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Hexe Complex  作者:
12/85

Order:12

 目覚めてみると気分が良かったので、庭へ読書に出てみたというアオイは、レーミアによって寝室に連れ戻された。

 結局、アオイがいないと大騒ぎをしたのは、俺とレーミアの勘違いであったわけだ。

 そのことで俺とレーミアは、2人並んでアレクスさんとバートレットに注意されてしまった。

 俺はしゅんと肩を落とす。

 任務開始早々、思い込みで暴走してしまった。これではいざ襲撃があった時、上手く対処できるかどうか先が思いやられる。

 励ましてくれるアリスに背を押され、俺は改めてアオイの話を聞くべく、3階の彼女の寝室へと向かった。

 ノックすると、今度は反応があった。

「こちらに」

 部屋に入ると、ベッドの方から声がした。

 そちらに歩み寄ると、横になったアオイが開いた本をお腹の上に乗せ、目を瞑っていた。

「アレクスは何か言っていたか?」

 俺が口を開こうとした瞬間、目を瞑ったままのアオイが先に口を開いた。

「……伯爵の話を聞いてあげるようにと」

 アレクスさんは、身辺警護の仕事の話を、というよりも、単純に話相手になってあげて欲しいというようなニュアンスで言っていたような気もするが……。

「ウィル。アオイで良いと言ったぞ」

 アオイが薄く目を開き、俺を一瞥する。

「……了解」

 俺が頷くと、アオイはふっと微笑み、軽く頷いた。

「アオイ。あなたにお聞きしたい事があるんです」

 俺は思い切ってそう切り出してみる。

 私事よりもまず仕事の話を優先すべきである。それは分かっていたが、どうしてもこれだけは聞いておかなければならない。

 聞かずには、いられない。

「アオイ。あなたは、あの夜、廃工場で俺を助けてくれた魔術師なのか?」

 目の前に横たわっている少女は、間違いなくあの時に遭遇した魔女だ。

 何故助けた?

 何故俺は少女の姿になった?

 何故あの場所にいた?

 何故グラム分隊長は、他の分隊の隊員は助からなかった?

 一度疑問を口にしてしまうと、さらなる疑問が次から次へと溢れ出してくる。

 俺はアオイを見つめた。

 アオイが、透き通った黒の目で俺を見た。

「君を助けたのは、私だ」

 囁くようなアオイの声。

「ならば何故っ……!」

 次の質問を口にしようとして、しかしアオイの顔を見て、それ以上続けられなくなる。

 俺を見る彼女の白い顔。

 それは先ほどまでの少女の顔ではない。

 白い仮面のように無表情な魔女の顔だった。

 そう、あの時、消え行く意識の縁で見上げたあの……。

「ウィル。君を助ける為には、この方法しかなかった」

 有無を言わせぬ冷たい声。

 俺は思わず気圧される。

 やはり魔女だ。

 ふと、そう思ってしまった。

「今は、これ以上言えない」

 静かにそう告げられる。

 せめてもの抵抗として、俺はきっとアオイを睨み付けた。

「綺麗な髪の色だ」

 しかしそんな俺の気持ちを知ってか知らずか、彼女はふっと表情を取り戻すと、ふわりと柔らかな笑みを浮かべた。

「体調が良いかと思ったが、やはり少し疲れた」

 アオイは再びすうっと目を閉じる。

「少し眠る。ウィル」

「……はい」

「目が覚めたら、一緒に夕食にしよう」

 微笑むアオイに、俺はふうっと息を吐くしかなかった。

 彼女には聞きたいことが山ほどある。しかし、安らかな表情を浮かべる彼女を問い質すには、ほんの少し、気が引けた。

「了解した、アオイ」

 やはり体調が悪いというのは本当だったのか。

 すっと眠りに落ちてしまった彼女の顔は、穏やかではあったけれど、青白く、どこか生気が感じられなかった。

 アオイがゆっくりと寝息を立て始める。

 彼女を起こさないよう、俺はそっと席を立った。



 あっ。

 静かにアオイの寝室のドアを閉め、廊下に出た瞬間。

 俺は顔をしかめる。

 そしてまた、がくっと肩を落とした。

 ……しまった。また仕事の話が出来なかった。

 これではバートレットの指示を果たすことが出来ない……。

 俺は左手でぽんぽんと後頭部を叩きながら、うううっと唸る。

「アーレンさま」

 不意に声がする。

 はっとして顔を上げると、いつの間にかアレクスさんが立っていた。

「お嬢さまのご様子はいかがでしたでしょうか」

 静かな笑みを湛えるアレクスさん。

 俺は彼の接近に、まるで気が付かなかった。

「……今お休みになったところです」

 気を取り直し、俺はアレクスさんに向き直った。

「そうでございますか」

 アレクスさんが大きく頷いた。

「では、今のうちに、アーレンさまがご滞在頂くお部屋へご案内致しましょう」

「えっ?

