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61/85

Order:61

 俺は下を向き、黙々と歩いていた。

 森を抜け、草原に足を踏み入れ、知らない場所をただひたすらに。

 白のワンピースは転んだせいで汚れ、スカートの裾は倒木に引っ掛けて破れてしまっていた。

 前を見ずに走ったせいで藪に突っ込み、腕や頬には軽い引っかき傷が出来てしまっていたし、ストロベリーブロンドの髪は枯葉がくっ付き、もうぼさぼさだった。サンダルを履いた足も、汚れ、傷ついてしまっている。

 ……顔も、きっと涙に汚れて酷いものだろう。

 でも今は、そんな事はどうでもよかった。

 何も考えられない。

 頭の中が、ジンッと痺れてしまったかのように。

 逃げ出してしまった以上、アオイのところには帰れない。軍警だって、もう戻れない……。

 俺のアパートには軍警の手が回っているだろうし、何よりも鍵がない。携帯もないからソフィアに連絡も取れないし、所持金もなかった。

 俺には、行く場所がない……。

 俺は、どうしたらいいのだろう。

 ふと足を止めた俺は、顔を上げ、前を見た。

 緩やかに起伏を繰り返す牧草地。遥かに広がる草原は、徐々に薄暗くなりつつあった。

 いつの間にか、夜が迫っているのだ。

 俺は両肘を抱き寄せる。

 はっと吐いた息が、白くなって立ち上る。

 ……寒い。

 もう季節は冬。部屋着であるこの薄いワンピースだけでさ迷うには、オーリウェルの冬は厳し過ぎる。

 俺は、再びとぼとぼと歩き出した。

 少し先にある小高い丘の、その頂に立つ一本の枯れ木を目指して。

 そこに行ったところで、何かがある訳でもない。

 そんな事は、わかっていた。

 わかっていた、けれど……。

 丘の向こうに沈んでいく夕日の残光が、最後の力でその枯れ木と高空に点在する雲を照らし出していた。

 作り出された木や雲の影が、長く尾をひている。

 空の青は、どんどん深くなっていく。

 天頂は既に、宇宙の色だった。

 昼から夜に塗り替わる世界。

 俺たちが過ごすこの世界は、とてつもなく広い。

 ふと、そんな事を思ってしまった。

 美しい自然。

 空に山に海。

 色々な街。

 この世界で生きる無数の人々。

 皆に等しく朝が来て夜が来て、冬の次には春がやって来る。

 そんな気の遠くなるような繰り返しが、世界を作り上げていく。

 今、その世界の中で、俺は独りだった。

 訳もなく、涙が溢れてきた。

 必死に唇を噛み締めてこらえるが、しかし涙はポロポロと落ちてしまう。

 何度流しても途切れる事のない涙。

 ううう……。

 俺はごしごしと目を擦る。

 大の男が、こんなに何度も泣き続けるなんて不甲斐ない……。

 でも。

 そうだった。

 俺は、ウィルバート・アーレンではないのかもしれないのだ。

 では、俺は何だというのだろう。

 ただの少女、なのだろうか。

 普通に学校に行って、普通に友達と過ごして、そうして生きていくべき普通の……。

 もしくは、アオイが言うように俺はエオリアなのだろうか。

 アオイに作られた……?

 小さく首を振る。

「ううう……」

 低い嗚咽をもらし、顔をしかめながら、俺は丘を登って行く。そして、ぽつんと独りで立つ枯れ木に到達すると、その乾いた幹に背を預けて崩れるように座り込んだ。

 膝をギュッと抱える。

 そして泣き顔を隠すように、俺は膝の間に顔をうずめた。



 寒さに身を振るわせ、俺は目を覚ました。少し眠ってしまっていた様だ。

 辺りはもうすっかりと夜闇に包まれていた。そっと顔を上げると、枯れ枝の向こうには、満点の星空が瞬いていた。

 まるで降って来そうな星の数。

 ……凄い。

 俺はほっと白い息を吐いた。

 こんなにじっくりと夜空を見上げたのは、いつ以来だろうか。

「……アオイ」

 星空を見上げて、思わず小さく呟いてしまう。

 それは、寒くて寒くて、誰かの温もりが恋しかったからだろうか。それとも、誰かと一緒にこの星空を見たかったからだろうか。

 ……逃げ出して来たのに、我ながら虫が良い話だ。

 俺は自嘲気味に少し笑い、のそりと立ち上がった。寒さで固まってしまった体を伸ばし、お尻をパンパンと叩いて枯葉を払う。そしてキョロキョロと周囲を見回してから、俺は再び歩き出した。

