Order:48
蛍光灯の明かりが照らし切れない広い空間に、濃い硝煙が漂う。マズルフラッシュの煌めきがパッと広がる度に、強烈な音圧を振りまいて銃声が響き渡った。
そんな訓練棟の射撃レンジに俺は立っていた。イヤーマフに防護ゴーグルを装備し、愛用のハンドガンを構えながら。
遠く離れたターゲット用紙の真ん中にすっと狙いを定め、トリガーを引く。
発砲の反動が、体中を駆け抜ける。
手の中で暴れるハンドガンを抑えながら、俺は次々と9mm弾を放つ。
弾丸を撃ち尽くすと、スライドが後退して停止した。
俺はイヤーマフを取り髪を掻き上げながら、ふうっと息を吐いた。
ターゲット用紙を取り寄せて手元で確認しなくても、命中制精度があまり良くないのはわかっていた。もちろん外すなんて真似はしていないが、集弾状況はよろしくないだろう。
俺はハンドガンのグリップの感触を確かめるように握り直しながら、そっと背後を窺った。
短めのスカートに柔らかそうな白のニット、それに薄手のコートを羽織ったアオイが、長い足を組ながらベンチに座り、俺に向かってひらひらと手を振っている。
……いまいち射撃に集中出来ないのは、この美人の姉さんにじっと見られているからに違いない。
軍警オーリウェル支部訓練棟の射撃レンジは、もちろん本来ならば民間人の部外者が立ち入って良い場所ではない。しかし、アオイがヘルガ部長の秘書官さんに案内されてここに来たという事は、少なくともヘルガ部長の許可は下りている訳だ……。
今朝、俺が訓練のために軍警へ行って来ると告げると、アオイも一緒に行くと付いて来てしまった。
アオイはヘルガ部長に何か用があるとか言っていたが、俺は内心ドキリとしていた。
ジーク先生に魔術講義を受けるようになって数日が経つが、俺は相変わらずその事をアオイに告白出来ないでいた。聖フィーナは未だに夜会襲撃事件の関係で休校中だったので、俺は軍警の捜査だ、訓練だと偽って、ジーク先生のところに通っている状態だった。
アオイが一緒に軍警に行くと言い出した時、それを感づかれてしまったかと思ったのだ。
もっとも、今日は俺も本当に射撃訓練に行くつもりだったし、軍警に到着したアオイは直ぐに俺と分かれて部長のオフィスへ向かったので、ヘルガ部長への用事というのも本当の事だったのかもしれない。
俺が魔術を習うという事。
初回講義の夜、ベッドの上で短く言葉を交わした以降、俺とアオイはその事について全く触れていなかった。
ジーク先生の講義を秘密にしている俺は、俺の魔術習得を拒絶したアオイのあの態度の原因を尋ねる事が出来なかった。
アオイも、あえてその話を蒸し返したくはないようだった。
軍警からの情報だと、今のところ魔術犯罪者が動いている気配は無いようだ。それに学校も休みだ。ならば、魔術習得も含めて今の内に大いに訓練を積んでおきたいと俺は考えていたが、どうもすっきりと出来ない状態が続いている。
俺はふっと息を吐き、苦笑にも似た笑みを浮かべると、アオイに手を振り返した。
不意に、射撃ブースの間仕切りがこんこんと叩かれる。
振り向くと、隣のブースから髭面の巨漢がぬっとこちらを覗き込んでいた。
「ちょっとちょっと、ウィル嬢ちゃん」
髭おじさんが手招きをする。
俺はハンドガンを置いてゴーグルを外すと、そちらに歩み寄った。隊は違うが、顔見知りの古参の作戦部隊員のおじさんだ。
「ウィル嬢ちゃん。ありゃ、嬢ちゃんの知り合いか?」
おじさんが顎髭でグイッとアオイの方を指した。
「そうですが……」
俺はコクリと頷く。
