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Hexe Complex  作者:
62/85

Order:62

 カフェオレの入ったカップを片手に、俺はロイド刑事と色々な話をした。もっぱら俺は聞き役で、クスクス笑いながらロイド刑事の話に相槌を打っているだけだったけれど。

 ロイド刑事の家で過ごす夜が更けていく。

 ロイド刑事には明日も、正確には今日だが、また仕事がある筈だ。そろそろ寝なくてもいいのかなと、俺はちらちら時計を見たりしていたが、興奮気味に早口で話すロイド刑事は、放っておくといつまでも話を続けていそうな雰囲気だった。

 今の俺にロイド刑事の親切に報いることは出来ない。ならば、せめて話し相手くらいは務めなければ。

 そう思って話の聞き役をこなしていた俺だったが、やがて、とうとう眠気に耐えられなくなってしまい、小さく欠伸をしてしまった。

「は、すみません」

 俺は慌てて謝る。

「そうだね、そろそろ休もうか」

 しかしロイド刑事は、柔らかく微笑んでくれた。

 俺はむうっと気恥ずかしさを押し殺し、コクリと頷いた。

 色々あって気は張っていても、やはり俺の体は随分と疲れてしまっているみたいだ。

 もともと魔術の使いすぎによる体調不良は完全に治っていなかったのだ。そこに無理をして森やら原っぱやらを歩き回ったのだから、当たり前ではあるけれど……。

 ロイド刑事の気遣いにより、俺がベッドを使わせてもらえる事になった。

 俺はソファーでかまわないと遠慮してみたが、ロイド刑事は俺の背を押して寝室に連れて行ってくれた。

 ……本当に申し訳ない。

 照明の消えた暗い寝室で、俺はぽすっとベッドに腰掛けてロイド刑事を見上げた。そして、そっと微笑んだ。

「すみません。ありがとうございます、ロイドさん……」

「あ、えっと、いや、いいんだよ、ウィルちゃんのためならね、はははっ……」

 リビングから射し込む照明が逆光になっと、ロイド刑事の表情は良くわからなかった。しかし、その声は随分と緊張している様だった。

 む?

 俺は小首を傾げる。

「お、お休み……」

 ロイド刑事がギリギリとぎこちない動作で踵を返した。そしてのしのしとリビングに戻って行く。

 俺は俯き、ふっと息を吐いた。

「あの、ロイドさん」

 そして、小さな声でロイド刑事の背中を呼び止める。

 ロイド刑事がびくっと体を揺らした。

 ロボットの様な動作で、ゆっくりと振り向くロイド刑事。

「あの、今日は本当にありがとうございました」

 俺は少しだけ視線を外して、言葉を探す。しかし直ぐにまたロイド刑事に目を戻した。

「私、頑張ってみようと思います。ロイドさんに教えてもらった通り、アオイと仲直りするために」

 俺は少し気恥ずかしくなって、それを誤魔化すようにはにかんだ様に微笑んだ。

 ロイド刑事がじっと俺を見る。

「う、うん、そうだね」

 そしてしばらくして、はっとした様にガクガクと首を振った。

「ぼ、僕も、お、応援してるから!」

 叫ぶようにそう告げたロイド刑事は、逃げるようにして寝室を飛び出して行った。

 ……む?

 扉が閉じられると、照明の落とされた寝室は真っ暗になってしまった。

 ロイド刑事、良い人には間違いないけれど、少し落ち着かなかったり忙しないところがある。笑顔もそうだが、行動もまるで少年みたいた。

 俺は1人、ふふっと微笑んだ。

 ……でも、さすがに疲れた。

 俺はスリッパを脱ぐと、ゴロンとベッドに横になった。そして右腕を上げて額に当てながら、ぼんやりと天井を見上げた。

 気を抜けば、今この瞬間、直ぐに眠りに落ちる自信があった。

 しかし俺には、まだ考えておかなければならない事がある。

 明日から、どう行動したら良いかだ。

 ロイド刑事の言葉で、アオイの事をもっと知らなければならないという事に気が付けた。

 でも、どうやって知ればいいのだろう。

 アオイ本人に当たっても、今の俺に上手く聞き出せる自信はない。また今までと同じく、アオイに流されてしまうだけだろう。

 軍警のデータベースを確認出来れば何かわかるかもしれないが、今軍警に接触するのは危険だ。

 そうなると、アレクスさんやレーミアに接触するのが一番良いと思える。

 しかし、お屋敷に戻ってアオイに見つからない自信はない。

「……うん」

 俺は息を吐き、寝返りを打つ。

 今はまだ俺が弱っているから、アオイも俺の魔素を探知して転移術式で追ってくるという事が出来ないのだろう。しかし時間が経ち俺の体調が良くなれば、いつもの様にアオイは直ぐに俺の側へと転移して来るに違いない。