 丘と丘の間に、チラリと灯りが見えた。

 とりあえず、あちらを目指してみよう。

 今はただ、寒かった。

 もちろん俺は火を起こす道具なんて持っていなかったから、何となくその灯りに引かれてしまったのだ。

 もしかしたらあそこに、今晩を乗り切れる場所があるのではないかと思って。

 丘を降る時、俺は2回転んでしまった。

 尻餅を突いたり、足を滑らせてゴロゴロと斜面を転がったり。

 ……ううう。

 そうしてやっと辿り着いた灯りは、幹線道路の街灯だった。

 時間はわからないが、車通りは疎らだった。行き来しているのは、大型のトラックばかりだ。

 周囲に建物は見当たらない。

 俺は小さく溜め息を吐き、肩を落とした。

 しかしずっとこうしている訳にもいかず、俺は再び宛もなくその道沿いの歩道を歩き始めた。

 大型トラックの眩いヘッドライトが、一瞬俺を照らし出し、直ぐに通り過ぎていく。

 どれほどそうして歩いていただろうか。

 やがて遠くから、トラックのエンジン音とは違う甲高い音が聞こえてきた。

 下を向いてぼうっとしていた俺は、その音がかなり接近して来るまで気がつかなかった。

 ……パトカーのサイレンだ。

 そう思って顔を上げた時には既に、市警のパトカーが俺の直ぐ後ろに停車するところだった。

「そこのお嬢さん!」

 制服姿の警官が2人、パトカーから降りて走り寄って来る。

「どうしたんだい、こんな時間に。こんな場所で1人で」

 パトカーのヘッドライトが照らし出す光の中で、俺は体格の良い警官たちに囲まれた。

「君を目撃したドライバーから通報があったんだよ。女の子が1人、薄着で国道を歩いてるって」

 俺はヘッドライトの眩しさに目を細めながら、小さくため息を吐いていた。

 もともとどこかへ逃げようと思った訳でもないし、このままただ歩き回っていられるとも思っていなかった。

 でも、今のこの状態でアオイか軍警に引き渡されれば、俺はきっと何もわからないまま状況に流され、アオイや他の嫌な事から目を背けて、ただ生きていく事になるだろう。

 俺の中には、そうした漠然とした諦めがあった。しかし同時に、それは恐れでもあった。何も知らず、ただ鳥籠の中に押し込められてしまう事への……。

「君、名前は言えるか? どこから来たんだ?」

 俺は警官の質問に目を伏せた。

 質問をした方とは別の若い警官が、ふんと息を吐く。

「寒いだろう。とりあえずパトカーのへ」

 質問をして来た警官が俺の腕を取ってパトカーへ向かい始めた。人の良さそうな年配の警官だった。

 ……俺も、一応軍警隊員だったのだ。いつまでもこんなだんまりをしていても意味が無い事はわかっている。

 でも今は、もう少しだけ、考える時間が欲しかった。

 独りで考える時間が……。

 俺はそのままパトカーの後部シートに乗せられた。暖房の効いた車内は、嘘の様に暖かかった。

「こちらPC2号。通報の少女を確保。氏名不詳。年齢15、6歳程で、ストロベリーブロンドの髪だ。服装は白いワンピースのみ。家出人の届け出がないか、照会してくれ」

 若い方の警官が助手席で無線連絡をし始める。年配の警官は、運転席に乗り込んだ。