 踵を返したアレクスさんが、こちらへと手を伸ばして俺を促した。

 ゆったりとした足音を響かせて歩き出すアレクスさん。

 一瞬きょとんとしてしまった俺は、慌ててその後を追いかけた。

 滞在?

 俺の……部屋?

「アレクスさん。自分は警備要員です。特別部屋を用意していただかなくとも……」

「ははは。アーレンさまはお嬢さまの護衛として、暫くはアオイさまに付きっきりになって頂くのです。相応の生活環境をご用意するのは、我々の義務です」

 少しだけ振り返るアレクスさん。

 しかし……。

 そんな話は、聞いていない。

「バートレットやアリスにも相談しなくては……」

 俺はアレクスさんに置いて行かれないよう、必死について行く。

「お2人ならば、先程外出されましたよ」

 階段を下りるアレクスさんが俺を一瞥する。

 えっ……?

 俺は再度、驚きに目を丸くした。

 俺を置いて……?

「何でもお屋敷の周りの状況を確認して来るとか」

 ……なるほど。

 一瞬置いて行かれたのかと思ってしまった。この屋敷に1人は、さすがに心細い。

「アーレンさま」

 ほっと息を吐く俺に、アレクスさんが静かに語り掛けてくる。

 長身の老執事が振り返り、真正面から俺を見据えた。

「お忙しいのは承知しております。しかし、お嬢さまが病床にある間は、お嬢さまの心のままに過ごしていただきたいのです。それにはあなた様が必要です」

 何故、とは問えなかった。

 それは、アレクスさんに聞いても意味はない。アオイに直接聞かなければいけないことなのだと、俺は思ってしまったからだ。

 きっと、先ほどこれ以上は言えないと言われた事と同じような理由が、そこにはあるのかもしれない。

「アレクスさん。アオイは、夏風邪ですか?」

 俺はアレクスさんの懇願から話を逸らすように、別の疑問を口にしていた。

 アレクスさんの依頼に簡単に頷けるほど、俺はまだアオイたち伯爵家の人間を知らない。

 そんな俺の内心に気付いているのかどうか、アレクスさんも俺の話題に乗ってくれる。

「アオイお嬢さまは、魔素の瞬間的大量消費で伏せっておいでなのです」

「それは、もしかして……」

 稀代の魔女が体調を崩す程の魔素を一気に消費する。

 それ程の大魔術など、もはや奇跡と呼べるものだろう。

 つまりそれは……。

 アレクスさんが、糸目の奥の鋭い眼光を俺へと向ける。

「その通りでございます。アーレンさまをお救いになるためには、それ程の魔術が必要だったということなのでしょう」

 ガンっと殴られたような衝撃に襲われた。

 魔術を行使する力の源。

 魔素。

 それは、一説には生命力そのものだとも言われている。

 魔術師とは、常人より多量の魔素を持ち、それを操る事が出来る人々の血統なのだ。

 極端に言えば、魔素の枯渇は生命活動の停止を意味する。

 アオイは、そんなリスクを背負って俺を助けてくれたのだ……。

「それに報いよとは申しません」

 アレクスさんがそっと言い添える。

 俺はじっとアレクスさんを見返すしかなかった。

 不意に、そのアレクスさんが表情を緩めた。

「しかし、あなたのような年若い娘さんが銃を取り戦うなど、オーリウェルも悲しい時代になりましたな」

 ……ん?

 アレクスさんが再び廊下を歩き出した。

「どうしてあなた様のような方が、悪辣な魔術師との戦いの道を選ばれたのかは存じませんが、戦いと野蛮な男たちの中で生活されるのはさぞ大変でしょう」

 ……おかしい。

 アレクスさんは、アオイが魔術で俺を助けたことを知っている。

 それは間違いない。

 しかし。

 その時同時に、俺の姿形が変わってしまったこと。性別が変わってしまったことは、知らないのだろうか……?

