Order:63
蝋燭の灯りが揺れる薄暗い部屋の中で、椅子に腰掛け、足を組んだ男が、じっと俺を見据えていた。
男のオールバックにした髪は、灯りの乏しいこの部屋では黒に見えた。服装も黒いズボンとベストで、捲り上げたシャツからは太い腕が覗いていた。ネクタイはしていなかった。
がっしりとした体格と、厳つい面構え。そして何かを探るように細まった鋭い目には、確かにオーリウェルの裏社会を牛耳る犯罪組織のボスに相応しい威圧感があった。
俺は、ぎゅっと拳を握り締めてその視線を受け止める。
このゲオルグ・グリンデマンに会うために、俺はここまで来たのだ。
ゲオルグが、俺の爪先から頭の先までゆっくりと視線を巡らせているのがわかった。
……むう。
俺は今、真っ赤なヒラヒラドレス姿だ。
こんな姿をじっと見られるのは凄まじく恥ずかしかったが、俺は表情を変えないように頬に力を込めてじっと耐える。
しばらく俺を見つめていたゲオルグは、しかし不意にふっと微笑みを浮かべた。
その顔は、笑っているのに何だか寂しそうな、俺を見ているのに遠くを見ているような、複雑な表情だった。
広い部屋に、沈黙が満ちる。
俺は、ゲオルグが口を開くのをじっと待った。
アオイの、エーレルト伯爵の事を教えて欲しいという要求に対して、俺がゲオルグに支払えるような対価は何もなかった。
あくまでも俺の一方的なお願いなのだ。
この場の主導権はあちらにある。
否と言われれば、俺は素直に従うしかない。
「……こちらに、ウィル・アーレン」
しばらく遠い目をして俺を見ていたゲオルグが、口を開いた。
俺はヒールを鳴らしながらゲオルグに歩み寄り、その前に立った。
「その場で回れ」
低い声で命令される。
俺は内心訝しみながらも、その場でくるりと回転した。
赤のスカートがふわりと広がり、髪が揺れる。
タンっとヒールを響かせ、俺は元の姿勢に戻った。
「……やはりな。君にはそのドレスが良く似合う。思った通りだ。初めて会った時からそう思ってた」
ゲオルグは一瞬言葉切った。
「あいつも、アンリエットも、そんなドレスが似合う女だった」
ゲオルグは俺を見上げながら、ニヤリと笑った。
「アンリエット・エーレルト。先代エーレルト伯の奥方だ」
「アオイのお母さん……?」
俺はきゅっと眉をひそめ、思わずそう呟いてしまう。しかしゲオルグは、薄い笑いを浮かべたまま、小さく頭を振った。
「正確には違うな」
……違う?
「それよりも、それだけアンリエットに似ていながら、君がエーレルトの血脈に連なる者ではないという事が驚きだ」
ゲオルグが足を組み変える。
「アンリエットの娘が生きていたなら、ちょうど君の様になっていただろう。ああ、歳も今の君程か」
ゲオルグが言っているのは、アオイの事ではない。
アオイ以外のエーレルト伯爵家の娘。
今の俺の姿に似ていていたらしい少女。そして、今はもういないその少女とは……。
ドクンと胸が高鳴った。
「……それは、エオリアという名前の子ではないですか? その子とアオイの間に、何があったんですか?」
俺は思わず一歩踏み出し、目を見開いてゲオルグの顔をじっと見つめた。興奮で体全体が熱くなり、指先がチリチリしてくる。
しかし固唾を呑んで答えを待つ俺から視線を外したゲオルグは、ふっと息を吐いて両手を上げ、ニヤリと笑った。
「俺も忙しい身なのでな。次の仕事までの時間なら、君に付き合おう。君とは一度ゆっくりと話してみたいと思っていた」
ゲオルグは立ち上がると、ゆっくりとした動作で俺の後ろに回った。そしてテーブルから椅子を引き出すと、俺の後ろにそれを置いた。
どうぞと声を掛けられた俺は、取りあえずちょこんと腰を下ろした。
