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Hexe Complex  作者:
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Order:60

 ゆっくりと意識が覚醒し始める。

 まるで、水底から水面へと浮かび上がって行くように。

 もう直ぐ目が覚める。

 まだ眠っている筈なのに、そんな予感が確かにあった。

 体を包む温かさは心地よく、できるならずっとここにいたい。

 ずっと、ずっと、このまま何も考えず、感じず、ただ微睡みにたゆたう……。

 もしそうしていられたなら、どんなに良かった事だろう。

 嫌な事があった。

 信じたくない事があった。

 起きれば、それと向き合わなければならない。

 ……嫌だ。

 見たくない。

 わからない。

 信じたくない。

 しかし

 それでも。

 俺は、起きなければならないのだ。

 起きて、戦わなければならない。

 それが、俺が望んだ事。

 アオイに助けてもらった理由。

 では、何と戦うのだ?

 魔術師と。

 エーレクライトと。

 ジーク、先生と……?



 俺は、はっと目を開けた。

 その衝撃でこぼれた涙が、頬へと流れ落ちていく。

 真っ暗な天井。

 ……ここは、どこだろう。

 俺はシーツから手を出して、そっと目元を拭った。

 何だか悪い夢を見ていた気がする。目覚めが悪く、どうも頭がぼんやりとしていた。

 少しだけ目を瞑り、そっと深呼吸する。

 そこでふと俺は、ふわりと漂う甘い香に気が付いた。さらに、俺の体を包み込む心地良い温もりと、柔らかな感触にも。

 それがアオイだと、俺には直ぐにわかった。

 隣を見ると、当然ながら白い着物を来たアオイの穏やかな寝顔があった。

 アオイは俺に密着し、俺をぎゅっと抱き締めるようにして眠っていた。少しはだけた胸元から覗く白い肌が眩しかった。

 ……まったくアオイは。また俺のベッドに入って来たのか。

 いつもと同じアオイ。

 そして徐々に暗闇に目が慣れてくると、ここが見慣れたいつもと同じエーレルト邸の自室だという事がわかって来た。

 俺は今、アオイ一緒にベッドの上で横になっている。

 あのオーリウェル支部での戦いの後、俺はいつの間にかエーレルト邸に戻って来たみたいだ。

 俺はふうっと息を吐いて、起き上がろうと試みた。

 どれほど眠っていたかわからないが、取り敢えず現在の状況を確認しなければならない。

 あの支部での戦いは、どうなったのだろうか……。

 む。

 体が動かない……?

