先を俺へと向けていた。
迫る魔素の鞭。
弾はない。
回避するしか、ない……!
俺は思わず走り出そうとして、しかし間に合わず捕まると思ったその刹那。
さっと一条の光が、俺の眼前を駆け抜けた。
目を見開く。
一瞬の事だった。
青く輝く光が、俺と光の鞭の間を遮るように通過した。
「あ……?」
鞭使いの仮面が、間抜けな声を上げる。
俺に迫っていた鞭は、俺の目の前で綺麗に切断されていた。
戦闘音に包まれていた室内が、一瞬静まり返った。
机がガタリと倒れる。
真っ二つに両断されて。
ドアがバタンと倒れた。
半ばから縦に両断されて。
俺と鞭使いの間には、深い溝が刻まれていた。
青の光が通過した跡だ。
その溝は机を断ち、ドアを断ち、部屋そのものを、そして恐らくは、屋敷を両断していた。
「な、何をしている! 姫君を捕らえろ! ファーレンクロイツ卿に献上するのだ!」
俺に仮面を撃たれたリーダー魔術師が、ヒステリックに叫んだ。
その整った顔に血が流れている。俺の最後の銃弾は運良く仮面で弾道が曲がり、かすり傷を負わせただけの様だった。
しかし苦痛と恐怖に歪む魔術師に、先ほどまでの芝居がかった余裕はなかった。
この顔、やはりどこかで……。
「捕まえるんだよ!」
リーダー格が叫ぶ。
その声で、仮面の魔術師が2人、一斉に俺へと襲いかかって来た。
「くっ!」
どうする!
魔術師の1人が手のひらをこちらに向けた。
「kllgnih null!」
術式詠唱が響く。
雷撃系の魔術だ。
激しい光が収束する。
うっ……!
攻撃、いや束縛系の術式か。
その眩さに、俺は目を伏せ、顔をしかめた。
その時。
「ウィル……!」
透き通った優しい声が響いた。
直ぐ目の前で。
顔を上げる。
激しい光の中。
ふわりと広がるマントが、まるで翼の様に大きくはためいた。
特徴的な尖り帽子のシルエット。
そこから流れ落ちる長い黒髪。
そして、逆光の中からでもわかる優しい目。
俺を見つめる優しい目。
「……アオイ」
俺は消え入るような小さな声で、そう呟いていた。
尖り帽子の下の整った顔が、ニコリと微笑んだ。
笑みの形に弧を描いたアオイの唇が、何かを短く囁いた。
その瞬間。
「ぐはっ!」
「があっ!」
「な、何だっ!」
悲鳴が上がる。
そして俺とアオイを照らしていた眩い魔術の光が、ふっと消えた。
アオイの背後には、無数の青い光が乱れ飛んでいた。
そしてその1つ1つが狙いすましたかの様に仮面の魔術師に襲い掛かる。
青い光は光の矢となって魔術師たちに突き刺さり、または吹き飛ばしていく。
恐らくはアオイの魔術が生み出した光の筈なのに、アオイにはその青い光を制御している様子がない。
微笑み、俺を見ている。
しかしその背後で自動的に魔術師たちが駆逐されていく光景は、少し恐ろしかった。
苦し紛れに仮面の魔術師が放った火球の術式は、その青の光から放たれた光線によって一瞬にして微塵に切り刻まれ、消滅した。
先程俺を狙う光の鞭を断ち切った青い光線の縮小版だ。
これが、アオイの力……。
「エ、エーレルト、貴様ぁぁ! こんな邪魔をして我ら騎士団に、貴族派に楯突くつもりかぁぁ!」
顔面蒼白のリーダー魔術師が、咆哮を上げた。
「だから饒舌がすぎるのだよ、ルーフェラー子爵」
アオイが振り向かず、あくまでも俺の方を向きながら、視線だけをルーフェラーの方へと送る。
そうか、こいつ。
以前エーレルト邸で会った貴族派の貴族の……。
アオイは黒マントから手を差し出すと、手のひらを上に向け、人差し指を突き出した。
そして、くいっとその指を曲げるアオイ。
青い光が、その矛先を一斉に子爵へと向け、殺到する。
「があああっ!」
子爵は悲鳴を上げ、防御場を展開しながら侵入して来た窓へと逃走し始めた。
「私のウィルに手を出すなど許さない」
アオイの静かな声。
青の光が子爵を追撃する。
何発かの青の光の矢を浴びながら、しかしルーフェラー子爵はそのまま外へと身を踊らせた。
「逃がすなよ、リーザ!」
「はい!」
ゲオルグが叫び、リーザさんがナイフを手にしながら部屋を飛び出して行った。
……とりあえず、終わったのか。
俺はそこでやっと、弾切れになったサブマシンガンを下ろした。
