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Hexe Complex  作者:
58/85

Order:58

 重苦しい装備を取り去り、熱いお湯を頭から浴びれば、体中にこびり付いた硝煙の臭いが一気に流れ落ちて行くような気がした。

「……はあっ」

 もうもうと湯気が舞う狭いシャワールームの中で全身にお湯を浴びながら、俺は思わずそんな声を漏らしてしまった。

 白い肌の上をつうっと水滴が流れ落ちて行く。

 濡れたストロベリーブロンドの髪が、ぴったりと体に張り付く。

 俺は頭に手をやり、前髪を掻き上げた。

 何だか、結構髪が伸びてきたなと思う。

 この姿になったばかりの頃は髪を切る事を禁じられていたが、今ならもう許可は下りるだろうか。

「……ふうっ」

 もう一度大きく息を吐いて、俺はそっと胸に手を当てた。

 ……まだ少しドキドキしている。

 3数時程前に終結したばかりのあの古城での戦い。

 その激戦の余韻が、まだ胸の奥に残っているのだ。

 ディッセルナー伯爵を倒した俺たちは、敵残存勢力の掃討、投降した魔術師の拘束、それに負傷者や行方不明者の確認などの事後処理に移った。そして後続の部隊が到着すると現場を引き継ぎ、迎えのヘリで帰投する事になった。

 目標の貴族級魔術師の全制圧。敵勢力の壊滅。

 そんな結果だけを聞けば、本作戦は大成功を収めたといえるかもしれない。

 しかし激しい戦闘により、軍警部隊にも少なくない被害が出ていた。

 とりわけ多数の死傷者を出したのは、切り込み役を担ったブラウ隊だ。それに、俺たちロート隊からも、殉職が1名、重傷が5名発生していた。

 エーレクライトに殴り飛ばされたロート9は、意識不明の重体だった。

 バルディーニの方は無事だった。僅かな打撲や擦り傷といった軽傷で済んだようだ。

 ……悪運の強い奴だと思う。

 銃撃の最中に突撃し、奴をエーレクライトから引き剥がしたのは俺だが、何か釈然としない感じだった。

 順調なフライトでルストシュタット支部に帰投した俺たちは、各隊毎に集まってデブリーフィングを終えると、一旦解散となった。

 そして、現在の時刻は午後6時45分。

 俺たちオーリウェル隊は、今晩はここルストシュタット支部に宿泊し、明日には撤収準備をしてオーリウェルに戻る事になっていた。

 オーリウェルに帰れば、事後処理が色々あるだろうが、まずはアオイのもとへ帰らなくてはならない。

 アオイは、俺の事を笑顔で迎えてくれるだろうか。

 ……それとも、危ない事はやめるべきだと、やっぱり怒られるだろうか。

 俺はシャワーに打たれながら、1人ふふっと笑ってしまう。

 きっと両方だろう。

 それに、ジーク先生は褒めてくれるだろうか。

 ジーク先生の教えのおかげで、何とか俺は、実戦で防御場の術式を行使する事に成功したのだ。

 しかし同時に、俺の防御場は一撃で破られたり、敵の魔術を受け止められなかったり、まだまだお粗末なものだった。

 もちろんジーク先生に作戦の事は言えないが、この問題点の解決についてまた指導してもらえればなと思う。

 さらなる特訓の日々だ。

 手を当てたままの胸が、トクンと高鳴った気がした。

 ……むむ。

 今更ジーク先生の魔術講義に緊張しているのか?