マフィアのボスという肩書きのわりには、なかなか紳士だ。
「ふむ。君の周りもなかなか複雑な様だな。しかし、この話が終われば、君の事はエーレルト伯に通報させてもらう」
ゲオルグは再び俺の前に戻ると、椅子ではなくテーブルに腰掛けた。そして俺の方へ銀のシガレットケースを掲げて見せる。
俺はコクリと頷いた。煙草も、アオイへの通報も了解するしかない。
「くくくっ、しかしあの鉄面皮の魔女があそこまで狼狽する姿は見たことがなかったな。まぁ、君の質問に答えるのは、あの顔を見れた報酬としておこう」
ゲオルグは意地の悪そうな笑みを浮かべた。
……アオイ。
俺はむっと眉をひそめる。
前言撤回。
やはりこの男、紳士なんかじゃない。
ゲオルグはシガレットケースから煙草を一本取り出し、くわえた。
「そうだな。エーレルト伯爵家の話だったな」
金属ライターで煙草に火を付けたゲオルグは、紫煙を揺らして話し始めた。
「俺がもともと知っていたのは、エーレルト伯爵ではない。伯爵家に嫁いだアンリエットの方さ」
ゲオルグがふうっと盛大に煙を吐き出した。
「けほっ、けほっ」
俺は思わずせき込んでしまい、それを見たゲオルグがおかしそうに笑った。
「アンリエットは当時の市長の娘。俺はマフィアの倅。しかし、何かと接点があってな。ガキの頃から連んでた。まぁ、あれは良くも悪くも平凡で、そして弱い女だった。もう少し気楽に考えていれば、あんな事にはならなかっただろうにさ」
ゲオルグの声に混じった微かな憂い。
それに気が付いた俺は、そっとその厳つい顔を見上げた。
煙草を指の間で弄びながら、ゲオルグは遠い目をする。
当時のオーリウェル市長の娘だったアンリエットと、オーリウェルに本拠を置く貴族、エーレルト伯爵家の間で結婚の話が出たのは、至極当然の事だった。
政治家と貴族。
有力者同士の縁組が行われるのは、今も昔も変わらない。
ゲオルグは、けろりとした顔で「俺はアンリエットが好きだった」と告白した。しかしその厳つい顔には後悔とか嫉妬とか、何かしらの強い感情を見る事は出来なかった。
「あいつも、多分俺の事が好きだった筈だ。ああ、自惚れじゃないぞ。ガキの頃から一緒にいいれば、それくらいはわかったさ」
ゲオルグは、ただ事実を告げているだけといった風にけろりとしていた。
しかし、そのアンリエットという女性は、自らの恋だけに生きるのを良しとしなかったそうだ。
代々オーリウェル市議を務め、その父の代に市長を務める事になった政治家の家に生まれたアンリエットは、父親や家のために、伝統あるエーレルト伯爵家に嫁ぐ道を選んだのだ。
誰もが羨む名家同士の結婚。
ゲオルグも諦めとともに嫁ぐアンリエットを見送ったという。
「はっ、見守ったって言えば聞こえはいいが、俺はやはり本気であの女を愛していなかったんだろうよ。いや、違うな。本気だったという事から目を逸らしたんだ」
そう吐き捨てるように言うと、ゲオルグは自嘲気味に笑った。
当時のゲオルグは、先代から組織の後継者に指名され、代替わりの根回しや部下の掌握など、仕事に掛かりっきりになっていたのだ。
もしかしたら、マフィアよりも伝統ある貴族の家に嫁いだ方がアンリエットのためだという殊勝な考えもあったのかもしれない。
そうしてアンリエットが嫁いで行ったエーレルト伯爵家は、端から見れば順風満帆だった。
時のエーレルト伯爵であるアンリエットの夫、ヨシュア・トラークル・フォン・エーレルトは、結婚直後に国政選挙に出馬、当選。名実ともに貴族派の一角を占める貴族院議員となっていた。
それは、代々のエーレルト伯爵家当主が受け継いで来た伝統を踏襲する栄達ぶりだった。
「しかし、問題はあったのさ」
ゲオルグは煙草を持った右手で首筋を押さえ、目を細めた。
