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揺れない天秤

作者: 伊勢あやめ

 天から衝動が降りてきた。窓に振りつける雨粒はきっと冷たいが、俺の足元からはむっとする乾いた空気が出続けて、ふくらはぎを刺す。携帯の画面を点灯させるまでのわずか5秒のあいだ。はやく点け、はやく点けと思う心を振り払い、無感動を装って指を滑らせる。

「今日忙しい?」

 最近変えたばかりの新しい携帯で、仕事の合間にメールを打つ。返信があったのはわずか五分後。ほんとうに仕事しているのか心配になるほど返事が来るのが早かった。

 心を決めてメールを開封する。お断りの連絡が来たら、今度声掛けるのは一ヶ月か二カ月か、それくらい後になるだろうな、とそんなことを考えつつ。

「大丈夫。ごはん行く?」

 ほっと心をなでおろす。手を伸ばすこと、一歩踏み出すこと、それらはとてつもない勇気だ。仕事もそこそこに、文面を打つ。極めて事務的な、感情のない文字列。 

「うん、じゃあ新宿東口で」

 扉が開くのに合わせてふくらはぎを刺す熱が冷める。気づけば降りる駅は次だった。あわててケータイの画面を暗闇に落とし、鞄の口を勢いよくキュッと閉めて、向かいの窓ガラスの向こう、霧がかった山を見た。


◆十八時半。

 手元の携帯が震える。私が送った、もうついてる? との質問に対して、彼はそっけない返事で返してきた。電話してくれればいいのにと思う。「いる」という二文字。即座に返信する。「どこ」とメールを打ち終わって、顔を上げると、三メートルくらい先に彼がいた。でも、彼はまだ、私に気づいてはいない。こちらからゆっくり近寄る。彼と私の間を人の波が、何人も何人も横切る。送ったメールが届いたようで、視線を手元に落としてケータイを見ている。表情は相変わらず険しい。遠目にケータイを見て、あ、機種変したんだと、一瞬思う。そんな些細な事で、たった一ヶ月か二カ月の間に、いろいろ身辺も含めてだけど時間は流れていて、変わりゆくものなのだなぁと思う。声をかける。

「涼二」

 声をかけるのと同時に、コートの上から指三本で、きゅっ、と左腕をつかむ。暖かそうなコートの感触が手に伝わる。緩やかに顔を上げる。険しい表情が少し、柔らかくなる。と同時に、まじまじと、顔を見るわけでもなく、目線が髪に向かっているのがわかる。

「髪、バッサリ切ったんだ」

 手でハサミの形を作って、チョキチョキやるしぐさをしながら出た涼二の第一声は、つい二週間前にバッサリと切って、肩の上でシャープに切りそろえた髪についてだった。

「あれ、前に会ったのって、髪切る前だっけ」

 私は、わざととぼけてみる。

「うん、前会った時は長かった」

 その間も、揃えられた髪を見ている涼二。

「そっか、なんか切りたくなって、切っちゃった」

――失恋したの? そんな言葉を誰もが投げかけてきた。そんな中で涼二は、何も聞かず、「そう」と、ただそれだけで歩き始める。

 これが、私たちのスタンダード。

踏み入らない。けれど、自分の中で決心がついたら、その時に全部話す。だからそれまでは待つ。こういう関係だから、ドライでいられるし、信頼しあえる。全部見せる代わりに、自分からは踏み入らない。いつの間にか出来上がった掟。この掟で縛られているから、こうしてたまに、私たちは時間を共有する。

私の短い人生の中で、人間的な話のできる数少ない人。

「場所、決まってる?」と、私。

「いや、全然。新宿よくわかんないし」と、涼二。

 普通の女の子とのデートでも涼二が、こんな具合なのだろうかと思うと、若干頭が重くなる。といっても、彼に今、デートする相手はいないのだけれど。

「そっか、じゃあ適当に歩きますか」と、私。

「ああ」

 歩き始めて横顔を眺めてみる。前に会った時のような、疲れた色は顔にないものの、前以上に遠くを見ているような、そんな目をしている。この人は今、私のどれくらい前を歩いているのだろうと思う。

