Order:54
テスト期間を目前にした聖フィーナ学院は、どこか落ち着かない雰囲気に包まれていた。
俺のクラスでも休み時間になっても友達と集まって試験勉強に取り組んでいる子が多く、勉強していないと何だかとても後ろめたい事をしているような罪悪感に襲われてしまう状況が続いていた。
特に俺みたいに試験対策に余裕のない者にとっては、短い休み時間といえども貴重な時間と言える。しかし一緒に勉強しようというジゼルやアリシアに言い訳をして、その俺は校内をうろうろと歩き回っていた。
バルティーニ子爵関連の動向とテストの行方。そしてもう1つの懸念事項が、俺をそわそわとさせていた。
「ジーク先生……。もう、どこにいるんだ……」
むうっと顔をしかめ、俺は思わずぽつりとそう呟いてしまう。
職員棟から戻り、教室棟に入った俺は、今日何度目かの大きなため息を吐いた。
みんなで勉強会をした次の月曜日から、早速俺はジーク先生に会い、バルティーニ子爵について尋ねてみようと考えていた。
しかし月曜日の魔術講義は中止。自主練になってしまった。
やはりジーク先生は忙しいみたいだった。
次の日も、ジーク先生は魔術講義に来てくれなかった。
メールで魔術講義には来れないという旨の連絡は来るのだが、こちらから電話しても通じない。留守電になるだけだ。
バルティーニの事については、出来れば先生に会って直接尋ねておきたかったのだが……。
今し方も職員棟に行って来たのは、もしかしたらジーク先生がいるかと思ったからだ。
……残念ながら空振りに終わってしまったが。
尋ねようにも、ソフィアも担任のヒュリツ先生もいなかった。これではお手上げだ。
しかしもしソフィアがいても、少し尋ねずらい雰囲気ではあるのだが……。
とぼとぼと肩を落とし、教室に戻る俺。
階段を登りかけた時、不意にブレザーの内ポケットに入れた携帯が震えた。
ジーク先生か!
俺は慌てて携帯を確認する。
なんだ。ロイド刑事か……。
今度の週末に食事でもというお誘いのメールだったが、今は非常に忙しい。それに急な捜査、それに作戦召集が掛かるかもしれないのだ。
ロイド刑事にはごめんなさいと返信しておく。ただ文字だけというのも味気なかったので、猫の顔の絵文字も添付しておいた。
ふぅ……。
「ウィルっ!」
気を取り直して再び階段を上がり始めた俺の頭上から、元気の良い声が降って来た。
「もう! 勉強だって言ってるのに、どこ行ってたの?」
階段の上から、腰に手を当てたジゼルが俺を見下ろしていた。
「悪い」
俺は苦笑を浮かべると、スカートを揺らして階段の残りを駆け上げる。そしてジゼルと並んで教室に向かって歩き出した。
「全く、余裕よね、ウィルさんは。私たちが色々気を揉んであげてるのに」
ジゼルは片手に歴史の教科書を持っていた。
「はは……。ごめん……」
俺は苦笑いでジゼルに謝る。
聖フィーナの生徒たちは、みんなお嬢さまだけあって真面目だ。きっちり授業を受けて、しっかりテストに臨んでいる。
アオイが、そしてジゼルたちが勉強会を催してまで教えてくれたのだ。
俺もしっかりと成果を出して報いなければという思いはあったが、今の俺はバルティーニの事とジーク先生の事が気になっていて、何だか中途半端な状態だった。
ジーク先生に会えれば……。
そうすれば、色々と問題は解決するのにと思ってしまう。
「そうだ、ジゼル」
俺は隣を歩くジゼルを見た。
「ん? 何、ウィル」
ジゼルが教科書から顔を上げた。
「ジーク先生って、どこに行けば会えるかな」
俺は少し俯き、窺うようにジゼルを見た。
ジゼルは、んっと首を傾げ、疑問符を浮かべた。
「ジーク先生?」
しかし次の瞬間、ジゼルの顔に何やら邪悪な笑みが浮かんだ。
「ふふ、ぐふふふ」
教科書で口元を隠しながら微笑むジゼル。
「ついに吐いたね、ウィル。それがウィルの憧れの先生だね」
む……?
