Order:53
しんと静まり返った聖フィーナ学院の職員棟最上階、小会議室。
会議用の長テーブルの上で丸く広げた俺の手の中には、ふよふよと揺れる魔素の光球があった。
最初は豆電球程度だった光も、手の空いた時には必ず行うようにしていた自主練習とジーク先生の指導のおかげで、最近は卵大の光の球を作り出せるようになっていた。
失敗も減ってきた。
偶然やまぐれではなく、意識して魔術を操れるようになってきている。
そんな着実に上達出来ているという手応えを、俺自身も十分に実感する事が出来ていた。
もっとも、強く集中するせいか、魔術の鍛錬をした後は強い疲労感に襲われてしまうのだが……。
そんな達成感は、さらなる鍛錬へのやる気に直結する。
そろそろ次の段階に行けるだろうか。
実際の、術式の行使に。
そんな事を考えながらジーク先生の方へ目を向けた瞬間、ぶぶっと微かに携帯が振動する音が聞こえた。
壁にもたれ掛ってたジーク先生が、スーツの懐から携帯を取り出して体を起こした。
「すまない。少し外す」
「あ、はい」
ジーク先生が携帯を見ながら、大股で会議室を出て行ってしまった。
俺はその背中をむうっと眉をひそめて見送る。
ジーク先生、最近はやたらと忙しそうだ。
今日の魔術講義にも遅れて来たし、ここしばらくはその魔術講義も自主練になることが多かった。好意で指導してもらっているのだから文句を言える筋合いではないのだが、何だか少し置いてけぼり感が……。
「ウィル君」
「は、はい?」
突然戻って来たジーク先生に、俺はピクリと肩を震わせた。同時に、手の中の光が一瞬で霧散してしまった。
俺は肩を落とし、短く溜め息を吐いた。
「すまないが、用事が出来た。ここで失礼する」
「あ、はい。ありがとうございました」
俺は立ち上がり、ぺこりと頭を下げた。
ジーク先生がふっと爽やかな笑みを浮かべて手を上げると、颯爽と立ち去って行く。
俺はやはり溜め息を吐いて、どかりと椅子に腰掛けた。
例え先生がいなくても、鍛錬は続けなくてはならない。今はできる限り鍛錬を積んで、シュリーマン中佐が言っていた来たるべき大規模作戦に備えておかなければならないのだ。
……いざという時、何かがあった時に、しっかりと動けるように。
俺も刑事部の捜査に参加させて欲しいという申し出は、残念ながらバートレットに断られてしまった。もちろん、ヘルガ部長に直談判してみたが、そちらでも却下されてしまった。
実際の捜査は刑事部の捜査官の仕事。俺は俺の任務を果たすように、と言われてしまったのだ。
俺の任務。
つまり、アオイに付き従い、護衛することだ。
しかしそれは、結局はアオイと生活し、聖フィーナに通うといういつも通りの生活を意味する。
バルディーニ子爵らの脅威を目の当たりにした今、本来なら俺は、その命令に反発していた事だろう。
俺にもきっと出来る事があるはず。
今はじっと待機している時ではない、と。
しかしシュリーマン中佐と話をしてみて、思い出す事が出来た。
俺には俺の立場でしか出来ない事があるのだという事を。
俺は今、アオイと一緒にいるのだ。
アオイという魔術師と一緒にいるからこそ出来る事もある。それに、聖フィーナでジーク先生や他の魔術師と一緒に過ごす事で、分かってくる事もあるはずなのだ。
そんな事は十分わかっていた筈なのに、魔術犯罪者たちが再び暗躍しているのを目の当たりにして、どうやら俺は焦ってしまっていたみたいだ。
現在俺は、アオイの人脈を利用させてもらい、バルティーニ子爵や禁呪についての情報を集めている。そして早急に魔術を会得し、力をつけるために、ジーク先生の魔術講義に集中していた。
「光……!」
再び体内の魔素に意識を集中させて、俺は短く詠唱する。
卵大の光球が、手のひらの上にぼうっと灯った。
もっと……。
もっと明るく、大きく……!
