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Hexe Complex  作者:
38/85

Order:38

 聖フィーナの生徒達の賑やかで楽しそうな声が響き渡る休み時間。

 教室棟を出た俺は、庭園の片隅の大きな木にもたれ掛かり、携帯電話を耳に当てていた。

 寒い。

 秋晴れの空は抜けるように青く、しかし風は冷たい。わざわざ外にいる生徒も俺ぐらいしかいなかった。

『まぁ、どちらにせよ今は動けんさ。とりあえずはディンドルフ男爵以下、せっかく手に入れた対象をじっくり取り調べるしかないな』

 どこか気だるげな声は、バートレット捜査官だ。

「なんでです? 自分の報告書は、刑事部にも回されているでしょう」

 俺は電話を持つ腕の肘をぎゅっと抱きながら、眉をひそめる。

『確かに来たさ。未確認の貴族級、さらに軍警に介入して来る奴なんざ、確かに厄介だ。しかしな、ウィルくん』

 バートレットが言葉を切り、溜め息を吐く。あるいは、煙草を吸っていたのかもしれない。

『今日回って来た報告書じゃ、刑事部もまだ動けんさ。検討を重ねて対策を考案中って奴だ』

「今日って」

 俺は一瞬目を瞑り、息を吐く。

「作戦部に報告書を提出したのは週始めですよ? 刑事部にも回されると聞いたから、そちらには直接持ち込まなかったのに……」

 沈黙。

 バートレットは何も答えなかった。俺の嫌みに、お役所とはそんなものさとか返されるかと思ったが……。

「あれだ、刑事部と作戦部も、今回の件じゃ色々思うところがあるのさ、互いに」

 ……やはりそうなのか。

 馬鹿馬鹿しい。

「これだから役人とか官僚って……」

 俺は片手で髪を掻き上げてそうこぼしていた。

 本当に頭が痛くなる。

 今回の作戦が原因で、作戦部と刑事部の間に感情的なしこりがあるという話は聞いていた。

 ずさんな作戦立案で作戦部に多大な犠牲を強いた刑事部。

 柔軟性に欠けた指揮で、軍警批判に繋がるような作戦行動を実施した作戦部。

 そうして互いの粗をさぐり合っているのだ。

 軍警隊員だって人間だ。失敗とか損失を他のせいにしたい気持ちはわかるが、それが実務に影響しては意味がない。

 ……まったく。

「では自分たちだけでも捜査すべきではないですか、バートレット」

『ああ、まぁな……』

 バートレットの歯切れが悪い。

『ウィルくんが捜査に参加するかどうかは、エーレルト伯の出方次第だな』

「……なんでアオイが出て来るんです」

 俺は低い声で返す。

 確かにアオイは、俺が軍警絡みの仕事をするのを嫌っていた。以前から多少はそのきらいがあったが、あのディンドルフ制圧戦からはその傾向が一層激しくなったような気がする。

『エーレルト伯の協力は得難いものだ。ウィルくんの報告のエーレクライトを撃退出来だのも、ディンドルフ男爵を殺さずに済んだのも、エーレルト伯の力添えのおかげだろう?』

 バートレットの言葉に俺はうっと押し黙る。

 ……確かにそうだ。

 もしアオイがいなかったら……。

 俺は目を伏せる。

『まぁ、男爵を助けようとしたウィルくんの機転も高く評価はされているよ。しかしまぁ、ウィルくんを伯爵から引き離して彼女の心象を悪くしたくないというのがヘルガ部長以下の考えるところだ』

