Order:24
今日が始まる。
穏やかな日差しが世界を満たし、明るい少女たちの声が、芝生の小径に階段に、廊下に教室に響き渡る朝。いつもと変わらない退屈な、でも平和な今日が、ゆっくりと動き出そうとしていた。
「おはよー」
「おはようございます、ウィルさん」
ジゼルとエマの朗らかな声。
アオイを送り届けた俺が自分の教室までやって来ると、ジゼルとエマの挨拶が迎えてくれた。
「おはよう」
俺もここ数日ですっかり仲良くなった2人に手を上げて、自分の席についた。
「ウィル、おはようございます」
「おはよう、アリシア」
隣の席のアリシアが、上品に微笑みながら挨拶してくれた。席が隣ということで、このアリシアとも俺は、よく話をするようなっていた。
アリシアはやはりどこかの子爵さまのご令嬢で、色素の薄い金髪のロングヘアが印象的だった。本人曰わく家は没落して子爵とは名ばかりの普通の家庭だそうだが、一瞬の所作に雅な雰囲気が窺える少女だった。
「今朝もエーレルトさまをしっかりお見送りしてましたね。さすが騎士さま」
見られてたか……。
鞄から筆箱や教科書を出しながら、照れ隠しに俺はふっと息を吐いた。
「まぁ、俺の務めだからな」
苦笑しながらアリシアを見る。
少女たちの目は存外侮れない。
意外な現場を目撃されていたり、他愛ない事があっという間に広がっていたりする。盛大な尾ひれが付いた噂として……。
「まあまあ。さすがエーレルトの騎士さま」
手を合わせて、ぽっと頬を赤らめるアリシア。
俺は、はははっと乾いた笑みを返しておく。
俺がアオイの騎士だという噂は、否定するまもなく既定事項として少女たちの間に広まってしまった。しかし俺も、あえてそれに反論しない事にしていた。
騎士ならば主に付き従っているのは当然。何かにつけてアオイを窺いに行ったり、行動を共にしていることを正当化するには、いい口実だと思ったからだ。
「ウィル、トイレいこー」
授業の準備をしていると、ジゼルがスカートと癖っ毛を揺らして駆け寄って来た。
ジゼルの気さくな人柄はクラスでも人気があったが、歯に衣着せぬ言動が玉に瑕だったりする。現に今も、エーデルヴァイスの女子がトイレなどと大きな声で言うものではないとアリシアに注意されていた。
「はは……。悪いなジゼル。俺は予習があるから」
ブーブー言っているジゼルに、俺は苦笑を返した。
トイレは1人で行く。
……こっそりと。
「もう、わかったよ。ウィルは真面目だなぁ」
半眼で俺を見たジゼルが、エマと一緒に教室を出て行った。
周囲には、俺の一人称が『俺』であることは既に受け入れてもらったみたいだった。
最初は無理に『私』にしようとしていたが、無理だった。変な目で見られるのは承知で『俺』で通していたが、エマ曰わく「それがいいのです」だそうだ。
年頃の少女たちの趣味嗜好は、よくわからない。
話をするようになった他のクラスメイトと取り留めのない雑談をしていると、あっという間にホームルームの予鈴が鳴り響く。
「みなさん、おはよう」
鐘の音と同時に、颯爽と白衣を翻したヒュリツ先生が教室に入って来る。
同時にクラス委員長が号令を掛ける。
朝の礼を行うと、俺はそっとスカートを折って再び席に着いた。
「さて、屋外で過ごすには随分と心地良い気候となりましたが……」
ヒュリツ先生のよく通る声が教室に響き渡る。
こうして、今日も俺の聖フィーナ学院での1日が始まる。
2限目が終わると、3、4限目は音楽の授業だった。
俺にとっては気が重い時間の始まりだった。
なんたってこの時間の担当教員は、あのソフィアなのだから。
お嬢さま学校である聖フィーナには、単に音楽といっても複数の種類の授業があった。音楽史や音楽鑑賞などだ。
その中でソフィアが担当しているのは、音楽実技の時間だった。
「数人ずつのチームを作って課題曲を決めて、学年末の音楽祭に発表するんだよ」
ジゼルがソフィアの授業内容について教えてくれる。
ジゼルやエマ、それにアリシアやその友人のラミアたちと音楽棟に向かって歩きながら、俺はふむふむと頷いていた。
あのソフィアが、こうして大勢の生徒たちから先生と呼ばれているのを目の当たりにすると、何だか俺がむずむずしてしまう。