俺はジーク先生に見せてもらったあの光をイメージしながら、ギリギリと力を込めていく。
光は少しずつ大きくなり始め、やがて俺の掌からふわふわと上昇し始めた。
ジーク先生みたいに、このまま光の球を自在に操る事が出来れば……。
そう考えて、球体のイメージから流れる光のイメージに力を転換しようとした瞬間。
ふっと、魔素の光は霧散してしまった。
「はぁ……」
俺はガクッと肩を落とし、椅子の背もたれに体を預けた。
「はぁ、はぁ、はぁ」
俺は荒い息を落ち着かせようと大きく息を吸い込む。額を拭うと、いつの間にかびっしょりと汗をかいていた。
額だけでなく、全身汗まみれだ。胸元には、べったりと制服のシャツが張り付いていた。
「はぁ、はぁ、はぁ」
まるで長距離を走った後のように、体全体がずしんと重い疲労感に支配される。
汗をかいている筈なのに、何だか寒いし……。
ゆっくりと呼吸を整えながら、俺は少し落胆していた。同時に、じりじりとした焦燥感も覚えていた。
たかが魔素の光を出しただけでこの有り様なら、戦場で誰かを守れるような実戦的な魔術を使う事など出来るのだろうか。
アオイはもちろん他のごろつき魔術師だって、火球の術式を乱射してくるのだ。
もしかして、というか、やはり、魔素適性はあっても、俺に魔術の才能はないのではないだろうか……。
俺はそっと目を瞑る。
……いや。
才能がどうとかではないのだ。
俺は誰かを守るための力として、魔術を学ぶ。
誰かを理不尽な暴力から守るには、魔術の力は必要なものなのだ。
よし……。
俺は目を開くと、んっと胸を張りながらもぞもぞと聖フィーナのブレザーを脱いだ。ネクタイも外して、襟元のボタンも外した。そしてシャツの袖を捲り上げ、腕まくりすると、もう一度光の球を生成する態勢に入った。
もう一度だ。
いや、何度も何度でも、頑張るんだ。
ジーク先生の魔術講義の後、お屋敷に戻った俺は、早めの夕食を手早く済ませると、アオイと合流して情報収集に出掛ける。それがここ数日の日課になっていた。
その時点で俺は、鍛錬の影響でもうへとへとなのだが、もちろん魔術の事は未だにアオイに秘密になっていたから、疲れた顔を見せる事は出来なかった。
一度市内の魔術用品店を回っていた時に、「どうした、ウィル。顔が真っ青だぞ」と言われてしまった事はあったけれど……。
俺とアオイは情報収集のために様々な場所を回ったが、残念ながら現在まで、バルティーニに至る有力な手掛かりは掴めていなかった。
しかし1つ気になったのは、オーリウェルの裏社会を牛耳る犯罪組織、グリンデマン・ゲゼルシャフトから得た情報だ。
俺としては、マフィアなどに頼りたくはなかった。しかし今は、手段をえり好みしていられる状況ではない事も承知している。
ボスであるゲオルグ・グリンデマンの話によると、どうも最近、市内に存在するごろつき魔術師集団の幾つかが、オーリウェルを出ているというのだ。
この動きに何か目的があるのかは、わからない。しかしディンドルフ男爵戦でも、裏で暗躍していたあの鎧は、ごろつき魔術師集団を誘導して軍警部隊にぶつけるという手段を用いていた。
この情報を無関係だと断じる事は出来ない。
そのため俺は、時間が十分にある週末は、このごろつき集団の動向を探るという線で動こうと考えていた。