 バートレットが低い声で笑う。

 俺はむうっと唸る。

『そういう事さ。特に今は、世間様の目も厳しい。動けない局面というのもある。今がそうだ』

「でも、実際の脅威は! うくっ、かはっ、けほっ、けほっ……」

 バートレットに反論しようとして、俺は思わず咳き込んでしまう。咳が続いて少し苦しかった。

「うう……」

 鼻もムズムズする。

『ウィルくん、風邪かね』

「……うぐぐぐ、すみません」

 確かに少し体調が悪かった。

 支部に報告書を提出しに行った夜。多分、上着も着ずに夜道を歩いたせいだと思う。

 ……気のせいではなく、頭も痛い。

『今はゆっくりと休む事だよ、ウィルくん。次に備えて、な』

 やはり笑み含んだ様なお気楽そうなバートレットの声に、俺は頷く事しか出来なかった。

 ……悔しいが。



 バートレットに指摘されたからだろうか。次の授業が終わった頃、俺は体全体がズシリと重たく、手足の先がじんと痺れるような感覚に包まれていた。

 イングリッドの号令で先生に礼をし授業が終わると、俺は机に肘を突いてこめかみをグリグリする。

 体が熱い。なのに寒い。

 本当に風邪かな?

 いやしかし、病は気からと思いたいが……。

 ヘルガ部長から正式にアオイの護衛任務への復帰を命じられ、やっと今日から聖フィーナ学院に戻って来ることになったのだ。いきなり体調を崩し、またお休みなんて事になったら、あまりにも不甲斐なさすぎる。