 再び起き上がろうとして、しかし俺はまた失敗してしまった。

 自分でもびっくりするほど体に力が入らない。それに、隣で寝ているアオイの腕が、ぎゅっと俺を押さえつけて離してくれないのだ。

 俺はもぞもぞと体を動かした。

「ん……」

 しかしアオイは、さらにグイッと俺を抱き寄せた。

 ……む。

 だ、脱出できない……。

 しばらく足掻いてみた後、俺は諦めた。

 体から力を抜いて、アオイに抱き締められたまま、ぼうっと天井を見つめる。

 軍警はどうなったのだろうか。

 ミルバーグ隊長は無事だっただろうか。

 色々な事が思い浮かんでは、胸の内をもやもやさせる。

 どれくらいそうして考え込んでいただろう。

「……ん」

 隣でアオイがもぞっと動いた。

「……目が、覚めたのか?」

 アオイがすっと目を開け、鼻に掛かった寝起きの声で囁いた。

「うん。悪いな、アオイ。また迷惑を掛けたみたいだ」

 俺は苦笑混じりに返事をした。やはり寝起きの俺も、囁くような小声になってしまったが。

「アオイ」

「ん?」

「あの後、どうなったんだ?」

 俺はアオイから目を逸らし、天井を見たまま尋ねた。

 あの夜。

 意識を失う直前。

 アオイの絶叫を思い出す。

 先ほどから自分でも意識しないようにしている事。

 あの後、アオイと、そして、ジーク、先生はどうなったのか……。

「今は、そんな些事を気にかける事などない」

 先ほどとは違い、はっきりとした低い声でアオイが告げた。思わずはっとアオイの方を見てしまいような、冷たい声音だった。

「ウィルは死にかけたのだ。これは、誇張や比喩ではない。文字通り、消えてしまいそうになっていたのだ」

 俺は眉をひそめる。

 それはどういう意味なのだろうか。

「難しい事など、考えなくて良い。今はただ、体の回復に専念するんだ」

 今度は優しい声で囁いたアオイが、柔らかな笑顔を浮かべた。

 そして俺を抱き寄せると、自分の額をこつっと俺の額に合わせた。

「さあ、もう一度眠るといい。安らかに。次に目が覚めた時には、もっと元気になっているだろうから」

 直ぐ目の前で囁かれるアオイの言葉は、まるで眠りの術式詠唱の様だった。

 あっという間にまぶたが重くなって来ると、俺は徐々に眠りの淵へと沈んでいく。

 温かく、柔らかで、心地良い匂いがするあの水底へと。

「大丈夫。何が来ても、この姉がウィルを守ってあげよう」

 ふふっと笑うアオイの声が聞こえて来る。

「離さない。例え何者が来たとしても。何故なら、ウィルは私のエオリアなのだから」

 エオリア。

 またその名前か……。

 ふと浮かんだ小さな疑問を確かめる間もなく、俺は再び眠りに落ちてしまった。



 次に目が覚めた時、既にアオイの姿はなく、ベッドの上には俺1人だった。

 俺は片手で顔半分を覆いながら、むくりと体を起こす。

 今度はちゃんと起きる事が出来た。

 髪を掻き上げ、そのまま首筋に手を当てながら、俺は軽く息を吐いた。寝過ぎたのか、少し背中が痛かった。

 俺がぼんやりと座り込んでいるのは、やはりエーレルト邸の俺の部屋のベッドで間違いなかった。

 カーテンが閉じられた室内は薄暗かった。しかしそのカーテンの隙間から、明るい陽の光が漏れていた。恐らくはもう、日が高いのだろう。

 部屋の中は、自分の呼吸音が聞こえる程の静寂に包まれていた。

 静かだ。

 俺はしばらく、ぼうっと部屋の中を見つめる。

 ……現状を確認しなければ。

 枕元のやベッドサイドを見回す。しかし、その辺りに俺の携帯はなかった。

 俺はシーツから素足を出して、ベッドから下りた。

「なっ……」

 そこで俺は、絶句してしまう。

 俺が身に付けているのは、サラサラとした生地の薄手のワンピースだった。それも、真っ白で、至る所にフリフリのレースやリボンがあしらわれた……。

 む。

 むむむ……。

 何だ、この恥ずかしい格好は。

 スカートを握り締め、赤面しながら、しばらく俺は固まってしまった。

 ……くっ。

 こんな事をしている場合ではないのだ。

 俺はスカートの裾を持ち上げると、素足のままパタパタと小走りに机へと向かった。

 足がもつれる様な事はなかったが、やはりまだ体が重く、何だか自分の体ではないような違和感があった。

 窓際に設えられた書き物机には、俺のスポーツバックや私物類が置かれていた。恐らくアオイが、軍警から引き上げてくれたのだろう。

 俺はそのバッグをごそごそとあさる。しかし、ここにも俺の携帯はなかった。さらに、いつもバッグに忍ばせてあるハンドガンもなかった。

 俺はキョロキョロと辺りを見回した。

 携帯、どこへ行ったのだろうか。

 取りあえず俺は、机の上にあった髪ゴムを手に取ると、手早く髪をまとめた。

 今度はソファーセットへと向かい、テレビを点けてみる。もしかしたら、あのオーリウェル支部での戦いについて、何か報道されているかもしれないと思ったのだ。

 俺は色々とチャンネルを切り替えて、ニュース番組を探した。

『それでは、今回の事件の現場となった軍警オーリウェル支部の上空から中継していただきましょう。モーリス?』

 あった!