俺は眉をひそめてジゼルから目を逸らした。
……しまった。
何となく尋ねてしまったが、ジゼルはまだあの勉強会の夜の事を覚えていた。
あの夜。
ウィルの好きな人はと切り出したラミアの質問から、俺の地獄は始まってしまったのだ。
好きな人とか、そんな人はいないと質問から逃げる俺を、ラミアとジゼル、エマにイングリッドさん、それにアリシアまでもが取り囲み、執拗に追及し始めたのだ。
逃げられないと悟った俺は、苦し紛れにアオイは好きだと答えてみた。
しかしその答えに納得したのは、輝くような笑顔を浮かべたアオイと、黄色い声で騒ぎ出したエマとイングリッドさんだけだった。
そこからは不機嫌になり出したソフィアも加わり、俺に対する尋問が激しさを増した。
ジゼル曰わく、俺も年頃の乙女なんだから、憧れの殿方の1人や2人、必ずいる筈だという事なのだ。
……いや、そもそも俺は乙女じゃないし。
ならばジゼルはどうなんだと切り返してみると、顔を真っ赤にしたジゼルは不意に押し黙ってしまった。
「……主さま、かな」
そして、ぽつりとそう答えた。
一瞬の沈黙の後、みんながきゃあきゃあ騒ぎ出す。しかしジゼルが答えてしまった事で、いよいよ俺の逃げ場はなくなった。
「まさか、お祭りの夜にお食事に行かれた方とか?」
アリシアが頬に手を当てて首を傾げた。実に楽しそうな微笑みを浮かべて……。
「ロイド刑事は、ただの知り合いだ……」
俺は猫頭のぬいぐるみをぎゅっと抱きしめ、唇を尖らせて反論した。
ロイド刑事の名を口にした瞬間、アオイが魔女の顔になるのが見えた。それにソフィアまで無表情に……。
ロイド刑事、ソフィアにまで嫌われているのか。
いったい何をした。
しかし俺がみんなの意見をことごとく否定していると、とうとうジゼルがあの人だ、あの人だといろんな人を挙げ始めた。
その中の1つ。
「聖フィーナの先生でしょ!」
誰かが言い放ったその言葉に、俺はドキリとしてしまう。
……ジーク先生。
鋭い眼光とすらりとした長身。それに知識も豊富で聡明だ。いつもきっちり身だしなみを整え、自信に満ちていて、それでいて爽やかだ。それに、ジゼルを助け、俺を助け、夜会襲撃犯を捕らえてくれた。
尊敬しているし、俺が憧れている人だ。
もちろんそれは、好きとかそういうのではない。
アオイに対してそうであるように、俺が見習うべき人物だと思っているだけだ。
しかしジゼルは、俺の僅かな表情の変化を見逃さなかった。
「いるんだっ! 先生の中に、気になってる人がっ!」
悪魔の笑みを浮かべるジゼル。
そこからは、全員で犯人探しが始まった。アオイやソフィアまで加わって。
その時はジーク先生の名誉の為にも口を割らなかった俺だったが、先生の行方が気になるばかりに油断してしまった。
聖フィーナの廊下を並んで歩くジゼルが、俺を見ていた。
ニヤニヤと。
くっ……。
「……で、ジゼル。ジーク先生の居場所、知っているのか」
こうなったら、しょうがない。
俺は睨むようにジゼルを見た。
「ジーク先生ねぇ」
茶化すようにその名前を連呼していたジゼルだが、俺が怒ったように顔をしかめると、うーんと考え込むポーズを取った。
「ウィルの憧れの人だから、顔見たいけど……」
ジゼルが首を傾げる。
「私は知らないかな、その人」
む?
