Order:4
カーテンの間から朝日が射し込む。
目覚ましの音と共にむくりと起き上がった俺は、ベッドの上に座り込んでしばらくぼうっとする。
目をぐりぐりと擦る。
我ながら殺風景な我が家。
久々に自分の部屋で迎える朝だった。
俺の借りている部屋は、オーリウェル西地区旧市街にある古いアパートメントの3階にあった。大家さんが知り合いで、その伝手で借りている部屋だ。
石造りの建物は街の景観を損なわないアンティークな外観だったが、いかんせん古い。あちこちにガタが来ている。しかし家賃はそれに見合ったものだったし、何よりも窓から見える景色が気に入っていた。
俺はやっとベッドから降りると、スリッパを引っ掛け、ペタペタと窓に歩み寄る。そしてカーテンを開いた。
朝日に煌めく旧市街の古い建物。その先に見えるのは、光の帯のように輝くルーベル川だ。
んっと伸びをする。
よしっ。
久しぶりに日課のランニングでも再開するか。
まずは顔を洗わねばと洗面所に向かう。
「え……」
そこで俺は、思わず凍り付いてしまった。
洗面所に置いた洗濯籠には、脱ぎっぱなしの女性もの下着が転がっている。真っ白で装飾のないシンプルなものだ。
……なんだこれは。
……ああ。
一瞬遅れて理解する。
そう、レインに買って来て貰ったものだ。昨日、シャワーを浴びる前に脱いだままだったのだ。
……はぁ。
なんか、疲れる。
俺はしゃがみ込むと、別の洗濯物を上に被せる。
取りあえず、これでよし。
立ち上がって鏡を見る。
ストロベリーブロンドにぴょんと跳ねた寝癖をつけた少女が、困ったような顔を向けていた。
身に付けているのは襟首から肩が見えてしまっているダボダボのTシャツに短パン。もともとの俺の寝間着だから、明らかにサイズがあってない。
せめて、寝癖くらい直さなくては。
俺は左側頭部でぴょんと跳ねた髪を手櫛で梳かして押さえつけるが、効果はない。
櫛を探さなければ。もともと短髪だったために、普段はほとんど使っていなかったのだ……。
それに、着る物も考えなければならない。
いつもなら何も考えずにTシャツにジーンズを選ぶところだが、今の俺に合うサイズの服なんてない。
寝癖を押さえつけながら息を吐く。
ランニングに行っている隙は、無さそうだった。
服は、やむを得ずだが、レインに貰ったものにしよう。
昨日の帰り、仕入れといたからっと手渡された紙袋を漁ってみる。
女性もの下着が数点。パステルカラーの装飾にげんなりする。
服も何着かあった。
白のワンピース。
いや、スカートとか無理だ……。
フリフリのブラウス。
……おい、レイン。
赤が鮮やかなフレアスカートまである。
ダメか……。
半ば諦めながらも考える。
ベッドの上に女物の服を並べてうんうん唸っている図は、まるでお出かけ前の姉貴みたいだ。昔、そんなのどれでもいいじゃんと言って怒られたっけ。
結局俺は、細身の紺色ズボンに、何というカテゴリーの服かはわからないが、半袖でお尻が隠れるほど裾の長いデザインの上衣を着る事にした。見ようによってはスカートに見えなくもないが、ズボン履いてるから大丈夫だろう。
昨日寝る前に取ってしまった下着も身につける。スポーツタイプのシンプルな奴だ。
今度の休み、服を買おう。大人し目なものを。
レイン任せでは、うちのクローゼットが大変なことになる。
朝の時間は流れるのが早い。
もたもたしていると、あっという間に出勤の時間になってしまう。
何とか寝癖は鎮圧したが、髪を縛るのは諦めた。数度トライしたが、何だか上手くいかない。
選んだ服を身に付け、梳いただけの髪を翻すと、俺は車のキーを掴んでドアを開いた。
そうそう、クッションを忘れてはいけない。
荷物を持った俺は、階段を駆け下りる。途中、中庭で掃除をしている大家さんに出会った。
「おはようございます」
俺は頭を下げて通過する。
「はい、おはようね……ん?」
大家さんはここのアパートの一階に住んでいる。俺の母の友人だった人だ。
アパートを出ると、石畳の細い通りを渡って向かいの駐車場に入る。
俺の愛車は、2年前、免許取得と共に中古で買った日本製クーペだ。燃費が良く、故障もせず、良く走ってくれる。
俺はこの車でオーリウェル支部まで通勤していた。
昨日もこの車で帰宅したのだが、それが冷や汗ものだったのだ。普段の倍くらいの時間が掛かってしまった。
座高が縮んで視点が変わったせいか、視界が狭まってしまって運転が怖かったのだ。おかげで、支部から自宅まできっちり法定速度を守るはめになってしまった。