 今は病気などと言っている場合ではないのだ。

 騎士団や魔術師の動き以外にも、色々と調べておきたいことがある。

 まずは1つ。ソフィアに調べてもらいたい事があった。

「ウィル、休みの間のノート、写せた?」

 教室が休み時間の穏やかな空気に包まれると、直ぐにジゼルとエマが駆け寄って来た。

「大丈夫、ジゼル。私のノートも見ていただきましたから」

 隣の席のアリシアもこちらを見て微笑んだ。

「何よ、アリシア。それじゃあたしのノートが役に立たないみたいじゃない」

 ジゼルが唇を尖らせる。

「ジゼルはあんまり真面目にノートを取ってないでしょ」

 エマがニヤリと人の悪そうな笑顔を浮かべる。

 えーとジゼルが声を上げ、アリシアがふふふと笑った。

 俺も釣られて微笑んでしまう。

「けほっ、けほっ」

 笑いながら、少し咳き込んでしまった。

 やはり、精神的にも肉体的にも疲労しているところに、机に突っ伏して居眠りしたり、寒い中を軽装で歩き回ったのがいけなかったのだろうか。

 日に日に寒くなり、乾燥して来る今の季節は、風邪が流行る時期でもあるし。

「あらあら、ウィル。まだ体調が悪そうですね」

 アリシアが笑みを消して心配そうな顔を向けてくる。

「そうだよ。熱があるんじゃないの。顔赤いよ」

 ジゼルも俺の顔を覗き込んだ。

「どれ」

 突然背後から声がする。

 驚いて振り返ると、ラミアがぬっと立っていた。

 うぬ。

 俺に気配を悟らせないとは……。

「ウィル。冷やしてあげる。 xceeic」

 ぼそりと呟くような一言成句術式。

 突然の魔術行使に、俺は一瞬身を堅くする。

 無造作に伸びたラミアの手のひらが、ぴたりと俺の額に当てられた。

「あ……気持ちいい」

 ラミアの手のひらを通して伝わって来る冷気。冷たすぎず丁度良い冷ややかさが、熱を持った額に心地良かった。

「ふふ、熱冷ましの秘技」

 今度は両の手で俺のほっぺたを包み込むラミア。

 やはり冷やこくて気持ちいい。

「う〜」

 心地よくて、自然とそんな声が漏れてしまった。

「ふふ。今日のウィルは可愛らしいですね」

 アリシアが頬に手を当てて少し首を傾げると、上品に微笑んだ。

「エーレルトさまが妹だと公言するのも納得。私も妹に欲しい」

 俺を冷やしながら、ラミアもコクコクと頷いた。

「ギャップ、ですよね。あんな悪漢にも挑む勇ましい女性が、今は年相応の可憐な女の子なんですもの」

 アリシアが手を合わせて微笑む。

「む。女の子とか、ちょっと……。恥ずかしいというか……」

 俺は未だラミアに頬を触れられながら、眉を寄せた。

「ほら、この前の活躍でウィルったら大人気だから。他のクラスの子とか、一般科の子にも名前が知られてるらしいわよ」

「あらジゼル。一般科の事なんて良く知ってますね」

 アリシアとジゼルのお喋りが続く。

 ラミアが手を離し、俺を解放してくれた。その冷やこさが少し名残惜しかった。

 友人たちの取り留めのない会話に、俺は反論してみたり、笑ってみたり。

 夏休み明けから入学しただけに過ぎないこの場所のこの雰囲気が、なんだか俺には妙に居心地の良い空間に思えてしまった。硝煙も爆発も破壊魔術師もない、穏やかなこの場所が……。

「学園祭だって、ウィルさんを誘いたいって話しは良く聞くしね」

 エマがため息混じりに笑った。

「それは駄目だよ、エマ。ウィルの時間の20パーセントはあたしたちと、80パーセントはエーレルトさまと一緒って決まっているんだから」

 得意げに薄い胸を張るジゼル。

 それって俺の時間が無いのでは……。

 そう言い返してやろうとした瞬間、チャイムが鳴った。

 あっ。

 休み時間が終わってしまった。ソフィアのところに行こうと思っていたのに……。

 バタバタと自席に戻るクラスメイトたち。

 先生が教室に入って来ると、イングリッドの号令が静かに響く。

 立ち上がって礼をすると、俺はスカートを折りながら再び席についた。

 授業が始まる。

 先生のチョークが黒板を叩くリズミカルな音。窓から差し込む透き通った光。さらさらとノートの上を走るペンの音が軽やかに響き、時たまクスッと笑い合う少女たちの声が聞こえる。

 代わり映えしない教室の光景。

 時間が、ゆっくりと退屈に、しかし穏やかに流れていく。

 日常、か。

 ペンを持ちながら、俺は口の中で小さく呟いていた。

 そこに、隣のアリシアからすっと紙片が差し出された。淡いピンクの色紙が丁寧に折り畳まれていた。

 アリシアは俺を一瞥して微笑むと、直ぐに教壇へと視線を戻してしまう。

 俺はその紙を受け取り、中を確認した。

 ジゼルからの手紙だ。

 細かい字で、今度の休日みんなで出かけようと綴られていた。

 俺はそっと右前方のジゼルを見る。

 さらさらと返事を書いて紙を折りたたむと、俺もアリシアにそっと差し出した。

 週末の予定は特になかったと思う。しかし名目上とはいえ、俺はアオイの護衛役だ。私用で出かけるには、やはりアオイの了承が必要だと思う。

 アオイに確認してからと記した俺の手紙が、クラスメイトたちの手を経由してジゼルのもとに届く。

 ジゼルが手紙に目を落とす。そして少しだけこちらを振り向くと、頬を膨らませてみせた。

 何か言いたげなその表情に俺は、きっと次の休み時間にはまた取り囲まれるに違いないと確信する。素早くソフィアの所に行かなければ、また休み時間が終わってしまうかもしれない。

 ……そんな休みの無駄使いも、まぁ嫌いではないのだけれど。

 授業が終わると、案の定ジゼルが走り寄って来た。そこに他のクラスメイトたちも合流して、みんな何だか分からない話で盛り上がり始めた。

 楽しそうな雰囲気を壊すわけにもいかず、俺はじっと笑顔を浮かべて相槌を打つ。ラミアがぼそりと言った冗談に、教室中に笑い声が広がった。

「ほら、みんなウィルが学院に来てくれて嬉しいんですよ」

 会話の合間。そっと俺に身を寄せて来たアリシアが囁いた。彼女にしては珍しい、少し悪戯っぽい笑顔を浮かべて。

 む。

 俺は少し恥ずかしくなって、視線を逸らした。

 顔が赤くなってしまったのは、多分風邪のせいだけではないと思う。

 ……ソフィアの所へ行くのは、まぁ、後でもいいかもしれない。

「ねぇ、ウィルもそう思うでしょ」

「うん、そうだな」

 