転校して来た俺ならまだしも、入学時からこの学校にいるジゼルが知らないのか。
「上の学年の先生かな」
俺は思いついた事を言ってみる。
「うーん、そうだね。でもエーデルヴァイスは1学年2クラスしかないし、大概の先生は顔を知ってるんだけど……」
ジゼルは眉をひそめた。そして、知らないなぁと苦笑を浮かべる。
となると、ジーク先生は一般科の先生なのだろうか。又は、教頭とか、何とか主任とか、客員教授とか、そういう特別な立場の人なのかもしれない。もしくは、音楽棟でも見かけたから、何か音楽の専門家とか、あんな高級ホテルに仮住まいがあるのだから、理事とか役員とか偉い人なのかも……。
ジーク先生、まだ若そうだが、気品というか迫力というか、ただ者じゃない雰囲気がある。まるで学生なのに伯爵なアオイみたいな……。
顎に手を当て、俺はじっと考え込む。
いつの間にか俺とジゼルは、自分たちの教室に到着していた。
ジゼルがアリシアたちとのもとへ駆け寄って行く。俺もゆっくりとその後に続いた。
こうなれば、ジゼルみたいにあの夜の話を持ち出されるのは厄介だが、ソフィアに聞いてみるのが一番確実かもしれない。
重々しい音を響かせ、予鈴が鳴り響いた。
それぞれ自席に向かうクラスメイト達に混じりながら、俺はふっと短く息を吐いて教室の窓の外に広がる冬晴れの青空をそっと見上げた。
お昼休みの聖フィーナ。
少女達で溢れ、賑やかに混み合う食堂棟の片隅に席を確保した俺とアリシアは、向かい合って座り、昼食を取っていた。ジゼルたちは何か用があるらしく、今日はアリシアと2人だけだった。
俺の前には山盛りのサラダとゴロゴロ野菜のカップスープ。それに湯気を立てるホットミルクティーが並んでいる。
今日は聖フィーナエーデルヴァイス食堂恒例のサラダバーの日だ。
この姿になる前の食事量と比べれば明らかに少ないが、しかしアリシアよりはかなり量の多いサラダを、俺はもしゃもしゃと口に運んでいた。
「あの、ウィル……」
ジーク先生と連絡が取れなくなってからもう数日が経つ。
アオイと行っている情報収集にも進展はなく、バルティーニの行方については何も進展がない状態が続いていた。
テスト勉強も大変だし……!
まったく、ジーク先生はどこにいるのだろうか。
恥を忍んで尋ねてみたが、ソフィアもジーク先生を知らないなという。やはりジーク先生は、一般の教員ではないのかもしれない。
もしくは、一般科か……。
「ウィル、えっと……」
じっと考え込んでいた俺は、力余ってフォークがカツンと皿に当たる音ではっと我に返った。同時に、目の前の席から発せられる小さな声に気が付いた。
「む。悪い、アリシア。何だ?」
俺はふうっと息を吐く。
アリシアは困ったように笑った。
「ウィル、最近なんだかご機嫌斜めですか」
「いや、別に普通だけど」
即答する俺。
もしかしたら俺のセリフは、少しぶっきらぼうに聞こえたかもしれない。
俺はブスッとプチトマトにフォークを突き立て、口に運んだ。
……確かに機嫌が良いとは言い難いかもしれない。
俺は深く深呼吸してから、意識して肩の力を抜いた。
「そうだな。テスト前で少し焦ってるのかもしれない」
あと、進まない捜査と、ジーク先生と……。
俺は軽く俯き加減に食堂棟外の庭園に視線を送った。はらりと落ちてきた髪を掻き上げ、耳に掛ける。
この鬱屈とした気分も、ジーク先生に会えれば色々と解決しそうな気がするのだが……。
「元気出してください。ファイトですよ」
「……ありがと、アリシア」
俺は心配そうな視線を向けてくる友人に、微笑みを返した。
その時不意に、懐の携帯が鳴った。
確認すると、軍警、アリスからだ。
ここで電話に出る訳にはいかない。
俺は手早くスープとお茶を飲むと、トレイを持って立ち上がった。
「アリシア、悪い。ちょっと用事だ。先に出るよ」
「あ、はい」
突然の事に驚いた様子のアリシアに謝り、俺はトレイを片付けると、足早に食堂を出た。
……アリシアには後でもう一度謝っておかなければ。
俺はそのまま食堂棟の建物も出ると、聖フィーナの校舎群の間を通る遊歩道を足早に進んだ。
雲は多くても時たま日差しの射す今日の天気は、今の季節にしては暖かい方だった。それでもコートなしに外をうろうろしていると寒かったが。
それに、夏場は豊かな草木や花々で彩られていた小径の周りも、いまや葉を落とした枯れ木とくすんだ生け垣があるだけだ。その寂しい風景が、寒々しい気候を余計に強調しているかの様に感じられた。
そんな状態では、昼休みと言えども外を歩く生徒の姿はほとんどなかった。
俺はとととっと足早に食堂棟の裏手に向かう。
そちらには、教職員駐車場と資材搬入口に面した小さな芝生の庭がある。ちょうど建物の陰になっているので、普段はあまり生徒たちが寄り付かない場所だ。
案の定、色褪せた芝生が広がるその場所には誰もいなかった。この気候では当然だろう。
俺は小走りに、その芝生の上に設えられた木製ベンチに向かった。
アリスに電話をしようと携帯を取り出した時、不意に人気のないその庭に、バタンと車のドアが閉まる音が響き渡った。
俺はさっと音の方向を見る。職員駐車場の方だ。
そちらには、いつの間にか黒塗りの立派なセダンが駐車していた。そして、そのセダンの陰から、スラリとした長身の男性が姿を現した。
「あ」
思わず声が漏れてしまう。
あれは、見間違う筈がない。
ジーク先生だ!
