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Hexe Complex  作者:
32/85

Order:32

 片側だけになったヘッドライトが、夜の帳が降りたアウトバーンの路面を照らし出す。

 遠く山の端を赤い線で彩る太陽の残光が、今日も1日が終わって行くことを告げていた。

 しかし、普段なら切なくなるようなその夕方の風景も、銃声とマズルフラッシュと飛来する攻撃術式の中では、気にかけている余裕など全くなかった。

 アウトバーンは、オーリウェル郊外の渓谷地帯に差し掛かっていた。

 左手には落石防止ネットに包まれた切り立った岩壁。右手は谷底を流れるルーベル川。最大片側4車線のアウトバーンも、今や片側2車線まで狭まっていた。

 そんな道路を、猛スピードで北上する車が2台。

 逃走するバンと、追跡するエーレルト家の自家用車、俺たちの車だ。

 その助手席の窓から身を乗り出し氷の矢の汎用術式を迎撃していた俺は、車内に体を引き戻した。そして、ブルパップライフルの弾倉を交換する。

 ……後2本。

 未だに敵の防御場は崩せていない。しかし、攻撃術式の迎撃には成功している。

 状況はほぼ拮抗している。

 後は俺の残弾が無くなるのが早いか、相手の魔素が底をつくのが早いか。

 こちらの迎撃が不可能になれば、追跡を振り切られる可能性もある。

 ……逃がさない。

 オーリウェルを、罪もない人々をあんな目に合わせた奴らを!

 俺は体に溜まった熱を逃がすかのように、ふっと息を吐いた。そして、風圧で乱れた髪を掻き上げ、耳に掛ける。

 胸がとくんとくんと早鐘のように鳴っていた。

「マーベリック。バンの前に出られるか?」

 俺はちらりと運転席の大男を見た。

 マーベリックは俺を見て不敵に笑い、頷いてくれた。

 俺たちの車が加速し始める。

 俺はライフルを構えてタイミングに備える。

 ブレザーの下で携帯が鳴動した。

 俺はチラリと画面を一瞥して再び携帯をしまう。

 先ほどから再三アオイより着信が入っていたが、今はそれどころではない。

「右、牽制する! すり抜けろ!」

 俺は叫びながら、窓から銃口を突き出した。

 高鳴るエンジン音。

 俺たちの車がバンに並ぶ。

 その側面に、照準なしの制圧射撃。

 サイドドアから体を出していた魔術師が、驚いたように後退り、バンの中に倒れ込んだ。

 しかし銃弾は奴らには届かない。

 防御場に弾かれる。

 くっ。

 ……防御場を仕掛けているのは、こちらの魔術師ではなかったか。

 黒塗りの高級車が一気にバンを抜き去った。

 先ほどから一般の車両がいない。バートレットたち軍警が、規制を掛けてくれているのだろう。

 俺は助手席の中で体を捻る。

 内部の広い高級車といえども、ライフルを持って動き回るには辛い。膝立ちの、少し不安定な姿勢になってしまった。

「ぬわ、ウィルお嬢、スカートがまくれてる、うぉ、おい!」

 運転席からマーベリックが何か叫んでいたが、それどころではない。

 もしかしたらバン前面には防御場が無いかもしれない。

 対応される前に、運転手を潰せば……!

 眩いヘッドライトを潰したいところだが、タイミングは逸したくない。

 ダットサイトの向こう、運転席に向けて一斉射。

 3発の弾丸がバンに吸い込まれる。

 続けてもう一連射!

 ビシっとバンのフロントガラスにヒビが入った。

 しかし、1発だけ。

 他の手応えはない。

 バンも微かに揺らいだ程度で、その走行は安定していた。

「くっ、対応された!」

 間一髪のタイミングで、前面にも防御場を張られたっ!

 1発は当たったが、有効打にはならなかった様だ。

「おのれ!」

 間髪おかず敵の反撃が始まる。

 飛来する氷の矢。

 射程外だが、雷撃も飛んで来る。

 俺はシートの上で膝立ちになりながら、必至に迎撃する。

 ……これでは先ほどまでと同じだ。

 さらに、状況は俺に不利になりつつある。陽が落ち、街の灯りもない渓谷地帯。暗視装置のない今の俺では、街灯の光頼みの迎撃には限界があった。

 ……うう。

 このままではジリ貧だ。

 その時、再び携帯が鳴った。

 またアオイか。

 アオイに援護を求めるか?