夕方のオーリウェル中心部は通勤の車で大混雑している。昨日は俺が、さらにその渋滞を拡大させてしまったわけだが……。
俺は、愛車の運転席に持参したクッションを設置する。
具合を確かめるようにぽふぽふ叩いてみる。
よし。
我ながら良い出来だ。
お尻の下にクッションを引いて視点を上げれば、問題は解決だ。
これで女性化してしまった問題を1つクリア出来たはず。
俺はうんと頷いた。
後は、今日の訓練に全力で取り組むだけだ。
黒のシャツに紺のズボン、鉄板で補強された編み上げブーツというのが、軍警の基本的な教練着になる。
支部にある職員向け購買部でその一式を購入した俺は、Λ分隊待機室で着替えを済ませると、研究課がある試験棟に向かった。
ちなみにΛ分隊待機室が俺専用の更衣室と化したのには分けがある。
作戦部の更衣室は地下にあって、もちろん俺のロッカーもそこにあるわけだが、今朝その更衣室で着替えていたら、ちょっとした騒ぎが起こってしまった。
俺がその場にいるのが問題だったらしい。
みんな思春期の子供ではあるまいし、何より俺みたいな女性のまがいものが着替えを見ても見られてもなんとも無いはずだ。
しかし騒ぎを聞きつけたレインが直ぐに飛んで来て、俺は連れ出されてしまった。そのまま女性更衣室に連れて行かれそうになったので、それについては抵抗させてもらったが……。
結果、Λ分隊待機室が俺の部屋になった訳だ。
当面の処置ではあるが……。
試験棟にやって来た俺は、指定の研究室に向かう。
研究課の主任、オブライエンの研究室だ。
オブライエンは昨日の聴聞会にも出席していた男だが、正直俺は彼が好きではない。
ノックをして扉を開く。
「失礼します。ウィルバート・アーレン、参りました」
名乗ってから俺はオブライエンの研究室に足を踏み入れた。
踝まで沈みそうな絨毯。大きな机は鈍く輝く飴色。所狭しと並ぶ本棚には分厚い書籍がぎっしりと詰め込まれ、本は棚に納まりきらず、机の上や床にも浸食している。
木目調の壁紙と暖色系の灯。
研究室というよりも、貴族の屋敷の書斎といった雰囲気だった。
「やぁ、来たね」
机の上に積み上げられた本の壁の向こうから、グレーのスーツを着込んだ男が立ち上がった。
俺は姿勢を正す。
苦手だが、上官だ。
「はは、そんなにかしこまらないでくれ」
オブライエンは軽薄に笑う。
「どうだい、君もお茶は?」
精緻な紋様が輝くティーカップを掲げてみせるオブライエン。その所作1つ1つが優雅で、様になっていた。
それも当然だ。
この男は上流階級出身。没落したとは言え、オブライエン子爵家の出なのだから。
つまり彼は、魔術師。
脈々と受け継がれて来た正当な技術を伝承する貴族級魔術師である。
魔術を操る者全てがテロリストや犯罪者というわけではない。
貴族制度が法律上の名誉称号となってからは、民間企業や政府機関で働いている魔術師も多い。
魔術師の全てが悪ではない。
分かっている。
分かってはいるが、正面を切って魔術師と対峙すれば、どうしても身構えてしまう。
……それは良くない態度だ。
俺は、緊張を表に出さないよう、努めて無表情を装う。
「くくっ、そのクールな態度も素敵だね」
にやりと笑うオブライエン。
「とても元男には見えないな」
ゆったりと俺に近付いて来たオブライエンが、俺の前に立つ。作戦部の隊員たちに比べればひょろりとした優男だが、それでも今の俺よりはがっしりしているし、背も高い。
オブライエンがこちらに手を伸ばして来る。
俺は目を細めてオブライエンを睨み付けた。
「信じていただけなくとも、自分は自分です」
なるべく低い声で言い放つ。
オブライエンは苦笑を漏らすと、身を引いた。
「本当にそう思っているのか、そう思いこもうとしているのか。いや、実に興味深いね」
自分のデスクに戻り書類を手に取ったオブライエンは、それにさっと目を通してからまた俺に向き直った。
「ミルバーグ隊長の報告は読ませてもらったよ。長年僕も魔術を研究しているが、男を女に変える術式など知らない。僕は大いに君に興味を抱いている」
今の状況が解明されるなら、俺だって望む所だ。
「では君の状態について、僕なりの解釈を試みよう」
薄い笑みを浮かべたまま、オブライエンがさっと俺に向かって手をかざした。
俺は思わず後ずさる。
「主任、何を……!」
「大丈夫。僕に任せなさい」
オブライエンの体から、微かに光が散る。
な、何だ、これは……?