「その、何だ。あんな別嬪さんに見られてたらな、みんな集中出来なくてよ……」
髭おじさんは、困ったように短く切りそろえた頭をわしゃわしゃと掻いた。
「こんなガンパウダーが鼻に付く場所にゃ、あんなお嬢さんは……」
もにょもにょと何かを言う髭おじさんは、眉をひそめてそこで固まってしまった。そして、俺の全身を爪先から頭の先までゆっくりと見る。
「……ウィル嬢ちゃんも、ここに相応しい格好とは言えんな」
ベテラン髭隊員は、頬をかき、顔をしかめながら目を逸らした。
俺は改めて自分の格好を見る。
黒の短いプリーツスカート。それに黒のラインと白の花のエンブレムが入った白いブレザー。胸元には赤いネクタイをしている。いつもと全く変わらない、聖フィーナ指定の制服だ。
今日もこの後、ジーク先生の魔術講義があるので、キチンと身なりは整えて来たつもりだ。髪もラベンダー色のシュシュでサイドテール風に緩やかにまとめ、ふわりと肩に流している。問題はない筈なのだが……。
俺は首を傾げてスカートを少しだけ触る。スカートの下にはもちろんスパッツ穿いてるし。
「……あー、何だ。集中力削いでるのは、あの嬢ちゃんだけのせいじゃねぇな、こりゃ」
やはり困った顔をした髭おじさんが、周囲を見回した。
俺もそれに倣って他のブースを見ると、防護ゴーグルを装着し銃を手にした隊員たちが、ちらちらとこちらを窺っているのが見えた。
そのうち1人と目が合う。
慌てて隠れる隊員。
……なんだ?
確かに学生服で射撃訓練は場違いではある。しかし俺が状態については、もう周囲にも知れ渡っている筈だが……。
「……すみません。もう少し撃ったら帰ります」
俺は髭おじさんにぺこっと頭を下げて、自分のブースに戻った。
魔術の訓練も大事だが、やはり軍警隊員にとって銃の扱いは重要かつ必須の技能だ。せっかくの実弾訓練を無駄には出来ない。
集中しなくては……。
俺は再びイヤーマフと防塵ゴーグルを装着した。
ハンドガンを手に取り、空になった弾倉を引き抜くと、また新たな弾倉を装填する。そしてカチリと後退したスライドを戻した俺は、さっと両手で銃を構えた。
照準の向こう、ターゲット用紙の真ん中に狙いを定めて。
耳に痛い程の静寂の中。俺はじっと目を瞑り意識を研ぎ澄ませ、自分自身の中へ中へと埋没して行く。そうすると、とくとくと脈打つ心臓の鼓動とは別の何かが、俺の体の中を流れている感覚が微かにわかって来る。
温かく力強い何か。
しかしそれは、俺の一部でありながら、命の鼓動とは別の、異質のもである事を予感させる。
朧に、気のせいと言われればそこまでの、小さな小さな感触。
それは、手を伸ばせば離れていきそうな程淡い接触でしかない。
果たしてそれが、ジーク先生の言う魔素といわれるものなのかはわからない。しかしやっと捉える事の出来たその微かな感触を手放すまいと、俺はさらに意識を研ぎ澄ませる。
……もしアオイにも相談出来たら、この言葉に出来ない不思議な感覚についても、気楽に、色々と確認出来るのだが。
アオイ……。
今日はバートレットたちと捜査に出て来ると言い訳し、アオイとはオーリウェル支部で別れてしまった。
せっかく射撃訓練が終わるまで待っていてくれたのに……。
アオイには、いつか謝らなければならないと思う。
そうだ。
その謝意の一環ではないけれど、帰り際にこのホテルの一階のレストランでケーキセットでも買って帰ってあげよう。
お土産だ。
昨日の講義の終わりにジーク先生にご馳走してもらったケーキ、凄く美味しかったから。
……はっ!