 しかし……。

 アオイは魔術師だ。

 ここしばらく完全に忘れていたそんな事が、ふと脳裏をよぎった。

 ……くっ。

 魔術師だからなんだと言うのだ。

 俺は胸の内で即座に反論する。

 アオイは大好きだ。それに、レーミアに、アリシアやエマみたいな学校のみんなだって魔術師だが、大事な友人だ。

 魔術師だからといって敵じゃない。

 俺はそれを学んだ筈なのに……。

 ……きっと、戦闘の影響で興奮しているせいだろう。

 俺は車内に戻り、携帯を取り出す。

 マーベリックが速度を上げ、車を左右に振って回避行動を取り始めた。

 その揺れに耐えながら携帯を見た俺は、眉をひそめた。

 アオイではない。

 そこには、見知らぬ番号が表示されていた。



「もしもし」

 電話に出ると、激しいノイズが聞こえて来た。

 何だ?

『ウィル・アーレンか? こちらは軍警オーリウェル支部、作戦部所属のΕ分隊だ! 援護に来た!』

 携帯から、スピーカーが割れるような大声が聞こえてきた。

 来てくれた!

 俺は息を呑み、顔を引き締める。

『到着まで1分。車間距離を取り、退避せよ』

 どこから、と聞き返している隙はない。

「了解! マーベリック、スピードを上げて。車間距離を取ってくれ!」

 俺はそう叫ぶと、再び窓から身を乗り出して牽制射撃を始めた。増援の到着を、なるべく悟られないように。

 吹き付ける風は身を切るように冷たい。

 グローブも付けていない手はかじかみそうだった。季節はもう完全な秋。そして、もう直ぐそこに冬が迫って来ているのだから、当たり前のことだが。

 その冷ややかな空気の中、唸りを上げる2台の車のエンジン音。

 一旦射撃を止めると、さらにもう一つ、低音を響かせた何かが、急速に近づいて来るのが聞こえた。

 しかし、前にも後ろにも俺たちの車のヘッドライト以外に車両はない。アウトバーンの赤い街灯が点々と続いているだけだった。

 いよいよ音が大きくなる。

 お腹に響くような低い音だった。

 断続的なその音が、さらに高まる。

 そして。

 なおもライフルを構え警戒する俺に、猛烈な突風が襲い掛かって来た。

 進行方向右側。

 ルーベル川への断崖絶壁になっているその向こうから、巨大な塊が飛翔する。

 低いエンジン音の唸り。

 回転翼の作り出す猛烈なダウンウオッシュ。

「シュバルツホーゲル!」

 俺たちの側面から急上昇して来たのは、軍警が正式採用するヘリ、UH60Dシュバルツホーゲルだった。

 谷合を低空進入して来たのだ。

 俺も訓練で搭乗した事はあったが、闇夜に溶けるような漆黒の機体が突然目の前に現れれば、圧倒されずにはいられなかった。

 バンの魔術師たちが、併走するヘリを指差し何かを叫んでいるのが見えた。

 ヘリのサーチライトがバンを照らす。

『こちらは、軍警だ。そこのバン、直ちに停車しなさい。繰り返す。直ちに停車しなさい!』

 大音量の警告が、谷合のアウトバーンに響き渡った。

 しかしバンはスピードを落とさない。

 それどころか、バンの周りに展開された氷の矢の魔術が、ヘリに指向する。

『魔術の攻撃使用確認。制圧行動開始』

 ヘリから無慈悲な声が響いた。

 ヘリのサイドドアから引き出されるミニガン。

 多連装砲身の凶悪な銃口が、斜め下を行くバンに向けられた。

 そして。

 ヘリの爆音の中に、さらにミニガンの猛烈な発射音が重なった。

 毎分数千発の単位で放たれた弾丸が、バンを襲う。

 1薙ぎでヘリに向けて放たれた氷の術式を引きちぎり、防御場に到達する。

 防御場が襲い来る銃弾の嵐を防いだのは、ほんの数秒ほど。

 ガラスが砕け散ったように輝きを散らせて砕ける防御場の術式。

 そして、今まで傷つけられなかった白いバンの車体は、一瞬にして蜂の巣になってしまった。

 バンはゆらゆらと蛇行すると、ガードレールに激突した。そしてその勢いでスピンすると、中央分離帯に乗り上げ、横転する。路面を傷付け火花を飛ばしながら、岩壁ギリギリまで吹き飛んだバンは、そこでやっと停止した。