「アンリエットが嫁いだ頃にはもう、エーレルト伯爵家は魔術師として落ち目だった」
そしてゲオルグは、再び煙草をくわえ、煙と共にそう言い捨てた。
もともとヨシュアも、魔術師としての力は弱かったらしい。
貴族中心の封建社会から市民たちによる民主主義の時代に移り、貴族たちの社会も外部に開かれる事になった。
それまで魔素適性を高めるために力の強い魔術師同士の婚姻を進めてきた貴族級魔術師たちだったが、現代になり、一般人と貴族の婚姻も普通に行われるようになっていた。
結果、貴族でない人間にも魔術師の資質が広がり、魔術犯罪が増加する事になった。そして魔術師自身の血も薄まり、貴族たちがかつての強大な力を維持する事が難しくなっていたのだ。
さらに科学が発展した現代社会では、魔術という特別な力の必要性が薄れ始めており、魔術の衰退という大きな流れが作り上げられていた。
ヨシュア、そしてエーレルト伯爵家は、そうして力を弱めつつあった、まさに典型的な現代貴族だった。
「アンリエットが結婚した後、俺も何度か先代伯爵に会った事がある。本当に、クソ真面目な野郎だった」
先代エーレルト伯のヨシュアは、貴族派の中でも最も穏健なグループに属していた。それは、軍警の資料でも読んだ事がある。
ヨシュアは、貴族の復権や利権の保護などよりも、貴族院議員として国政の仕事に熱心に取り組んでいた様だ。
どうやら真面目で温厚な人柄だったらしい。
「しかし、真面目が過ぎたな。奴は、自分が背負っているエーレルトという看板を守る事に必死だったのさ」
ゲオルグはふんっと鼻を鳴らした。
「そんな時、アンリエットが子供を産んだ。次期エーレルト伯爵さまをな」
胸がドクンと弾んだ。
エーレルト伯爵の子供。
娘……。
「……それがアオイですか?」
俺はドレスの膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめ、僅かに身を乗り出した。
しかしゲオルグは、そんな俺の顔を面白がるようにニヤリと笑った。
「いや、違う」
ゲオルグが微かに首を振る。
バクバクと鳴る俺の心音が、外まで聞こえてしまいそうだった。
違うとは……。
俺は目を大きくして、ゲオルグの次の言葉をじっと待った。
しかし煙草をくわえたゲオルグは、楽しそうに俺の顔を見ているだけだった。
「あの……」
「ああ、ははは。君の顔を見ていると思い出してな。アンリエットも、どうでもいい話にクルクルと表情を変えて聞き入る女だった」
俺はむうっと押し黙る。
今の俺の姿に似ているという先代伯爵夫人のアンリエット。
そしてアオイ以外の伯爵家の子供。
つまりその人物こそ、時よりアオイが俺を見て口にしていた、エオリアという存在なのではないだろうか。
俺は大きく深呼吸してから、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「……では、その子供というのがエオリア、なんですね」
俺はゲオルグの顔を真っ直ぐに見ながら、その名を口にした。
「ああ、確かそんな名前だったな」
ゲオルグが記憶を探るように中空を見た。
……やはり。
俺は唇を引き結ぶ。
アオイは言っていた。
俺の姿を作り変えたあの魔術は、準備に長い時間が掛かるのだと。
今の俺の姿は、そのエーレルト伯爵家の娘であるエオリアを想定して構築された魔術の結果という事なのだろう。
そんな魔術を準備していた理由はまだ分からない。しかし、だからこそアオイは、俺の中にエオリアを見ていた……。
「でもそうすると、エオリアはアオイの姉になるのですか?」
俺ははらりと髪を揺らして首を傾げた。
それにしては、アオイは俺の事もエオリアの事も、妹として扱っているような気がしたが……。