 お屋敷に、アオイに近付けば、その探知される可能性はより高くなるような気がする。

 しかし、アレクスさんやレーミアも厳しいとなると……。

「ふうっ」

 俺は再び仰向けになった。

 ……考えろ。

 きっと何かある筈だ。アオイと、エーレルト家と接点のある場所や人物が……。

 俺は目を瞑り、そしてきゅっと眉をひそめる。

 考えなければ……。

 しかし俺の意志に反して、体はだんだんと眠りに落ちていく。

 ダメだ……。

 もう睡魔に負けてしまうと思ったその時。

 ドンっと鈍い音がリビングの方から聞こえてきた。

 一瞬にして覚醒する。

 俺は体を起こして周囲を窺った。

 ……何だ?

 まさかアオイがやって来たのか?

 俺は素足のままベッドから飛び降りると、そっと寝室のドアに歩み寄った。そしてそのドアを少しだけ開けると、リビングを覗いた。

 先ほどまでコーヒーを飲んでいた机の脇で、ロイド刑事がスネを押さえてうずくまっていた。

 机の位置が斜めになっている。どうやら机にぶつかっただけの様だ。

「落ち着け、落ち着くんだ、ロイド。今、ウィルちゃんは大変なんだ。そこに付け入るような真似は……」

 ロイド刑事がぶつぶつと何かを言っているのが聞こえた。

 そして唐突にがばっと立ち上がるロイド刑事。

「そうだ、オーリウェル市警十訓だ! 1つ、警察は社会正義の体現者である。1つ、常に市民のためにあれ。1つ、いかなる犯罪も許してはいけない……」

 俺はドアから離れてふうっと息を吐いた。

 大丈夫そうだ。

 再びとととっとベッドに戻ると、俺はぽすっとマットレスの上に倒れ込んだ。

 ロイド刑事、真面目だなと思う。

 日々犯罪者たちと戦っているのは、軍警だけではない。魔術師や魔術テロだけではない様々な事件や事故に対して、ロイド刑事たち市警も日夜戦っているのだ。

 ……ん?

 俺はそこで、そっと眉をひそめた。

 ……犯罪者。

 俺はじっと暗い寝室の一点を見つめ、記憶の糸を手繰り寄せる。

 そうだ……!

 アオイの事を知る手掛かり、得られるかもしれない。

 エーレルト伯爵家の事を良く知っている人物。その可能性がある者。もしかしたらあの人なら……。

 俺はベッドの上で丸まりながら、そっと目をつむった。

 ……ダメで元々だ。

 取りあえず今は、動いてみなければ。

 今のこの状況を変えるためには、どのみち足掻くしかないのだから……。



 翌朝。

 俺はロイド刑事と並んでアパートを出た。

 外に出ると、ピリッとした朝の冷たい空気が頬を撫でる。はっと吐く息はもちろん白く、今日も寒い一日を予感させた。

 しかしそっと上を見上げると、コンクリートの建物の間に見えるのは真っ青な快晴の空だった。寒いけれど、穏やかな冬晴れになりそうだ。

 俺とロイド刑事は、並んでゆっくりと石畳の狭い坂道を降りて行く。軽快に歩く俺の歩みに合わせて、ふわふわとスカートが揺れていた。

 俺は昨晩洗濯させてもらった白のワンピースの上に、ベージュのコートを羽織っていた。

 ワンピースの裾は、森をさ迷った時に少し破いてしまったが、その部分は切断してしまった。だから、少し裾が短くなってしまっている。もちろん適当な応急処置だ。近くから見れば、その歪さがわかってしまうかもしれない。

 コートの方は、ロイド刑事からの借り物だった。やはりサイズが大きいし、白のワンピースとはちぐはぐ感があることは否めない。しかし、冬の街を歩くのに、コートは大きな戦力だった。