もちろんこの事は、軍警にも一報を入れておいた。アオイからの情報ということで。
もしかしたら、不良グループの関連ならロイド刑事からも情報を得られるかもしれない。
金曜日の夜になって、俺はそんな週末の活動方針をアオイに相談してみた。
「ダメだ」
執務室で伯爵の仕事をしていたアオイは、すっと顔を上げ、俺の提案を即座に却下してしまった。
あまりの一瞬の出来事に、俺はポカンとアオイを見返す事しか出来なかった。
「明日のお休みはジゼルさんやアリシアさんたちが来る事になっている。ウィルの為に勉強会を開いてくれるそうだ」
広げた書類の上に肘を突き、手の上に顎を載せたアオイが、俺を見上げてふふっと微笑んだ。
……む。
俺はきゅっと眉を寄せた。
そういえばそんな話があった。すっかり立ち消えになったと思っていたが……。
……むむ。
もしかしたら、反応の良くない俺に業を煮やしたジゼルあたりが、アオイを巻き込んだのかもしれない。
「しかしアオイ……」
俺は声を低くして切り出した。
「今はそんな事をしている場合じゃ……」
「ダメだ」
俺の抗議が、またもや一蹴されてしまう。
「ウィル。最近頑張りすぎではないか。体調もあまり良くないだろう」
アオイの指摘に、ドキリとした。
確かに日々の魔術鍛錬で積み重なった疲労が、俺の体の奥にドカンと重くのしかかっている。この疲労感は中々消えてくれず、ずっと続いていた。
「休息も備えの内だ」
……アオイの言う通りだ。
「それに、ふふ。私の可愛い騎士殿が、テストで落第点では、姉さん、悲しいぞ」
俺を見上げながら悪戯っぽく笑うアオイ。
俺は小さく息を吐き、体の力を抜く。そして、ふっと苦笑を浮かべた。
そういえば最近、気が付くとアオイがじっとこちらを見ている事が良くあった。それもアオイにしては珍しい、不安そうな表情をして。
きっと魔術鍛錬や情報収集活動、それに増量した体力トレーニングで疲れ切っている俺の事を見抜いていたのだろう。
アオイは何でもお見通しだ。そんなアオイにいつも気を使わせてしまう自分が不甲斐ない……。
これでは本当に、姉に面倒を掛けている妹みたいだ。
アオイはもちろん、俺の事を気に掛けてくれるジゼルたちの好意を無駄にする事には抵抗感があった。それに、このまままた風邪でも引いて体調を崩しては、本末転倒でもある。
……1日だけならば。
不思議と俺は、そう思えてしまった。
それにアオイ姉さん。こうなってしまっては、頑として自分の意見を曲げないだろうし。
俺はふわっと微笑み、コクリと頷いた。
「……わかった。悪いな、アオイ」
アオイははらりと落ちる黒髪を掻き上げ、俺の謝罪を受け流す。
「ウィルの勉強会、もちろん私も参加するけれどな」
「うん。よろしく頼む」
静かな冬の夜の執務室で、俺とアオイは静かに笑いあった。
翌日の土曜日。
お昼過ぎになって、ジゼルたちがエーレルト邸にやって来た。
白のセーターにジーンズといったラフな格好の俺は、少し長めの袖口をぎゅっと握り込みながらぱたぱたと走ってエントランスホールへと降りると、みんなを出迎えた。
既にアレクスさんが迎え入れてくれていたのは、ジゼルにアリシア、エマにラミア、それにイングリッドさんというお馴染みのメンバーたちだ。
「やっほー、ウィル」