『了解。今照会したけど、該当する届出はないわね。とりあえず署で保護するわ。トーマス、今日はもうこれで上がり?』

「ああ。この通報がなきゃ、今頃はパウラの店で飲んでたけどな」

 無線のやり取りを終えると、若い警官が振り返って俺の方を見た。このまま署に来てもらうけどいいなという質問に、やはり俺はただ沈黙する。

 パトカーが動き出した。

 大きなコンテナを乗せたトレーラーを追い越し、くぐもったエンジン音を響かせて、パトカーはどんどんと加速し始めた。

 フロントガラスの向こうには、点々と連なる街灯の光だけが見えていた。

 どこまでも続いているかのような光の列。

 この道は、いったいどこに続いているのだろう。

 俺はただ何となく、そんな事を考えていた。

 ふと視線を感じて顔をあげると、バックミラー越にこちらを見る年配警官と目が合った。

「お嬢ちゃん」

 年配警官がごそごそと動き、後部座席と前部座席の間の間仕切りを開けると、腕を差し出して来た。

 深い皺の刻まれた手には、ピンクの包みの飴玉が乗っていた。

「片手運転なんだ。早く受け取ってくれ」

 俺はおずおずと飴玉を受け取った。

「何があったか知らんが、疲れた時には甘い物が利くんだぞ?」

 年配の警官は、まるでお天気の話を始めるように気軽な口調だった。

 俺はごそごそとピンクの包みを解いた。

 現れた飴玉を口に入れる。

 甘い苺の風味が、じんわりと口の中に広がった。

 ……おいしい。

「俺にも娘がいる。年頃の娘には色々思い悩む事があるってのは、良くわかる」

「親父っさんの娘さん、もう結婚してるじゃないっすか」

 若い警官がぼそりと突っ込んだ。

「うるせえ、トーマス」

 年配の警官がわざとらしく咳払いした。

「あー、要するに何だ。生きているっていうのは、悩みや困難に出会う為みたいなもんだ。特に君みたいな年頃にはな。毎日いろんな悩みにぶつかるだろう」

 ハンドルを握る警官は、ちらりと俺を一瞥した。

「しかし、解決しない悩みってのはない。自分で解決するか、時間に任せるか、解決法はまちまちだがな。だから、悩む事は悪い事じゃないが、だからと言って自暴自棄になってはいかん。自分の身は大切にしなければいけない。君みたいな綺麗な娘さんは尚更、な」

 自分で解決するか、他に解決してもらうか……。

 俺はアオイの考えている事がわからなくて、俺の居場所だと思っていた軍警からも追われる立場になって、それで何も考えられなくなって、逃げ出した。

 自分で問題を解決する道から逃げ出したのだ。

 それはきっと、人々を脅かす魔術テロや理不尽な暴力と戦うという誓いから逃げ出したのと同じ事なのだ。

 口の中の飴玉に甘さをじっと感じながら、俺は膝の上に置いた手をぎゅっと握り締めた。

 視界が涙で滲む。

 逃げ出した自分への苛立ちと、しかし現状をどう変えたらいいのかわからない苛立ちで、俺の胸の中はぐちゃぐちゃだった。

「まぁ、気が向いたら、おじさんに名前でも教えてく……」

 年配の警官さんが再び声を掛けてくれたその時、若い警官が「親父っさん」と訝しげな声を上げた。

「後ろからPCが来ます。覆面ですね」

「何だ?」

 別のパトカー?