 俺はテレビに近寄り、画面を凝視する。

 スーツ姿のアナウンサーが映ったかと思うと、直ぐに画像はヘリの中にいるらしい女性アナウンサーに切り替わった。

『はい。軍警の支部が襲撃を受けるという前代未聞の事件が発生してから既に3日が経過します。しかし、未だ被害の実態は把握出来ているとは言えないでしょう。ご覧下さい、今眼下に見えるのが軍警オーリウェル支部です。大地に刻まれた爪跡が、壮絶な戦闘があった事を物語っています』

 まず、あの戦いから既に3日経過しているらしい事に驚く。俺は随分と寝てしまっていた様だ。

 カメラがヘリの機内から、その窓の外へと向けられた。

「なっ!」

 俺は目を見開き、息を呑む。

 テレビ画面には、半壊し、瓦礫の山と化したオーリウェル支部の姿が映し出されていた。

 立ち並ぶ支部の建物のうち、作戦部の待機室や大会議室があった辺りが無残にも原型を留めていない。まるで何かに踏みつぶされた様に、綺麗に崩れ去っていた。

 さらに被害は、支部の建物だけではない。

 その周囲の駐車場や格納庫群にも無数のクレーターが穿たれ、大きな損害が出ている様子が見て取れた。

 さらに、カメラが支部に隣接する森を捉えた。

 そちらも、酷い状況だった。

 木々が根こそぎ薙ぎ倒され、斑に地面が覗いてしまっている。そしてその地面には、やはり無数のクレーターが出来ていた。

 ……まるで、激しい空爆を受けた跡の様だ。

 あの夜、俺たちがオーリウェル支部に帰還し、奪還作戦を開始した時には、少なくともここまで酷い状況ではなかった筈だ。

 火事は起きていても、支部の建物はきちんと立っていた。教練棟の格納庫群も無事だった。

 俺が意識を失った後、こんな大規模な破壊が巻き起こったというのか?

 ……くっ。

 俺はテレビのリモコンを握る手に力を込めた。

 その原因について、思い当たる節があった。

 普段の姿からは想像できないほど激高していたアオイ。

 そして、強大な力を持つエーレクライトを身にまとったジーク……先生。

 もしその2人が激突したら……。

 アオイと、ジーク先生が……。

 そう考えただけで、鼓動がバクバクと激しくなってしまう。

 テレビの画像がスタジオに戻った。

 丸顔のコメンテーターが、今回の事件に対する軍警や市の対応を批判し始めた。

 俺はそんなテレビをぼんやりと見つめていたが、しかしその内容は全く頭に入ってこなかった。

 アオイ……。

 ジーク先生……。

 対峙する2人の姿が、繰り返し再生される。

 俺はそっと小さく頭を振った。

 じっとしていてもしょうがない。

 やはり、まずはアオイに状況を確認してみなければならない。

 俺はテレビを消すと、純白のスカートをひるがえしてドアに向かった。

 そしてドアノブに手を掛けようとした瞬間。

 目の前でドアが開いた。

「ウィル!」

「アオイ!」

 俺は目を丸くする。同時に、ドアの向こうで片手で水差しの入ったお盆を持ったアオイも、目を丸くしていた。

 アオイは、ブレザーだけを脱いだ聖フィーナの制服姿だった。

「ウィル、目が覚めたな。しかしまだ無理をしてはダメだぞ」

 柔らかく微笑んだアオイが、俺を部屋の奥へと押し返した。そしてアオイも部屋に入ると、後ろ手にドアを閉めてしまった。

「アオイ、えっと、状況を……」

「さぁ、ウィル。ベッドへ。寝ていないとダメだ」

 テーブルにお盆を置いたアオイが、俺の肩を押してベッドに押しやる。俺はその勢いに抵抗出来ず、ボスっとベッドに座らされてしまった。

 俺はむうっとアオイを睨み上げる。

 アオイは困った様に俺を見返してくる。

 しばらく睨み合った後、アオイはふっと小さく溜め息をついた。

「まったく、やっぱりウィルは頑固だな。昔と同じだ」

 ……昔?