「もちろんウィルは、私たちのチームよね」
にかっとジゼルが微笑み掛けて来た。
「そうですね。それが良いですね」
アリシアが上品にふふっと笑っていた。
ジゼルたちなら心安いから、もちろん俺に異論はない。
「よろしく頼む」
俺もふわりと微笑んだ。
音楽棟の2階、実習室。
居並ぶ俺たちの前に、予鈴のチャイムと同時にスーツ姿のソフィアがやって来た。
お決まりの号令がかかり、授業が始まる。
「はいはい! 夏休みに練習してない人もいるでしょうけど、感覚を早めに取り返さないと、音楽祭はすぐにやって来るわよ!」
ソフィアの声が響く。
俺は、クラスメイトたちの後ろからその姿を見て、自然と微笑んでしまった。
……いつまでも怖い姉貴分だと思っていたけれど、こうして立派に先生をしているんだな。
不意にみんなに指示を出していたソフィアと目があった。
ソフィアは言葉を詰まらせて、はっと息を呑む。微かに頬を赤くすると、荒々しく俺から視線をそらした。
はは……。
俺は頬を掻いて苦笑する。
気まずい……。
ソフィアの立派な姿を見られたのは良いが、今の俺たちの関係、先生と生徒という立場が、なんとも気恥ずかしく、気まずかった。
こうなるのがわかっていたから、音楽の授業は気が重かったのだ。
「ジゼル、ちゃんと練習していたでしょうね」
「へへ……。お屋敷の仕事が忙しくて。ねっ、エマ」
「私は練習してたよ。奥さまの楽器をお借りして」
俺がソフィアと目線を交わしている間にも、ジゼルたちはごそごそと楽器の準備を始めていた。
ソフィアから視線を戻し、ジゼルたちを見た俺はギョッとした。
身の丈を遥かに超える楽器を構えるエマ。弓の調子を見ているアリシアとジゼル。そしてアップライトピアノに向かうラミア。
バ、バ、バイオリンにチェロに……。
胸がドキリとする。
こんな本格的な楽器を使うのか、高校生で……。
「ウィル。ごらんの通りの編成なの、うちのチーム」
ジゼルがヴァイオリンを顎にはさみながら俺を見た。
「アリシアがファーストヴァイオリンで、私がビオラだから、ウィルにはセカンドヴァイオリンやってもらえると、形になるんだけど」
ジゼルの、ヴァイオリンじゃなかったのか……。
「いや、俺は……」
楽器なんて出来ない。
生徒の演奏会なんて、もっと簡単なものだと想像していたのだが……。
ううっ。
一気に顔が青くなってしまった。
「はい」
不意に、おどおどする俺の顔の横に、細長いものが差し出された。背後から。
俺は思わずそれを受け取る。
慣れ親しん茶色の縦笛。リコーダーだった。
はっとして振り返る。
ソフィアが目線を逸らしながら立っていた。
「ウィルは……アーレンさんは、どうせリコーダーぐらいしか演奏出来ないでしょ」
ソフィ……。
俺は気恥ずかしさとフォローしてくれた有り難さで、へへっとはにかみながらソフィアに微笑みを向けた。
「悪いな、ソフィ。助かるよ」
ソフィアがムッと俺を睨み付ける。その頬は少し赤かった。
「……もう。先生でしょ、ウィル」
そして輝く金髪を翻して振り返ると、さっさと別のチームの方に歩いて行った。
よし。
俺にも得物が手には入った。これで戦える。
「ジゼル、これ……え?」
ジゼルたちに顔を向けた俺はきょとんとする。
好奇心を隠そうともしないジゼルとエマの視線。恥ずかしそうにチラチラと俺を窺うアリシアとラミアのお嬢さま方。
……何だ?
「この前もそうだけどっ。ウィルとソフィア先生って只ならぬ関係っぽいよね」
ニヤリと人の悪そうな笑みを浮かべるジゼル。
「只ならぬっ……」
アリシアが顔を真っ赤にしている。しかし、決して俺から視線を外そうとしない。
「エーレルトさまがいながら……。三角関係ですか」
少し呆れたような口調。しかし何かの期待の籠もった目で俺を見るエマ。
何なんだ。
俺は一歩後ずさる。
やはりこの少女たちが作り出す独特の空間には、なかなか馴染めなさそうだ……。
ソフィアの授業。
結局俺たちのチームは、練習というよりもお喋りに興じたまま過ごしてしまった。
話題はもちろん、俺とソフィア、そしてアオイの関係について。
……まったく。
どうしてジゼルたちは、こんな話題でああでもないこうでもないと長時間話をしていられるのだろう?