そしてふうっと息を吐いた瞬間。
柔らかく温かくて、そしてほっとする甘い匂いが、ふわりと俺を包み込んだ。
「ウィル、良かった……」
背後で囁かれるアオイの声。
吐息と共に体の奥底から溢れ出して来たような、心から安堵した様子の声だった。
俺は背後からアオイに抱きしめられていた。
アオイの黒いマントが俺をも包み込む。
この温もり、この感触。
やはりアオイだ。
転移術式で駆けつけてくれたのだ。
「アオイ……」
少し間を空けて、俺は小さくそれだけを呟いた。
少し、声がかすれてしまった。
「良かった……。本当に良かった……」
俺を抱き締めるアオイの腕に、ぎゅっと力が込められる。
俺はアオイにされるがままになりながら、そっと目を伏せた。
色々話したい事はある。話さなければならない事もある。色々と伝えたい事も確かめたい事も、山ほどある。
……でもまずは、キチンと謝っておかなければいけない。
アオイの様子を見れば、多大な心配を掛けたのは明らかなのだから。
しかし、色々な感情が入り混じったモヤモヤが胸の奥に留まって、俺は素直に口を開く事が出来なかった。
……それでも、だ。
アオイの柔らかさを感じながら、俺はそっと大きく息を吸い込んだ。
「……ごめん、アオイ。迷惑を掛けて」
俺は何とか、そんな短い言葉を口にした。
「……ああ」
アオイが微かに微笑むのがわかった。
怒られたり責められたりしない事が、俺の胸の中の罪悪感をさらに高めていく。
しかし俺に出来る事は少ない。
ただ俯いて、ごめんを繰り返すしかなかった。
「大丈夫だ、ウィル。きっと色々な事があって混乱したのだろう。大丈夫。一緒にお屋敷に帰ろう」
優しい声でアオイが囁いた。
「一緒に帰って、一緒にお風呂に入って、一緒に寝よう。そうすれば、嫌な事なんて忘れられるさ。そしたら、また一緒に学校に行くのだ」
「……アオイ」
このままお屋敷に帰る……。
アオイと一緒に帰って俺の部屋のベッドで眠りにつけば、きっと全て元通りになるだろうという予感は確かにあった。
お屋敷からの逃亡も森や草原をさまよい歩いた事やロイド刑事の家に泊めてもらった事も、何もなかった事になる。そして俺は、アオイと過ごす日常を取り戻す事になるのだろう。
……でも、それではダメだ。
抱き締めるアオイの手に、俺はそっと自分の手を重ねた。そして少しだけ振り返って、アオイの方へ顔を向けようとする。
「アオイ……。あの、俺……!」
「おいおい、まったく。人の屋敷をこんなにしておいて、いちゃいちゃするなよ。リーザが見ていたら、鼻血もんだぞ」
タイミング悪く俺の言葉を遮って、低い声がぼそりと響いた。
はっと顔を上げると、戦闘から生き残った椅子に足を開いて腰掛けたゲオルグが、煙草に火をつけているところだった。
アオイが俺を離してくれる。しかし、手は繋いだままだった。
「迷惑を掛けた、ゲオルグ。ウィルの件は感謝している」
アオイが淡々とそう告げると、小さく頭を下げた。
先程までの優しい声とは違う平板な声だった。
「奴らの目的は我々だ。私とウィルが去れば、もう襲われる心配はないだろう」
アオイは我々と言ったが、ルーフェラー子爵らの狙いは正確には俺だった訳なのだが……。
「騎士団がウィルを、な。しかし派手にやったものだ」
ゲオルグが倒れた魔術師たちを見た。
「殺してはいない。しばらくすれば意識が戻るだろう。後は煮るなり焼くなり好きにするといい」
アオイはあくまでも淡々としていた。
「ふんっ。後始末まで俺に任せるか。この損害の補償は、請求させてもらいたいところだがな」
ゲオルグがニヤリと不敵な笑みを浮かべて俺を見た。
俺は眉をひそめてゲオルグを見返す。
確かに狙われたのは俺だ。ゲオルグには大きな借りが出来てしまった。
「まぁ、いいさ。ウィルに免じてな。美人は得だな、ウィル」
ゲオルグがニヤつきながら俺を見た。
……む。
「エーレルト伯爵の所が嫌になったら、いつでも俺のところへ来い。お前なら歓迎してやるし、騎士団だろうが何だろうが、俺が守ってやる。やはりお前は、他人の様な気がしないからな」
楽しそうに笑い声を立てながら、ゲオルグが盛大に紫煙を吐き出した。