 耳を澄ませると、確かに市警のサイレン音が近付いて来るのが聞こえた。

 俺を乗せたパトカーが、ウインカーを出して路肩に止まった。警官たちは車を降り、後ろのパトカーを待っているようだった。

 俺はただじっとして、うなだれている。

 お嬢ちゃん、娘さん、か。

 今まではそう呼ばれても、特に聞き流して来た。それは今の俺の外見を現す表現に過ぎないのだと。

 しかし、俺の心がウィルバートではないとしたら、俺はそう思い込んで自分を俺呼ばわりしている只の少女という事になる。

 ……もしそうだったら、今まで周囲からはさぞ危なっかしく見えた事だろう。ライフルを振り回し、俺は俺はと強がって、屈強な軍警隊員に混じっていたのだから。

 俺はまた、小さく溜め息を吐いた。

 車外で警官たちの話し声が聞こえた。

 そしてしばらくして、こちらに駆け寄って来る足音が聞こえた。

 不意に、俺の隣の窓ガラスがコツコツと叩かれた。

 俺は緩慢な動作で顔を上げる。

 そしてそちらを見て、ぎょっとした。

 窓の外に、少年のようなに屈託のない笑顔が張り付いていた。

「やあ、ウィルちゃん! やっぱりウィルちゃんだ!」

 ガラス越しでも十分に響く大音声。

 俺は呆然とその顔を見つめ、何度かまばたきしてしまった。

「ロイド、さん?」

 俺の呟きが聞こえたのか聞こえなかったのか、ロイド刑事は柔らかな笑顔を浮かべると、俺に向かって手を振った。



 俺は制服警官たちのパトカーから、ロイド刑事のパトカーに移された。今度は後部座席ではなく助手席だった。

 ダッシュボードの上にパトランプを乗せたロイド刑事のパトカーは、銀色のセダンだ。少し街を歩けばどこでも良く見掛ける車種だった。

 車外で制服警官たちと話しているロイド刑事が、彼らにペコペコと頭を下げているのが見えた。ここはどう見てもロイド刑事が所属する西ハウプト警察署の管轄ではないから、俺の身柄を引き受けるのも色々と面倒なのだろう。

 やがて制服警官たちと別れたロイド刑事が、車に戻って来た。

「やぁ、ごめん。お待たせ、ははは……」

 運転席に座ったロイド刑事が少し疲れた様に笑った。

「彼らには、ウィルちゃんは僕の知り合いの子だから、後は引き受けるって言って来たよ。ははは、思いっきり不審がられたけど」

 悪戯っぽい笑みを浮かべるロイド刑事。

 俺は勢い良く早口で話すロイド刑事に気圧されながらも、コクリと頷いた。

「……でも、どうしてロイドさんが?」

 俺の小さな呟きに、ロイド刑事は仕事で近くにいたんだっと微笑んだ。

 色々な種類の笑顔がころころと変わる人だなと思う。

「実は、オーリウェルで発生している事件と同種の事件がこの近くで発生したんだ。それで、一応確認に来ていたんだよ。空き家で不審者が目撃されるって事件なんだけど……」

「そうなんですか」

 俺は相槌を打ちながら、ふっと息を吐いた。

 捜査の話、部外者にして良いのだろうか。

 訝しみながらロイド刑事の顔をよく見てみると、微笑んではいながらも、その顔は何だか赤くなっていた。

 ……寒いのかな。

「そしたら、家出少女の無線が聞こえて、特徴がウィルちゃんそっくりで、これは確かめなければって思ったんだ」

 ロイド刑事が笑みを消して俺を見た。

 真っ直ぐな視線に覗き込まれ、俺は思わずドキリとしてしまう。

「ウィルちゃん。何があったのか、聞いてもいいかな? 僕は、出来ればウィルちゃんの力になりたいんだ。迷惑、かな?」

 ロイド刑事の真剣な声に、しかし俺は答えられず、目を伏せて小さく首を振った。

「……迷惑なんかじゃありません」

 小さく囁く様に、それだけを返す。

「わかった。……でも、これだけは答えて。怪我はないかい? 痛いとことか、違和感のあるところとか、どんな事でも言ってくれ」

 顔を上げると、ロイド刑事が厳しい表情で俺を見つめていた。

 強い光を湛えた目が俺を射抜く。

 その真剣な顔が、本当に俺の事を心配してくれているという事を物語っていた。

 ……やはりロイド刑事は良い人だ。

 そんな人に迷惑を掛けているのが心苦しくて、俺は胸に当てた手をぎゅっと抱き締めた。

「大丈夫です。すみません……」

 俺はやはり小さな声で、短く答えた。

「そっか。良かった」

 じっと俺を見て、そしてロイド刑事がにこりと微笑んだ。

「じゃあ、僕が送ってあげるよ。あの美人のお姉さんの所かな。もしくは、軍警のお兄さんに連絡を取る?」

 ロイド刑事は明るい口調で言いながら、シートベルトを締め始めた。

 俺はきゅっと眉をひそめた。

 ……アオイの所には帰れない。

 今は、まだ、だ。

 でも、ソフィアのアパートにも帰れない。

「お……私、今は行く所がなくて……」

 俺は俯き、ロイド刑事から目を逸らしながら、自嘲気味に呟いた。

 はらりと落ちてきた前髪を耳に掛ける。

「その、今は姉の所には帰り辛くて……」

 一方的に逃げ出したのは俺なのだが……。

 車内を沈黙が支配する。

 きっとロイド刑事も、面倒な状況に直面したと困りきっているところだろう。

 俺はそっとため息を吐いた。

 ……そうだ。

 もし可能なら、警察署の受付とか待合室とか、取調室でも構わない。どこか屋内の場所を借りられないだろうか。そうすれば、今晩を乗り切る事ができるだろう。

 しばらく俯いていた俺は、思い切ってそんな図々しい提案をしてみようと顔を上げた。

 運転席のロイド刑事を見る。

「……あれ」

 俺はんっと首を傾げた。

 ロイド刑事が何かを言おうとしたまま固まっていた。

 顔を真っ赤にして。

「ウ、ウ、ウ、ウ、ウィルちゃん……」

 ロイド刑事が、ガクガク小さく震え始める。

 む。

 何だ?