 俺は胸に当てた手を、さらにぎゅっと握り締めた。

 その拳に当たる柔らかな胸の感触。

 ……そういえば、髪だけでなく胸も少し成長した気がする。

 体重が少し増えたのは訓練で筋肉がついたからだと思っていたが、この体は見た目の通り、まだまだ成長期という事なのだろうか。

 俺は俯いて、はぁと溜め息を吐いた。

 胸にせよ身長にせよ、サイズが変われば新しい衣服が必要になってくる。

 ……帰ったら、アオイに相談してみようか。

 俺は手を上げてんっと伸びをすると、くたっと力を抜いた。そして目を瞑り、シャワーヘッドから落ちてくるお湯を顔から浴びた。

 その瞬間。

 ぐらりと世界が傾いた。

「うっ」

 足元がぐにゃぐにゃになったように踏ん張りが利かず、壁に手を突くがそれでも踏ん張れず、俺は裸のままその場にペタリと座り込んでしまった。

 ……あ、あれ?

 自分でも何が起こったのか分からず、キョトンとしてしまう。

 シャワーを浴びて安心し、思わず気が抜けてしまったのだろうか。

 うぐぐぐ……。

 俺は1人苦笑を浮かべながら、壁に手を突いて立ち上がった。

 ……いけない、いけない。

 まだまだ撤収の作業や、色々とやるべき事はあるのだ。気を引き締めていかないと……。

 俺は小さく頭を振って、シャワーを切り上げる事にした。

 きゅっとお湯を止める。目頭を押さえ、ぺちぺちとタイルの上を歩きながら、俺はシャワールームの隣の女子更衣室に戻った。

 シャワールームも更衣室も、今は俺の他に利用している女性職員は誰もいなかった。

 髪を乾かすのもそこそこに、シンプルなパステルブルーの下着と、軍警の教練着である黒のシャツと紺のズボンを身に付ける。

 またフラフラしてはいけないとゆっくりと着替えをしていると、今度は何だか目がしょぼしょぼして来た。

 ……眠い。

 急激に体が重くなり、睡魔が襲い来る。

 戦闘の疲れと、後は魔術を行使した疲れもあるのだろう。ジーク先生との鍛錬の時だって、魔素の光を出しただけでへとへとに疲れてしまう事が多かったのだ。

 俺は教練着の上から黒のジャージの上着を羽織ると、ジッパーを上げた。このジャージは、この姿になる前から使っている私物なので、今の少女の体格ではいささかブカブカだった。

 襟の中からまだしっとりしたままの髪を引き出した俺は、両手でグリグリと目を擦る。

 むん……。

 今目の前にベッドがあれば、きっと一瞬で寝てしまえるに違いない。

 欠伸をかみ殺しながら眠気でクラクラする頭を何とか奮い立たせ、俺は着替えやお風呂セットをまとめると、更衣室を出た。

「あ、ウィルちゃん。やっぱりここにいたのか」

 女子更衣室から少し離れた場所で壁にもたれていたロラックが、俺を見つけて駆け寄って来た。ロラックも教練着の上にジャンパーを羽織ったラフな格好だった。

「ロラック……」

 ……ダメだ。

 頭がぽーっとする……。

「ミルバーグ隊長とブフナー分隊長が話があるって。ウィルちゃんを呼んでるけど……」

 ロラックが怪訝そうに顔を歪めた。

「おい、大丈夫か? 顔が真っ青だぞ」

「うん、ああ……」

 俺はすっと目を瞑る。

 その瞬間、全身から力が抜けてしまった。

 あ、倒れるなと思った瞬間、誰かに抱き留められたような気がした。

 もしかして、アオイが助けに来てくれたのだろうか。

 それとも、またジーク先生が助けてくれたのか?