しまったと思った時にはもう手遅れだった。
余計な事を考えているうちに、俺は掴みかけていた魔素らしい感触をすっかり見失ってしまっていた。
……ダメだな。集中出来ていない。
俺は小さく溜め息を吐いてから、ゆっくりと目を開けた。
ここ数日ですっかり通い慣れてしまった感のあるホテルの部屋。ジーク先生の部屋の真ん中で、俺は椅子に腰掛けていた。
俺の目の前にはやはりジーク先生がどしりと座っていて、腕組みをしながら痛い程真っ直ぐな目で俺を見ていた。
この豪華なホテルに通う事には慣れて来ても、こうじっと見つめられるのには慣れなれない。
……恥ずかしい。
アオイにじっと見られてもこんなにどぎまぎはしないのだが、やはりまだジーク先生に慣れないのだろうか。
「ふむ。何か掴めたか」
ジーク先生が目を細め、微笑む。親しみを込めたような柔らかな笑みだった。
出会ったばかりの頃、ジーク先生が俺に向けていたのは、何かを探るような鋭い顔や嘲笑とも自嘲とも取れるようなシニカルな笑みだけだった。
しかしここ数日、魔術講義で一緒に過ごしているうちに、ふと俺を見るジーク先生の顔の柔らかさに気が付く時があった。
それはまるで、微笑みながら俺を見るアオイと同じような、優しい、しかしどこか切なげな顔だった。
「……すみません、確かなものはまだ何も」
俺は集中しきれていない自分の不甲斐なさに、そっと肩を落とした。
「まだ初めて数日だ。魔素の感覚は、無垢なる幼子の時の方が掴みやすい。君のように成長してからだと、なかなか難しいのもわかる」
ジーク先生はおもむろにに立ち上がると、壁際に向かった。
「では休憩がてら、ウィル君に魔術の初歩中の初歩を見せよう。魔素の把握が出来れば、自動的にこれが出来るようになる筈だ」
ジーク先生はそう言うと、壁際の電灯のスイッチに手を掛けた。
何が起こるのかと、俺はじっとジーク先生を注視しながら身構える。
ジーク先生がニヤリとして、部屋の明かりを消した。
全て。
……む。
時刻はもう夕方だが、外はまだ幾らか明るい筈だ。しかし、きっちりと閉ざされた厚いカーテンのお陰で、明かりの消えた部屋は完全に真っ暗になってしまった。
突然の暗転に、まだ闇に慣れていない目では全く何も見えなくなってしまう。
カツリと足音がして、ジーク先生が俺の前に戻って来たのがわかった。
「ジーク先生?」
俺は眉をひそめながら小さく呟いた。
ジーク先生がこちらに身を近付けて来るのが気配でわかった。
「古より、魔術師が統治者としての地位を確立して来たのは、魔術という特別な力を行使出来たからだが……」
暗闇の中にジーク先生の低い声が朗々と響いた。
その位置は意外に近い。
「その力の象徴が、この灯を操るものだ」
ジーク先生が一瞬言葉を切り、短く術式成句を紡いだ。
「Linnta」
瞬間、無明の闇に光が射す。
淡い暖色の光の球が、闇の中、ジーク先生の手のひらの上に乗っていた。
朧に浮かび上がるジーク先生の姿。
俺は思わず、その小さな光に見入ってしまう。
子供みたいに暗闇が怖いという訳ではないけれど、先の見通せない真っ暗な中に灯る柔らかな光には、思わずほっと息を吐けるような安心感を抱いてしまう。
「ある時、人々の中に灯を操ることが出来る者たちが現れた。魔素適性のあった者たち。我々魔術師の始祖だ。夜を駆逐し、人の活動できる昼を作り出す光は、人間の力の象徴だ。彼らは古代のコミュニティーの中で、人類の光の担い手として別格の存在となって行った」
ジーク先生の作り出した魔術の明かりは、炎のように揺らめく事がない。
魔術師と呼ばれる存在の黎明。
その辺りの歴史は、軍警の講義でも習うし、義務教育課程の学校でも習った。
「古代のコミュニティーの中に存在したリーダーが現在の貴族層、つまり魔術師に移行したのではない。それとは別格に存在した光を操る者が力を合わせ、その力を体系化し、人々を導いて来たのだ。その末裔が、我々魔術師だ」
ジーク先生は笑う。