「わかった。説明しよう」

 アオイはスカートを折って、俺の隣にそっと腰掛けた。

「安心するといい。あの後無事に敵は撃退した。残念ながら倒せなかったがな」

 ……敵。

 エーレクライト。

 ……ジーク先生?

 胸が、熱くなる。

 俺はぎりっと奥歯を噛み締めた。

「……アオイは、あのエーレクライトを知っているのか? あれは、ジーク先生なのか?」

 俺は眉をひそめながら、何とかその質問を絞り出した。

 視界が微かに滲み、声が震えてしまう。

 ジーク先生の名前を出した瞬間、柔らかな笑みを浮かべていたアオイの顔から表情が消えた。

「ウィル」

 冷たいアオイの声。

「あれは敵だ。騎士団のエーレクライトだ。ただそれだけだ」

 突き放す様なアオイの声に、俺は一瞬言葉を失った。

 敵?

 ジーク先生は敵?

「大丈夫。倒せはしなかったが、手傷は与えた。しばらくウィルを襲う事はないだろう。しかし、例えどんな敵が来ても、ウィルは私が守るがな」

 俺を真っ直ぐに見つめて微笑むアオイ。その笑顔には、思わずぞっとする様な凄みがあった。

 俺は胸を押さえる。

 呼吸が荒くなった。

 ジーク先生が怪我をしたのか……?

「で、でも、まだジーク先生が騎士団の、俺たちの敵のエーレクライトだと決まったわけではないだろう?」

 俺は必至に言葉を探し、掠れる声で問い掛ける。

 そうだ。

 ジーク先生も貴族級魔術師ならば、エーレクライトを持っているかもしれない。それでたまたまあの場所に……。

「あれは敵だよ」

 そんな俺の考えを、アオイが一刀のもとに切り捨てた。

「あの男は生粋の貴族主義者だ。騎士団の一員として、今まで様々な魔術テロに関わっている筈だ。そして何よりも」

 アオイが一瞬言葉を切り、すっと手を伸ばした。そして、俺の頬に触れた。

「ウィルを、私の妹を、こんな目に合わせた張本人なのだ。その罪は、万死に値する」

 俺はそっとアオイの手をどかし、首を振る。

 頭の中がごちゃごちゃと入り乱れ、上手く考えがまとめられなかった。

 俺はアオイから目を逸らした。

「違うんだ、アオイ。俺は別に攻撃を受けた訳じゃない。だから俺の事に関しては、ジーク先生は何も……」

「ウィル」

 厳しい声のアオイ。

 俺は窺うように上目遣いにアオイの顔を見た。

「あの男はウィルをそそのかし、魔術を使わせた。それはウィルの身に関わる大変危険な行為なのだ。私のウィルに、エオリアであるウィルに魔術を使わせるなど……」

「違う、アオイ。それは、俺が頼んだんだっ!」

 エオリアという言葉に反応するよりもまず、俺は身を乗り出してそう言っていた。

「……俺が魔術師の真似事なんて、危険だって事はわかっている。でも、アオイやジーク先生みたいに多くの人を助ける為には、魔術の力が必要だと思ったんだ」

 俺は勢いにまかせてまくし立てしまう。

 アオイはしかし、僅かに目を細めただけだった。

「そういう問題ではない。ウィルは、魔術など行使してはいけないのだ」

「……アオイ!」

 俺はキッとアオイを睨んだ。

 アオイは顔を曇らせ、小さく息を吐いた。

「……適性や熟練度の問題ではないのだ」

「鍛錬はする! 俺はただ、防御とか治癒とか、誰かを……」

「ウィル」

 アオイが俺の言葉遮った。静かだが、俺の反論を封じる力のある声音だった。

「ウィルの体は、私が魔術によって再構築したものだ。それは以前話したな」

 俺は憮然としながらも、コクリと頷いた。

「言うなれば、ウィルの体は私の魔素で形作られているのだ。これは、数年単位の時間を掛けていけば、自然と馴染み、定着していく筈だ。やがては、普通の人間と変わらなくなる」