「……あなたのそのお顔。髪の色。思い出します。そんなあなたを戦場で見つけたからこそ、お嬢さまはあなた様を救おうとされたのかもしれない」

 思い出す……?

「あの、アレク……」

「さぁ、到着致しました。ここがアーレンさまのお部屋でございます」

 タイミング悪く俺たちは目的地に到着してしまった。

 俺は、ぐっと質問を飲み込んでしまった。

 アレクスさんが扉を開き、俺を招き入れてくれる。

 俺用だというその部屋は、アオイの部屋と似たような間取りだった。家具やその配置もだいたい同じだ。つまりはこの屋敷の主と同等な部屋という事だ。

 ごゆっくりお休み下さいとアレクスさんが部屋を出ると、俺はその広い部屋に1人取り残されてしまった。

 キョロキョロと辺りを見回す。

 ……落ち着かない。

 取り敢えずバートレット達に連絡をとろうと携帯電話を取り出し、彼をコールした。

 電話を耳に当てながら俺は、天蓋付きの大きなベッドにどさりと腰掛けた。

「わっ」

 思ったよりふかふかだっ。

 勢い良く座った俺は、ばいんっとベッドの上で跳ねて、そのまま仰向けに寝転がってしまった。

 お、恐るべしベッド、金持ち仕様。

『もしもし、あー、聞こえるかウィル?もしもし?』

 電話からバートレットの声が響く。

 俺は慌てて起き上がった。

「もしもし、ウィルです」

『あー、やっと繋がった。どうかね、状況は』

 俺は取り敢えず、アオイにはまだ詳しく話を聞けていないこと、アレクスさんから告げられた俺の滞在の件について報告する。

 滞在や護衛の方針については、バートレットたちがヘルガ部長に問い合わせてくれることとなった。

「そちらはどういう状況ですか?」

 俺の質問に、バートレットがふんっと鼻を鳴らした。

『状況も何も、体よく屋敷から追い出されたところだよ。あの執事の爺さんにね』

「えっ?」

『屋敷の中は自分たちとウィルがいるから十分だとさ。俺たちは敷地の外で警戒してろとよ』

 むむむ。

 アレクスさんの話と大分違うみたいだ。

『しかしまぁ、現状で無闇に伯爵家を刺激するのは良くない。取り敢えず今晩は、様子をみるしかないな』

「はい……」

 俺はこくりと頷いた。

『今のうちに、あの執事の話の裏もアリスに取らせる。何か出たら連絡するから、ウィル。君は大人しくしていろ。伯爵家の要望にはなるべく従って、現状であまり角を立てないように、な』

「はい……!」

『油断はするなよ』

 最後の一言を低い声で言い放ち、バートレットが電話を切った。

 携帯を脇に置いた俺は、そのままぼふっとベッドに横になる。

 わかった事。

 わからない事。

 そのどちらもが、一瞬にして随分と増えた気がした。



 日が落ちる。

 あんなに威勢良く鳴いていた蝉の声が聞こえなくなって、代わりに夏虫たちの静かな音色が響き始めていた。

 俺は、与えられた部屋の書き物机に向かい、手帳を広げていた。アリスに倣い、取り敢えず現在の状況をまとめてみようと思ったのだ。

 さらさらとペンを走らせる。

 アオイ。

 伯爵。魔術師。俺を助けた。体調が悪い。

 アレクスさん。

 執事。たぶん魔術師。たぶん怖い人。

 レーミア。

 メイド。孫。学生。もしかしたら魔術師。

 何を書いていいのか良くわからなかったので、伯爵家の人々についてまとめてみる。

 ……うーん。

 ペンを片手に唸っていると、ノックの音が響いた。

 俺は手帳を閉じて背筋を伸ばす。前に垂れてきた髪を後ろに払った。

「どうぞ」

 入って来たのはレーミアだった。

「アーレンさま」

 強張った顔のレーミア。きっとアオイが心配なのだろう。先程も随分と心配していたし、アオイが部屋を抜け出した時もかなり狼狽していたから。

「ウィルでいいよ」

 俺はそっと微笑む。

「……アーレンさま。お風呂の準備が整いました。お着替えも用意致しますので、大浴場へどうぞ」

 ……え?