「も、も、も、もし、もしよかったら、だけど、その、あの……」

 ごにょごにょと口の中で何かを言っているロイド刑事。

 む?

 俺は先ほどとは逆方向に首を傾げた。

 ロイド刑事が改めてキッと俺を見た。

 その迫力に、一瞬俺は気圧される。

「も、もしウィルちゃんが良かったらだけど……!」

 ロイド刑事は大きく息を吸い込んだ。

「う、うちに来るかい? その、落ち着いたら、いつでも何時でもお姉さんの所に送ってあげるから!」

 半ば叫ぶようにそう提案してくれたロイド刑事は、さらに真っ赤な顔をして、そのままじっと俺を見た。

 大丈夫だろうか、どんどん顔が赤くなっている。

 息を止めているのだろうか……。

 正直、ロイド刑事の提案は嬉しかった。

 俺も知らないロイド刑事の自宅なら、軍警もアオイもノーマークだろう。それに、温かい部屋は魅力的だ。

 ……今は、少しでも独りになれる時間が欲しい。考えることが出来る時間が。

「……いいんですか。ロイドさん、まだ仕事があるんじゃ……」

 ただロイド刑事の好意に甘えるのは、心苦しいけれど……。

 俺が顎を引き、上目遣いにそっと窺う様に見ると、ロイド刑事はぶんぶんと縦に首を振った。

「大丈夫! 仕事より、あい……大丈夫!」

 ロイド刑事はちょっと待っていてと断ると、一度締めたシートベルトを外して車外に出て行った。

 車の脇で、どこかに電話をし始めるロイド刑事。やがて携帯を握り締めながら、ロイド刑事はひょこひょこと頭を下げ始めた。

 夜の国道。

 人気のない道路脇で何度も頭を下げ続けるロイド刑事は、行き交うトラックのドライバーからは奇妙に見えたかもしれない。しかしその姿が俺のワガママのせいだと思うと、胸がきゅっと締め付けられる思いだった。

 ……ロイド刑事には、感謝しなくてはいけない。

 10分ほど経過しただろうか。

 再び車内に戻ってきたロイド刑事はすっかり疲れたような顔をしていたが、それでもにっと俺に微笑んでくれた。

「大丈夫。今日はこのまま帰宅していい許可をとったよ!」

 少年のようににかっと眩しい笑顔を浮かべるロイド刑事。

 そして再びシートベルトを締めたロイド刑事は、ついでに俺のシートベルトも確認してから、各ミラーを確認。「よし」と気合いを入れて車をスタートさせた。

 シルバーのセダンが軽快に走り始める。

 エンジン音を高鳴らせ、ハンドルを握ったロイド刑事が、チラリと俺を見た。

「でも、ウィルちゃん」

「はい?」

 膝の上に手を置いてじっと前を見ていた俺は、ロイド刑事の方へと顔を向けた。

「家の人には、キチンと連絡しておかなければダメだよ。もし喧嘩して出て来たにしても、きっとウィルちゃんの事を心配しているに違いないから」

 俺は顔を曇らせ、ロイド刑事から視線を逸らした。そして、転んで汚れた自分のワンピースの膝を見つめた。

「……はい」

 ぽつりと呟く様に返事した俺の声は、もしかしたらロイド刑事には聞こえなかったかもしれない。



 熱いシャワーを浴びると、何だか今日起こった色々な事が嘘のように感じられてしまった。

 目を閉じて全身を打つお湯だけを感じていると、お屋敷を飛び出した事も森や草原を歩いた事も、ロイド刑事に拾ってもらった事も、まるで夢の中の出来事の様な気がしてしまう。