魔術の始まりは、神殿や教会で行われる祈祷や儀式とさほど変わらなかった。人々の生活を良くするための、ある種のまじないでしかなかったのだ。
しかしそれには、光の生成という具体的な現象が伴っていた。
古代の人々にとってそれは、まさに奇跡だったのだろう。
そうして一度特別になり得た魔術師たちは、自身の力と地位を普遍化すべく、魔素を操る力の体系化を始めた。
それが術式。
術式の成立が近代魔術の礎となり、魔術師たちの勢力はさらに隆盛を極める事になる。
それは、魔術という圧倒的な力と恐怖で民衆を支配する、魔術師たちの世の始まりだと俺は教えられて来た。
「我らの祖先たる魔術師たちが魔素の技術と研究に力を注いで来たのは、ひとえに人間社会の光の担い手としての責を果たさんが為だ。より良く人々を導くために、我々魔術師は常に研鑽を積まなければならない」
魔術の淡い光が照らし出すジーク先生の顔には、闇の中でも爛々と輝く強い目の光があった。
俺はそんなジーク先生からそっと目を逸らし、考える。
ジーク先生の話と俺の認識の間にある違和感。
恐らくそれは、一般人である俺と生粋の魔術師であろうジーク先生との認識の齟齬だろう。
その考え方や状況から察するに、ジーク先生はやはり貴族級の魔術師だ。
俺みたいな一般の市井の人間とは違う。
そう感じてしまう。
同じ貴族級でも、アオイと接している時には感じなかった感覚だった。
「指摘するまでもなく、ウィル君には人の前に立つ者の気概がある。それは、魔素適性以上に重要な事だ。君は、きっと良い魔術師になれる筈だ」
ジーク先生はあの柔らかな笑みを浮かべると、さらに短く術式成句を紡いだ。
その途端、先生の手のひらの光が4つに増えた。光は先生の手を離れると、それぞれ独立した動きでゆらゆらと舞い上がる。そして、軽やかに中空を舞始めた。
スピードを変えながら複雑な軌道を描き、徐々に光度を増していく光の球。
それは、幻想的で摩訶不思議な光景だった。
俺はぽかんと目を丸くしながら、光の円舞を見上げることしか出来ない。
4つの光は、やがて絡み合いながらどんどん上昇し、そしてぱっと弾けた。
「わっ」
俺は思わず声を漏らしてしまった。
光の粒子がまるで雨の様に部屋全体に飛び散り、それぞれに淡くそこらかしこを照らし出す。そして、ゆっくりと床に落ちていき、やがてすっと溶けるように消えてしまった。
再び、しんっと暗闇が戻って来る。
……鍛錬を積めば、俺にもこんな光が作り出せるのだろうか。
ジーク先生が言っていた魔術師に相応しい適性というのは、まだ実感出来てはいない。しかし、こんな風に魔素の光を操って見せれば、アオイも俺の事を認めてくれるだろうか。
またジーク先生の足音がして、不意に明かりがついた。
蛍光灯の目映さに、俺は思わずきゅっと目を瞑った。
……そうだ。
嘘を吐いてまでジーク先生の所に来ているのだから、アオイに納得してもらえるような成果をださなければ。
そうすれば……。
俺はすっと目を開く。
「ウィル君?」
固まっている俺を怪訝そうに見るジーク先生に、俺はぱっと向き直った。
「先生、実演ありがとうございました。俺、頑張ります!」
改めて決意を込めて、俺はジーク先生にふわりと微笑みかけた。
今度はジーク先生が、無表情のまま固まった。そして一瞬の間の後、こめかみに手を当てて溜め息を吐いた。
む?
「ウィル君」
「はい」
何かアドバイスをもらえるのかと、俺は姿勢を正す。
「……この後食事でもどうだ。良い店がある」
俺は一瞬、きょとんとしてしまう。
しばらくの間の後、俺は申し訳なさで顔を曇らせながら、首を横に振った。
「あ、すみません。今日は早く帰らないと、アオイが心配しますから……」
気に掛けてくれるのは嬉しいが……。
それに、ジーク先生と一緒にいる間はなるべく魔術の習得に充てたい。
せっかくのお誘いを断ってしまったが、ジーク先生は短く息を吐いただけで特に変わった様子はなかった。しかし、ぼそりと「これではあの女と同じだな」という呟きが聞こえただけだった。
あの女。
アオイと?