「あ、ウィル。お邪魔します」
俺を見つけたジゼルが元気良く手を上げ、アリシアがぺこりと頭を下げてくれた。みんなもそれぞれ挨拶してくれる。
「あ、うん。いらっしゃい……」
しかし俺の意識は、ジゼルたちの後ろに控える金髪の女性に向いてしまっていた。
目が合う。
にっこりと微笑んだのは、俺の古馴染みにして聖フィーナの音楽教師。ソフィアだ。
む。
なぜソフィアが……。
「何をしている、ウィル。皆さんをお部屋にご案内しなければ」
背後からアオイの声がする。
はっとした俺はアオイを一瞥してから、みんなの方を向いた。
「俺の部屋で勉強しよう。こっちだ」
俺は困惑しつつも、みんなを2階の俺の部屋へと案内し始めた。
みんな口々にエーレルト邸の感想を言いながら、廊下を進んでいく。エマやイングリッドさんがアオイを取り囲み、何やら楽しげに笑い合っていた。
そんな中、俺はそっとソフィアに並んだ。
「何でソフィがいるんだ?」
俺は隣の古馴染みに、小声で問い掛けた。
「あら。勉強会するなら、先生がいた方がいいでしょ」
ソフィアは悪戯っぽく微笑んだ。
それでも俺が半眼で睨んでいると、ソフィアはそっと顔を近付けて来た。さらさらとした金髪がはらりと揺れる。
「お泊まり会するらしいじゃない。聞いたわよ」
今度はソフィアが俺を睨んで来る。
「ウィルが女子生徒たちと一緒にお泊まりだなんて、その、ウィルバートのあね……保護者として、見過ごす事なんて出来ないんだからね」
ソフィアの迫力に一瞬気圧された俺だが、何とか踏み止まってソフィアを見つめ返した。
……しかし、ウィルバートという名前の響き、久々に聞いたなと思う。
「大丈夫。エーレルトさんには話を通しておいたわ。壮絶な戦いだったけれど……」
ソフィアが少し暗い顔をして呟いた。
「ウィルが自覚をもって行動してくれたら、私はきちんと勉強教えてあげるから。頑張りなさい」
一転、ソフィアは明るくにっと微笑んだ。
まぁ、ソフィアが教えてくれるなら、しっかり勉強出来るだろう。専門は音楽だが、昔から頭もよかったし。
しかし、ソフィアの心配は、杞憂だと思うのだが……。
取りあえず俺は、よろしくと頷いておく事にした。
俺の部屋には、急遽テーブルが運び込まれていた。もとからあったものとつなげて大きなテーブルを作り、そこでみんなで勉強する事となった。
ソフィアはテレビの前のソファーに腰かけ、教材の準備を始める。アオイは俺の書き物机の前に陣取っていた。
エマやイングリッドさんは、俺の部屋に興味津々といった様子だった。ラミアは勉強そっちのけで、どーんという掛け声と共に俺のベッドにダイブしていた。アリシアが柔らかく、優しくそれをたしなめている。
各自ノートや教科書の準備をしていると、きょろきょろとしていたエマが、意を決したかのように真っ赤な顔をして、突然「はいっ!」と勢い良く手を上げた。
みんながエマに注目する。
何、と俺が先を促すと、エマは俺と俺のベッドを交互に見た。
「あ、あの、ウィルさんはエーレルトさまと一緒に、こ、ここで休んだりするんですかっ!」
恥ずかしそうに、しかし興奮を抑えられないといった様子のエマ。何故かイングリッドさんも、眼鏡の奥の目をキラキラと輝かせて俺に期待の眼差しを向けてくる。
む……?