 結局俺が自由に動けるようになったのは、放課後になってからの事だった。アオイからは帰宅が少し遅くなるから待っていて欲しいというメールが来ていたし、丁度よかった。

 しかし、ジゼルたちに別れを告げて1人きりになると、急に体調不良を意識してしまう。朝よりも確実に具合は悪く、だんだんと悪化してしまっている様だった。

 教室棟を出て音楽棟に向かう道中も、俺は何度も立ち止まって息を整えなければならなかった。

 うぐぐぐ……。

 額に手を当てると自分でもわかる。

 熱い。

 ……これは本格的に風邪だ。

 しかし軍警隊員としては動けない今の間だからこそ、ソフィアに尋ねておかなければならないのだ。

 ディンドルフ男爵の娘の状況を。

 正直、気が重い事ではあるけれど……。

 しかし、それを確認する事だけは、放置して良い事ではないと思えた。

 知ってどうするのか。

 それは、俺にもわからない。

 彼女の家を戦場にした事を謝るのか?

 傷心の彼女を慰めるのか?

 そんなことをしても何も状況は変わらないし、結局は俺の自己満足に過ぎないと思う。それに、男爵邸に踏み込んだこと自体は間違っていないと俺は信じている。彼女の父親は、それだけの罪を重ねたのだから。

 しかし俺は、俺たち軍警が戦ったその結果は、きちんと知っておくべきだと思う。そこから目を背けるならば、己が主張を通す為に、理想のためにと嘯きながらテロを繰り返すような騎士団と同じになってしまう気がするからだ。