 それでも目を開けると、そこは知らないお風呂場だった。

 俺は、どうしてここにいるのだろう。

 ……俺はこの先、どうしたらいいのだろう。

 いや、どうしたいのだろうか。

「はぁ……」

 髪から滴り落ちた水滴が胸の膨らみにそって流れていくのを、俺は眉をひそめ、唇を強く引き結びながらじっと見つめた。

 体のあちこちにできた擦り傷に、ピリピリとお湯がしみた。

「ウ、ウィルちゃん!着替え、置いておくから!」

 不意に、脱衣場の方から幾分裏返ったロイド刑事の声が聞こえた。

「あ、すみません」

 俺ははっとして振り返ると、慌ててお礼を言った。

 お湯を止める。

 髪を掻き上げ水滴を払うと、俺はタオルに手を掛けた。

 ……独りになると、どうしても色々と考え込んでしまう。それも、マイナス方向ばかりに。

 脱衣場に戻ると、きちんと畳まれた服が用意されていた。

 ロイド刑事が用意してくれたのは、襟元がV字に開いた薄いグレーのパーカーと、紺色のジャージのズボンだった。下着の換えはないので、先ほどまで着ていたものをそのまま身に着けるが、白のワンピースは今、洗濯させてもらっていた。

 ロイド刑事の服は、やはり随分とサイズが大きかった。

 パーカーはダボダボで、ピンと腕を伸ばしてみても袖から指先しか手が出ないし、ズボンは引きずってしまうので、2回ほど折り返しさせてもらった。

 まだ少し湿った髪をパーカーから出した俺は、脱衣場を出た。

 ロイド刑事が借りているアパートの部屋は、俺がソフィアのおばさんから借りている部屋と同じ様な広さだった。

 散らかっているという訳ではないけれど、少し雑然とした感じがする部屋なのは、男性の1人暮らしなのだから当然なのかもしれない。

 例えばテーブルの上の読みかけの雑誌とか、洗ったけど棚に仕舞い込まれていない食器とか。先ほどの脱衣場には部屋干しの衣類が沢山揺れていたし、テレビの周りには映画のDVDが積み上がっていた。

 俺はそんな部屋を何となく見ながら、ペタペタとスリッパを鳴らし、キッチンでお湯を沸かしているロイド刑事に歩み寄った。

「ロイドさん。お風呂、ありがとうございました。それに服も」

 俺が声を掛けると、ロイド刑事はびくっと身を竦ませた。

「あ、ああ、ウィルちゃん。今コーヒー入れるから待って……」

 振り返ったロイド刑事が俺を見る。

 その視線が俺の顔から胸元に下がって行き、そこで固定される。

 固まるロイド刑事。

 目が大きく見開かれ、顔全体が真っ赤になってしまった。

 む?

 下を見る。

 パーカーのV字ネックから、お風呂で火照った胸元が覗いていた。

「ロイドさん?」

 俺が声を掛けると、ロイド刑事はさらに真っ赤になって、気まずそうに視線を泳がせた。

「あそこ、あのソファーで待ってて!」

 半ば悲鳴のようなロイド刑事の言葉に、俺はコクリ頷いて素直に従った。

 スリッパを鳴らして移動した俺は、大きな木製のテーブルをを囲うように配置されたソファーにぽすっと腰掛けた。その背もたれに身を預け、手近にあったクッションを膝の上に置いて、俺はふうっと大きな息を吐いた。