「マーベリック、車を止めてくれ」

 俺は静かにそう告げる。

 終わった。

 あれでは、中の人間もただでは済まないだろう。

 マーベリックが減速し、来た道を逆走すると、バンの近くに車を止めてくれた。

 俺は停車した車から降りる。

 上空をフライパスするシュバルツホーゲル。

 髪を押さえて見上げると、ミニガンのトリガーを握るドアガンナーが、こちらに手を振っていた。

 俺はスカートも押さえながら軽く手を上げ、それに応える。

 少し離れたところでホバリングを始めたヘリから、ロープが垂らされた。Ε分隊を降ろすのだろう。

 俺は改めてストックを肩に当てライフルを構えると、銃口と目線を同軸に保ちながら横転したバンに近付いた。

 街中とは違う濃い緑の匂いが漂っていた。それに混じって、微かにガソリンの香もする。もしかしたらバンからガソリンが漏れているのかもしれない。

 激しい銃撃により、ひしゃげ、穴だらけになったバン。

 俺は割れたフロントガラスから飛び出し、倒れている若い男の前に立った。

 助手席に乗っていた男だ。

 一見して体中の裂傷から派手に出血していたが、苦痛に呻くだけの意識はあるようだった。

 俺は男の頭部に銃口を突き付けた。

「エストヴァルド駅を爆破したのはお前たちか!」

 俺は低い声で問う。

 男は答えない。

「禁呪の自爆術式陣を使用したな! 何故だ!」

 俺は倒れた男を見下ろす。

「ううう、た、助け……」

 呻く男。

 俺は唇を噛み締める。

 何故だ。

 何故あんな事をしたんだ!

 何故……。

 わからなかった。

 訳がわからなかった。

 あの駅前広場には、誰かの父親もいただろう。

 母親もいた筈だ。

 そして、誰かの姉も。

 彼らは今日、1人待っている弟の所に帰れないかもしれない。

 もしかしたらそれが、永遠の別れになるかもしれない。

 そんな突然の別離に遭うどんな理由が、彼らにあったというのだろう。

 トリガーに掛けた指に力が入る。

 家族の顔が頭をよぎる。

 そしてもう1人。

 何故か姉貴にだぶって、黒髪の少女の顔を思い浮かべてしまった。


 いけない、ウィル。


 声を聞いた。

 そんな気がした。

 俺は後退る。

 頭がくらくらする。

 何故だか視界が、じんわりと滲んでいた。

「ウィル・アーレン」

 その時、不意に背後から、俺の肩に手が置かれた。

 はっとして振り返る。

 防弾メットに覆面、漆黒の装備に軍警正式採用のアサルトカービンを下げた男が立っていた。その背後から駆け寄って来るのは、同様の装備の男たち。

 ヘリから降下したΕ分隊か。

「良く戦ったな。ウィル・アーレン。後は我々の分隊が引き継ぐ。君は本部の指示を仰ぎ、帰投しなさい」

 ヘルメットと覆面の間から覗く目は鋭かったが、声音は優しかった。多分この人が分隊長だろう。

「さぁ、もう泣くな。綺麗な顔が台無しになる」

 笑う分隊長に、俺はとっさに目元を拭った。

「な、泣いてなんていません!」

 俺はむうっと眉をひそめる。

 その俺の頭に、ゴツいグローブで覆われたΕ分隊長の手がポンと置かれた。

 俺は精一杯胸を張り、敬礼する。

 そして、車から降りてこちらを見ているマーベリックのもとに走り寄った。

「マーベリック、オーリウェルに戻ろう!」

 取り敢えず、魔術テロを引き起こしたと思われる容疑者の確保には成功した。

 しかし。

 それで何が変わるのだろう。

 失われたものは帰ってこない。

 俺は、ライフルを握り締める手に力を込めた。



 心地よい温もりとほっとするような甘い匂いに包まれて、俺はふっと覚醒した。

 全身が鉛のように重い。昨日の戦闘の疲労が、たっぷりと全身に残っているという実感があった。

 重いまぶたをそっと開く。

 目の前には、少しはだけてしまった白い着物。そこから覗く透き通るような白い肌があった。

 う……?