楽器の片づけもみんなですませてから、俺たち5人は、一緒に食堂でお昼にすることにした。
ゆっくりと片付けをしていたせいで、昼休みも半ばの昼食になってしまった。既に食堂は、食後のお茶やコーヒーを楽しんでいる生徒たちの明るい笑顔に包まれていた。
幸いにも窓際奥のテーブルを確保した俺たちは、トレイを並べて席に着く。
食堂の作りは、偶然か軍警オーリウェル支部と良く似ていた。特に壁の一面が全てガラス張りになっている点は同じだった。しかし、聖フィーナの食堂の方が遥かに華やかだった。
沢山並んだ木製のテーブルや椅子1つ1つにも彫刻が施されていたり、そのテーブルにそれぞれ一輪挿しが飾られていたり、何より厳つい男どもではなく輝くような笑顔を浮かべた少女たちで溢れているからこそ、豪奢に、華麗に見えたのかもしれない。
お嬢さま学校だけあって、食事メニューも多彩で豪華だった。特にパンの種類やサラダ、スープのバリエーションは、あまり料理名に詳しくない俺にはもはや意味不明レベルだ。
俺はそのうち、大根のサラダとスクランブルエッグ、オニオンのカップスープを選ぶ。昔だったら腹の足しにもならない量だが、今は不思議とこれで満足なのだ。
他のメンバーも可愛らしい盛り付けの小鉢を選択していたが、ジゼルの前には山盛りのトマトソースパスタが鎮座していた。
食事の準備が出来ると、アリシアとエマ、ラミアが飲み物を取りに行ってくれる。俺とジゼルは留守番だ。
「ふふんっ。やっぱりソフィア先生の授業は楽しいよね」
パスタを前に上機嫌のジゼルが、対面席から俺に微笑みかけてくる。
「まぁ、ほぼ話をしていただけだからな、俺たち」
俺ははぁと溜息を吐いて見せる。
「ウィル、やっぱり真面目だよ」
ぶーぶーと不満を口にするジゼルに、学生は勉強するものだぞと諭しておく。こう見えても、実年齢では年上なのだから、俺は。
ジゼルと談笑しながら、俺はさっと周囲を見回した。
俺とジゼルのように笑い合う少女たち。
お茶の香りと笑い声と柔らかな日差し。
それはどこにでもあるような、幸せなお昼の光景だった。
ここにいると、忘れそうになってしまう。
ここにいる少女たちの大半が、実は恐るべき力を秘めた魔術師であるということを。
彼女たちがさっと手をかざせば、完全武装の軍警隊員を上回る火力を発揮する事が出来る。そして、その力は常に弱い者たちに向けられる。
魔術に、自由を、そして生命さえ奪われた者たちが沢山いるのだ。
俺は目を伏せる。
忘れてはいけない。
そんな被害者は、今この時にも発生しているのだ。
「ウィル。どうしたの?顔怖いよ」
訝しむようなジゼルの声に、俺ははっと顔を上げた。
「ああ、ごめん。大丈夫」
俺は苦笑を浮かべる。
聖フィーナ入学でドタバタしていて、スカートとアオイの護衛の事ばかりに気を取られていた俺がそんな魔術の脅威を思い起こしたのは、ソフィアの先生っぷりを目の当たりにしたからだと思う。
ソフィアは立派に教師をしていた。
俺もソフィアも、学生だったあの頃とは違う。
ソフィアが先生になったように、俺も今は軍警隊員。
俺の家族を奪ったあの魔術テロの後、魔術犯罪者と戦うために努力して、軍警に入った。その辛かった、悲しかった時間は、間違いなく本物。
ソフィアの成長が、その時間の重みを俺に突き付けていた。
今学生として過ごしているこの時間こそが、俺には一時の幻に過ぎないのだ。
……いや。
それも、違うか。
俺は俯くと、キュッと唇を引き結んだ。
そう信じたいのだ、俺は。
戦わなければいけないと。
それが全てだと。
でもそれは、アオイに出会う前。ウィルバートだった俺の考えだ。
今の、ウィルである俺は、あえてこの場にいる事を選んだ。
ならば、ここにいる意味を確かめなければいけない……。
俺はふっと息を吐き、力を抜く。そして笑顔を作って顔を上げた。
「そういえば、エーデルヴァイスに来てから魔術が使われるのを見かけないけど、ジゼル以外は魔術師なんだろ、うちのクラス」