いた……。
ジーク先生を見つけられた安堵感で、俺は思わずふうっと息を吐いてしまう。先ほどまで俺を満たしていた陰鬱なものが、一瞬で吹き飛んでしまった。
とりあえずアリスへの電話は後にして、俺は足早にジーク先生のもとへ走った。
「ジーク先生!」
スカートを翻し束ねた髪を揺らしながら、最初は早足程度だったが、最後には突撃するような勢いで、俺はジーク先生に走り寄った。
「ウィル君」
こちらを見たジーク先生が、驚いたような顔をする。しかしそれも一瞬の事。直ぐにジーク先生は、いつもの余裕に溢れた表情に戻っていた。
「どうしたんだ、ウィル君。そんなに慌てて」
俺はジーク先生の前で立ち止まると、むうっと先生を見上げた。
胸の奥がキュッとするのは、久々に会ったジーク先生の、その雰囲気に圧倒されてしまっているからだろうか。
「あの、その、先生にお聞きしたいことがあって、探していたんです。なのに、魔術の授業は自習ばっかりだし、メールの返信も折り返しの電話もないし……。その、探していたんですから……」
とりあえずここしばらくため込んでいた不満が、口を突いて溢れ出す。
さらに抗議の意味を込めて俺は精一杯ジーク先生を睨み上げるが、何故かジーク先生は楽しそうに、その笑みをさらに大きくしてしまう。
「そうか。ウィル君、そんなに寂しい思いをさせたか。すまなかった」
ジーク先生は微笑みながら俺の頭の上にぽんと手を置いた。
大きな手。
ふわりとジーク先生の香水の香りがした。
……寂しかったわけではない。俺はただバルティーニの情報が……。
「それで私を探していた要件は何かな。いよいよ術式を行使出来るようになったかな」
俺は頭の上のジーク先生の手をどける。
「上達した自信はあります。それはまた見ていただきたいんですが……」
……む。
俺は思わず言葉に詰まってしまった。
ジーク先生と唐突に出会うことができ、思わず駆け寄ってしまったが、バルティーニの事をどういう風に切り出しすかをまったく考えていなかったのだ。
俺はジーク先生から目をそらし、必死に考える。
「あの、その……」
お腹の前で組んだ手を握ったり解いたりしながら、俺はもじもじと左右に視線を泳がせた。ジーク先生を前にして言葉が出て来ない緊張で、顔がカッと熱くなってしまう。
……くっ。
ジーク先生は多忙だ。また会えなくなる可能性は高い。ならば今この時に聞いておかなければ、次のチャンスは無いかもしれないのだ。
「あの、夜会でもお話したことなんですけど……」
俺は上目遣いにジーク先生を窺った。
「バルティーニ子爵という方にお会いしたいんです。先生なら子爵さまの連絡先をご存知かなって……」
色々と迷った挙げ句、俺はストレートにお願いをぶつけてみる事にした。
「ふむ」
ジーク先生が腕組みをする。そしていつものように鋭い光を湛える目をそっと細め、俺を見据えた。
……久々に会ったのに、不躾過ぎただろうか。
俺はさらに赤くなる顔を誤魔化すように、ジーク先生から視線を逸らした。
冷たい風が吹き抜ける。
ふわりと揺れる髪を、俺はそっと押さえた。
しばらくの沈黙の後、ジーク先生はニヤリと笑った。
「ふっ。なるほどな」
俺は、ジーク先生の顔をそっと見た。
「わかった。いいだろう。子爵の居場所についでは、至急調べさせておこう。わかり次第連絡する」