俺は思わずジーク先生の顔を見る。
涼やかで無表情なその顔は、いつもと同じに見えたのだが……。
どういう事だろうと口を開こうとした瞬間、俺は再び魔素把握の瞑想を命じられた。
俺は、ジーク先生を見てそっと息を吐いた。
そう、今は鍛錬に集中だ。
よし……。
気を取り直して、俺は目を閉じた。
しかし自分の中に埋没して行く前にふと思う。
ジーク先生といいロイド刑事といい、それに軍警の仲間たちといい、最近はよく食事に誘われる。Λ分隊の皆にバーに連れて行かれる以外に、昔は食事のお誘いなんてほとんどなかったのに。
結局聖フィーネ学院の休校は、一週間の予定となった。
来週始めから再び通常授業が始まるという連絡がソフィアから来たのは、もう土曜日になってからの事だったが。
この頃になると、夜会襲撃事件の報道も下火になっていた。
事件直後は、左翼過激派に対する非難報道が激しく繰り返されていた。同時に学院や市、果ては国に対する警備体制や対テロ対策を非難する報道も目立っていた。一部では、夜会という一般人とは縁遠そうなイベントに対するおもしろ半分の報道までなされる状態だった。
その騒動が急速に鎮静化に向かった一番の原因は、被害者である夜会参列者の貴族やその関係者が、殆ど騒ぎ立てしなかったからだろう。
その様子は、俺に抵抗はするなと言ったあの夜の貴族たちの姿と重なるものがある。
さらにジーク先生のおかげで犯行グループも確保されていたので、授業が再開出来る見通しがたったとソフィアは言っていた。
学校が始まれば、ジーク先生の魔術講義も学校でという事になるだろうか。
学校再開前の貴重な1日だったが、今日はジーク先生の都合が悪く、魔術講義はお休みになっていた。学校が始まれば鍛錬の時間を取るのも難しくなりそうだが、先生に用事があるのなら仕方がない。
アオイから、たまには屋敷でゆっくり過ごすように言われていたので、久し振りの休日にしようかと考えていたところにソフィアから連絡があったのだった。
『たまにはこっちにも顔を出しなさいよねっ』
連絡事項を伝えた後に、少し怒ったような口調でそう告げたソフィア。
この間会ったばかりだし、学校では毎日会っているのにな……。
いささか理不尽さを感じながら電話を切った俺のもとに、直ぐに別の電話が入った。
今度は軍警から。
それも、ヘルガ刑事部部長から直々の電話だった。
『ウィル・アーレン。ご苦労様。突然で申し訳ないけれど、今晩私に同行してくれるかしら』
静かな口調でそう告げたヘルガ部長は、さらにこう付け加えた。
『エーレルト伯爵にも同行願いなさい』
アオイも……?
携帯を耳に当てた俺は、眉をひそめる。
軍警の任務にアオイを同道する理由がわからない。
同行の目的はと聞き返した俺に、ヘルガ部長は笑みを含んだ声で答えた。
『ある人に会ってもらいたいの。あなた達2人にね』
2人を強調するヘルガ部長。
『大丈夫。エーレルト伯に害が及ぶ事はないわ』
俺はヘルガ部長の言葉にうっと息を呑む。
もしもアオイに何かあったら……。
軍警から魔術師であるアオイへの急な呼び出しに、そんな不安が頭をよぎったのは事実だった。
……有り得ない話だけれど。
それを、あっさりとヘルガ部長に見抜かれてしまったのだ。
そんなヘルガ部長の電話の内容を告げると、アオイは少しだけ眉をひそめて頷いてくれた。アオイはこの前もヘルガ部長に会っていたし、もしかしたら何か状況を知っているのかと思ったが、どうやら心当たりはない様だった。
俺とアオイ。
俺たち2人に用とは、何なのか。誰と会うのか。
用心は、必要だと思う。
それでも日中は、久し振りにのんびり過ごせた。
アレクスさんやレーミアとお茶したり、アオイやレーミアに女性のファッションについて色々教えてもらったり。
ジーク先生に会う際、俺が聖フィーネの制服を来ていくのは、制服なら間違いがないと思えるからだ。その他の私服では、いまいち今の自分に合った着こなしというのがわからないのだ。
ジーク先生の前にみっともない格好はして行けない。
それにジーク先生は、こちらをじっと見つめて何かを考えている場合が多いし……。
「ふふ、嬉しいな、ウィル。私は嬉しい」
俺の部屋で、香ばしい湯気を立てるティーカップを前に、上機嫌そうに柔らかく微笑むアオイ。
「レーミアもウィルもレベルアップに協力してやって欲しい」
アオイが隣のレーミアを見ると、メイド服の少女も微笑んで頷いた。
「ウィルさまは最近髪型とかお化粧にも興味をもたれて。少し前は適当でいいとか、女の服は面倒だ、なんて言われていたのが嘘の様です」
レーミアが珍しく悪戯っぽい表情を浮かべる。
「誰か良い方とでも出会われましたか」
ガタンとテーブルが鳴る。
アオイがしまったという様な顔で俺を見ていた。
「ウィル。まさか、例の刑事と連絡を取っているのではないだろうな」
アオイがぐっと身を乗り出してくる。
む?