 アオイが俺から少し目を逸らし、髪を掻き上げて耳に掛けた。そしてまた、キッと俺を見る。

「しかし現状、ウィルの体の私の魔素が落ち着いたとは言い難い。この状況でウィルが魔術を行使するという事は、ウィル自身を構成する魔素を消費する事になるのだ。言うなれば、命そのものを使うと言っても良い。実際、今回は危なかったのだぞ、ウィル。倒れたウィルは、身体の魔素を著しく消費し、生命の危機にあったのだ」

 アオイは俺を見据えながら、ふっと微笑んだ。

「大丈夫。魔素はしっかり補給しておいたから、後はゆっくり休んでいれば、体調も直ぐに良くなる筈だ」

 俺は少しだけ目を閉じる。

 やはり俺には、魔術を扱う適性などなかったのだ。所詮は、俺の体に込められたアオイの力を使っていただけという事なのだろう。

 しかしそれは、さほど大きなショックではなかった。

 俺は実際防御場の魔術を使えるし、いざ誰かの危機に瀕したのなら躊躇なく術式を行使するだろう。

 俺はその為に魔術を習ったのだ。

 その事に、後悔はない。

 自分の身を省みていたら、救える人も救えなくなってしまう。

「ウィル」

 アオイがすっと笑みを消した。

「馬鹿な事を考えてはいけない。ウィルにもしもの事があったら、私は……」

 俺の手を握るアオイ。

 ひんやりとしたその手は、微かに震えていた。

「ウィルはもうあの男に関わってはいけない。魔術師や軍警のいざこざにもだ。ウィルはエオリアとして、ここで穏やかに暮らすのだ」

 アオイは俺をぎゅっと抱き締めた。

「アオイ、それはダメだ」

 俺はしかし、そっと首を振る。

「取り敢えず、まず軍警に連絡しなくては。俺の携帯、知らないか? それか、電話を貸してくれれば……」

 アオイの腕の中で俺は身をよじらせた。

 もう体調は戻ったかと思っていたが、やはりまだ十分に力が入らなかった。

 アオイを振り払えない。

「ダメだ」

 アオイが耳元で囁いた。

 ……えっ?

「目が覚めたなら、何か食べた方がいいだろう。食事を用意しよう」

 アオイは俺を離すと、すっと立ち上がった。そして、さっと黒髪をひるがえし、ドアに向かう。

「アオイ!」

 俺は立ち上がり、アオイを追いかけた。

 アオイは廊下に出ると、こちらを向いた。

「お粥を作ってあげよう。大人しく待っているんだ、ウィル」

「アオイ、待ってくれ!」

 しかしアオイは 俺の言葉などお構いなしにふっと笑顔を浮かべると、ドアを閉じようとした。

 そのドアが完全に閉じる瞬間、微かにアオイの声が聞こえた。

「施錠、閉鎖」

 その声に、俺ははっとした。

 術式詠唱?

 俺はドアノブを握り、ドアを開けようと試みる。しかし木製のドアは、まるで壁と一体になったかのようにピクリともしなかった。

 鍵をガチャガチャガといじってみても、やはりドアは開かない。この部屋のドアは内側から鍵を掛けるタイプなので、外から施錠しても意味がない筈なのだ。

 あの囁き。

 やはり、魔術で鍵を閉めたのか?