「いや、話はそう単純じゃない」
ゲオルグは煙草を灰皿に押し付けて消すと、テーブルから腰を上げた。そして一面全てがガラス張りになっている壁の方へと歩み寄った。
俺も椅子から立ち上がると、とととっとヒールを鳴らしてその後ろについて行く。
「言った通り、エーレルト伯は伯爵家を守る事については必死だった。しかし、生まれてきた娘は、僅かな魔術の才能しか持っていなかった。それがわかった辺りから、エーレルト伯爵はおかしくなってしまったとアンリエットは言っていたな」
窓の外、黒々と横たわる湖を見つめながら、ゲオルグはエーレルト家の話の続きを始めた。
俺もすっかり夜の帳が降りた外の景色に目を向けた。
この屋敷から湖に伸びる桟橋の灯りだけが、黒い水面にポツポツと輝いていた。今夜は月が出ていない。
魔術師の父親と一般人の母親。
その娘の魔術の素養が薄まるのは、考えてみれば当然の事の様に思える。しかしヨシュアには、その事実は耐え難いほどのショックだった様だ。
一族の血脈が魔術師でなくなれば、それは本当の意味での貴族ではなくなるのだから。
一族が魔術師でなくなる。
俺たち一般人には、それほど重大な事ではないように思える。恐らくアンリエットも、そう考えていたのだろう。
魔素の保有量や適性云々よりも、エーレルト家の娘、自分たちの娘であるという事実が大事なのだと。
しかし、エーレルト伯にとっては大問題だったのだ。
一族が特別な血統から一般人に成り下がってしまうという事は、家を貶める事だ。
誰よりも真面目に伯爵家の事を思っていたヨシュアには、それは大きな恐怖だったに違いない。
「そこで先代伯爵様は、強い魔術の力を持った養子を探し始めたそうだ。文字通り、世界中を回ってな」
養子……。
その単語に胸がざわついた。
つまり、それが……。
「そうして数年を掛けて、エーレルト伯は1人の娘を連れてオーリウェルに帰って来た。黒い髪と黒い瞳。整ってはいても、人形のように無表情な娘だったという」
ゲオルグが目を細めた。
「それが、今代のエーレルト伯爵さま。アオイ・フォン・エーレルトさ」
俺は隣に立つゲオルグの顔をじっと見上げて固まった。
アオイ……。
エーレルト伯爵の大きな手に引かれ、あのお屋敷にやって来た小さな女の子の姿を思い浮かべてしまう。
癖1つない長い黒髪を揺らして、大きな目で森の中のお屋敷を見上げる少女。
アオイは、エーレルト家の実子ではなかったのか……。
先代エーレルト伯ヨシュアは、日本からアオイを連れて来たという。
それを聞いて色々と納得出来る事は、確かにあった。
アオイの綺麗な顔は、確かにこの国の人間とは雰囲気が違う。それに、初めてあった時に着ていたキモノとか、アオイの作ってくれたおにぎりとかお弁当とか、日本に詳しかったのはその為なのか。
遠い異国からやって来た魔術師の少女。
彼女は何を思い、感じていたのだろうか。
アオイ……。
俺は自身を抱き締める様に左肘をぎゅっと引き寄せた。
微笑むアオイの顔が思い浮かぶ。
急にアオイに会いたくなった。
会って、ぎゅっとしたくなった。
「アンリエットはかなり不満だったみたいだな。実の娘がいるのに、得体の知れないガキを家に迎える事がな」
ゲオルグの声は抑揚なく、淡々としていた。
俺も軍警の座学で習った事がある。
古い貴族の家では、養子縁組みをして他家から優秀な人材得るという事は決して珍しくはなかった様だ。
奴らは時に、血縁関係よりも魔術師としての性能とそれに裏打ちされた家格の向上を優先して来たのだ。
そういう意味においては、先代のエーレルト伯ヨシュアは、伝統的な貴族の考え方を持っていたと言えるのかもしれない。