「ぐっ」

 俺の隣で携帯を見ていたロイド刑事が、不意に声を漏らした。

「どうしたんですか?」

 俺は白のリボンでポニーテールにまとめた髪を振り、ロイド刑事の方を向いた。

「……はは、何でもないよ。先輩がもうそこまで来てるから、さっさと合流しろって……」

 ロイド刑事は少し引きつった笑顔を浮かべた。

 む。

 ロイド刑事の先輩というと、やはりあの眼鏡の刑事さんだろう。俺は色々と目を付けられているから、やはり顔を合わせるのはマズいかもしれない。

「僕はこのまま現場に行く事になりそうだけど、ウィルちゃん、本当に大丈夫かい?」

 ロイド刑事が携帯をしまい、心配そうに顔を曇らせて俺を見た。

 俺は精一杯微笑んで、ロイド刑事にコクリと頷き掛けた。

「大丈夫です! 少し用事を済ませたら、今日はきっと家に、アオイのところに帰りますから!」

 俺はポンっとコートのポケットを叩いた。

 そこには、先程ロイド刑事から借りたトラムの運賃が入っていた。

「うーん」

 ロイド刑事はしかし、顔を曇らせたままだった。

 これは、先程から何度も繰り返しているやり取りだ。

 今朝目が覚めた俺は、泊めてもらった事へのせめてものお礼に、朝食の準備をさせて欲しいとロイド刑事に申し出た。

 俺が用意出来たのはパンとオムレツの簡単な朝ご飯だったが、ロイド刑事は喜んで食べてくれた。

 そこで俺は、これからの事をロイド刑事に話してみた。

 俺には、行ってみたい場所がある。いや、行かなければならない場所があるという事。それは、アオイの所に帰るために、必要なのだという事を。

 俺はじっとロイド刑事を見つめ、ロイド刑事もじっと俺を見た。

 ロイド刑事は難しい顔をしていた。

 俺を家族のもとに送り届けず、単独行動を許す事を、ロイド刑事はなかなか認めてくれなかった。

 端から見れば、俺は単なる家出少女なのだ。このまま解放する事を危ぶむのは当然だと思う。

 だから俺は、なるべく明るく微笑みながら、もう大丈夫だという事を繰り返し説明した。道は指し示してもらったから、もう大丈夫だと。

 しかしそんなやり取りをしている間に、市警からロイド刑事のもとに、即時出頭を命じる旨の連絡が来てしまった。何か事件があったのかもしれない。

 そうして俺たちは、一緒にアパートを出ることになったのだ。

「ウィルちゃん、本当に大丈夫かい?」

 何度目かの台詞を繰り返すロイド刑事。

 俺は微笑み、頷く。

 その俺を見て、ロイド刑事も少しだけ笑った。

「何だかいつものウィルちゃんに戻ったね」

 そう呟きながら。

 ……いつもの俺。

 ウィルバートから変化したウィルとしての俺、という事だろうか。

 何だかそう言ってもらえると、ほっと安心感を抱く事が出来た。

 俺は、ウィル・アーレンでいいのだと……。

 ロイド刑事は、見送りが出来ないのなら、せめて家まで帰る交通費にとお金を貸してくれた。持ち合わせのない俺には正直にありがたかったので、俺はお礼を言って素直にそのお金を借りる事にした。

 額の大きな紙幣まで受け取る訳にはいかないので、トラム代だけを借りて、後はお返しさせてもらったけれど。

「ごめんね、ウィルちゃん。見送れなくて」

 ロイド刑事が申し訳なさそうに眉をよせる。

 前から歩いて来る人を避ける為にロイド刑事の側に寄った俺は、そっと首を振った。束ねた髪がふわりと舞った。

「……とんでもないです。ロイドさんのお陰で、私、本当に助かりました」

 俺はそっと微笑み、ロイド刑事を見上げた。

 不意に、ロイド刑事が立ち止まる。

 む?