 俺はきょとんとレーミアを見返した。

「ありがとう。でも、今は任務中なんだ」

 部屋にじっとしているだけだが……。

「お風呂は遠慮させてもらう」

 確かに今日1日、緊張で汗をかいて、走り回って汗をかいて不快ではあったが、しかしのんびりと風呂に入っている訳にはいかない。

 入浴を辞退した俺を、しかしレーミアはきっと睨み上げた。

「アオイお嬢さまがお目覚めになれば、晩餐を共にしていただくと伺っております。その前に身を清め、正装するのは礼儀というものでしょう」

 怒られた……。

 低い声でそう言い放ったレーミアは、明らかに不機嫌そうだった。

 ……貴族の礼儀といのは、今までそんな世界とは無縁だった俺には、よくわからない話なのだが。

 しかし、やはり今の俺は任務中だ。のんびり風呂なんて入っている暇はない。

「あなたは、アオイお嬢さまを軽んじられるのですね?」

 ずいっと迫ってくるレーミア。だからあんなに軽々しく抱擁など出来るのだわと、ぶつぶつ言っている。

「しかし、俺にも役目が……」

 再び抵抗しようとして、ふと先程のバートレットの言葉が頭をよぎった。

 伯爵家にはなるべく従い、角を立てないこと。

 ……そうだった。

 レーミアの言葉は伯爵家の意向なのだ、恐らく。ならばレーミアに従うことが、バートレットの下命に従う事になるだろう。

「……わかった。その、じゃあ、お風呂を借りようかな」

 半ば諦めたようにこくりと頷いた俺は、メイド少女に連行されるように、1階の大浴場に連れて行かれた。

 エーレルト伯爵家の大浴場は、シャワーやサウナだけでなくきちんとした浴槽があるタイプのものだった。

 衣服を脱ぎ、タオルを手に取った俺は、取り敢えずシャワーで汗を流す。

 やはり、熱いお湯は心地よかった。

 ちなみに俺の脱いだ服は、先程レーミアがクリーニングすると言って持って行ってしまった。ハンドガンを収めたホルスターだけは、さすがにそのままに出来なかったので、取り敢えず今は、浴場の入り口のドアに吊ってある。

 早く入浴を終わらせなければと思いつつも、ゆらゆらと湯気を上げる湯船の魅力には逆らえない。

 少しだけ、湯船にも浸かってみようかな。

 少しだけ少しだけっと自分に言い訳をして、俺はそっとお湯に足を入れる。

「ふわぁぁ……」

 思わず感動の吐息が口から漏れた。

 肩までお湯に浸かると、淡い桜色の髪がお湯の上にふわりと広がった。

 ここしばらく、次々と起こる新しい展開に疲弊していた体が、みるみるうちにほぐれて行くようだ。

 いつもはシャワーで済ましているが、たまにはこうしてどっぷりとお湯に浸かるのも良いものだ。

 俺は鼻までお湯に浸かると、ぶくぶくと息を吐いた。

 こんなに気持ちいいのだったら、ソフィアにも勧めてみようか。温泉に行くなんてのも、いいかもしれない……。

 あ。

 固まる。

 その場合。

 俺は、どちらに入ればいいのだ?

 女、湯……?