俺は少し声のトーンを落とし、ジゼルに話し掛けた。
ジゼルは嫌そうに顔をしかめると、俺を睨む。
「……嫌な事聞くね。術式が行使出来ない私への嫌味?」
「いや、そういうわけじゃ……」
俺はははっと苦笑する。
魔術師でないジゼルだからこそ、この話題を切りだしてみたのだが……。
「ほら、聖フィーナって貴族の学校ってイメージだろ。てっきり魔術の授業とかあるのかなって……」
尻すぼみに声を小さくする俺に、ジゼルは目を丸くした。そしてプッと小さく吹き出した。
「ふふ、魔法学校なんてファンタジーの世界だよ。ウィルって意外に可愛いんだね」
む。
少しだけ恥ずかしくなる。
学外の一般人が聖フィーナに抱くイメージなんて、きっとそんなもんだと思うが。
「どうしたんです?」
「お待たせいたしました」
そこに、エマたちが戻って来た。
エマの手には、カップとティーポットが並んだトレイがあった。
聖フィーナの食堂ともなれば、インスタントではないお茶が入れられるように準備されているのだ。
エマが手際よくお茶の準備をする。さすが本職のメイドさんだ。
「いただきまーす」
ジゼルが元気よく声を上げ、遅ればせながら俺たちの昼食が始まった。
「それで、ジゼルとウィルは何の話をしてたんです?」
ティーカップを両手に持ったアリシアが、少し首を傾げて俺を見た。
「ふふん。ウィルは、聖フィーナの魔法講義が受けられなくって残念なんだって」
パスタをフォークに巻き付けながら、ジゼルがニシシと笑う。
「残念じゃない」
俺はジゼルを一瞥して冷たく言い放った。
「ただ、あんまり魔術を使っている状況に遭遇しないなと思っただけなんだ」
いつの間にか席を立っていたラミアが、ブロートヘンの盛られた籠をみんなのテーブルの真ん中に置いてくれた。焼き立てのパンの匂いがふわりと漂う。
ラミアは無口だが、なかなか気配りが出来る子なのだ。
「うーん。でもそれは当たり前ですね」
早速香ばしい香りを上げる小さなパンに手を伸ばすエマ。
俺は先を促すようにエマを見たが、彼女の代わりにアリシアが口を開いた。
「ウィルもご存知だと思いますけれど、魔術は大っぴらに使うものではありません。秘匿されればされるほど、力を持つ意味は増すのですから」
アリシアもパンを手に取りながら、俺に微笑み掛けた。そして小さく千切ったパンをはむっと口に運ぶ。
ふむ。
俺は細切りにしたシャキシャキの大根をもしゃもしゃ食べながら、心の中で頷く。
軍警の教養でも習った事がある。
貴族級の魔術師ともなれば、汎用術式など及びもしない高度な術式を己が一族の伝統として秘匿しているという。それは同時に、貴族の力を示すステータスでもあるのだ。そんな自分の手の内を、簡単には外部に、そして貴族同士であっても、晒すことは出来ないということなのだろう。
「魔術は行使する事に意味があるのではなく、高貴なる血脈が受け継いで来たその歴史に意味があるのだと、おじい様もおっしゃっていました」
少し上を見つめ、何かを思い出しているのか、ゆっくりと話すアリシア。
使わない魔術……。
伝統として。一族のアイデンティティとしての魔術、か。
それは、大昔から職人が守り伝える伝統技能としての技術と同等のものなのかもしれない。
魔術と言えば、現実的に市民の生命や財産を奪う危険な物だと認識していた俺には、新鮮な考え方だった。
「そういえば、アリシアのお家は、風属性術式が得意なんだっけ?」
ナプキンで口を拭きながら、ジゼルがアリシアを見る。
ジゼルの目の前の皿は、既に空になっていた。
いつの間に……。
「風属性というと、雷撃とかか?」
俺の質問に、アリシアが困ったような顔をした。
「攻撃的な術式は得意ではありませんね。私の家は、風流制御系です」
攻撃術式以外の魔術……。
俺にとっては、それもまた未知の分野だった。
「アリシアは飛べるよ」
ぼそりと声がする。
はっとしてそちらを向くと、今まで一言も発していなかったラミアが上目遣いにみんなを見ていた。
跳ぶ?