……でも、アオイがそうやってオーリウェルに来たなんて、俺は全く知らなかった。
やはりロイド刑事の言うように、俺はアオイの事を何も知らないのだ。
少し悲しくなる。
それと、申し訳なくなった。
眉を寄せて、俺は微かに震える胸の奥を静めるように、握り締めた手をそっと胸に当てた。
もちろん護衛に就くようにと命令された際に、軍警からアオイについての資料はもらっていたし、ちゃんと目は通した。しかしそこには、アオイがエーレルト家の養子であるとは書かれていなかったと思う。
家系の変遷は、貴族にとっての機密事項だ。養子を迎え、一族を強化したという事は、自分たちが魔術師として衰えているという事の証左にもなってしまうから。
エーレルト家のその養子縁組についても、戸籍などが巧妙に偽装されていたのかもしれない。
しかし結果として、俺がアオイについて知っていたのは、その様な上辺だけだったということなのだ。
胸が、キュッと痛んだ。
「それで、アオイとエオリアはどうなったんですか」
俺はゲオルグの方を向いて、一歩踏み出した。
アオイとエオリア。
2人のエーレルト伯爵家の娘たち。
彼女たちが何を思い、日々をすごしていたのか。どうしてエーレルト伯爵家には、現在アオイしか残っていないのか。
そして、どうしてアオイは、そのエオリアに固執しているのか。
俺の知らなければならない事はまだまだ沢山ある。
ゲオルグが俺を見た。
その時不意に、ノックの音が響いた。
俺はちらりと振り返ると、リーザさんが部屋に入ってくるところだった。
金髪を揺らし、スーツの背中をすっと伸ばしたリーザさんは、颯爽と大股でゲオルグに歩み寄ると何かを耳打ちした。
「わかった」
ゲオルグが頷いた。
「悪いな、ウィル。少し外す」
不意にゲオルグの骨ばった大きな手が伸びて来て、俺の頭をぽんっと叩いた。
……む。
そして厳つい顔にニヤリと笑みを浮かべると、ゲオルグは手をヒラヒラと振りながら、大きな足音を立てて部屋を出て行ってしまった。
いよいよ話が核心に迫るというこのタイミングで気勢を削がれた格好になった俺は、呆然とその後ろ姿を見送るしかなかった。
少し俯きながら、俺は闇の中に広がる湖をじっと見つめる。
アオイ……。
俺は冷たい窓ガラスにそっと触れた。
目の焦点を変えると、ガラスに映り込んだ少女が、顔を曇らせてじっとこちらを見ていた。
アオイが伯爵家の一員になった経緯を聞いて、いかに自分が無知だったかを思い知った。
そのアオイが求めているものは、何なのだろうか……。
いつも泰然としているあのアオイが抱えているものは、何なのだろうか……?
例えどんな思惑があったとしても、アオイが俺を助けてくれた事は事実なのだ。
アオイから学んだ事も多い。
出来るなら、アオイにその恩返しをして……。
いや、その前に。
俺はアオイと、やはりきちんと仲直りしたかった。
「……お姉ちゃん」
無意識にそう呟いてしまう。
その独り言に自分ではっと気が付いて、俺はカッと赤くなってしまった。
お屋敷を飛び出して少し時間が経過してみて、俺は自分の軽はずみな行動を少し後悔していた。
俺は、自分のことだけで精一杯だった。
アオイの事、きちんと考えていなかった……。
でも……。
俺はキッとガラスに映った自分を睨む。
今は、アオイの事を良く知る為のせっかくの機会なのだ。しっかりゲオルグから話を聞かなければ。
そして、良く考えなければならないと思う。
俺がこの先、どうやってアオイに対して行くのかという事を……。
「妹さん」
「え、わっ!」
不意に隣から声を掛けられた。
いつの間にか隣に立っていたリーザさんが、じっと俺を見ていた。
……さ、さっきの呟き、 聞こえてしまったか?