その台詞を聞いた途端、アオイが反応した。グイッと手を引いて、俺をゲオルグから隠すように再び抱き締めてきたのだ。
「冗談が過ぎるぞ、ゲオルグ・グリンデマン。ウィルは、うちの子だ」
冗談にしては、ドキリとする程アオイの声は冷ややかだった。
ゲオルグが苦笑を浮かべ、大きく肩をすくめた。
「しかしまぁ、今回の騎士団の動き、ウィルがこの屋敷にいる事を知っていたな。俺の組織から情報が漏れた訳だ。これはこれで、収穫でもある」
ゲオルグがふっと笑みを消した。
俺がこの屋敷にやって来て直ぐに騎士団が来た。という事は、グリンデマン・ゲゼルシャフト内に騎士団へ情報を流した者がいる可能性が高いという訳だ。
これを契機に、ゲオルグは組織内の騎士団に内通する者をあぶり出すつもりなのだろう。
「ゲオルグ。いずれにしても、この礼はしよう」
アオイがふわりとマントを広げてゲオルグに向き直った。
ゲオルグは大きな手をさっと振った。
「さっさと行け。俺にウィルを取られたくなければな」
アオイが会釈する。
俺も、慌ててぺこりと頭を下げた。
「さぁ、ウィル」
アオイが俺を見た。ふわりと微笑みながら。
「帰ろう。私たちの家へ」
俺はじっとアオイを見つめる。
……嬉しそうなアオイの顔。
俺は微かに、しかし確かにコクリと頷いた。
アオイが黒マントを広げ、俺を包み込む。そして流れ出す流麗な術式詠唱。
転移術式が発動し、俺は軽いめまいに襲われた。
目を開くと、そこは見慣れた俺の部屋だった。
エーレルト伯爵邸内で俺にあてがわれた部屋だ。
明かりは灯されておらず、部屋の中は暗かった。しかしカーテンの引かれていない窓から、淡い淡い星明かりが射し込んでいた。
壁際に吊られた聖フィーナの制服。机の上に置かれたスポーツバック。綺麗に整えられたベッドの上に転がる猫の頭のぬいぐるみ。
全部、俺が飛び出した時のままだ。この部屋は、あの時のまま、全く変わっていない。
帰って来たのだ。俺は……。
「ウィル」
手を繋いだままのアオイが、俺を見た。
尖り帽子の鍔に隠れて、アオイの表情はわからない。
「疲れただろう。直ぐにお風呂を用意させるから、まずは休むといい」
優しく柔らかなアオイの声。
しかし穏やかなアオイとは対照的に、俺の胸のドキドキは、さらに激しくなっていた。
ゲオルグがいなくなり、アオイと2人きりになって、俺は少し緊張していた。
ゲオルグから教えてもらったアオイの事。それにエーレルト家の事情。
それを踏まえて、俺はアオイと話をしなければならない。
恐らくこのままアオイの言葉に従って眠りにつけば、きっとタイミングを逃してしまう。
俺は今、アオイと話をしなければならないのだ。
「アオイ」
俺は意を決してアオイを見た。
「ごめん。迷惑を掛けた」
俺はアオイに手を握られたまま、ガバッと頭を下げた。
どんな理由があっても、迷惑を掛けたという事は事実なのだ。何度謝っても、十分ということはない。
「……ウィル。屋敷を出たのは、誰かにさらわれたという訳ではないのだな? 何もされたりしていないな?」
アオイが俺の手をぎゅっと握り締めながら囁いた。俺が発見された時の状況などは、きっとゲオルグから聞いているのだろう。
俺はアオイを見上げてコクリと頷いた。
「ならいい。ウィルも色々あって、混乱していたのだろう」
アオイはにこっと微笑んだ。
「ウィルはこうして帰って来てくれた。なら、いい」
「アオイ……」
そこでアオイは、ふっと笑みを消した。
「しかしウィル。独りで行動するのはダメだ。騎士団は、あの男は姑息で執念深い。今日の様に、何度でも、あらゆる手段を用いてウィルを狙って来るだろう」
あの男……。
ジーク、先生か。
アオイは、なぜジーク先生をそこまで嫌っているのだろう。オーリウェル支部で対峙した時は、以前から知っているような口振りだったが……。
「ウィルはこの屋敷にいれば良いのだ。私とずっと一緒にいればいい。そうすれば、私がウィルを守ってあげられる」
再び柔らかな笑顔に戻るアオイ。
「ウィルはエオリアなのだ。だから私が、どんな事があっても守る……」
エオリア。
その名が出た瞬間、俺はびくりと肩を震わせた。