 少し行き過ぎてしまった俺は、立ち止まってロイド刑事の方を向いた。

 足早に職場や学校に向かう他の通行者たちが、訝しげに俺たちを見る。

 ロイド刑事は大きく目を見開き、少し上気した顔でじっと俺を見た。そして、意を決したように口を開いた。

「ウィルちゃん! 僕は、ウィルちゃんの為なら……」

 その時、狭い通りにロイド刑事の声を打ち消すようなクラクションが鳴り響いた。

 ロイド刑事がはっとして路地の先を見る。

 俺もそちらを向くと、坂の下に白いセダンが止まっていた。

「せ、先輩! もう来たのか……!」

 どうやらロイド刑事のお迎えが来たみたいだ。

「ロイドさん。本当にありがとうございました」

 俺はロイド刑事にばっと頭を下げた。

「ウ、ウィルちゃん!」

 俺は頭を上げて、ロイド刑事の目を見る。

「お金もコートも必ずお返しします。あと、泊めていただいたお礼も、必ずします」

 俺は微笑み、力強く頷いた。そしてもう一度ロイド刑事に頭を下げると、スカートをひるがえしてさっと踵を返した。

 そのまま俺は、石畳の上を走り出す。

「ウィルちゃん!」

 ちらりと振り返ると、ロイド刑事が俺に手を振っていた。

 そっと手を振り返して、俺は別の路地に入り込んだ。

 一旦足を止め、冷たい朝の空気を大きく吸い込む。

 そして俺は、再び大股で歩き始めた。

 今度は宛もなく歩くのではない。

 現状を打ち破るため。

 アオイの事をもっともっと知るために。

 俺はオーリウェル旧市街の中心を目指した。

 目的地は、オーリウェルの裏社会に存在する犯罪組織、グリンデマン・ゲゼルシャフト。

 俺はその頭目、ゲオルグ・グリンデマンに会いに行く。



 俺は吊革に掴まりながら、トラムの車窓を流れていくルヘルム宮殿の姿を見送った。

 アルトエンデ通りの信号待ちをする車の列を横切り、宮殿の脇を抜けるコンスルシュトラーセをルーベル川に沿って遡れば、直ぐに前方にオーリウェル旧中央駅が見えて来る。

 それ自体が宮殿かと思えるような荘厳な石造りの駅舎は、オーリウェル中央駅が移転する50年ほど前まで、この街の中央玄関だった場所だ。

 路線バスや一般の車で込み合うその旧中央駅前で、俺はトラムを降りた。俺が目指すのはその駅舎のさらに東側、昔ながらの古いビルが立ち並ぶ旧市街のオフィス街だった。

 ヘンドラークロイツヴェーク、または単に旧商街区と呼ばれるこの辺りは、オーリウェルがまだ王都だった頃から、商人街として栄えてきた場所だ。中央市場やルーベル川の荷上場もすぐそこにあり、物と金融の街として発展してきたと学校で習った記憶がある。

 新市街のビル街が発展するにつれ、大企業や新興の会社などは川向こうにオフィスを構えるようになっていったが、しかし旧王都以来の商業の中心であるこの辺りも、とても衰退したとは言えない賑わいを見せていた。

 晴れ渡った空の下、旧商街区を行き交う人は多い。近隣の住民やビジネスマン、それに観光客など、様々な人たちが様々な表情で石造りの街並みを流れていく。

 俺はそんな人々に混じりながら、注意深く周囲を見回していた。

 グリンデマン・ゲゼルシャフトに通じるあの路地を見つけるために。

 俺には、グリンデマン・ゲゼルシャフトの正確な場所がわからない。

 前にアオイと一緒に訪れた時には転移術式で一瞬にして移動したので、あの薄暗い裏通りとゴロツキ2人組が控えていた扉しか記憶になかった。

 あの場所がオーリウェルのどこにあるのかが、わからなかったのだ。

 その後も、ゲオルグとコンタクトを取っていたのはアオイだけだった。まさか俺の方からあの犯罪組織に接触しなければならない状況になるとは、思いもしなかったし……。

 そのため、オーリウェルの裏社会に幅を利かせているゲオルグ・グリンデマンの居場所については、アオイからの情報で推測するしかなかったのだ。

 アオイが彼に会うために出掛けていった時の事やその時の言動、それにあの路地から見えた街並み、そしてオーリウェルに住んでいると聞こえてくるマフィアの噂話などから察するに、恐らくは、この旧市街のどこかに奴らの根城があると俺は推測していた。