「ウィルちゃん、おい、ウィルちゃん? や、柔ら……いや、医務室だよな! 今つれていくからなっ!」

 俺の意識は、すっと闇に落ちていく。



 夢は何も見なかった。

 まるで瞬きしただけのように、目を閉じ、そして開いた瞬間、目の前に広がる光景が更衣室前の廊下から白い天井を見上げる形に変わっていた。

 カーテンレールで区切られた狭い天井は、真っ白だった。

 蛍光灯の白い光に、俺はそっと目を細める。

 ……頭が痛い。

 体全体がどしんと重く感じられ、指先を動かすのも億劫だった。

 清潔なベッドの心地よさも手伝って、もう一度目を閉じれば一瞬で眠りに落ちる自信があった。

 しかし眉間にシワを寄せて必至に睡魔に耐えたのは、この程度の疲労で倒れてしまう自分に少し腹がたったからだ。

 ……まったく、不甲斐ない。

 俺は大きく息を吸い込み、無理やり上半身を引き起こしてベッドの上に座った。

 むう……。

 頭がガンガンする。

 俺は俯きながら顔に手を当て、軽く頭を振った。

 俺が寝かされていたのは、周囲をカーテンに囲まれた飾り気のないベッドだった。病院みたいだが、恐らくはルストシュタット支部の医務室だろう。微かに消毒液の様な匂いが漂っている。

 ジャージを脱がされた俺は、教練着のシャツ姿になっていた。きっとロラックが、俺を運んでくれたのだろう。

 ベッドの脇にはそのジャージに、待機室に置いてあった他の俺の荷物も持ち込まれていた。着替えや私物が入ったスポーツバックも、パイプ椅子の上に乗っている。そこから、携帯の鳴動する音が響いていた。