 俺はもぞもぞと動いて身を起こした。

 抱き締めるように俺の上に置かれていた腕が、はらりと落ちた。

 俺はさらりとこぼれて来るストロベリーブロンドを掻き上げる。

 俺の隣には、枕の上に黒髪を広げたアオイが、未だ深い寝息を立てていた。

 ああ、そうか……。

 昨夜、俺たちが屋敷に帰って来たのは、ほぼ朝方のことだった。それからシャワーだけ浴びて、そそくさとベッドに入ったのだ。

 ところが、アオイがずっと俺を離してくれなかったのだ。

 結局俺たちは、そのまま俺の部屋のベッドに入って一緒に寝てしまったのだった。

 俺はベッドからすっと足を下ろすと、スリッパを引っ掛けて窓際に歩み寄った。少しカーテンを上げて外を覗くと、既に秋晴れの快晴が広がっていた。

 ちらりと壁掛け時計を見やる。

 時刻は既に10時を過ぎていた。

 ……今日はもう学校は休みだな。

 俺はふうっと息を吐きながら、そんな事を思った。

 爽やかな朝の筈なのに、胸の奥がずしんと重たい。

 まるで、一晩中悪夢にうなされていたみたいだ。

 しかし、それが悪夢であれば、どれほど良かっただろう。

 ……昨日の出来事は、悪夢なんかじゃなかった。

 紛れもない現実。

 無慈悲な事実。

 現実に起きてしまった魔術テロ事件なのだから。

 俺はソファーにポスッと腰掛けると、テレビを点けてそっと音量を絞る。どのチャンネルも、昨日の事件の報道ばかりだった。

 昨夜。

 アウトバーンでの追跡を終えオーリウェル市内に戻った俺とマーベリックは、再び爆発現場に戻った。

 緊急車両が殺到し、けたたましいサイレンが響き渡っていた。投光器の光が、真昼のように眩く現場を照らし出していた。

 集まる野次馬と報道関係者で、現場は事件直後とは違う意味で騒然となっていた。

 交通規制が掛かった市内の道は渋滞し、俺たちがアオイのもとに戻るには随分と時間が掛かってしまった。

 現場に戻った俺は、まずアオイに叱られた。

 伯爵家の車を壊してしまったからではない。無断でアオイの元を離れ、危険な事をしたという理由で。

 しかし、アオイの説教も長くは続かなかった。いや、続けられなかった。

 アオイは現場の医療スタッフに協力者として呼ばれ、負傷者に対して治癒術式を施さなければならなかった。救急隊にも治癒魔術師はいたけれど、当然ながらその数は不足していたのだ。

 アオイにとっては簡単な魔術なのだろうが、かなり連続で使用し続けていた様だった。きっと魔素の消耗も激しかったに違いない。

 未だベッドの上で、あどけない少女の顔で寝息を立てているのも、仕方がないことだと思う。

 俺も、ただアオイを見ていただけではない。

 俺は俺で、容疑者の発見と追跡に関して軍警刑事部から事情聴取を受けることになった。その他の捜査への立ち会いもだ。

 現場にはバートレットとアリスもいたけれど、2人とも忙しく動き回っていて少し話せただけだった。

 軍警の調査では、やはり駅前の泉の地下施設が爆心地の様だった。

 市役所の職員を装った男が現れた共同構のメンテナンスハッチから、エストヴァルト駅前の泉の地下施設まで到達出来る事が判明したのだ。

 泉はもちろん天然のものではない。地下水を汲み上げ、地下で一旦貯水されたものが、一部、泉の水として地表に現れるのだ。

 その貯水施設やポンプ施設が跡形もなく崩壊していた事から、爆心地はやはり泉の地下である事が推測されていた。

 そしてその爆発については、アオイも言っていた通り、軍警でもその兆候を把握出来なかった様だ。

 ただ爆発直後とその後しばらくの間、大量の魔素が放出されるのが観測されたことから、今回の惨事が魔術によるものであると結論付けられていた。

 魔素観測ネットにもアオイにも感知出来なかった魔術の行使。

 それにも関わらず、これだけの被害が出ている。

 やはり、事前に探知出来ない術式陣。

 あの古の禁呪である自爆術式陣が使用されたのだろうというのが、昨日の軍警の見解だった。

『昨日の爆発により、多数の死者、並びに重軽傷者が発生しております。これを受け、今朝未明にオーリウェル市長が会見を行いました。市長は……』

 淡々と告げるテレビの中のニュースキャスターを、俺はじっと睨み付けた。

 警戒していた状態で魔術テロを防げなかった事で、軍警はさらに警備体制を引き上げ、臨戦体制に入っている。今後は背後関係の把握、関係者の摘発など、厳しい捜査が行われる筈だ。