 薬缶がシューっと音を立て始める音と、アパートの前を通る車の音が聞こえた。

 静かだ。

 それもその筈で、テレビの脇に置かれたデジタル時計を見ると、間もなく日付が変わろうかという時刻だった。

 俺はパーカーの袖から指だけを出した手で、ぎゅっとクッションを抱き締めた。

 ……きっとアオイ、心配しているだろうな。

 キッチンの方から、コポコポとフィルターにお湯を注ぐ音が聞こえてきた。同時に、ふわりと香ばしいコーヒーの香が漂って来る。

「お待たせ」

 しばらくして、カチャカチャとカップを鳴らしながら、お盆を持ったロイド刑事がやって来た。

 ふわりと魅力的な香が立ち上るカップを俺の前に置いてくれたロイド刑事は、キッチンから椅子を持って来て俺の対面に座った。

 差し出されたカップには、ミルクが渦巻くカフェオレが満たされていた。

 ロイド刑事のカップには、真っ黒な液体が揺れていた。ブラック派の様だ。

「さぁ、飲んで。温まるから」

 ロイド刑事が笑いながらカフェオレを勧めてくれる。

「いただきます」

 俺は両手でカップを持ち、そっと口を付けた。

 程よいコーヒーの苦みとたっぷりミルクの甘さが、じんわりと口の中に広がる。

 俺はほうっと息を吐き、もう一度カップに口を付けた。

「美味しい……」

 自然とそんな言葉が零れた。

「美味しいです、ロイドさん」

 俺はカップを両手で持ったまま、ふわりとロイド刑事に微笑み掛けた。

 微笑む。

 何だか随分久しぶりに笑った気がした。

 今まで冷えて固まっていた頬に、すっと温かさが戻って来たような感じがした。

 ロイド刑事が俺の顔を見た。そしてまた、ポカンとそのまま、固まった。

「ロイドさん?」

「はっ!」

 ロイド刑事が我に返った様に身を震わせると、一気にコーヒーを呷った。

「あ、あちっ」

 咳き込むロイド刑事。

「大丈夫ですか!」

 俺が思わず身を乗り出すと、ロイド刑事は慌てて手を振った。

 そんなロイド刑事を見て、思わず俺は、ふふっと笑ってしまった。

 それを見て、今度はロイド刑事が笑った。

「良かった、ウィルちゃん。大丈夫そうだね」

 ロイド刑事が優しい笑みを浮かべて俺を見た。

 少し、気恥ずかしくなる。

 俺はカップを持ったまま、視線を外した。

「ロイドさんは、どうしてお……私が、警察に保護されてると思ったんですか?」

 俺は恥ずかしさを誤魔化すように、ふとした疑問を口にしてみた。

「そうだね」

 ロイド刑事は少しだけ考え込む様に間を置いた。

「最近、メールしてもウィルちゃんが返事をくれなかっただろ? もちろん、僕が下らない内容のメールを送ったからかもしれないけど、今まではウィルちゃん、必ず返信してくれてたし」

 最近は軍警の作戦で忙しかったし、オーリウェルに帰ってからは、携帯を取り上げられていたのだ。その間はもちろん、ロイド刑事に返信出来なかった。

「僕はいつも、ウィルちゃんの真面目さと優しさに感動していたんだ。やっぱりいい子だなって」

 少し照れたように笑うロイド刑事。

「だから、返信がないウィルちゃんに何かあったのかなって思ってたんだ。そこに、たまたま家出少女保護の無線を聞いて、やっぱりウィルちゃんに何かあったんだって駆けつけたのさ」

「……それだけの事で」

 俺はそっと目を伏せた。

 やっぱりロイド刑事は、良い人なのだ。素直に、とても良い人だと思う。

「ウィルちゃん」

 ロイド刑事が笑みを消した。

「家に帰りたくないって事は、お姉さんや家族と喧嘩したのかな?」

 俺はロイド刑事の質問に、直ぐには答えられなかった。

「……喧嘩したというのとは、違うんです」

 そして、ぽつりぽつりと胸の奥にわだかまる物を言葉にしようと試みる。

「……その、最近色々とあって、アオイの、姉さんの考えている事がわからなくなったんです。それに、今まで俺の居場所だと思っていた所にもいられなくなって、その、尊敬してた人も信じられなくなって、それで、俺、お屋敷にいられなくなって、思わず飛び出してしまって……」

 最後の方は、消え入るような声だったと思う。

 カップを握る手に力を込めた。

 涙が溢れそうになるのを必死にこらえ、胸の奥からこみ上げて来るものを必死に押し止める。

「うーん、そうだな。……やっぱりウィルちゃんは、力強く凛と笑ってる方が、僕は好きだな」

 突然ロイド刑事があっけらかんとした声を上げた。

 俺は思わず顔を上げ、ロイド刑事を見た。

「はっ! いや、違う、好きっていうのは、そういう意味じゃなくて、いや、そういう意味でもいいけど、いや、あれ?」

 ロイド刑事はコロコロ表情を変えながら大袈裟に手を振った。

「あ、えっと、そうだな……」

 ロイド刑事は、ごほんとわざとらしく咳払いした。

「僕にとってウィルちゃんって、いつも背筋を伸ばしてキッと前を見据えている印象なんだ。だから、そんなウィルちゃんがここまで悩むなんて、どんな大変な状況なのかはわからないけど……」