 ……ガンガンと頭に響くのはこれか。

 俺はクッションの上に埋もれる様に横になると、うんっと腕を伸ばしてバッグを引き寄せ、その中から携帯電話を取り出した。

「うっ」

 携帯は既に静かになってしまっていたが、その画面を見た俺は、思わず声を上げてしまう。

 もの凄い数のメールと電話の着信。

 その全てがアオイからだった。

 現在の時刻は21時を少し過ぎようとしている。アオイからの着信が入り始めた時間は、ちょうど作戦が終了した頃からで、それが今までずっと続いているのだ。

 作戦終了を把握しているところが、何ともアオイらしい。アオイが作戦の推移など知るはずはないから、きっと魔術の力か伯爵の力を行使したという事なのだろう。

 そのメールをチェックすると、俺の無事を確認する内容ばかりだった。優しく問い掛けて来るものもあれば、答えなさいと命令調のものまであった。

 横になって寝転がったままそのメールを読んだ俺は、思わずくすっと笑ってしまった。

 お屋敷で1人、携帯電話を握り締めてもくもくとメールを打っているアオイを想像してしまったからだ。そんな姿は、何だか普段の優雅なアオイのイメージとは一致しない。

 少しだけだが、笑うと体が軽くなったような気がした。

 俺はメールの返信を打とうとして、手を止めた。

 そしてしばらく携帯の画面を睨み付けた後、アドレス帳からアオイの番号を呼び出し、コールした。

 ……いつもならメールで済ませるところだが、何故か今はアオイに電話をしてみようと思ったのだ。

 そっと目を瞑り、耳に当てた携帯のコール音に耳を澄ませる。

 アオイは、2コールで電話に出た。

『ウィル!』

「アオイ……」

『……無事なのか、ウィル?』

 一呼吸の間を置いて、いつもの冷静な声でアオイが尋ねてきた。

「うん。ありがとう、アオイ。こちらは問題ない」

 医務室のベッドの上から電話しているのは、今は秘密だ。

『そうか。なら良いけれど……』

 電話の向こうのアオイが、疲れた様に大きく溜め息を吐いた。

 心配や迷惑を掛けているのは俺なのだが、いつも泰然と冷静なアオイが明らかに安堵の息を吐いている様子が何だか可愛らしく思えてしまう。

 俺は思わず耐え切れずに、ふふっと笑ってしまった。

『何だ、ウィル。せっかく人が心配しているというのに』

 アオイが不満そうな声を上げるが、それも最初だけ。アオイも吹き出すようにして、ふふっと笑い出した。

 電話越しに俺たちは、静かに笑い合う。

『直ぐに帰ってこれるのだろう?』

 アオイが先程とは違う明るい声で尋ねてくる。

「うん。スムーズに行けば、明日にはオーリウェルに着くと思う」

 俺は携帯を耳に当てたまま、サラサラとした肌触りが心地良いクッションに頭を預けて仰向きになると、全身の力を抜いた。

『そうか。しかし既に軍警の作戦が終わっているのなら、姉が迎えに行こうか?』

「また転移術式か?」

『私とウィルならば、どんなに離れていても一瞬で会えるだろう』

 冗談めかして言うアオイに、俺は恥ずかしくなってむうっと押し黙った。

 昔、まだ俺が小学生くらいの時、何か急用で姉貴が学校に迎えに来てくれた事があった。姉貴と手を繋いで帰った俺は、翌日クラスメイトから散々冷やかされてしまった事があった。