「今ボスの所に伯爵から連絡が来ているわ。あなたを保護していると聞いたら、伯爵は直ぐやって来るでしょうね」
平板な声で淡々と話すリーザさん。
ギクリとする。
アオイが来る……。
気まずさと申し訳なさと、そして僅かな安堵の混じり合った不思議な気持ちが、胸の奥で急速に膨らみ始める。
……うう。
俺は眉をひそめてリーザさんから視線を外した。
どんな顔をしてアオイに会えばいいのだろう……。
俺はお腹の前で組んだ手をもぞもぞと動かした。
「あなた、あの女の所から逃げて来たのでしょう?」
リーザさんがぼそりと言う。
俺は思わずリーザさんの顔を見た。
「もし帰りたくないなら、私が匿ってあげようか。私の妹……分として雇ってくれるように、ボスに掛け合ってもいいわ」
本気なのかどうかわからないリーザさんの言葉に、しかし俺は苦笑を浮かべて、直ぐに首を横に振った。
「いえ」
そっと息を吐く。
……逃げるだけではダメだ。
俺は少しだけ微笑んで、リーザさんを見上げた。
「ありがとうございます。でも俺、アオイの所に帰らなければ」
リーザさんがじっと俺を見る。
「……妹さん」
そして何故か目を潤ませて、俺ににじり寄って来た。
「えっと……」
な、何だ……。
俺は思わず一歩、後退った。
「やめておけ、リーザ」
そこに、笑みを含んだバリトンが響き渡った。
扉の方を向くと、いつの間にかゲオルグが戻って来てた。扉にもたれ掛かり、てニヤニヤと笑いながらこちらを見ている。
「下がれ、リーザ。この子に手を出すと、伯爵に燃やされるぞ」
ゲオルグがゆっくりとした歩調で近付いて来る。
不満そうな顔をしたリーザさんが、しかし素直に頭を下げて引き下がった。
「ふっ、すまないな。あいつは困っている女の子を見ると放っておけなくてなるんだ」
失礼しますと頭を下げてリーザさんが部屋を出て行くのを、ゲオルグが流し目で見送った。
「特に年下の女には目がない。気をつけた方がいい」
注意しているというよりは面白がっている様なゲオルグの顔を、俺は眉をひそめて見上げた。
「……アオイ、来るんですか?」
俺は短くそう問い掛けた。
「ん、ああ。恐らくすっ飛んで来るだろうな」
ゲオルグが顎を撫でながら、あっさりと頷いた。
胸の鼓動が激しくなる。
アオイが転移術式を使用した場合、この場所を知っているとしたら一瞬でやって来る筈だ。知らなくても、連続で転移すればそう時間はかからないだろう。さらにアオイの事だ。どんな裏技を持っているか、わかったものじゃない。
俺は大きく息を吸い込んで、一度深く深呼吸した。
……アオイが来る前に、やはりエーレルト家の話は最後まで聞いておかなければならない。
「ゲオルグさん。アオイがやって来た後のエーレルト伯爵家がどうなったのか、お話の続きを教えてもらえますか?」
ゲオルグが俺を見て、すっと目を細めた。
懐から再びシガレットケースを取り出したゲオルグは、煙草を取り出して火を付けながら、ゆっくりと話しを再開してくれた。
アオイを迎えた後も、外部から見たエーレルト伯爵家は、絵に描いたような幸せな家庭だったらしい。
アオイの事は、大きな話題にはならなかった様だ。
貴族が養子を取るのは珍しくないし、それをあえて指摘するような者もいなった。
しかし伯爵家内部では、家族の中に生まれた歪みが徐々に大きくなり始めていた。
エーレルト伯爵家当主のヨシュアは、魔術師としての能力は低くても、魔術師を見る目は確かだったようだ。
彼が東洋の島国から連れて来た小さな女の子は、日に日に猛烈な勢いで魔素を高め、さらに術式を操る技を磨いていった。この国の、西洋式の術式もあっという間に習得し、小学校に入る頃には、アオイはその非凡な才能から、既に稀代の魔女と噂されるようになっていた。
魔術以外にも、勉強や礼儀作法など、その歳に相応しくない才覚を示したアオイを、ヨシュアは優遇した。エオリアよりも僅かに年齢が上だった事もあり、ヨシュアは次代の伯爵がアオイで決まりだとい言わんばかりの扱いをしていたという。