 俺は音楽棟に入ると、ソフィアがいるであろう4階の音楽準備室に向かった。

 自分でも驚くほどゆっくりとしたペースで階段を上がる。

 胸がバクバクして、視界がグラグラする。鼻をずっと鳴らし、1階上がる度に足がもつれて転びそうになってしまった。

 やっとの事で音楽準備にたどり着き、扉をノックする。

 しかし、反応がなかった。

 念のためにドアに手を掛けてみるが、鍵が閉まっていた。

 俺は大きく肩を落とした。そして息を吐く。

 ここにいないとなると職員棟の教員室か……。

 いずれにせよ、今の俺の状態では、職員棟までの道のりがかなりの長旅に思えてしまった。

「はぁ……」

 額に汗がにじんでいるにも関わらず、寒い……。

 しかし、 確かめなければ。

「しょうがないな……」

 俺はぽつりと呟き、ソフィアと連絡を取るべく携帯を取り出した。初めから直接連絡しておけばよかったのだが、ぼうっとした頭ではそこまで思い至らなかったのだ。

 携帯を見ながら音楽棟を出るべく踵を返した瞬間。

 足がもつれてしまった。

「ひゃわっ」

 ふらふらとよろめいてしまう。

 転ぶ、と思ったその時。

 俺は、ぽすと抱き止められた。

 大きくがっしりとした何かに……。

「大丈夫か」

 低く響く声が頭上から振って来る。微かに漂う柑橘系の香水。

「随分と具合が悪そうだな、ウィル・アーレン」

 ポカンとしたままの俺が顔をあげると、微笑を浮かべた男が俺を見下ろしていた。

 ダークスーツに身を包み、黒髪を丁寧に撫でつけた若い男。鋭く整った顔立ちと、凄みのあるこの目には、見覚えがあった。

 いつか俺がぶつかってしまった、学院関係者の方だ。多分……。

「ひゃ」

 俺は思わず小さな悲鳴を上げた。不意に彼の大きな手が俺の前髪を掻き上げて、額に触れたからだ。

「いけないな。熱がある」

 彼が真っ直ぐに俺を見据える。

 鋭い目が俺を射竦める。最初は厳しい雰囲気をたたえていた視線が、しかし直ぐにふっと緩まった。

 少しドキリとする。

 その目は、これまでの彼の印象とは違う、慈しみを湛えた優しい目だったからだ。

 俺はどう対応していいのか分からず、おどおどしながら見返すことしか出来ない。

「……私もまだまだ甘いという事か」

 スーツの男がぽつりと呟いた。そして、失礼すると短く言い放つと、ひょいっと俺を持ち上げた。

 突然。

 不意に。

 まるで、鞄でも取り上げるように易々と。

「え?」

 俺は呆然とするしかない。

 呆然としたまま、目の前の男に抱き抱えられてしまっていた。

 俺の背中と膝裏を支える彼の腕は少しも揺るがない。

 スカートがパラリと揺れる。

「なっ……!」

 あまりに突然の事に、俺は絶句するしかない。

「取り敢えず医務室へ運ぶ。静かにしていなさい」

 そう告げると男は、軽快に駆け出した。規則正しいリズムで足音を刻みながら、階段を駆け降りていく。

 なっ!

 ななな……!

 ななななななななっ!

 顔が真っ赤になる。

 これは熱のせいじゃない、絶対!

「お、下せっ、下し、けほっけほっ……」

 抗議の声を上げるが、力むと咳き込んでしまった。

 俺の精一杯の抗議にも、しかし男は俺を一瞥するだけだ。

 な、な、なんという屈辱!

 恥辱!

 辱め!

 くっ、ハンドガンは教室の鞄の中だ!

「お、下ろしてっ!」

 俺は何とか現状を打破しようともがく。

「動いてはいけない」

 しかし微笑を浮かべた彼はひょいっと俺を抱え直すと、何事もなかったかのように駆け続けた。

 あぐぅ……。

 何だ、これは……。

 何だ、この状況は……。

 極度の緊張と恥ずかしさの為に、風邪とか体調不良とか関係なしに体中がぶるぶると震えだした。

 男は息も乱さず音楽棟を飛び出すと、薄暗くなった小径を駆け抜けて職員棟に入った。

 どうやら本当に医務室に連れて行ってくれるみたいだが、万が一こんなところ誰かに見られたら……。

「きゃ、何あれ!」

「お姫様抱っこ?」

「何かしら、何かしら」

 職員棟の廊下の向こうからやって来るエーデルヴァイスの女子生徒たち。

「うぐっ」

 俺は彼女たちに見られないよう、精一杯顔を逸らす。

 た、他人の振りだ、他人の振りを……。

 永劫とも言える恥辱の時間の後、やっと医務室に到着した。

 放課後の医務室には人気はなかった。ベッドも全部空いている。その1つに、男は優しく俺を下した。

「これは何の真似ですかっ」

 寝かされるやいなや、俺はばっと起き上がって抗議する。しかし勢いよく動いたせいで、グルグルと目が回り、俺はううっと唸ってベッドに手をついた。

「今は安静にしていなさい」

 男が呆れたように息を吐いた。

 俺は上目遣いに男を睨み上げる。

 背の高い男は、高所から俺を見下ろして来る。

 その顔には、微笑ましいもの見るような生暖かい笑みが張り付いていた。

 ぐぬぬぬぬ……。

 静かな睨み合い。

 しかし俺は、そっと目を逸らした。

 くっ……。

 負けたわけじゃない。

 決して!

 しかし体調が悪いのは事実なのだから、しょうがない。

 俺はごそごそと動いてベッドに横になる。そして鼻まで布団を被ると、むうっと男を睨んだ。

 これで満足だろう!