 ……俺も、何か手伝わなくては。

「ウィル」

 不意に、背後から声が掛かる。

 寝起きのアオイの声だった。

「もう少し休んでおいた方がいい。疲れているだろう」

 俺は一度だけキュッと目を瞑り、深呼吸する。

 休むとか、そんな事は今は考えられない。

 少しでも俺に出来る事があるなら、それに全力を尽くさなければいけないのだから。

 しかし、その出来る事が具体的にわからない。

 だから、胸の奥がもやもやする。

 ……でも、そのイライラをアオイにぶつけたくはなかったのだ。

 俺はふうっと息を吐き、振り返った。

「おはよう、アオイ」

「……ウィル。そう怖い顔をしなくてもいい。ウィルのせいじゃない。ウィルが気に病む必要はないのだ」

 穏やかな顔に困ったような笑顔を浮かべるアオイ。

 アオイが俺を気遣ってくれている事は、理解する事が出来た。

 しかし、すんなりと受け入れることは出来る筈がない。

 テレビは、夕方のオーリウェルの街から立ち上る黒煙の様子を繰り返し映していた。

 後悔しても意味の無いことは、あの家族を失った日から今までの間、痛い程実感して来たのだ。

 だから、もう後悔しないように頑張った。

 なのに。

 なのに……。

「……ウィル。さぁ、こちらにおいで」

 アオイが囁く。

 しかし俺は、そっと首を振った。

 姉に頼ってはいけない。

 今は俺自身が動かなければ。

「学校を休んだのは幸いだったな。午後は支部に出頭して来る」

 俺は努めて明るい声を上げた。

 アオイが眉をひそめて膨れる。

「ウィルはまた私を置いてけぼりにするつもりだな」

 アオイが冗談めかして笑う。

 ……俺に調子を合わせてくれているのだろう。

「いいか、ウィル。昨日のような危険な振る舞いはいけない。もしもどうしてもと言うのなら、私が付き添うから……」

 ……あれ。

 冗談っぽく聞こえない。何だかアオイが真顔だ。

 じりじりとアオイが説教モードになり始めたタイミングで、レーミアが部屋にやって来た。

 俺とアオイの顔を見て不機嫌そうになるレーミアだったが、アオイの体調を慮ってだろう。文句も言わず、手早く起床の準備を手伝ってくれると、朝食の用意をしてくれた。

 時刻は昼に近かったけれど、朝食を終えた俺は、何とかアオイを部屋から追い出した。

 アオイはまだ俺の部屋にいると抵抗したが、そこはさすがにレーミアが譲らなかった。自室でお休み下さいとアオイを連れて行ってくれたのだ。

 さて、と。

 俺はふっと息を吐く。

 クローゼットを開いた俺は、中からクリーニングのビニールに包まれた制服を取り出した。

 学校の制服ではない。

 軍警の制服だ。

 以前借りていた簡易的なものではない。ましてや昔の俺のものでもない。

 俺用に採寸したものを、以前レインから受け取っていたのだ。

 今まで着る機会は無かったが……。

 俺はTシャツと短パンを脱いで白の下着姿になる。その上からチャコールのシャツを着ると、ライトグレーのネクタイを締めた。取り出した下がズボンではなくタイトスカートだったので一瞬固まってしまうが、いつもの学生服のスカートよりは丈が長いので、まぁいいかと納得する。

「しょうがない」

 俺はぼそりと呟いてスカートに足を通した。サイドのジッパーをきゅっと閉めておく。

 ズボンでなくスカートを入れて来たあたりにレインの性格を感じるが、今は服装に文句を言っている場合ではなかった。

 シャツの上から一応ショルダーホルスターを付けると、胸が潰れないようにハーネスを調整する。ハンドガンをそのホルスターにしまい、黒のジャケットを羽織ると、俺は少しだけ鏡の前に立った。

 桜色の髪の少女が、鋭い目つきでこちらを見ている。

 何だかダークカラーの制服が似合っていない気がした。

 しかし。

 ……関係ない。

 今は自分の事なんてどうでもいい。緊急事態に際して、少しでも自分の出来る事を果たさなければならないのだから。

 果たさなければ。

 何かをなさなければ。

 全力で。

 軍警オーリウェル支部に出頭するため、俺はきっと前方を睨んで歩き出した。

 読んでいただき、ありがとうございました!

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