 何故かふと、そんなエピソードを思い出してしまったのだ。

『ふふ』

 またアオイが笑った。

『わかっている。ウィルは約束通り無事に任務を終えてくれたのだ。私は最後まで信じて待っているよ』

 アオイの優しい声。

「アオイ……」

 トクンと胸が鳴った。

 俺には今、こうして俺の帰りを待ってくれている人がいる。

 家族。

 そんな言葉が自然と思い浮かんでしまった。

 胸の奥に広がって行く温かなもの。それが、あっと言う間に溢れそうになってしまう。

 思わず視界が、じんわりと滲んでしまった。

 俺は体勢を変えて俯せになると、クッションを抱き締めて顔をグリグリと押し付けた。そしてゆっくりと息をして、静かに心が落ち着かせようとする。

 俺の家族を奪ったあの魔術テロから、俺は家族というものを感じる事を心のどこかで拒否していたのかもしれない。

 古馴染みとして、もう1人の姉のようにして育ったソフィアが近くにいたのだから、ソフィアを頼れば家族の温かさというものを思い出す事は出来たかもしれない。

 しかし俺は、そうしなかったのだ。

 魔術師や魔術に対する怒りと憎しみを糧に、軍警の任務に没頭する事を選んだ。

 だからもうずっと、誰もいない部屋に無言で帰るのが当たり前になっていた。

 ……でも、今は違うのだ。

 アオイが、俺の帰りを待ってくれている。

 俺を、待ってくれている。

 それが、こんなにも嬉しい。

 胸の内を満たしていく安心感。

 心の中が、すっと穏やかになっていくのがわかった。

 疲労や睡魔など、どこかに飛んで行ってしまったかの様だった。

 そして、ディッセルナー伯爵が最後に口にしていた台詞。

 俺の居場所。

 作戦終了からずっと、心の片隅にチクリと刺さっていたその言葉が、すっと消えていく様な気がした。

 ……俺には、帰るところがある。

 アオイは、ここしばらく俺が離れてしまっているオーリウェルやエーレルトのお屋敷の話、試験終わりから会っていないジゼルたち学校の皆の話などをしてくれた。

 俺は自然と微笑みながら、時々声を上げて笑い、その話にうんうんと相槌を打った。

『ところでウィル』

「ん? 何だ?」

 それまで明るく話していたアオイが、唐突に声をひそめた。

『軍警というところは、男ばかりの場所だと聞いている。特に今回ルストシュタットに出向いている部隊には、ウィルしか女の子がいないとか』

 俺は再び仰向けに寝直しながら、天井を見上げた。

 外見上では、確かに今回の派遣部隊の中で女性は俺だけだ。

『……大丈夫だろうか、ウィル』

 俺はアオイの疑問に、キョトンとしてしまう。

『悪い虫はたかっていないだろうか。酷い扱いは受けていないだろうか。ウィルは可憐だから、気が気ではないのだ』

 アオイがそっと溜め息を吐いた。

 心配し過ぎだと笑い飛ばしてしまいたいところだが、アオイの声の真剣な調子に、俺は思わず返事に窮してしまった。

 アオイが俺の身を案じてくれている事は良くわかったし、それは純粋に嬉しかったから。

 何だか頬が熱くなる。

 む。

 ……少し、恥ずかしい。

『何か変わった事はないか? 何でも相談してみるといい』

 俺がうぐうぐと唸っていると、アオイがさらに質問を重ねてきた。

 俺にとって軍警は、命を懸けて戦う仲間たちの集まる大事な場所だ。アオイと出会う前は、全てを失った俺にとって、唯一の寄る辺だったのだから。

 アオイも好きだが、軍警も大切だ。だからアオイには、できれば軍警についてあまりマイナスイメージを持ってもらいたくなかった。

 何とかアオイの心配を払拭しておかなくては。

「……そうだな」

 俺は気を取り直し、ごほんと咳払いをした。

「隊のみんなは良い先輩ばかりだ。質問すれば丁寧に指導してくれるし、それにみんな、お菓子をくれるんだ」

『……ほう』

「作戦前に支給されるチョコバーとか、沢山貰った。ありがとうってお礼を言ったら、何か逆にお礼を言われたりもしたけど……」

 チョコバーはカロリーが高いし恐ろしく甘いから、そんなに沢山は食べられない。それでも先輩の気遣いに精一杯の笑顔で感謝すると、普段は強面の先輩が、笑顔で「こちらこそウィルちゃんと一緒出来て良かった」と言ってくれたのだ。

 それを見ていた他の先輩たちも、次々とチョコバーをくれた。飴もあった。

 結果、今も俺のバッグにはチョコバーが詰まっている。

『……気をつけるのだ、ウィル。物で釣るのは、奴らの常套手段だ』

 アオイが平板な声になる。

 あれ……?

「奴ら?」

『何か見返りを求められたりはしていないか?』

「いや、何も」

 ブフナー分隊長あたりは、俺の笑顔にこそ価値があるとかなんとか、ギャグを飛ばしていたが……。

「さすがに山盛りのチョコバーを1人では無理だから、みんなで一緒にコーヒーを飲もうという事にはなったけど」

 最初はロラックが、ルストシュタット支部に戻ったら一緒にコーヒーでもと誘ってくれたのだ。そこに、それを聞いていたブフナー分隊長も加わり、他の隊員たちも入って来て、結局みんなで集まる事になったのだった。