「……あたなは何者なんですか」

 俺はぼそぼそと呟く。

 男はふっと笑いながらじっと俺の事を見つめている。その黒い瞳は、少しも揺らぐ事なく俺を捉えていた。

 ……何なんだ。

「学院の職員の方ですか? 先生なんですか?」

 ずっと見られているだけというのもかなり居心地が悪かったので、俺は矢継ぎ早に質問をぶつけてみた。

「ああ。そうだな。私はジークという」

 不敵な笑みを浮かべ、ジーク先生は軽く頷いた。

 ジーク先生。

 知らない……。

 俺は、はあっと大きく溜め息を吐いた。

 しかしこの先生のお陰で、ソフィアに会う計画が台無しだ。

 とんだ辱めにもあったし……。

 ディンドルフ男爵令嬢の件を確かめなければいけないのに。

 そうだ。

 熱でぼうっとする頭で、俺は閃いた。

 この男も先生なら、ディンドルフ男爵令嬢の事について何か知っているかもしれない。

 ……聞いてみるか。

 このままアオイが呼び出され、一緒に帰宅してしまっては、ソフィアに尋ねる事も出来なくなる。

 それに、方法はあれだが、俺をわざわざ運んでくれるような先生なら、きっといい人なのだろう。質問すれば、答えてくれるかもしれない。態度は横柄だけど……。

 見られているだけのこの状況だと、間がもたないし……。

 俺は一瞬目を瞑る。

「あの、お聞きしてもいいですか」

 俺は再びジーク先生を見上げて口を開いた。

「何かな」

 先生の低い声が響く。

「あの、ディンドルフ男爵のご息女の件なんですが……」

 おずおずとそう切り出してみると、ジーク先生はすっと目を細めた。

 やはり、不意に尋ねるには不躾な質問だったか。

 俺は怪しまれないように適当な言い訳を試みる。

「あの、ニュースとかで見て、それに男爵のご息女がエーデルヴァイスにいるのも知っていたから、それで気になって……」

 尻すぼみに声を小さくしながら、俺はぎゅっとシーツを握り締めた。

「なるほど」

 ジーク先生が笑う。

「君はそんな事を気にしていたのか。ふむ。あれは悲惨な事件だったが、君自身には何も責任はないというのに。他者を慈しむ心。やはり、エーレルトの血脈に連なる者の気高さ、か」

 エーレルト?

 何故ここでアオイが出てくるのだろうか。

 確かに、俺は表向きは、エーレルト伯爵家の関係者であるわけだが……。

「そのように気高い魂だからこそなのか、その在り方が矯正されたのか」

 ジーク先生が口元に手を当てる。何か意味不明な事をぶつぶつと言っているかと思うと、クスクスと笑い出した。

 声を上げて。

 それは先程までの余裕を湛えた笑みではなく、心底楽しそうな笑みだった。

 む。

 俺は何かおかしな事を言ったのだろうか。

「……くくく。いや、楽しませてもらったよ、ウィル・アーレン。お返しに、君の質問に答えてあげよう」

 ジーク先生は腕を組み、片足に体重を載せるようにして立った。

「マリーナ・ディンドルフは、聖フィーナを去ったよ。父君の遠縁を頼ってオーリウェルを出た。一昨日の事だ」

 ……そうか。

 俺は目を瞑り、大きくゆっくりと息を吐く。

 彼女があの戦闘に巻き込まれなかったのは不幸中の幸いだった。しかし、その人生は大きく歪められてしまった事になる。

 彼女自身は何も悪くない。ジゼルやアリシアたちと同じ、ただの学生であった筈なのに……。

「けほっけほっ……」

 俺は口に手を当てて何とか咳を抑えようとする。

「さぁ、ウィル・エーレルト。余計な事は考えず、今は休みなさい。校医の先生を呼んで来てあげるから」

 ジーク先生は今までで一番優しい声でそう告げると、踵を返した。

「ジーク先生」

 名前を間違えられたが俺は気にせず、その背に声を掛けた。

「ありがとうございました」

 そしてお礼を伝える。

 もちろんそれは、恥ずかしい方法で俺を運んだことなどへでは決してなく、俺にディンドルフ男爵令嬢の事を教えてくれた事へ対しての感謝だ。

 ジーク先生が頷き、さっと手を挙げて歩み去る。

 1人になると、熱の苦しさと得体の知れない苦味が体の中で渦巻いているのがわかった。

 その苦しみを押さえ込むように、俺はぎゅっと目を瞑る。

 今は。 

 ぎゅっと。

 静かに。

 ご一読、ありがとうございました!

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