「あ、はい。はいっ! ありがとうございます!」
特に理由を詮索することもなくジーク先生が頷いてくれた事に、俺は思わず安堵の微笑みを浮かべてしまった。
もしかしたらこれで一歩、バルティーニたちに近付けるかもしれないのだ。
「ウィル君は確か、魔術に興味があって子爵に会いたいと言っていたか。ふっ、そのような貴族に頼らなくとも……」
ジーク先生が不意に腰を落とすと、ぐっと拳を握りしめて捜査の進展を噛み締めていた俺の顔を覗き込むようにして見た。
む……。
ジーク先生の顔の接近に、俺はビクリと体を震わせた。
「魔術の事なら全て、私が教えるのにな」
不敵な笑みを浮かべるジーク先生。
鋭い眼光が、至近距離から真っ直ぐに俺を射抜いた。
俺は思わず固まってしまう。
ジーク先生の目には、俺を射竦めるだけの力があるように思えた。
さすがジーク先生だ……。
うぐぐぐ。
俺はきゅっと握った手を胸に当てた。
「あの、よろしくお願い致します!」
俺は恥ずかしさと緊張でじりじりと数歩後退りし、間合いを取ると、ガバッと頭を下げた。
「あ、あの、その、もう行きます。また魔術講義も、よろしくお願いしまふっ」
……しまった、噛んでしまった。
ぼんっと顔が、さらに真っ赤に爆発するのがわかってしまう。
「ああ」
しかしジーク先生は、柔らかい笑みを浮かべて俺を見ながら頷いてくれた。
……うう。
俺はもう一度頭を下げ、さっと踵を返す。そして足早に食堂棟裏の庭園へと戻った。もう色々と恥ずかしくて、ジーク先生の方へ振り返る事が出来なかった。
バルティーニの事だけでなく、ジーク先生に会ったら色々話したいと思っていた事があった。しかし何だか慌ててしまって、全く話すことが出来なかった。
……ジーク先生の前だと、ヘルガ部長やシュリーマン中佐と話す場合より緊張してしまう気がする。
職員駐車場のジーク先生のもとから離れた俺は、木立の影に逃げ込む様に隠れると、ほっと息を吐いた。
ともあれ、バルティーニの情報の件はこれで一安心だ。
俺は自分を落ち着かせるように、数回深呼吸する。
後は……。
俺は周囲をさっと見回し、人がいないのを確認する。そして懐から携帯電話を取り出した。
アリスへ電話しないといけない。
一体なの要件だろうか。ヘルガ部長からの呼び出しとか、何かの会議とか……。
アリスは2コールで電話に出た。
「遅くなりました。すみません、ウィルです」
『ああ、ゴメンね、ウィル。授業中だった?』
「いえ、大丈夫です」
電話の向こう、アリスの背後からは、ガヤガヤとした声が聞こえる。高く響いているのは、電話だろうか。
恐らくアリスは、軍警刑事部のオフィスにいるのだろう。
『あら、随分と機嫌良さそうね。何かあったの?』
アリスが茶化すように笑った。
「いや、特に何もないです」
俺は意識して声を平板にする。
……偶然ばったりとジーク先生に会えて、少し興奮してしまっているのかもしれない。
少しだけ笑った後、アリスはふと黙ってしまった。
『一応ウィルにも伝えておいた方がいいかと思ったんだけど』
一旦言葉を切るアリス。
その声は、先程とは打って変わって緊張感を伴った真剣な調子だった。
その緊迫した雰囲気に、俺はトクンと胸が鳴るのがわかった。
……何だ?