俺は質問の意図が分からず、小首を傾げる。
まぁ、アオイの方からベッドに潜り込んで来る事は多いが……。
そう答えようとした俺は、びくりとして固まってしまった。
ソフィアが、物凄い顔でこちらを見ていた。
……おっかない。
……極めておっかない。
「もちろん一緒に寝る事はある。私たちは仲良し姉妹だからな。ウィルは柔らかくて温かいんだ。良い匂いもするしな」
答えあぐねている俺の代わりに、書き物机の椅子の上で長い足を優雅に組んだアオイが、爽やかな笑顔を浮かべ、当たり前だと言わんばかりの口調でそう答えてしまった。
エマとイングリッドさんが悲鳴のような甲高い歓声を上げた。アリシアが顔を赤くする。
背筋にぞくりとしたものを感じて、ギリギリと機械人形の様に振り返った俺は、最早無表情となったソフィアが手招きしているのを見てしまった。
「……言わんこっちゃない」
ソフィアの低い声が聞こえる。
……気が付いていない振りをしよう。
俺は尚もそんな下らない話題を続けようとする周囲を無視して、問題集に取り掛かる事にした。
今日は勉強会なのだ。勉強をしなければいけないのだ。
定期試験に向けた俺の勉強会は、こうしてとにかく賑やかに始まった。
みんな一応教科書やノートは広げていたが、切れ間なく続くおしゃべりはあっという間に明後日の方へと脱線してしまう。
しばらくすると、メイド服姿のレーミアが、カートを押してお茶とお菓子を持って来てくれた。
銀髪にちょこんとヘッドドレスを乗せてお茶を入れてくれるレーミアに、アリシアが可愛い、可愛いを連呼する。するとジゼルが、自分だって現役女子高生メイドなのにっと唇を尖らせた。
お茶とお菓子と明るい笑顔が、ふんわりと部屋の中に満ち渡る。
その後も勉強しながら、しかし勉強よりもより熱心におしゃべりが続いた。
ジゼルやラミアが冗談を言い放ち、エマやアリシアが耐えきれないという風に笑ってしまう。俺はうんうんと相槌を打ちながら話を聞き流していたつもりなのだが、ふと気が付くと手を止めてみんなのおしゃべりに参加してしまっていた。
その度に、いけない、いけないと、勉強に戻るのたが……。
アオイも俺たちのおしゃべりに加わり、最初は複雑そうな顔で俺を見ていたソフィアも、アリシアに話を振られ、いつの間にか俺たちと一緒になっておしゃべりに参加していた。
ラミアがぼそりと歴史の先生の物真似をした瞬間、俺は思わずぷっと吹き出してしまった。
少女たち明るい笑い声が弾ける。
ペンを置き、ひとしきり笑った後で、その笑い声の中に自分の声も混じっていることに、俺ははたと気が付いてしまう。
鈴の音のような軽やかな少女の笑い声。
俺の声……。
笑う。
苦笑や愛想笑いでなく、こんな大人数で何も考えずに笑い合えるのは、いつ以来だろう。
昔は、俺だってこれが当たり前だったのだ。学校で家庭で、友達と家族と、こうして楽しく過ごしていたのだ。
それが変わってしまった。
あの日。
あの瞬間に。
俺から全てを奪い去ったあの魔術テロの日を境に、何もかもが変わってしまった……。
以前の俺ならば、例え休暇であっても、こんな風に明るく楽しく過ごす事は出来なかっただろう。そんな余裕は、全くなかった。ただただ、魔術犯罪者と戦い、魔術師を殲滅する事ばかりを考えていた。それしか見えなかったのだ。
だから周りが、例えばソフィアが気を使っていてくれても、俺は気付くことが出来なかったのだ。
でも今は違う。
不意に、俺の頭がぽんっと叩かれた。
振り返ると、丸めた数学のプリントを手にしたソフィアが立っていた。
「もう、みんな。いい加減にする。ほら、勉強するんでしょ。あんまりしゃべってないで、集中、集中」
プリントでぽんぽんと手を叩くソフィア。
みんなもひとしきりおしゃべりして満足したのか、「はーい」と長い返事をしながら、自分のノートの前に戻った。
俺はそっとソフィアを見上げた。
ソフィアは見つめる俺を、怪訝な顔で見下ろす。
無性にソフィアに何かを伝えたくなって、しかし照れくさくて言い出せない。
……俺は変わったんだと思う。
再びこうして笑い、休日を過ごす事が出来るくらいには。
その自覚は嬉しくもあり、少し切なくて、恥ずかしくもあった。だから俺は、照れ隠しのようにふわりと微笑み、ふと思い付いた事を口にしてみた。
「先生してるソフィは、何だかかっこいいな」
一瞬の間の後、ソフィアの顔が真っ赤になった。そして、まるで待ち伏せ攻撃を食らった隊員の様に、フルフルと震え出した。
ソフィアはぷいっと俺から顔を背けると、さっとテレビ前のソファーに座り込んでしまった。
む……?