「sunnl dbinsh」
2言成句術式!
オブライエンの詠唱と共に、俺の体の周りに光のリングが現れる。やがてそれは俺の体全体を包み込むように広がり始めた。
徐々に光度を増していく光。
くっ。
研究課主任研究員であるオブライエンが俺を傷つける事などないとわかっていても、嫌悪感は押さえきれない。
自分が魔術の対象にされているというだけでたまらなく不安になる。
俺は歯を食いしばって耐える。
光が増す。
そして突然、砕けるように弾けた。
後には、何事も無かったかのような研究室が広がっているだけだった。
この術式はいったい?
俺は額に手を当てる。
体は何ともない。
「大丈夫かい?」
気遣いの言葉とは裏腹に、興味深げにじっと俺を見るオブライエン。
俺は頭を振ってから再びオブライエンを睨み付けた。
「何をするんです。いきなり魔術を行使するなんて」
「ははは、すまないな。しかし今のはただの解呪術式だ。まずは君のその姿が、幻惑術式などの類では無い事を確かめた」
そう言うとオブライエンは再び俺に手をかざした。
「主任!」
俺の抗議などもろともせず、オブライエンが詠唱を始める。
「sunnl dbinsh arsse」
1言追加されている。
3言成句術式だ。
汎用術式ではない高度な魔術。
再び俺の体が光に包まれる。
先程より強い光だが、光はやがて霧散してしまう。
「ふむ」
その結果を見て、オブライエンが顎に手を当てた。
「解呪を倍化してみたが、効果なしか。一般的な術式ならば、あれで無効化出来る筈なのだが……」
オブライエンは腕を組むと俺をじっと見る。
「もう一度君がその姿になった時の事を、話してくれるかな」
いきなり魔術を放たれて良い気持ちはしなかったが、ここは堪える。
やっぱりこの男は苦手だ。
「ふむ。黒衣の魔女か。まさかね……」
何やら思案し始めたオブライエンに、今度は俺が質問をぶつけてみた。
「主任。自分の今の状態で、隊に復帰することは可能なのですか」
「それを判断するのは僕ではないが、少なくとも今の君は、現在進行形の魔術の影響下にあるわけではないね。そういう意味では、問題ないだろうけど」
……よし。
俺は少し俯いてそっと微笑む。
「はは。凛とした顔も良いが、笑っている方が君にはお似合いだよ。もちろん銃なんかを振り回すよりも良いと、僕は思うね」
……しまった。見られた。
俺は大きく息を吸い込むと、改めて無表情を作り直した。
「そうだ、ウィル君」
……その呼び方は広まっているのだろうか。
「後いくつか問診させてもらって今日の所は終了だが、この後、お昼はどうかな。一緒に」
俺はぽかんとオブライエンを見る。
突然何を言い出すのだろう。
俺は目の前の魔術師に微笑み掛けた。
「申し訳ありませんが、ご遠慮致します」
食事など取っている場合ではない。
次のステップ。
午後の訓練の準備を整えなければ。
支部棟からグランドを挟んだ西側には、広大な敷地に幾つもの大きな倉庫群が立ち並んでいる。兵員輸送車の格納庫やヘリポートなどもある区画だが、その中に教導部の訓練場もあった。
集合場所に指定されたのは、そのうちの1つ。巨大な格納庫の中に屋内制圧訓練用の簡易コースが設置された棟だった。
俺は教練着の上から、膝当て、肘当てを身につけ、太ももにはレッグホルスターを装備していた。体にはマガジンポーチを張り付けたプレートキャリアを身に着け、負傷防止用のゴーグルも持参する。
ホルスターなんかは私費で揃えている者も多いが、俺もそうだ。しかしサイズが全く変わってしまっているので、ストラップの調整に手間取ってしまった。
ずっとこの姿で任務に従事することになれば、新しい装備が必要かなと思う。
支部から駆け足でやって来た俺は、訓練棟に到着するとふうっと息を吐いた。
額を拭う。
少し汗をかいた。
そのまま入り口に回ると、日陰で休んでいる数人の隊員たちと出くわす。
「おっ、ウィルちゃん!」
最初に俺に気がついたのは、俺と同じような装備に目だし帽を被り、胸に軍警正式採用のアサルトカービンを吊らした隊員だった。
俺がきょとんとしていると、その隊員が立ち上がって目出し帽を脱いだ。
「ウィルちゃんもキルハウスを走るのか?」
ニカっと笑ったのはロラックだ。
するとここに集まっているのは、Ω分隊か。