「実際、伯爵家の中がどうなっていたかは俺にはわからない。しかしたまにアンリエットに会うと、奴はいつも不満ばかりを口にしていたな。あの明るい女が、いつも苦虫を噛み潰したみたいな顔だった」
ゲオルグがふっと微かに笑った。
アオイの置かれた状況は、ゲオルグの簡単な説明からでも容易に想像する事が出来た。
知らない国。
知らない人々。
アオイはきっと、その中で全力で頑張っていたのだろう。
しかしアオイは、新しい家族から温かく扱われていた訳ではなかったと思う。
その才覚故に、ヨシュアからの期待故に、もしかしたらいつも独りだったのかもしれない。
まだ幼かったアオイには、きっと辛い環境だった筈だ。
「アンリエットは、貴族の奥方としては普通の女であり過ぎた。娘を生んで、さらに普通の母親になってしまった。伯爵さまが目指した家の再興よりも、我が娘を愛することを選んだんだ」
ゲオルグがふうっと紫煙を吐き出した。
「だから、旦那と娘がいなくなってしまった時、アンリエットは耐えられなくなってしまったんだろう」
ドキリとする。
娘、つまりエオリアとヨシュアがいなくなった……。
「……どういう事なんですか」
俺はゲオルグの目を見て問い掛ける。
「そうだな」
ゲオルグが俺から視線を外して窓の外を見た。
「あれは今から10年程前か。オーリウェル郊外のショッピングモールで魔術テロがあっただろ? ああ、君ぐらいの歳なら、覚えていないかもしれんが」
俺はさっと全身から血が引くのがわかった。
大きく目を見開き、呆然と固まる。
目の前が真っ白になった。
忘れる事など、あるものか……!
一瞬遅れて、ガタガタと全身が震え始めた。カチカチと奥歯が鳴る。
時が凍りついてしまったかの様に、俺はそのままじっとゲオルグを見上げる事しか出来なくなっていた。
「まさか……」
俺はポツリと、消え入るような声で呟いていた。
ああ……。
正確には9年前。
オーリウェル郊外にオープンしたばかりの真新しい巨大ショッピングモール。
休日の家族連れで賑わうそんな場所を襲ったのが、無差別魔術テロだった。
多くの被害者を出した悲惨な事件。
そして、その被害者の中には、俺の両親や姉貴がいた……!
「詳しい経緯は知らん。しかしエーレルト伯爵と娘があの事件で犠牲になったのは事実だ。そしてそれをきっかけに、アンリエットもおかしくなってしまった」
ゲオルグがチラリと俺を一瞥した。
アオイも、あの事件で家族を失っていたのだ……。
なんということだ……。
俺はただただ絶句する。
アオイも、俺と同じ……。
実の家族ではなく、さらに良好な関係の家族ではなかったかもしれないが、それでも近しい人を一瞬で失うショックは計り知れないと思う。
さらに、そうして最愛の夫と娘を一瞬にして失ってしまった伯爵夫人のアンリエットは、あまりのショックに精神のバランスを崩してしまった。
日に日に衰弱していくアンリエット夫人は、やがて入院するようになってしまう。
そのまま夫や娘の後を追うようにして、アンリエット夫人が帰らぬ人になってしまったのは、あの魔術テロから1年ほど後だったという。
後に残されたのは、アオイだけ。
まだ10歳ほどの少女が、エーレルト伯爵を継ぐ事になってしまったのだ。
「正直、1人になったあの娘が、エーレルトの後を継ぐとは思っていなかった。何せ、エーレルト伯爵家の直系は、皆死んだからな」
ゲオルグが一瞬目をつむった。
「俺はてっきり故郷に帰るものだと思っていた。しかしあの娘は、伯爵になりやがったのさ」
アンリエットがいなくなった事もあり、ゲオルグはだんだんとエーレルト伯爵家とは疎遠になっていったという。
そしてアオイと再開したのは、さらにしばらく経った後。