視線を戻すと、みんながニヤニヤしながら俺を見ていた。
む……?
「ウィル、ウィル。数学ならば私がじっくりと教えてあげよう」
そこに、さらにアオイが割り込んで来た。
「ふふ、いつもの夜みたいにじっくりと、な。さぁ、ウィル、こちらに」
アオイが腰掛けている椅子から半分だけお尻をずらして、空いた隣をぽんぽん叩いていた。
……いや、いつもそんな事していないし。
テーブルで顔を突き合わせるか、2人でベッドでごろごろしながら勉強しているだけだ。
「よ、夜!」
「エーレルトさまとの夜!」
また爛々と目を輝かせたエマとイングリッドさんが、同時に声を上げた。
その瞬間、俺は背筋に冷たいものが流れ落ちるのを感じた。
恐る恐る振り返ると、ソファーの背もたれから半分だけ顔を出したソフィアが、半眼でじっと俺を睨み付けていた。
……おっかない。
ジゼルがくすくす笑い出し、アリシアも口元に手を当てて笑い出した。やがて室内は、再び笑い声に包み込まれる。
結局、肝心の勉強は、なかなかすすまない。
みんなで賑やかにすごす時間は、あっという間に過ぎ去ってしまう。
ソフィアの監督もあって何とか勉強を進めつつも、気が付くといつの間にか夕方になり、夜になってしまっていた。
みんなで食べる夕食は、何だかいつもよりさらに美味しく感じる事が出来た。いつもはアオイと俺、レーミアとアレクスさんだけの静かな食堂が、今日はまるで聖フィーナの食堂棟のように賑やかだった。
夕食が終わると、みんなでお風呂に入る事になった。
もちろん俺は別行動で、こっそりアレクスさんたち使用人さんのお風呂を使う事にした。
普段からアオイやレーミアと一緒に生活し、聖フィーナに通っていると、ついついみんなと一緒に行動してしまいそうになる。
みんなについて大浴場に向かおうとした俺を、ソフィアが睨みつけるというアクシデントも発生してしまったが……。
「……言わんこっちゃない」
ソフィアにはまたそう言われてしまった。
ジゼルやアオイは、俺が一緒にお風呂に行かない事にぶつぶつと文句を言っていたが、何とかそれをやり過ごし、無事にお風呂を済ませたその湯上がり。
パジャマに着替えて皆よりも先に自室に戻った俺は、簡単に髪を乾かしながらベッドの上に座り込んだ。
クッションに身を預けながら素足を伸ばし、今日みんなで作った頻出英単語の単語帳をパラパラとめくり始める。
みんながいる時はあんなに賑やかだった室内が、耳に痛いほど静かだった。単語帳を捲る紙の音と、俺の静かな息遣いだけが微かに響く。
わいわい騒ぎながらも、みんなこうして俺の勉強に協力してくれたのだ。この単語帳は、その成果の1つに過ぎない。
俺の学生という身分は仮初めのものでしかないけれど、ジゼルたちみんなは、俺にとって掛け替えのない大切な友人となっていた。
俺は俺として、彼女たちに報いる事ができる様、全力を尽くして行かなければならないと思う。
勉強においてはもちろんだが、犯罪者との戦いにおいてもそうだ。
彼女たちが、俺や他の被害者のような悲しい思いをしないために……。
明日からまた、バルティーニの動向を探る情報収集だ。
頑張ろう。
何だか、魔術犯罪者や理不尽な暴力と戦う理由が、また1つ増えた気がした。しかしこれは、俺に力を与えてくれる理由だ。
不意にノックの音が響いた。
返事をすると、俺と同じデザインのパジャマを着たソフィアが戻って来た。
「早かったな。みんなは?」
ソフィアの輝くような金髪はまだ濡れていた。しっとりとした髪を無造作に背中へ流すソフィアは、普段より少し子供っぽく見えた。