 支部に帰投してからそんな話をしていると、さらに他支部の隊員たちもやって来て、何だか最後には大事になってしまった。

 俺のメールアドレスを尋ねたブラウの隊員が、オーリウェルの皆に囲まれて罵声を浴びせられていたが、大丈夫だっただろうか。 

 しかしそのコーヒーの会の前にシャワーを浴びに行って、不甲斐ない事に俺はこうして倒れてしまったのだが……。

『ウィル』

 黙って俺の話を聞いていたアオイが、低い声で呟いた。

「ん?」

『やはり、ウィルをそのような場所にはおいておけない。今すぐ迎えに行く』

「え!」

 せっかく和気あいあいとした軍警の良い所アピールをしたのに……。

「いや、いやいや、大丈夫だぞ、俺は。何の問題もないって」

 アオイが言うと冗談に聞こえないのだ。

 俺は慌てて姉のお迎えを遠慮しながら、軍警内で如何に俺が気を使ってもらっているかを説明した。新米隊員としてぞんざいに扱われていたウィルバートの頃とは大違いなのだ。

 さすがにライフルは重いから代わりに持ってあげようと言われた時は、キョトンとしてしまったが……。

 携帯をきゅっと握り締めて力説する俺。

 その話に納得してもらえたかはわからないが、アオイは大きく溜め息をついて『わかった』と言ってくれた。

『しかし、出来るだけ早く帰ってくるんだぞ、ウィル。もうそろそろ、ウィルをぎゅっとしないと絶えられそうにないんだ』

「えっと……うん」

 何をとは聞かない。

 俺は、はははっと少し疲れた笑いを返しておく。

 その時不意に、医務室の扉がノックされる音が響いた。

 む。

 そういえば、いつの間にか随分と長電話してしまったようだ。

『ウィル』

 人が来たからと電話を切ろうとすると、アオイが俺を呼び止めた。

『くれぐれも無茶はしないようにな』

 アオイの優しい声が響く。

「……うん、もちろん」

 俺はふっと微笑み、コクリと頷いた。

 残された任務は、もうオーリウェル支部に帰投する準備を進めるだけだ。

 バルディーニを始めとする魔術師の取り調べや現場検証は、専門の捜査官たちによって今後しっかりと進められるだろう。

 もちろんその捜査も、俺に出来る事があればバートレットたちに相談し、積極的に手伝っていくつもりだ。

 しかしまずは、アオイが待っていてくれるお屋敷に早く帰ろう。

 医務室のベッドに身を埋めながら、俺はそう思った。



 医務室に戻って来た医務官の先生には、やはり疲労が蓄積して倒れたのだろうと言われてしまった。

 まだ寝ているようにと言われ、ベッドに横になっていると、先生が部屋を出て行く音が聞こえた。

 しばらくすると、再び医務室に誰かがやって来る。

 閉ざされたカーテンの向こうに、複数の足音が近付いて来るのが聞こえた。

「ウィルちゃん、失礼するよ」

 ブフナー分隊長の声だ。

「あ、どうぞ」

 俺は体を起こし、横になって乱れた髪をさっと直した。

 カーテンが引かれると、そこにはブフナー分隊長に並んでミルバーグ隊長の姿もあった。

 どちらも教練着の上からオーリウェル支部の支部章の入ったジャンパーを羽織っている。

 俺はベッドから足を下して立ち上がろうとするが、その前にミルバーグ隊長に止められた。

「そのままでいい」

 ブフナー分隊長がふっと笑った。

「まだ寝ていた方が良いよ、ウィルちゃん」

 2人はぞろぞろとカーテンの内側に入って来ると、再びカーテンを引いて閉じた。

 俺は2人の邪魔にならないようにベッドの上に足を戻すと、ちょこんと正座する。

「失礼」

 ブフナー分隊長がギシっとベッドに腰掛けた。その隣に、ミルバーグ隊長が腕組みをして立った。

「倒れたそうだが、具合はもう良いのか?」

 ミルバーグ隊長の低い声が響いた。

 俺はコクリと頷いた。

「大丈夫です。お騒がせしました」

 確かに体はまだ重かったが、アオイと話したお陰だろうか、意識はすっかりクリアになっていた。

「疲れたのだろう。今はゆっくり休むといい」

 ミルバーグ隊長が微かに笑い、ブフナー分隊長もうんうんと頷いている。

 俺はしゅんと肩を落として、小さく申し訳ありませんと呟いた。

 他の隊員たちは倒れたりしていないのだ。俺だけ、というのは、やはり情けない。

 ミルバーグ隊長が大きく咳払いした。

「ウィル・アーレン。実は確認したいことがあって来たのだ」

 ミルバーグ隊長が低い声をさらに低くした。

 先ほどまでと違い、感情を押し殺したようなその声に、俺は顔を上げた。深い皺が刻まれた隊長の顔に宿る鋭い眼光が、俺を捉えていた。

 何だ……?