成長したアオイが、魔術を悪用する者を密かに懲らしめるレディヘクセとしてグリンデマン・ゲゼルシャフトの前に立ち塞がった時だった。
「当時手を出していた幻覚魔術を用いる商売を、エーレルト伯爵に潰されたんだ。それからは、色々あって懇意にさせてもらっているがな。それは、君も知っている通りだ」
ゲオルグは踵を返すと、テーブルまで戻った。そして灰皿に煙草を押し付けて、火を消した。
「俺が知っているのはこんなところだ。どうだ、満足いただけたかな?」
こちらを見たゲオルグが、ニヤリと口を歪めた。
俺は呆然としながら、深い皺が刻まれたその厳つい顔をじっと見つめる。
エオリアの事。
アオイの事。
そして、エーレルト伯爵家を襲った悲惨な運命。
色々と驚くべき事実に晒されて少し呆然としていた俺は、はっとして慌てて頭を下げた。
「ありがとうございました。十分です、本当に……」
アオイの辿ってきた運命。
俺が想像もしていなかった事ばかりだった。
俺は眉間にシワを寄せ、目を伏せながらじっと床を見つめた。
アオイが俺にエオリアの姿を重ねている理由とは、理不尽に奪われた家族の事を今も忘れられないからなのだろう。
家族を奪われた痛み。
大切な人を失った痛みは、何よりも辛く、いつまでもいつまでも深い傷となって心をえぐる。
そうして胸の真ん中にぽっかりと開いた穴は、決して癒える事はないのだ。
でも……。
このウィルの姿になって、エーレルト伯爵家で暮らす様になって、俺はその心の穴を、ソフィアや軍警のみんなやジゼルたちや、そしてアオイに塞いで貰った気がしていた。
そう感じる事が出来たのだ。
もしアオイが、俺と同じ様に苦しんでいるのなら。
ならば、今度は俺が……。
「ウィル。もう準備が出来ている頃合いだ。そろそろ食事に……」
俯き、眉をひそめてじっと考え込んでいた俺は、顔を上げてゲオルグを見た。
目が合うと、ゲオルグは一瞬顔をしかめた。
「ウィル。泣いているのか?」
「えっ」
俺は慌てて自分の頬に触れてみる。
確かに温かな液体が流れ落ちていた。
俺は慌てて涙を拭う。
独りでさまよい歩いて、あれだけ泣き尽くした筈なのに、また泣いてしまうなんて……。
それも人前で泣くなんて……
俺は熱くなる頬を誤魔化すように、むうっと表情を固める。それでも一筋流れ落ちた涙を、慌てて拭った。
……シルクの手袋が、涙で汚れてしまった。
「ふっ」
ゲオルグが笑った。
「やはり君を見ていると、他人という気がしないな」
ニヤニヤと笑いながらこちらを見つめるゲオルグ。
それは、俺にアンリエットを見ているという事なのだろうか。
やはりゲオルグは、未だアンリエットの事を……。
俺が何か言い返そうと口を開いた時。
「えっ……」
部屋がミシリと震えた。
俺のすぐ側にあるガラス窓が、ビリビリと震えていた。
地震……?
この湖畔のお屋敷全体が揺れたような気がした。
俺は息を殺してさっと周囲を窺った。視界の端で捉えたゲオルグも、何かの異常を感じている様だった。
再び振動。
今度は先ほどより大きい。
いや、近いのか……?
思考がクリアになっていく。
嫌な予感がした。
俺はドレスの裾を揺らしてゲオルグのもとに駆け寄った。
同時に、廊下から複数の足音が迫って来るのが聞こえた。
ドンっと勢い良く開かれる扉。
ダークスーツの一団が現れる。
その誰もが、サブマシンガンを装備していた。9ミリ弾を使用する、バレルが一番短くコンパクトなクルツタイプだ。
その武装集団の先頭に立っていたリーザさんがゲオルグに駆け寄って来た。
「何の騒ぎだ」
ゲオルグの低い声。先ほどまでとは違う、ぞっとするような冷たい声だった。
「襲撃です、ボス」
リーザさんはあくまでも冷静だった。
「魔術師どもが襲って来ました」
俺はそのリーザさんの台詞に息を吐き、身を固める。
開け放たれた扉の向こうから、乾いた9ミリ弾の銃声が響いてくる。
ご一読、ありがとうございました。