 ゲオルグに接触出来るかどうかは賭でもあった。

 接触出来なければ、素直にお屋敷に帰るしかない。アレクスさんかアオイ本人と話すしかないのだ……。

 人の流れから外れ、俺は陶器を売るお店の前で立ち止まり、そっと息を吐いた。

 まだ体調は万全とは言えない。

 しかし苦しいのも、そして心細いのも、感情に任せてお屋敷から逃げ出した俺の責任なのだ。

 俺は胸に手をあて、大きく息を吸い込んだ。そしてショーウィンドに映る白い顔の少女にそっと頷きかけてから、再び歩き出す。

 俺がゲオルグ・グリンデマンを目指すのは、彼が先代エーレルト伯爵と付き合いがあったと語っていた事を思い出したからだ。

 初めて奴に対面した時、ゲオルグはアオイの母親を知っているような口ぶりだった。

 だからといってもちろん、俺が求める情報が得られるとは限らない事はわかっていた。

 わかってはいたが、アオイを知るために手を尽くそうと俺は決めたのだ。

 俺はひたすらに旧商街区を歩き回った。

 そのうちに段々と体が火照って来て、お腹も空き始める。

 ……む。

 お腹がきゅっと鳴った。

 しかしそれからも、ゲオルグに繋がる手掛かりを見つける事は出来なかった。

 ……やはり、そんなに簡単な話ではない、か。

 疲労と落胆で顔が曇ってしまうのを自覚しつつ、俺は今日何本目かの裏路地に足を踏み入れた。

 じめっとした狭い通りだ。雰囲気は、以前訪れたあの場所に似ている。

 グリンデマン・ゲゼルシャフトへの入り口がないか注意深く左右を見ながら、俺は古めかしい造りの大きな建物の間に伸びる薄暗い路地を、奥へ奥へと進んで行った。

 しばらくして、俺は背後から足早に近付いてくる複数の足音に気が付いた。

 こちらに向かって来る気配は、路地の先にも現れる。

 俺はやり過ごそうと視線を落とし、路地の片側に寄った。

 やがてスーツをだらしなく着崩した複数の大男が姿を現した。あまり人相の良くない男たちだ。

 彼らは真っ直ぐに俺の方へとやって来る。そして俺は、あっという間に囲まれてしまった。

 ……なんだ。

 こちらを見下ろす濁った目と下卑た笑みに、俺は自然と重心を下げ、警戒態勢に入った。

「こいつで間違いないな」

「へへ、探し回る手が省けたってもんだ」

「お嬢さん、ちょっと俺たちに付き合ってくれよ」

 ニヤニヤしながら、この寒いのにジャケットの袖をまくり上げた大男が進み出て来た。

 ……俺を探していた?

「俺に何の用だ」

 俺はできるだけ低い声でそう言うと、むうっと先頭のその男を睨み上げた。

 しかし男たちは俺の言葉に、ピュッと口笛を吹いてさらに笑みを広げた。

「俺だってよ」

「カッコイいじゃねぇか」

 半袖男が笑いながら、ぬっと太い腕を伸ばして来た。

 俺はスカートをはためかせ、さっと左に回避する。そしてなおも掴みかかって来るその腕を、パンっと弾いて後ろに下がると、男と間合いを取った。

「このアマ……!」

 男がギロリと俺を睨んだ。その厳つい顔面は、先ほどまでの余裕もなく、一瞬にして真っ赤に染まっていた。

 他の男たちが煽り立てて来ると、半袖男はさらに俺に腕を伸ばして来た。

「……くっ!」

 俺はキッと男を睨み付ける。

 まったく、こんな事をしている場合ではないのに!