やはりアオイは、魔術テロで亡くなったエオリアを俺に重ねているのだ。
アオイの過去を知った今、亡くした家族の面影を他に求めてしまう気持ちは、俺には痛い程良くわかった。
俺も、姉貴の面影をアオイに見ていたのだ。
アオイの悲しみや寂しさ。
俺は、それをどうにかしてあげたいと思った。
アオイはもう、俺にとっては大切な人になっているのだから。
俺はそっと深呼吸した。
そしてアオイの手を両手で握ると、グイッと引っ張った。
「アオイ。大事な話があるんだ」
そして俺は、ゲオルグの所で着せられたドレスの裾を揺らしながら、アオイをぐいぐいと引っ張って歩き始めた。
「ウィル、話ならここで良いだろう。疲れているのだから、今は休んだ方が……」
アオイは少し驚いた顔をしながら、尖り帽子を押さえた。
「ダメだ。今話さないと。ちょっと外に行こう」
俺はドアを開けて廊下に出た。
時刻はもう深夜になる。エーレルト邸内は、シンッと静まり返っていた。
人気のない廊下に、俺とアオイの足音が響いた。
俺はアオイを引っ張って階段を下り、エントランスホールから裏庭のテラスへと向かった。
あえて部屋を出たのは、あのまま俺の部屋の中で話をするのが何だか嫌だったからだ。軟禁されたせいか、あの場所で俺たちのこれからに関する重大事項を話すのが、息苦しく感じられてしまったのだ。
俺は鍵を外し、裏庭に続くガラス戸をばっと開けた。
土の匂いと緑の匂い、そしてシンと冷えた夜の匂いが色濃く香る空気が、ふっと吹き寄せて来る。
さすがに冬の夜の空気は、痛い程冷たかった。
ざっくりと背中の開いたドレス姿の俺は、思わずアオイの手を離して肘を抱くと、ブルッと身を震わせてしまった。
開放的な場所で話をしようと思って裏庭に来たが、失敗だったかなと思ってしまう。
そんな俺の肩に、不意にふわりとマントが掛けられた。
アオイの黒いマントだ。
振り向くと、アオイが微笑んでいた。
マントを脱いだアオイは、聖フィーナの制服姿だった。ブレザーもキチンと着込み、スカートの下には真っ黒な暖かそうなタイツを穿いている。
「ありがと……」
俺はもごもごとアオイにお礼を言った。
アオイのマントは軽いのに、意外にも凄く暖かかった。それに、ふっとアオイの甘い香がした。
俺とアオイは顔を見合わせ、お屋敷から足を踏み出してテラスへと出た。
「あ……」
「はっ……」
その瞬間。
俺は言葉を失った。
アオイも絶句している。
俺とアオイは、2人で並んで呆然と夜空を見上げる。
俺たちの前に広がるのは、今にもこぼれ落ちて来そうな満天の星空。
闇に沈んだ裏庭や森とは対照的に、無数の星たちが、空いっぱい瞬いていた。
月のない夜。
空気の澄んだ寒い夜。
雲ひとつない空。
恒星だけではない。
星雲や銀河さえも輝いて、そこにはまるで、宇宙そのものが広がっているかの様だった。
その瞬間俺とアオイは、お屋敷とか町とか国とか、もしくは地球すら通り過ぎ、間違いなく自分たちが宇宙の片隅にいるんだという事を実感していたと思う。
「綺麗……」
俺は思わずぽつりと呟いてしまう。
「……そうだな」
アオイも隣でそう呟いた。
俺とアオイは、どちらからということなく再び手を取りあうと、テラスを下りて裏庭に出た。
澄んだ大気の底の世界へと。
俺たちは星空を見上げ、ゆっくりとした歩みで裏庭の東屋を目指した。そういえば、アオイに初めて対面したのも、あの東屋だったなと思い出す。
今にも降って来そうな星空に圧倒されながらも、俺とアオイは並んで東屋の木のベンチに腰を掛けた。
「それにしても凄い星だ。真夜中の星空がこんなに凄いとはな。気が付かなかった」
アオイが微笑みながら白い息を吐いた。
俺は目を輝かせて星空を見上げるアオイの横顔をじっと見た。
「アオイ」
俺は、静かに話し掛ける。
ゲオルグの話を聞いてから直ぐに騎士団の襲撃があって、キチンと考えをまとめる時間はなかった。
それでも俺は、アオイに伝えなくてはならない。
「エオリアとアオイの事、聞いた」
アオイが俺を見て、すっと目を細めた。
「……ゲオルグか。余計な事を」
俺は、真っ直ぐにアオイの目を見つめた。