『今朝、オーリウェル支部の作戦部宛に匿名のタレ込みがあったわ。内容はバルティーニ子爵とその仲間の潜伏先について』
俺は、はっと息を呑んだ。
目を丸くして、思わず携帯を持つ手にぎゅっと力を込めてしまう。胸の真ん中がキュッとなり、心臓がドクドクと早鐘のように脈打ち始めたのがわかった。
俺は右手で携帯を耳に当て、左手を胸の下で組みながら、携帯から流れて来るアリスの声に集中する。
『オーリウェル支部は今、緊迫幹部会議の真っ只中よ。私たち刑事部には、至急その情報の裏を取るようにって命令が出ているわ』
確かに匿名の情報という点が怪しいが、バルティーニ子爵に関する情報は今まさに軍警が欲していたものだ。
偶然や単なるいたずらだとは考えにくい。
『ウィルには、場合によっては非常召集というのもあり得るわ。だから一応知らせた方がいいと思って。私とイーサンもこれから出掛けるから』
電話の向こうでアリスを呼ぶ声が聞こえた。バートレットの声だ。
「アリス、どこへ行くんですか……?」
そう尋ねた俺の声は、少し掠れてしまっていた。
『南へ』
アリスは淡々と告げる。
『南部のルストシュタット近郊の古城に、バルティーニを含めた複数の魔術師が潜伏しているらしいの』
久々にジーク先生と会えたのだが、その日の魔術講義は中止になってしまった。学校が終わると俺は、直ぐに軍警オーリウェル支部に向かう事になったからだ。
昼休みにアリスから電話をもらって後、午後の授業の間中俺は、支部に向かうべきかどうかを考えていた。
未だ軍警から俺に正式な出頭命令は来ていなかったので、こちらから出向いても特に意味はないかも知れない。幹部会議や裏付け捜査中ならば、俺の出る幕はないだろうし。
しかしちょうど6限の授業が終わったタイミングで、ジーク先生から連絡が来た。
内容は、俺が依頼したバルティーニの居所について。
さすがジーク先生だ。仕事が素早い。
ジーク先生が教えてくれたバルティーニの居場所。
それは、南部の都市ルストシュタットだった。
その回答を得た俺は、携帯電話を耳に当てながら思わずニヤリと笑ってしまった。
軍警にもたらされた匿名の情報。
ジーク先生が調べてくれた情報。
それらが一致する。
つまりそれは、バルティーニがルストシュタットにいるという情報の確度の高さを示している。
俺はこのことを軍警に報告するため、ジーク先生に謝って謝って魔術講義をお休みさせてもらい、オーリウェル支部に出頭することにしたのだ。
軍警オーリウェル支部の内部は、慌ただしい雰囲気に包まれていた。
刑事部のフロアは捜査官たちが忙しなく行き来し、電話のコール音が引っ切り無しに響きわたっていた。
そんな中で、聖フィーナの制服姿で学生鞄を手にした俺は、明らかに場違いな存在だった。挨拶してくれる捜査官もいたが、邪魔だと言わんばかりに睨まれてしまう事もあった。
捜査官の中には、俺の事を知らない余所の支部の捜査官も混じっている様だった。
バートレットやアリスはまだ不在だったので、俺はジーク先生の情報を報告すべくヘルガ部長のもとへ向かった。
しかしヘルガ部長もまた、不在だった。
どうやらまだ幹部会議がまだ続いているみたいだった。
会議が終わるのを待つしかないかと思っていたが、幸運にもヘルガ部長の秘書官さんが、会議中の部長に取り次いでくれた。
秘書官さんは俺の事情や現在の任務について知っている。俺が急ぎ報告に来たというその意味について、察してくれたのだろう。
そうして俺は、聖フィーナの制服姿のまま、軍警オーリウェル支部の重鎮たちが居並ぶ幹部会議の場に出る事になってしまった。
突然の事に、緊張でお腹がきゅっとなる。
ジーク先生と対した時は胸がきゅっとなったが、先生と対するのとはまた別種の緊張感が俺を包み込んでいた。
幹部会議室が行われているのは、オーリウェル支部の幹部棟大会議室だった。この場所を訪れるのは、今のこの姿になった直後に開かれた聴聞会以来だ。