 俺は覆い被さる様にして掴みかかってくる巨体の脇をくぐり抜け、そのすれ違い様に足を出し、男の足を払った。

 あっけなくバランスを崩した男がつんのめる。

 髪を揺らしてくるりと回転しながらその男の背後に回った俺は、そのゴツい腕を取り捻上げて、男を拘束した。

「ぐおっ、があっ、お、折れるっ!」

 図体の割には甲高い声で男が悲鳴を上げた。

 しかしその悲鳴を聞いて、ニヤニヤとこちらを見ていた他の男たちの表情が変わった。

 俺は半袖男の腕をさらに捻り上げながら、周囲を睨んだ。

 ……何なんだ、こいつらは。

 1人1人はゴロツキ然としていて大した事はなさそうだが、しかしこの数は驚異だ。

 時間も体力もない。

 いかにしてこの場を離脱するか……。

 俺がそっと思案し始めたその時。

「止めなさい」

 不意に、抑揚のない女性の声が響いた。

 決して大きな声ではないが、その場にいる全員の動きを止めさせる程に良く通る声だった。

「ぐっ、た、助けてくれ、姉御!」

 俺が拘束している男が呻く。

 薄暗く狭い路地に、カツリと靴音が響いた。

 俺を囲んでいた男たちがさっと道を空ける。

 その向こうから現れたのは、ダークカラーのパンツスーツに身を包んだ長身の女性だった。

 少しカールした金髪をショートにまとめたその女性は、真っ直ぐに俺を見据えながらこちらに歩み寄ってくる。

 整った容姿には似合わない鋭い目だ。それに、目の下に付いた大きな傷跡が、余計にその目線に凄みを与えていた。

 ……こいつらの仲間か。

 落ち着いた足取りや隙のない身のこなしから、彼女は相当にできる事がわかる。俺はいつでも動けるように、身をたわませる。

 しかし……。

 む。

 俺は眉をひそめる。

 彼女の顔、俺は見たことがある気がした。

「ウィル・アーレンさんですね。私たちは貴女の保護を依頼されている者です」

 彼女は俺の前に立つと、じっと俺を見下ろした。まるで睨むような迫力のある視線だった。

 ……そうだ!

 彼女は確か……。

「あなたは、ゲオルグ・グリンデマンの所にいた人ですね?」

 俺は大男の腕を放した。男は地面に手を付きながら、転がるようにして俺から離れた。

「……そう言えば、一度お会いした事がありましたか」

 パンツスーツの彼女は、無表情なままで頷いた。

 確かこの女性は、俺が初めてグリンデマン・ゲゼルシャフトを訪れた時に応対に現れた人だ。

 俺は内心歓声をあげつつ、ニッと笑ってしまった。

 ……まさか、向こうから出て来てくれるとは。

「アーレンさん。同行を願います」

 やはり平板な声でそう言う彼女を、俺はキッと見た。

「俺の保護依頼というのは、アオイ……エーレルト伯爵からですか?」

「はい」

 素直に頷く彼女。

 やはりアオイは俺を探している。グリンデマン・ゲゼルシャフトをも利用して。

 アオイの事だ。軍警や他に市警、他にもあらゆるものを利用して、俺を捜索しているだろう。

 ……やはり俺が自由に出来る時間は、あまりなさそうだ。

「わかりました。従います」

 俺は彼女を見てコクリと頷いた。

「でも、少しだけゲオルグ・グリンデマンに会わせてもらえませんか?」

 俺は真っ直ぐ彼女の目を見た。

 そこで初めて、彼女の表情が変わった。眉を寄せ、少し困ったような表情になる。

「これは、エーレルト伯爵に関する重要な事なんです。そちらの組織とエーレルトの関係を考えても、重大な意味を持つことになります」

 俺はぎゅっと両の拳を握り締め、勢いよくまくし立てた。

 このチャンスを逃せば後はない。

 ここでゲオルグに会えなければ、俺はアオイのもとに送られてまた軟禁されてしまうかもしれない。

 俺は顎を引き、上目遣いに高身長の彼女を見上げた。緊張と興奮で、頬は熱くなるのがわかった。

 目の下に傷のある彼女は、じっと俺を見る。

 どれほどそうしてにらみ合っていただろうか。

 彼女の目がすっと細まった。

「……確認します」

 そして彼女は、懐から携帯を取り出した。



 俺を捕まえに来た金髪の彼女は、リーザと名乗った。

 ゲオルグ・グリンデマン直属の部下で、秘書兼護衛をしているらしい。

 彼女を通じて申し込んだ俺の面会依頼を、ゲオルグ・グリンデマンは了承してくれた。

「お会いになるそうです」

 無感情な声でそう告げたリーザは、部下のゴロツキに解散を命じ、俺を車まで案内してくれた。

 予想通りグリンデマン・ゲゼルシャフトのアジトは旧商街区にあるとの事だったが、ゲオルグ・グリンデマンは現在別の場所にいるらしい。

 俺とリーザさんを乗せた黒塗りのセダンは、そのまま市街地を抜けてオーリウェルの郊外に向かった。濃いスモークの掛かった窓から外を眺めていると、車は幹線道路からアウトバーンに入る様だった。