 ぶんぶんと首を振る。

 今は任務中任務中任務中任務中……。

「アーレンさま。お着替えを置いておきます」

「は、はいっ!」

 不意に響いたレーミアの声に、俺は慌てて湯船を飛び出した。

 体を拭いて脱衣場に戻ると、真新しいタオルと下着、Tシャツと短パンが用意されていた。

 身に付けてみると、サイズはぴったりだった。

 さすがは貴族。どんなサイズも常備してあるということだろうか。

 タオルでごしごしと頭を拭いていると、ふと脱衣場の大きな鏡が目に入った。

 濡れた桃色の髪を頬に張り付かせた少女が、きょとんとこちらを見ていた。

 少し、ドキッとする。しかし直ぐに、はあっと脱力してしまった。

 ドキリとしてしまった自分が、少し悲しい。

 俺だって男だ。……男だったのだ。

 濡れた髪とか、うっすらと上気した白い肌とか、微かに下着が透けた胸の膨らみとか、さらさら肌の輝く太ももとか、本当ならドキドキして然るべきなのだ。

 しかし今は、何故だろう。

 それが自分の体だと認識した途端、少しも嬉しくなくなってしまう。

 しょんぼり肩を落とす鏡の向こうの少女。

 俺はそんな自分から目線をそらし、大浴場を後にした。



 自室に戻ると、カーテンが閉じられ電灯が灯されていた。もうすっかり夜の態勢だ。任務中の筈なのに、どこかのホテルに来てしまったかのような気がしてしまう。

 ……いけない、いけない。

 俺がそっと気を引き締めていると、部屋の左奥にある扉がカチャリと開いた。そちらはクローゼットを兼ねた狭い物置になっていた。

「お戻りでしたか」

 物置から現れたレーミアが、俺をすっと見据える。

「ではアーレンさま。こちらにお着替えを」

 レーミアはそう言うと、両手で持った薄い布地を掲げて見せた。しっとりとした赤色で、さらさらとした生地だった。

 何だろう……。

 レーミアがそれを広げてみせる。

 それは、大きく胸元が開いたロングドレスだった。

 ドレスだ。

 もちろんスカートだ。

「髪を乾かして下さい。着付けをお手伝いしますから」

 ……は?

「小物もご用意いたしますので。あっ、靴を出さなくちゃ」

 パタパタとスカートを揺らして衣装室に消えたレーミア。

 誰が、何を着るって……。

 直ぐにレーミアが戻って来た。手に真っ赤なハイヒールを持って。

「……無理だ」

 俺はぽつりと呟いた。

「無理だぞ。そんなの、俺には着れない!」

 俺はぶんぶんと首を振る。

 この姿になってからも、俺には守り通している一線というものがある。

 即ち、スカートだけは穿かないということだ。

 下着はしょうがない。男と女では体の作りが違うのだから。しかしスカートは穿かなくても困らない。女の身だって、ズボンをはいていれば問題ないのだ。

 わざわざスカートを穿く。それは、自分が女なのだと認めてしまう行為に思えてしまうのだ。

「アーレンさま。俺、というのもお止め下さい。淑やかな女性の言葉ではありません。まったく、都会の女の子って皆こうなのかしら」

 レーミアが問答無用で俺の手を掴み、ドレッサーの前に連れて行く。

「いや、ほ、本当に着れないから……」

「大丈夫です。アーレンさまはスタイルも良いのですから、きっとお似合いです。でも、もしかしたら……」

 ドレッサーの前へ俺を押し出したレーミアが、鏡越しに俺を睨んだ。

「アーレンさまは、アオイお嬢さまを軽んじていらっしゃるのでしょうか?」

 ドキリとする。

「エーレルト伯爵がお招きする晩餐会に、正装しないおつもりなのでしょうか?」

 銀色の髪の少女は、ギラリと碧眼を光らせた。

 思わず俺は、ふるふると首を振る。

 再び、バートレットの言葉が浮かんでくる。

 伯爵家と揉めるな、だ。

 任務……。

 これも任務なのか?

 任務だ。

 そうだ、任務なんだ。

 幸いここには、ミルバーグ隊長はいない。レインもいないし、オブライエン主任やロラックだっていない。バートレットとアリスは戻って来ないだろうし……多分だが、誰に見られる可能性もない筈だ。

 ……何でもすると誓ったのは、俺ではないか。

 今こそ勇気を示す時……なんだろうか。

「さぁ、髪を結いますからね」

 レーミアに押され、ぽすんとドレッサーの前に座る俺。

 そこからの事は、あっという間だった。

 みるみる内に髪が梳かれ、結い上げられる。

 赤と青の石が輝く髪留めが、流れるようなラインを描いて結われた桜色の髪に輝く。

 大きく開いた胸に覗く翼の意匠のネックレス。素肌を晒した肩と、その肩で結ばれた生地がすらりと広がる赤のドレス。

 前部に入った大きなスリットから、揃えた俺の足と赤いハイヒールが覗いている。

 ……何てことだ。

 ……まったく、何て事だ。

 仕事をやり遂げたレーミアが部屋を出て行っても、俺はポカンとする事しか出来なかった。

 俺は、今、とんでもない状態にある。

 誰か、助け……。

「ひゃ!」

 不意に、携帯がなる。

 心臓が飛び出そうだった。

 着信はソフィア。

 俺はギリギリとロボットのような動きで携帯を耳に当てた。

『ウィル。まだ帰れないの?』

「……うん」

『いつ帰れるの?』

「今日は泊まりだ」

『そう……。わかったわ。仕事気をつけてね。今のウィルは女の子なんだから、色々注意しなきゃダメよ!』

「うん……」

 俺はそっと電話を切った。

 そうだ、これは仕事だ。

 仕事なんだ、仕事、仕事……。

 ……ソフィアには見せられないな、こんな姿。

 レーミアが晩餐の準備が整ったと告げに来るまで、結局俺は、身動き1つ出来なかった。

読んでいただき、ありがとうございました!

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