会議室には、エルンスト・ギュスターヴ支部長以下、ヘルガ部長やシュリーマン中佐はもちろん、教導部長や政務部長、その次席クラスの軍警オーリウェル支部の幹部たちがずらりと集合していた。
「失礼致します」
幹部たちの視線が突き刺さるのを感じながら俺は敬礼する。
……何だか聖フィーナの制服の場違い感が凄い。
「ウィル・アーレン。火急の報告とはなにかしら」
今日は萌葱色のスーツ姿のヘルガ部長が、じろりと俺を睨んだ。
「はい。バルティーニの潜伏先に関する情報を得たので、取り急ぎご報告に参りました」
俺は幹部たちのプレッシャーに屈しないよう、腹から声を出すように意識する。
ヘルガ部長に視線で先を促され、俺は報告を続けた。
「ある魔術師から得た情報によりますと、バルティーニ子爵は南部の都市、ルストシュタットに潜伏しているとの事です」
俺の言葉に、会議室内がざわめいた。
「……それは、エーレルト伯の筋からという事で良いのかしら」
ヘルガ部長が目を細め、俺を見据えた。
その迫力に思わず後退りそうになるのを必死でこらえ、俺は頷いた。
正確にはアオイからの情報ではないが、聖フィーナの関係者であるジーク先生からの情報だ。貴族級魔術師筋からの情報という点では同じだし、アオイに付いて聖フィーナに入っていなかった得られない情報でもある。
「ヘルガ部長の先見の明のおかげですな。さすがだ」
シュリーマン中佐が柔らかな笑みを浮かべ、ヘルガ部長を見た。
「魔術師側から得られた貴重な情報だ。アーレン君をエーレルト伯の元に送り込んだ甲斐があるというものですな。いやしかし、これで決まりだ」
「作戦部長」
対してヘルガ部長の表情は険しいままだった。
「しかしここは、軽率な行動は控えるべきです。刑事部の捜査経過を……」
「もちろん承知しております。しかし、作戦発動に備え、準備はすべきだ。具体的に動き出すに足る根拠は、アーレン君のもたらした情報からも十二分あると判断できる」
シュリーマン中佐がふっと笑みを消した。
「今こそ魔術師殲滅に向け、軍警の総力を挙げて動くべきです」
先ほどまでの柔らかな口調とは違う、シュリーマン中佐の冷徹な声が会議室内に響き渡った。
中佐の目がギロリと光った気がした。その迫力に、俺は内心びくりとしてしまう。
シュリーマン中佐の意見に、他の幹部の間からも賛同の声が上がった。
「作戦部としては、前回のディンドルフ男爵制圧戦を踏まえ、他支部と連携した上で魔術師どもを撃滅する準備がある」
シュリーマン中佐が薄く微笑み、俺を見た。
その笑みは、普段の温厚そうな中佐のものではない。
獲物を前にしたハンターの顔だった。
ヘルガ部長が大きく溜め息をついた。
「よし」
刑事部長と作戦部長が沈黙した所で、ギュゥターヴ支部長が重々しく頷いた。
「バルティーニ子爵並びに魔術師テロ容疑者の動向には細心の注意を払う必要がある。制圧作戦も考慮し、各部準備を開始して欲しい。刑事部は引き続き対象の動向把握捜査を。作戦部長は制圧作戦のプランを提出してくれ」
支部長が居並ぶ幹部たちを見渡した。
「では諸君、全力で任務に当たって欲しい」
幹部達が一斉に起立し、支部長に敬礼した。俺もそれに倣い、踵を合わせて敬礼する。
立ち上がった支部長が答礼すると、幹部会議はそこで一旦終了となった。
支部長が秘書官を伴って退室すると、各幹部も手元の資料をまとめ、自分の部署に戻り始めた。
先ほどまで静まり返っていた会議室が、俄かに賑やかになる。
魔術師制圧作戦に向け、軍警が動き出す。
これより、シュリーマン中佐が言っていた大規模作戦が発動されるのだ。
……今度はこちらから、魔術師テロリストに対して攻勢を仕掛ける。
今度こそ俺は……。
様々な思いが渦巻く胸中を落ち着かせるために、俺は握り締めた両手にさらに力を込めた。
「ほほほ、ウィル君。こちらに」
ミルバーグ隊長たちと集まったシュリーマン中佐が、俺を呼んだ。
「はい!」
俺は大きく返事をすると、ふわりとスカートを揺らして、中佐たちのともとへと駆け寄った。
少し長くなりましたが、読んでいただきありがとうございました!