俺はきょとんとしながら首を傾げた。
しかし、レーミアに指摘された事への自覚はある。一応。
軍警とか魔術とかそういう部分だけでなく、こういった部分でも俺は変わって来ているのだ。
その変化を認める事は、とても恥ずかしい事ではあるけれど。この場を逃げ出してしまいたくなるくらいには……。
久し振りの穏やかな時間。
しかしそれは、あっという間に過ぎ去ってしまった。
夕方。日が沈んだ後、ヘルガ部長からの使いがやって来た。
俺とアオイを迎えに来たのは、バートレットとアリスの捜査官コンビだった。
「やあ、久し振りだね、ウィルちゃん」
屋敷のエントランスで出迎えた俺にバートレットが手を上げた。相変わらずの無精髭だ。スーツ姿のアリスも微笑んで会釈してくれる。
「お久しぶりです、バートレット、アリス」
俺も微笑んで頭を下げた。
「おっ。ますます艶やかになったな、ウィルちゃん」
ニヤリと笑いながら、バートレットが懐から煙草を取り出し口に運ぶ。
「この間の夜会の件は大変だったわね」
俺に微笑みかけながら、目にも留まらない速さで手を伸ばしたアリスがバートレットの煙草を奪い取った。
俺は相変わらずの様子の2人に、ふふふっと笑ってしまった。
カツリと足音がする。
振り返ると、アオイもこちらにやって来るところだった。
「お邪魔いたします、エーレルト伯」
アリスが頭をさげ、バートレットが軽く会釈する。アオイもにっこりと微笑み、2人に挨拶した。
「ところでウィル」
アオイが俺を見た。
「お2人とは久し振りの様だが、ついこの前一緒捜査に出ると言っていなかったか?」
……む。
俺はピシリと固まってしまう。
ジーク先生の魔術講義に行くために、確かそんな事を言ったような……。
俺は乾いた笑みを浮かべながら、アオイを見た。
……ダメだ。
やはりアオイには、魔術を習っているとちゃんと打ち明けよう。
今度……。
「それより、ヘルガ部長の用って何なんですか、バートレット」
俺はさっとバートレットに向き直った。
「ああ」
再び煙草を取り出そうとしていたバートレットが、鷹揚に頷いた。
「伯爵とウィルちゃんには、これから上院議員の公爵さまに会ってもらうのさ。ヘルガ部長立ち会いでな」
公爵?
俺は眉をひそめた。
ちらりと隣を窺うと、アオイがすっと目を細めている。それは、アオイの魔女の顔だ。
「もう、イーサン。ちゃんと説明して下さい」
アリスがきっとバートレットを睨んでから俺たちを見た。
「ウィル、エーレルト伯爵さま。ヘルガ部長とヴァイツゼッカー上院議員がお待ちです。ご案内致します。なおこの会談は極めてデリケートなものですから、むやみに口外しないように。良いですか?」
ご一読、ありがとうございます!