 俺は膝の上に手を突いて、背筋をぴんと伸ばした。

「ブフナーから報告を受けたが……」

 ミルバーグ隊長がすっと目を細めた。

「ウィル・アーレン。魔術を行使したというのは本当か?」

 心臓がドキリと飛び跳ねる。

 ナイフの刃を押し当てられたかのように、冷たいものが背筋を走り抜けた。

 俺は唇を引き結び、ミルバーグ隊長の視線を受け止めた。

 俺の魔術。

 それは、誰かを守るために会得した力だ。

 そのための術式しか覚えていないし、そのため以外に行使するつもりもない。

 誰にも、何にも恥じることは無い筈なのだが、俺はそのミルバーグ隊長の問い掛けに、暗に非難しているかのような響きを感じてしまっていた。

 膝の上に並べた拳をぎゅっと握り締め、俺は少しだけ目を瞑ってから、再びミルバーグ隊長を見た。

 そして、力を込めて頷いた。

「そうか」

 ミルバーグ隊長の声は静かだが、その眼光はさらに鋭くなったような気がした。

「どういう事が説明してもらえるか、ウィル・アーレン」

 筋の張った太い腕を組んだまま、俺を見下ろすミルバーグ隊長。

 その迫力に気圧されそうになってしまうが、俺はキッと睨むようにミルバーグ隊長を見返した。

「アオイと、エーレルト伯爵と行動を共にして、自分は魔術の有用性を実感しました」

 ただ単に人を害する力だと思っていた魔術。

 しかし、力は力に過ぎない。

「また、全ての魔術師が犯罪者ではなく、人を助けるために魔術を行使する人たちとも出会う事が出来ました。彼らも、魔術犯罪やテロと戦っているんです」

 俺は自分の感じた事を伝えるため、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「彼らと出会い、自分は銃だけでは守りきれない、助けられないものもあるという事を実感しました。だから、理不尽な暴力から少しでも人々を守れるように、力を得たいと思ったんです。もう、もうこれ以上、誰かが悲しむのも、それを防げない自分も嫌だったから……。だから、自分は魔術を習ったんです」

 勢い良くまくし立ててから、俺は大きく息を吐いた。

 唇を引き結び、ミルバーグ隊長の反応を待つ。

 ブフナー分隊長がふっと息を吐くのが聞こえた。

 ミルバーグ隊長と俺は、そのまましばらくの間、じっと視線を交わした。

「……ウィルが誰よりも軍警の任務に励んでいるのは知っている」

 ミルバーグ隊長は片足に体重を乗せるように姿勢を変えた。

「だから、お前が魔術師に感化されてしまったとは思わない。ウィルの言う通り、考えがあっての事だとは理解した」

 胸がズキリとする。

 ミルバーグ隊長の言葉には、魔術師になる事が良くない事だと思わせる響きがあった。

 ……魔術師自体が悪い訳じゃなのだ。

 魔術師にも良い人は沢山いる。

 大事なのは、その力を使う者の在り方なのだ。

「しかし我々軍警は、力ない一般市民を魔術師の脅威から守り、その魔術師を制圧する為の組織だ。魔術は、かつての封建社会を根拠付けていた力だ。そういった力から市民を守る。そんな俺たちが魔術という力を行使する事は望ましくない事だ。それはわかるだろう?」

 ミルバーグ隊長は、口髭の生えた顔を歪めた。

「現代の世の中では、個人を特別たらしめる魔術という力は、不和の種でしかない。それに、軍警に籍を置くものには、そんな魔術を憎む者も多い。我々軍警は、魔術師とは、魔術とは相容れない存在なのだ」

 俺は思わず身を乗り出した。

「ですが……!」

 しかしそこで、言葉に詰まってしまう。

 ベッドの上に拳を突いて、俺はミルバーグ隊長を見上げて固まった。

 ミルバーグ隊長の言わんとする事は、良くわかった。かつての俺は、まさにその魔術を憎む者だったから。

「ウィルちゃん」

 それまで沈黙していたブフナー分隊長が口を開いた。

「俺は、ウィルちゃんの魔術に助けられたから、感謝しているんだよ。強くて凛々しく、そして可憐なウィルちゃんは、軍警オーリウェル支部の勝利の女神さまだと思っている。だけど、ウィルちゃんが魔術を使える事が知れ渡れば、女神さまのままではいられなくなるかもしれない。わかるね?」

 子供に諭すようなブフナー分隊長の声。

 俺は眉をひそめて沈黙する。

 軍警に相応しくない。軍警とは相容れない力……。

 銃だけでなく、魔術を活用して人々を守りたい。そんな俺の選択は、誤っていたのだろうか……?