「もうじき来ると思うけど」
首に巻いたタオルで丁寧に髪を乾かしながら、ソフィアは俺のベッドに腰掛けた。
ソフィアがそっと目を細めて俺を見る。
「それはそうとウィル。さっきの事もだけど、ちゃんと自分の置かれている立場を自覚して行動するのよ」
ソフィアが難しい顔で俺を睨んで来る。
「ウィルは、ウィルバートなんだから。わかってるよね?」
その真剣な眼差しに、俺は身を起こして座り直した。
体を起こし、ぺたんと足を広げて座りながら、猫頭のぬいぐるみを膝の上に乗せ、キッとソフィアを見つめ返す。そしてコクリと頷いた。
俺は俺。
もちろん、そうだ。
アオイやジゼルたちと一緒に過ごしていても、俺は軍警の隊員なのだ。休日を楽しく過ごせる余裕を持つことが出来る程変わったとしても、そこは譲れない所だ。
ソフィアの言う通り、その自覚を常に忘れてはならない。
さすがソフィアだ。
俺の大切な所を、きちんと見抜いている。
俺はふわりとソフィアに向かって微笑む。
「う……。ウ、ウィルはウィルバートなんだからっ……」
しかし何故かソフィアは、焦った様にじりっと後退してしまった。少し顔を赤くして。
……しかし、俺の置かれている立場か。
アオイと行動を共にし、聖フィーナに通い、魔術を習い、ジゼルたちと勉強して……。
アオイを頼る以外に、俺の立場を利用してバルディーニの捜査に役立てられるものはないだろうか。
他に、何か……。
……ん?
「ウィル、どうしたの?」
ソフィアが問いかけて来るが、俺は一瞬閃いた考えを手繰り寄せようとじっと思考に集中する。
そういえば、聖フィーナの学園祭。あの夜会の日。
慣れない場に困惑していた俺を、ジーク先生が助けてくれた。あの時ジーク先生は確か、バルティーニを俺に紹介してくれると言っていた筈。
ジーク先生は顔が広そうな口ぶりだった。もしかして、バルディーニの行方について、何か手掛かりになる事を知っているかもしれない。
……ダメもとで当たってみるか。
「おまたせー」
その時、俺の思考を遮断するかの様な勢いで、かばっとドアが開いた。
それぞれパジャマ姿の少女たちが、わいわいと賑やかに部屋に戻って来た。ふわりとシャンプーの甘い香が漂って来る。
「では、もうひと頑張り。お勉強しましょうか」
ふんわりとウェーブの掛かった色素の薄い金髪を揺らして、アリシアが微笑んだ。
「えー。夜だよ。みんな一緒だよ」
どかりと椅子に腰掛けたジゼルが、唇を尖らせた。あれだけおしゃべりを続けたのに、ジゼルはまだまだ元気そうだ。
「ふふん、夜は長いよ。じっくり語り明かそうぜ」
ジゼルは悪戯っぽく微笑む。
アリシアが困ったように笑った。
エマもイングリッドさんもソファーや椅子に腰かけ、思い思いにくつろぎながら、夜の時間はあれをしよう、これをしようと話始めた。
何をするでもない、ただみんなと過ごすこのまったりとした穏やかな時間が、何だか無性に心地よかった。
俺は目を細め、みんなを見る。自然と、微笑みを浮かべながら。
ラミアが俺のベッドに寝転がり、転がりながら俺とソフィアのもとまでやって来た。
「えーと。みんなで過ごす夜のトークテーマと言えばこれ。ウィル。ウィルさんには今、好きな人はいるんでしょうか」
ラミアがクリクリとした目で俺を見上げる。ニヤニヤとした笑顔を浮かべたみんなが、俺に注目する。
「……は?」
俺は目を丸くしてきょとんとしてしまう。
冬の暗くて長い夜は、まだ始まったばかりだった。
読んでいただき、ありがとうございました!