みんな顔を隠していたので分からなかった。
「午後はΩ分隊がここを?」
「ああ。みっちりマラソンだ。じゃあ、俺たちの前がウィルちゃんだな」
「おー」
「頑張れよ!」
他のΩ分隊の面々も集まって来て、声を掛けてくれる。
もちろん頑張る。
俺は拳を握り締めてうんっと頷いた。
任務復帰のためにも不甲斐ない結果は出せない。
「そうだ」
俺はロラックの顔を見て閃いた。訓練に集中するためにも解決出来る問題は潰しておかなければ。
俺は腰につるしたポーチをガサゴソと漁ると、黒いシュシュを取り出した。
「悪いがロラック。髪をまとめるのを手伝ってくれないか?」
俺はロラックに背を向けると後ろの髪をまとめて、んっと見せた。
鬱陶しい長髪をまとめようと朝からチャレンジしているのだが、なかなか上手くいかない。
もう人に頼るしかない。
「お、俺が……?」
ロラックがおどおどしながらシュシュを受け取る。
俺は肩越しに微笑んで頷いた。
「悪い。頼む」
他の隊員がブーブー騒ぐ。
ロラックは何故か恐る恐るというような手つきだったが、しっかり任務を果たしてくれた。
……ちょっと髪が引きつれて痛かったが。
頭を振って具合を確かめる。
……よし。
ぽかんとしているロラックに礼を言い、俺は訓練場である巨大格納庫に足を踏み入れた。
ひんやりした空気が頬を撫でる。
天井に並ぶ無数の照明の下、広い格納庫の中に歪な建物が乱立していた。
近接戦闘、突入制圧戦訓練用の模擬家屋だ。
周囲に監視用カメラや観戦用キャットウォークが組み付けられた二階建ての建物は、見ようによっては建設中の家にも見える。
微かに漂うガンパウダーの香り。
俺の足音が高らかに反響する。
俺は模擬家屋の前に設置された監視ブースに向かった。
無数のモニターが並ぶ監視ブースの中では、ミルバーグ隊長と隊長より年配の男性が、テーブルに寄り掛かりながらコーヒーを啜っていた。
俺は隊長たちの前で踵を鳴らして、敬礼する。
「ミルバーグ隊Λ分隊ウィルバート・アーレン。参りました」
「ああ。よく来たな」
ミルバーグ隊長は俺に笑いかけ、うんうんと頷く。
「頑張るんだぞ、ウィル」
その顔はいつもの厳しい隊長ではない。温かな笑みは、まるでその辺りにいそうな気の良いおじさまの様だった。
「ふん。正気か、ミルバーグ」
隊長の隣でじろりと俺を睨むのは、訓練教官のノルトン少尉だ。
スキンヘッドと鋭い眼光が言いようのない迫力を醸し出している。俺たちオーリウェル支部の隊員の間では、触れるな危険と囁かれる人物だ。
胡乱な視線を向けるノルトン教官に、俺は勢いよく頭を下げた。
束ねた髪がぴょこっと跳ねる。
「よろしくお願いします!」
「ふん」
ノルトン教官が不機嫌そうに鼻を鳴らす。
どう思われようが今は関係ない。
俺は全力を尽くすだけだ。
ノルトン教官は俺を見下ろすと、管理ブースの隣に並ぶ長机に顎を向けた。
「お前が本当にここの訓練を受けた事があるなら分かるだろう。ライフルを持て。予備弾倉は2本。サイドアームを忘れるな」
俺は頷くと、机の上に並んだハンドガンを手に取った。
軍警正式採用の45口径自動拳銃。
マッドブラックの銃はずしりと重い。
「ケース想定はC991。クリア基準タイムは4分20秒だ」
「了解です」
俺はペイント弾が装填された弾倉を取り上げると、カチリとハンドガンに挿入した。
スライドを引いて初弾を装填。安全装置を確認し、レッグホルスターに差し込む。
続いてアサルトカービンを手にとる。
重い。
スリングを首に回し、やはりペイント弾仕様の5.56ミリ弾が装填された弾倉を手に取った。
弾倉装填。
チャージングハンドルを引く。
……よし。
「誤射はタイム加算ペナルティ。魔術攻撃に見立てたターゲットボードに1メートル以内に接近された場合は、その場で訓練終了だ。お前は魔術師にやられたというわけだ」
俺は頷くと防護ゴーグルを掛けた。
そのまま突入地点に進んでライフルを構える。
一瞬目を瞑って深呼吸。
ケース想定C991は複数魔術師との戦闘と人質救出任務。
大丈夫だ。
軍警に入って来てから何度も繰り返して来た訓練だ。
大丈夫。
目を開く。
「準備」
ノルトン教官が監視ブースに入った。
格納庫内に訓練開始を告げるブザーが響き渡る。
「よし、行け!」
読んでいただき、ありがとうございました!