「空間転移か?」
俺はアオイの魔術で瞬間移動した時の事を思い出した。
しかしアリシアはクリクリとした目をさらに丸くして、ぶんぶんと手を振った。
「まさか! そんな高等術式は使えません! 風の流れを制御して、凧みたいに浮かべるだけですっ」
ふむ。
やはりアオイの術式は並ではないのか……。
しかし。
俺はふふっと笑ってしまった。
凧のようにふわふわと空中を漂っているアリシアの姿は、何だか微笑ましい。その術式にどんな用途があるのかはわからないが……。
「笑わないで下さい、ウィル」
しゅんと肩を落とすアリシア。
「アリシアは人間扇風機。夏場は風を起こしてくれる」
再びぼそりと呟くラミア。
ぱっと笑いが広がる。俺も口元に手を当てて笑ってしまった。
ひとしきり笑ってから、俺はカップスープに口を付けた。オニオンとコンソメの甘さが胸の奥に落ちて行く。
「前にジゼルに聞いたけど、エマはどんな魔術が使えるんだ?」
俺はコトリとカップを置いてエマを見た。
「ふふん。良く聞いてくれました」
何故かエマではなくジゼルが胸を張った。
「魔法に憧れるウィルくんに、見せてあげなさい、エマ」
「憧れてない」
俺は即座に訂正しておく。
「もう、しょうがないですね」
しかしエマも乗り気の様だった。じゃあ少しだけと、近くにあった陶製の水差しを手にとった。
「うう。ウィルさんに見られてると緊張しますね」
エマは恥ずかしそうに笑いながら、水差しに手をかざした。
「いきますね。vauwwm」
独特の響きがする術式成句が小さく響く。しかし、直ぐには目に見える変化は起こらなかった。
エマは集中しているのか、ずっと水差しを見ている。
「魔術は秘匿されてこそと申し上げましたけど」
変化が起こるのをじっと待つ間、アリシアがそっと口を開いた。
「エマさんみたいに貴族と接する従者級の方々の間には、日常の仕事で重宝する術式も広がって行きました。今日だと汎用術式として広く世に出てしまっていますけれど」
魔術が貴族だけのものから、広く魔素適性のあるものたちへ、一般社会へ拡散していくプロセスについては、貴族政治から革命を経て民主主義の時代へと移り変わる近代史の一部として通常の授業で学ぶ部分だ。軍警でも、勉強しておかなければならない分野だった。
不意に、水差しからこぽっと音がした。
「出来ました」
ふうと息を吐くエマ。
エマがそっと水差しの蓋を取ると、陶製の器の中の水には、コポコポと気泡が浮き上がっていた。
……お湯を沸かす術式。
俺はエマを見る。
「すごいな、エマ」
「えへへ。ガスコンロの方が早いんですけどね」
照れたように微笑むエマ。
確かにこれなら、メイドさんの仕事に色々役立つ事もあるだろう。
こうしてアリシアの話、エマの術式を見ていると、近代史で習った魔術の拡散とその技としての意味合いの変化が、良くわかる。
貴族の特権的伝統から一般的技術へ。
……なるほど。
みんなと話していると、軍警で教養を受けているよりも遥かに分かりやすく、魔術について色々と知る事が出来る。いや、実感出来る。
みんな、普段から魔術が存在する場所で暮らしている子たちだからだろうか。
これが、アオイが言っていた魔術師の社会を知るという事なのだろうか。
「ウィル」
両手でティーカップを包み込むように持ち、エマの沸かしたお湯をじっと見つめていた俺に、ジゼルがそっと顔を近付けて来た。そしてそっと、食堂の入り口の方を指差した。
「そういえば、さっきからあそこにエーレルトさまが……」
エーレルト……アオイ?
俺は顔を上げ、ジゼルが指差した方を見る。
少し離れたテーブル。
漆黒の黒髪を垂らし、長い足を組んで優雅に肘をつくその姿は、直ぐにアオイだとわかった。
アオイが俺たちを見ている。
俺を?
俺と目が合った。
アオイはふわりと微笑みながら、微かに頷いた。
その目。
生暖かいその眼差し。
一瞬にして、かっと顔が赤くなった。
見られていた。
クラスメイトと、ジゼルたちと談笑しながら仲良くお昼を食べているところを……。
「ち、違う!」
俺はがたりと席を立った。
分かる。
アオイのあの目は、友達が出来て良かったなと、姉は嬉しいと語っている目だ。
違う。
俺は、魔術師の社会をリサーチするために……!
「悪い。ちょっと行ってくる」
俺はみんなに断ってアオイのもとに向かった。
ご、誤解を解かなければ……!
読んでいただき、ありがとうございました!