 ロイド刑事は何かを思い出すように、少し上を見た。

「まずは、お姉さんと仲直りしたらどうかな。学校や余所でどんなに辛い事があっても、暖かく迎えてくれる家族と家があれば、大概の事は平気なものだよ。逆に、家族と喧嘩している時ほど辛い事はないよね」

 ロイド刑事はうんうんと大きく頷いた。その言葉だけで、ロイド刑事が家や家族を大切にしている事がよく分かった。

「僕も兄弟がいてね。良く喧嘩したから、ウィルちゃんの今の気持ちが少しはわかるよ」

 ロイド刑事は、ニカッと少年のように笑った。

 俺は思わずその顔を、じっと見つめてしまう。

「……でも、どうしたら」

「そうだね」

 ロイド刑事は俺の小さな呟きにもにこやかに頷きながら応えてくれた。

「ウィルちゃんはお姉さんがわからないって言ってたけど、お姉さんの言い分を理解する努力はしたかな。あと、ウィルちゃんの考えをきちんと伝える努力はした?」

 ロイド刑事はふっと息を吐いた。

「刑事なんて仕事をしていると良くわかるんだけど、大抵の諍いは、お互いを良く知らない。知ろうとしない事から始まるんだ。もちろん、世の中そう単純でないって言うのは、わかってるけど……」

 ロイド刑事は俺の顔を覗き込むようにしてニヤリと悪戯っぽく微笑んだ。

「でも、姉と妹くらいの間柄なら、お互いの事を良く分かり合えれば、直ぐに仲直り出来るんじゃないかな」

 偉そうな事言ったかなと、はにかみ笑いを浮かべるロイド刑事。

 姉と妹。

 アオイと俺。

 そういえば、俺はアオイの事をどれほど知っているのだろうか。

 俺はそっとカフェオレに口を付けた。

 今まで俺は、どの様に魔術テロと戦うかで必死だった。そしてそんな自分の事ばかりを考えていて、アオイと一緒に過ごし、一緒に戦って、アオイの事を理解した様な気になっていたのではないだろうか。

 何だか唐突に、光が見えた気がした。

 軍警の事やジーク先生の事。俺自身の事。そして、アオイの事。

 色々な事でぐちゃぐちゃに入り乱れていた頭の中が、すっと落ち着いて行くような……。

 俺は顔を上げてロイド刑事を見た。そして、そっと微笑んだ。

 自然と肩の力が抜けていく様な気がした。

「……ありがとうございます、ロイドさん。俺、やってみます」

 俺の顔を見つめるロイド刑事は、一瞬遅れてこくこくと頷いてくれた。そして、爽やか笑みを浮かべた。

「でもウィルちゃん」

「はい?」

 アオイの事を知る。

 そのためにはどうしたらいいか考えながらカップに口を付けていた俺は、小さく首を傾げてロイド刑事を見た。

「あの、その、自分の事を俺って言うのは、少しウィルちゃんに似合わないと思うんだ。ウィルちゃんみたいな綺麗な人が俺って言ってると、何だか違和感があって……。いや、ギャップというか、お兄さんの為なら無免許運転してしまう様な行動力溢れたウィルちゃんには、むしろ俺も似合うのかもしれないけど、でもやっぱりウィルちゃんは女の子だし、優しく笑ってくれてた方がいいって言うか……」

 ロイド刑事は勢いよくまくし立てると、少し困った顔をして頬を掻いた。

 む。

 顔が少し熱くなる。

 そう、だろうか。

「気をつけます……」

 俺は俯き、ロイド刑事から目を逸らしながら、カップをぎゅっと握り締める。そして、もぞもぞと頷いた。

 ロイド刑事が声を上げて笑った。

 俺もふっと笑った。

 ロイド刑事と話せて良かったと思う。

 俺独りでは、きっといつまでも鬱々と考え込んでいただけに違いないから。

 どうしたら現状を打破出来るのか、まだ具体的な道筋は見えないけれど、とりあえずの制圧目標は見つける事が出来た。

 まずはアオイの事を知る努力をしよう。

 よし……。

 俺は心の中でそっと頷いた。

 ふと時計を見る。

 いつの間にか、新しい1日が始まっていた。

 ご一読、ありがとうございました。

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