「アオイ!」

 俺はドンドンと扉を叩いた。

 しかし何の反応も返ってこない。

 それでも俺は、何度も扉を開けようと試みる。

 やがて額にじっとりと汗が滲み始める。

 俺は肩で息をしながら、呆然とドアを見つめた。

「アオイ、何で……」



 窓も魔術で施錠されていた。もちろん、俺の力ではどうしようもなかった。ハンドガンがあれば、脱出出来たかもしれないが……。

 しばらくして食事を持って来てくれたアオイに、俺は猛然と抗議した。しかしアオイは、俺の身を騎士団から守るためだと言って取り合ってくれなかった。

 睨み合う俺とアオイの間で、くうっと俺のお腹が鳴った。

 アオイが微笑み、顔を赤くした俺が目を逸らした。

「大丈夫。私が守るから、今は休むんだ」

 食事する俺を見つめながら、アオイはそう言って微笑んだ。

 その後も、アオイが部屋にやって来る度に、俺は抗議を繰り返した。

 軍警と連絡を取らせて欲しい、無茶はしないから、鍵を掛けるのは止めて欲しいと。

 しかしアオイは、微笑みながら首を振る。

 俺を閉じ込めている点と、時たま例のエオリアという発言がある以外、アオイはいつものアオイだった。

 いや、むしろいつも以上に優しかった。

 翌日も、昼間は定期的に俺の様子を見に来るアオイだったが、夜はずっと俺の部屋で過ごしていた。

 食事も2人きり。勉強も俺の部屋でしていたし、お風呂も寝るのも一緒だった。

 最初の内は、俺もアオイに抗議したり、抗議の意味を含めてぶすっと膨れていたりしたが、そんな態度が馬鹿らしくなってしまう程、アオイは優しく微笑んでいた。

 もちろん俺は、疑問に思っている色々な事をアオイにぶつけてみた。

 ジーク先生とアオイの関係は何なのか?

「あの男にはもう関わってはいけない」

 その問いには、そんな短い答えがあっただけだった。それ以上は何も答えてもらえない。

 では、エオリアとは何なのだ?