 俺は、俺は……。

 頭の中がぐらぐらと揺れ始めた。

 俺を助けてくれたアオイ。

 ジゼルを助けてくれたジーク先生。

 俺は純粋に、彼らみたいになりたいと思ったのだ。

 それが……。

「ウィル。魔術を行使出来るという事は、口外するな。そして人前では、魔術を使うな。軍警に所属している限りはな。良いな。これは、隊長命令だ」

 冷ややかに言い放つミルバーグ隊長の言葉は、容赦なく俺の胸に突き刺さった。

 俺は何も言い返せない。

 もやもやとしたものが渦巻いていて、胸が苦しい。

「この事は俺とブフナーの胸の内に留めておく。軍警隊員としてウィルが頑張っていることは、誰もが認めるところだ。シュリーマン中佐もお前を買っている。今後も軍警隊員として、力を尽くせ」

 俺はぺたりと足を開いて座り込みながら、肩を落とした。俯き、ミルバーグ隊長の言葉をじっと噛み締める。

 どう反応していいのか、俺には分からなかった。

 その時、不意に医務室の扉が乱暴に開かれる音が響き渡った。

「ミルバーグ、いるか!」

 それまで俺たちの会話だけが淡々と聞こえていた静かな医務室に、大音声の濁声が響き渡る。

 この声はブラウ隊、軍警ルストシュタット支部の髭の隊長の声だ。

「どうし、オットー」

 さっとカーテンを開き、ミルバーグ隊長がその外へと出て行った。

 俺はその背中を見送り、静かにそっと息を吐いた。

「まぁ、気を落とさないようにな、ウィルちゃん」

 ブフナー分隊長が微笑み掛けて来る。重苦しくなってしまった雰囲気を打ち払う様な明るい表情だった。

「世の中は色んな考えの者がいる。それを見分け、対応しなくちゃいけないのも、大人の世界の厳しささ。難しいものだよな。でも、繰り返すが、俺はウィルちゃんに感謝してるんだぞ」

 ニカッと爽やかな笑みを送って来るブフナー分隊長。

 俺は少しだけ笑って、小さく頷いた。

 色々と困惑していて、今はなかなか考えをまとめる事が出来なかった。

 しかし。

 こうしてブフナー分隊長の笑顔を見ていると、少なくともあの場で魔術使った事については、間違っていなかったと思えた。

「しかし、エーレクライトの前に飛び出すウィルちゃんの根性は、是非うちの分隊の……」

 にこやかに話し掛けてくるブフナー分隊長の声を遮り、再びさっとカーテンが開かれた。

 ミルバーグ隊長が俺たちを見る。

「ブフナー、即刻オーリウェル支部に帰投する。隊員に非常集合を掛けろ。直ぐにだ」

 ブフナー分隊長が立ち上がる。

 俺は動けなかった。ただミルバーグ隊長の顔を見上げる。

「何かあったんですか?」

 ブフナー分隊長の厳しい声。

 ミルバーグ隊長が一瞬押し黙る。

 それは、ミルバーグ隊長ですら何とか状況を呑み込もうと努力している様に見えた。

「1時間程前、オーリウェル支部が攻撃を受けた」

 思わず俺は息を呑む。

 ビシッと空気が凍り付いたような気がした。

「敵はエーレクライトを擁する魔術師集団だ。支部は甚大な被害を被った。そしてその敵の一部が、未だ支部を占拠している」

 俺たちの、支部が……?

「我々は即刻帰投し、敵を排除する。ブフナー、行け」

「了解!」

 ブフナー分隊長がブーツを鳴らし、医務室から駆け出して行った。

「ウィルは……」

「自分も準備します!」

 俺もさっとベッドから降り、素足で床に立つと、バッグを引き寄せた。

 何が起きているのだろうか。

 ……いや、色々と考えるのは、取りあえず後にする。

 今はまず、一刻も早くオーリウェル支部に戻らなくては!

 俺は心の中でそっとアオイに謝る。

 お屋敷に帰るには、もう少し時間が掛かりそうだ。

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