 自らゲオルグに会いたいと言っておきながら、俺はどこに連れて行かれるのだろうと少し不安になってしまう。なにせ周りにいるのは、マフィアなのだから。

 眉をひそめながら溜め息を吐いた俺は、ふと視線を感じて隣を見た。

 そこには、やはり鋭い視線でじっと俺を見つめるリーザさんがいた。

 ……む。

「アーレンさんは、あのエーレルト伯爵の妹兼騎士とお聞きしました」

 俺と目が合うと、リーザさんは低い声でボソボソと話しかけて来た。

「えっと、はい。まぁ、そんなものですが……」

 俺は少しだけ首を傾げる。

「そうですか」

 リーザさんは俺から視線を外し、前を向いた。

 ……何なのだろうか。

 彼女が俺のもとに現れたのは、旧市街を徘徊する俺の姿がグリンデマン・ゲゼルシャフトの末端構成員に目撃されたためだ。

 その報告がボスであるゲオルグに届き、そこで俺を確保するために彼女が派遣されて来たという訳だ。

 犯罪組織であるグリンデマン・ゲゼルシャフトの勢力が深くオーリウェルの街の中に浸透しているというのは問題ではあるけれど、そのおかげで俺はゲオルグに接触することが出来そうなのだ。

 今の俺にとっては、ありがたい状況だった。

 俺たちを乗せた車は、次々と他の車を追い越しながら、アウトバーンを走り抜ける。既に車窓から見える風景は、オーリウェルの街並みではなく、畑と牧草地、そして小さな村が広がる田園風景に変わっていた。

 最初は緊張に身を堅くしていた俺だったが、いつの間にか心地良い車の振動にまぶたが重くなり始めていた。

 あちこち歩き回った疲れもあったのかもしれない。

 ふと気が付くと、俺はリーザさんの肩にもたれ掛かってうとうととしてしまった。

 はっと気が付いた俺は、慌てて身を起こした。

「す、すみません」

 俺は直ぐにリーザさんに謝った。

 しかしリーザさんは、そこでふっと軽く微笑んだ。

「いえ、妹さん」

 何だ、その呼び方は……。

 リーザさんは、もっとお休みいただいても構いませんと自分の肩をぱんぱんと叩いた。

 もたれろという事だろうか。

 さすがにそれは出来ないので、俺はまた謝って車窓に目を移した。

 車の行く先には、段々と雪に包まれた山々とどこまでも広がる針葉樹の森が広がっていた。

 もうどれくらいオーリウェルのから離れたのだろうか。

 車がアウトバーンを下りる。そしてさらにしばらく一般道を走った後、俺たちは冬の陽光を受けてキラキラと輝く湖に到着した。

 その湖畔に佇む小さな町に、車は入って行く。道路沿いに広がる家々はおもちゃのように可愛らしく、色鮮やかだった。遠くには、家々の屋根の間から飛び出した教会の鐘楼も見えた。

 車はしかし、その村も越えて、さらに湖沿いに走り続ける。

 そうして前方に見えて来たのは、湖に突き出した半島に建つ城のような石造りの館だった。

 俺が窓に張り付きながらそんな光景を見つめていると、不意に携帯電話が鳴った。

 リーザさんの携帯だった。

 しばらく話し込んでいたリーザさんが電話を切り、俺を見た。

「ボスがアーレンさんと晩餐を共にしたいとの事です。その準備をするように言われました」

 先ほどの笑顔が嘘のように無表情にそう告げるリーザさん。

 ゲオルグに会うためにここまで来た俺に、もちろん異論はなかった。

 俺はリーザさんを見てコクリと頷いた。

 しかしそこから、想定外の事が始まった。

 湖畔のお屋敷に到着した俺は、ゲオルグのもとにではなく、何故かお風呂に連れていかれたのだ。

「身支度を整えていただきます」

 そう告げたリーザさんは、あっという間に俺からベージュのコートを奪い取った。

「あっ」

 俺が対応できないような俊敏な動きだった。やはりリーザさん、ただ者ではない。戦闘能力も高そうだ。

 レーミアのようなメイド服を着た使用人たちにより、コートが持ち去られてしまう。

 あ、ロイド刑事のコートが……。

「シャワーをどうぞ。着替えは用意いたします」

 俺はそのままシャワールームに押しやられる。

 おかしな流れだが、ここは大人しく従うしかない。

 何か罠に陥れられているのではと思わないでもなかった。しかし、グリンデマン・ゲゼルシャフトにとっての俺の利用価値とは、アオイへ恩を売るための材料とする事だろう。ならば無碍な扱いはされないだろうと、俺は考えていた。