「エオリアはウィルの事だよ。私の大切な妹だ」

 こちらの問いには、アオイは少しきょとんとしてそう答えた。何を当たり前の事を聞いているのだといった様子で。

 ……意味がわからない。

 俺は眉をひそめて溜息を吐いた。

 しかしそんな会話でも、アオイと話をしている間はまだ良かった。

 一度部屋の中に独りきりになってしまうと、色々と考えずにはいられなかったのだ。

 ジーク先生の目的は何だろ。その正体はなんだろう。アオイとの関係は。どうしてアオイは、ここまでするのだろうか。そして、エオリアとは何なんだ。

 軍警のみんなは大丈夫だろうか。あれだけの被害が出て、復旧出来るのだろうか。

 俺にできる事はないのだろうか。いや、成すべきことは……。

 ベッドの上でうずくまり、俺はそんな事をただじっと考え続けた。

 一度自覚してしまった不信感は、簡単には消えてくれない。さらにそれは、独りという状況の中で、どんどん大きく育ってしまう。

 ジーク先生に対する疑念。

 そして、アオイに対する疑念……。

 俺の胸の中には、どんどんと重苦しい黒い靄が積み重なっていった。

 俺が目を覚ましてから2日目の夜。とうとう俺は、その不満をアオイにぶつけてしまった。

 お風呂上がり、髪を梳いてあげようというアオイの手をパンと払いのけ、キッと強く睨んでしまったのだ。

 アオイは直ぐに微笑み、すまないと謝ってくれた。

 しかし一瞬浮かんだアオイの表情を、俺ははっきりと目撃していた。

 愕然とした顔。

 悲しみと戸惑いが入り混じった顔。

 後になって、どうしようもない罪悪感が込み上げてくる。アオイにそんな顔をさせてしまった事が、ショックだった。

 アオイは俺を大切に思ってくれている。このやり過ぎとも言える状況も、その気持ちから来るものだと言う事は理解できる。

 きっとアオイは、妹と見なしてくれている俺を失う事が怖かったのだろう。

 その瞬間、俺はそう思ってしまった。

 そしてその気持ちは、俺には良くわかるものだった。一度、家族を亡くしてしまっている俺には……。

「……ごめん」

 俺は小さな声で謝り、そのままベッドに飛び込んでクッションに顔を埋めた。

 翌朝。

 独りだけの部屋の中、窓際に置かれた椅子の上。

 俺は足を座面に上げて膝を抱く様に座りながら、ずっと考え込んでいた。

 左半身を照らす朝日はぽかぽかと心地良い筈なのに、今は何も感じられなかった。

 俺は、どうすればいいのだろう。

 今の状況は間違っている。それは確かだ。

 しかしこの檻を破る事は、俺の身を案じてくれているアオイの気持ちを踏みにじる事になるのではないだろうか。

 アオイは俺を妹だと言ってくれる。

 まだ短い付き合いだけれども、俺もアオイを実の姉のように感じている。

 ……この関係が崩れてしまうのが怖い。

 それが俺の正直な気持ちだった。

 ズキリと胸が疼いた。

 そして、ジーク先生の事。

 ……ジーク先生が、あのエーレクライトだった。

 時間が経つにつれ、その事から目を背ける事が難しくなって来ていた。

 ジーク先生。

 アオイ……。

 俺は、どうしたら……。

 唇を噛み締める。

 膝に顔を埋めてぎゅっと目をつむる。

 それでも、溢れてくる涙を止めることが出来なかった。

 零れる嗚咽を、止められなかった。

 閉ざされた部屋の中で、俺は独り、そっと泣いた。



 さらにその次の日。

 この状況に異変が起きた。

 昼食を運んで来てくれたのが、いつものアオイではなくレーミアだったのだ。

 やはり可愛らしい装飾の付いた白のワンピースに、さらに白いリボンで髪をまとめた格好の俺は、ぼんやりとベッドに腰掛けていた。この服も髪も、アオイが整えてくれたものだった。

「あっ、ウィルさま。もう起きていてもよろしいのですか?」

 昼食の乗ったトレイをテーブルに置いたレーミアが、銀髪を揺らして首を傾げた。

 レーミアは相変わらずクールだ。

 そういえば、お屋敷に戻って来て以来、アオイ以外の人と会うのは初めてだった。

「アオイはどうしたんだ?」

 俺はぽつりと尋ねてみる。

「お嬢さまは来客中です。あのウィルさまのご同僚の刑事さんです。男性と女性のペアの。ウィルさまのお見舞いでしょうか」

 一瞬俺は、レーミアの言葉が理解出来ず、ぽかんとしてしまう。

 同僚……。

 男女ペア……。

 俺は徐々に目を見開く。

 レーミアの知っている男女ペアの捜査官。

 バートレットとアリスだ!

 俺は思わず立ち上がった。

 あの2人に接触出来れば、軍警の状況がわかる筈だ。それに今の俺の置かれている状況を知らせれば、何かが変わるかもしれない。

 レーミアが一礼して部屋を出ていく。俺はさっとドアに身を寄せ、聞き耳を立てた。

 先ほどの口振りからして、レーミアは俺が閉じ込められている事を知らないみたいだ。もしかしたら施錠しないかもしれない。もしくは、何とか上手く言って、鍵を開けてもらえれば……。

 案の定、レーミアが施錠の術式を使用する詠唱は聞こえなかった。

 俺はドキドキしながら、そっとドアノブに手を掛けた。

 あれほどぴくりともしなかったドアノブが……回った!

 ドアが微かに軋みを立てて開いた。

 そっと廊下を覗くと、エントランスホールの方に立つアレクスさんに呼ばれ、走り去るレーミアの背中が見えた。

 ふと、アレクスさんと目が合った気がした。

 俺は慌てて部屋に戻った。

 胸がドキリと高鳴る。

 よし……行ける!

 バートレットたちの所に!

 俺は胸に手を当てて、一旦大きく深呼吸した。そしてむうっと大きく息を吸い込むと、思い切ってドアを開け、廊下に飛び出した。

 走る。

 スカートを持ち上げて、リボンで束ねた髪を揺らしながら。

 アオイによれば、俺はまだ完全に復調していないらしいが、少し走る分には何も問題なかった。

 走る。

 なるべく足音は立てないように。

 しんと静まったお屋敷が、今は何だかいつもよりも随分と広く感じられた。

 階下の様子を窺い、俺はたたたっと階段を駆け下りる。

 バートレットたちがいるのは、恐らく応接室だろう。

 俺は応接室に隣接する遊戯室に入った。

 遊戯室と応接室は繋がっていて、その扉は応接室から見て書庫の死角になる場所にあった筈だ。

 俺は無人の遊戯室で少しだけ息を整える。そして、まずは様子を窺うために、応接室に繋がるドアを少しだけ開いた。

 微かなドアの軋みにさえ、ドキリとしてしまう。

「ですから伯爵。貴方が軍警のために戦ってくれた事には感謝しているんですよ。周囲への被害は甚大ですが……」」

 この声、バートレットだ!