「アオイがオーリウェルに来て大変だった事。そして突然家族を奪われた事、聞いた」
俺は、アオイと繋いだままの手にぎゅっと力を込めた。
「俺も同じだから、アオイの気持ちは良くわかる。良くわかっているつもりだ。だから、だからこそ、きっちりとアオイに伝えておきたいんだ」
俺は一瞬だけ言葉を切って、そっと深呼吸した。そして、再び大きく息を吸い込んだ。
お腹に力を入れる。
「アオイ。俺は、エオリアにはなれない。俺はエオリアではないし、エオリアの代わりにもならない」
アオイが微かに目を見開く。
じっと俺を見つめたまま、固まるアオイ。
そう。
アオイが求めているのがエオリアの存在ならば、俺はそれを受け入れる事はできない。
いくら今のこの姿が似ていようとも、俺は俺なのだ。
バートレットが言うように、本当はウィルバートという存在と繋がっていないとしても、俺は俺だと認識して、これまで行動して来た。そして、これからもそうして行くつもりだ。
だから。
俺は、ウィルとしてアオイと一緒に居たかった。
これが、取り敢えずの俺の結論だ。
「でも、俺は、アオイと一緒にいたいと思っている。妹でも、騎士でもいい。エオリアとしてじゃなく、俺自身として」
俺は僅かにアオイの方へと身を乗り出した。
その瞳の漆黒の奥に灯る光を見つめる。
「アオイ。改めて、俺の、俺の家族になって欲しい」
俺はアオイをじっと見た。
アオイも、じっと俺を見つめた。
時が止まったかの様だった。
星が瞬く音さえ聞こえて来そうな静寂が、世界を満たす。
どこかで夜風が鳴った。
木々が微かにざわめいた。
やがて、アオイの瞳の中の光が微かに揺れ動き始めた。
「……ウィル。優しい子だ」
アオイの微かな囁き。
アオイも身を乗り出し、両手で俺の手を握る。
「……嬉しい。ありがとう、ウィル」
そしてアオイは、少し恥ずかしそうに笑った。
胸の中がぽっと温かくなる。
……アオイも、わかってくれたのか。
俺もアオイも、過去ばかり見ている訳にはいかないのだ。
復讐や恨みや悲しみや寂しさばかりを見ていてはダメなのだ。
新しい視点から、また前を向いて歩き出す。
それは、俺がアオイたちと一緒に過ごして学んだ事だ。
「ふふっ」
アオイがはにかんだ様に笑った。
「しかし今のウィルの言葉。ウィルが男の子だったら、プロポーズみたいだな」
悪戯っぽく笑って俺を見るアオイ。
ドキリと胸が高鳴った。
プロポーズ……。
俺はびくりと体を震わせ、固まってしまう。
ああ……。
お、俺、とんでもない事を言ってしまったのか……?
いや、しかし同性だからセーフでは……。
む。
むう……。
むむむ……。
……あれ。
真実はどうであれ、俺はウィルバートなのだ。ウィルバートから姿が変化したウィルなのだ。そう思う事にしたのだ。
しかしそうなると、やはり先ほどの言葉はプロポーズ的な……。
一瞬にして顔が真っ赤になるのがわかった。きっと、ドレスにも負けない赤に。
もしかしたら、ぼんっと音が鳴ったかもしれない。
むむむ……。
俺は熱くなる頬を誤魔化そうと必死に顔をしかめた。
体がグラグラと揺れる。
そんな俺を見て、アオイがそっと笑った。
「優しいウィル。私の事を本当に心配してくれたのだな」
微笑みながら柔らかな表情を浮かべるアオイ。
「しかし、ウィルの様な優しい家族は、私にはもったいない」
しかしそう囁いたアオイの声には、少し暗い響きが混じっていた。
「アオイ?」
俺は微かに伏せられたアオイの顔を覗き込む。
「……私がエオリアを求めるのは、家族を求めての事ではないのだ」
アオイの顔からすうっと表情が消えた。
そこにあるのは、整ってはいても生気が感じられない人形の様な顔だった。
アオイが俺を見る。
その目の焦点は、俺ではないどこか遠くで結ばれているようだった。まるで、瞬く星空の向こう、何千、何万光年先の過去を覗くように。
「私は、償いをしなければならないのだ、ウィル。先代のエーレルト伯爵やアンリエットさま。それにエオリアにな」
そう言ったアオイは、少し悲しそうに微笑んだ。
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