 指示された通りシャワーを浴びると、今度はまた別の部屋に連れて行かれた。

 大きな鏡の前に座らされた俺は、メイド達とリーザさんに取り囲まれる。

「な、何を……!」

 そして寄ってたかって髪を拭かれ、梳かれる。同時に手際良く化粧を施されて行く。

「え、えっと、あの、わぷっ」

 状況確認や抗議をする暇もない。

 丁寧に髪が結い上げられ、今度はドレスに着替える様に指示をされた。

 俺の前に差し出されたのは、真っ赤なドレスだった。

 背中がざっくりと開き、スカート部分には大きなタックとスリットが入っていた。一部にあしらわれた黒のリボンが、今俺の髪に付けられた黒の髪飾りと同じデザインラインだった。

 初めてアオイの屋敷を訪れた夜。レーミアに着せられたドレスに似ている気がした。

 ドレスに身を包んだ俺に、メイドたちが最後の手直しを施していく。

 それまでどこか眠そうで、疲れた顔をしていただけの少女が、あっという間にあの夜会の時のような綺麗に整えられたお嬢さまに変えられてしまった。

 俺は鏡を見てむうっと眉を寄せた。

 俺は何をしているんだ……。

「綺麗です、妹さん」

 リーザさんがぼそりと感想を口にした。

「……あの、ありがとうございます」

 俺は取り敢えずそう答えておくしかない。

 身支度が終わると、リーザさんは俺を先導して、また別の部屋に向かった。

 広い廊下に俺のヒールの音が甲高く響き渡る。

 途中、窓の外に見える景色が、いつの間にか夜へと変わりつつある事に気が付いた。バタバタしている内に、あっという間に日が落ちてしまった様だ。

「こちらです」

 リーザさんが廊下の突き当たりの大扉の前で立ち止まった。

 ……いよいよか。

 俺はドレスの胸元に、シルクの手袋に包まれた手を当てて深呼吸した。

 そして、ギッと軽い軋みを上げて扉が開かれる。

 そこは、かなり広い部屋だった。

 中央にテーブルが置かれ、白いテーブルクロスの上に蝋燭の灯りが揺れていた。他に照明はなく、部屋の中は薄暗い。どこからか、微かにクラシック音楽が流れていた。

 目が慣れて来ると正面の壁全面が窓になっている事に気が付く。その向こうには、黒々とした水を湛える湖と、山々を臨む事ができた。

 昼間なら、さぞ雄大な景色を見ることができただろう。

「良く来たな」

 低く良く通る声が響く。

 コの字型に並べられた机の上座に座っていた中年の男性が顔を上げ、俺を見据えた。薄暗い部屋の中で、その目がギラリと光った気がした。

 グリンデマン・ゲゼルシャフトのボス、ゲオルグ・グリンデマンだ。

「ほう……」

 ゲオルグは俺を見て感心したかの様に声を上げる。

 俺はスカートを揺らして一歩進み出た。

「グリンデマンさん。会っていただいてありがとうございます」

 ゲオルグは立派な椅子の背もたれに大きな体を預けると、顎に手を掛けた。

「それで、俺に話があるってのは何だ。エーレルトの騎士殿」

 ゲオルグがニヤリと笑う。

 俺は、ぎゅっと拳を固めた。

「実は……」

 一瞬床に視線を落とした俺は、しかしまたさっと顔を上げゲオルグを見た。

 気圧されないように、お腹に力を込めて。

「教えていただきたいんです。エーレルト伯爵家の事。アオイの事。何でも、どんな事でも構いません。お願いします!」

 俺は体の前で手を組んで、さっと頭を下げた。


 読んでいただき、ありがとうございまいした!

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