 やはり、この応接室で間違いなかった。

「しかし、何度も申し上げている通り、これは正式な捜査なのです。我々の要求は1つ。ウィル・アーレンの身柄を引き渡していただきたい。最悪、拘束して連行する許可も出ているんですよ」

 ……え?

 感情を押し殺したバートレットの声。

 喜びも束の間。

 ドアを押し開き、応接室に飛び込もうとしていた俺は、思わずその場で固まってしまった。

「ウィル・アーレンには、支部を襲ったエーレクライトと内通していた嫌疑が掛けられている」

 ……嫌疑?

 俺?

 それは、どういう事、なんだ?

 顔面からさっと血が引くのがわかった。

 内通?

 全身に悪寒が走る。

「ウィルに疑う所などない。ウィルのように清廉な子が、騎士団などと通じているものか」

 低く押さえ込まれたアオイの声には、しかし隠しきれない怒りと苛立ちがにじみ出ていた。

「しかし、伯爵さま。あの夜、エーレクライトが発した言葉を聞いていた隊員がいるのです」

 今度はアリスの声が聞こえた。こちらもいつものアリスの声ではない。ワザと感情を押し殺したような平板な声だった。

「あのエーレクライトの目的がウィル・アーレンの出迎えだと。それに、ウィル・アーレンが魔術を使用するのも目撃されています。この状況では、ウィル・アーレンから事情を聞かざるを得ないのです」

 心臓がバクバクと激しく脈打ち始めた。

 見開いた目の焦点が合わない。

 俺はただ、扉の前で呆然とする。

 軍警が、俺を……?

 俺がジーク先生と、いや、エーレクライトと内通?

 何で……。

「こうなると、我々も様々な可能性を疑わざるを得なくなってくる。例えば……」

 バートレットがそこで一旦言葉を切った。

 耳に痛い沈黙。

 俺の胸の鼓動が、今にも聞こえて来そうだった。

「例えば、あの子は本当にウィルバート・アーレンだったのか、とかね」

 俺はびくりと体を震わせた。

 雷撃を受けた様な衝撃が走り抜ける。

 今、何て……。

 一瞬遅れて、全身がわなわなと震え始める。

 俺が……俺じゃないのか?

 では俺は、何なんだ?

 何故ここにいるんだ……?

「何が言いたいのだ、捜査官殿」

 アオイに動揺した素振りはない。魔女の声で返事をしている。

「ウィルバートは魔術で少女の姿に変えられたというが、それが可能ならば、魔術でウィルという存在を仕立て上げる事も可能なんじゃないかな。それこそ、あのエーレクライトならば」

 仕立て上げる……。

 口元が震える。

 視点が定まらない。

 応接室の中からは、アオイが何か反論する声が聞こえて来た。

 しかし真っ白になってしまった俺の頭には、何も届かなかった。

 はあっ、はあっ、はあっ……。

 呼吸が乱れる。

 軍警が俺を追っている。

 足元が崩れ落ちていく感覚に、倒れ込みそうになってしまう。

 自然と目に涙がたまった。

 はあっ、はあっ、はあっ。

 俺は、軍警に所属していたウィルバート・アーレンではない?

 俺は……。

 俺は後退りし、応接室のドアから離れた。

 そして、勢いよくスカートをひるがえし、ガラス戸を開け放って遊戯室のテラスへと飛び出した。

 そのまま走る。

 花壇をまたぎ、庭園を駆け抜け、お屋敷を囲む森の中へ、俺は駆け込んだ。

「ううう……」

 涙が零れ落ちた。

 どうしたらいいんだ。

 俺は、どうしたら……!

 森の中を駆け抜ける。

 何も考えられない。

 何も、考えたくなかった。

 走る。

 ひたすら、走る。

 転んで膝を擦りむいて、それでも俺は走った。

 行く宛もなく、目的もなく、ただ俺は、その場を逃げ出してしまったのだ。

 暗いお話になってしまいましたが、読んでいただきありがとうございました!

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