 すくなくとも、涼二は、私よりずっと前を歩いている。

何度も、敗北した意思を消化して、自分に取り込んで、それでもこの世界のどこかに希望を見出して、今、私の目の前にいる。もしくは、希望を見出せなくなった世界を受け入れているけれど、それでも尚、目の前にいる。

「さて、何を食べようか」と、涼二。

「なんでもいい」と、会ってからだいぶ経つのに、彼からは目線のひとつも合せようとしないことに腹だたしくなってか、少しぶっきらぼうに答えてみる。方向性の定まらない二人が、一緒に夜道を歩くのは二人とも一人で立っているからだという思いが、浮かんでは消えた。


◆十八時。

 俺は今、人の海に漂っている。

 仕事が予定より早く終わったのはいいものの、さすがに早く着きすぎた。まだ、待ち合わせには三十分も早い。だからと言って、近くで時間をつぶすところに詳しいほど、この町を歩き回ってはいない。PC代わりのケータイを取り出し、音楽でも聴きながら、人の海からネットの海へ移動する。

 流れているのはラヴェルのプレリュード。

 手から毀れ落ちていくときの表現を音楽でするとしたら、こんな感じだろうか、などと考える。

 世界にひとりの瞬間が、隣に立つ人のない瞬間が、なんだかんだと言っても、じぶんでは強がってはいるものの、ささくれ立っているのだ。だから音楽で、無理やりにも世界に色をつける。だが、どうしてもモノトーンになってしまって、綺麗に色づいているとは到底言えない。理由は明らかだが、解決は当分できそうにない。それからしばらく、無意味に時間をやり過ごして、電光掲示板の電車が何本も入れ替わって、もう後五分というところになる。ずっとずっと、繰り返し聴くピアノの音。生まれついてから二十年以上も耳にしてきた音。そしてもう三年ほど、本当の音として聴かなくなった音の響き。

 耳からイヤホンを抜く。世界は白黒に戻る。

 手元の携帯が震える。「もうついてる?」との無機質なメールだが、俺を人の流れの渦から掬い出すには十分すぎた。とりあえず周りを見渡すけれども、見つけられる自信はない。何せ人が多い。多少の温かみを覚えつつも、あえて無機質に「いる」と返す。面倒な感情をひきずるのは苦手だ。

 それからまた、人ごみから一人の人間を探す。右へ、左へ視線を移すけれども見つかりはしない。すると手元がまた震える。メールを開く。やはり操作にいまいち慣れていない。

「涼二」と、名前をよばれる声がして、腕を引っ張られる感覚がする。声のトーンは高め。雑音と騒音の中で、大きくもない声だけど、自分の元へ、ちゃんと届くという不思議。

 あきれるほどじっとりと振り返って、玲子の長かった髪が肩より少し上くらいで綺麗にそろっているのに、まず気付く。「髪、バッサリ切ったんだ」と、俺。

「あれ、前に会ったのって、髪切る前だっけ」と玲子。

 前にあったのがいつだったか、はっきり思い出せないものの、確か二ヶ月か、三か月くらい前だったか。その時を思い出しつつ、

「うん、前会った時は長かった」

 それにしても思い切って切ったなと思う。長さにしたら何十センチくらいだろう。ああ、女性が髪を切るのは、失恋した時、などと言い始めたのは誰だろう。今回、バッサリ切って俺の目の前に現れたのにも、理由があるには違いない。だが今はまだその話をする時じゃないと直感的に思う。

「そっか、なんか切りたくなって、切っちゃった」

 一方で、こうも思う。相変わらず感性が少し変わってる奴だから、単純に、思い切って切っただけ、なのかもしれないという可能性。そういう思い切りの大切さが必要とされる場面は、時たま訪れる。

歩き始めて数分、特に場所も決めていなかったので、ふらふらとその辺を彷徨って、適当にお店を探す。食べたいものを聞いても、「なんでもいい」というありさまの玲子を横目に、眼についたお店に入る。

ビールが半額だったが、ウイスキーが飲みたい気分だった。


◆十九時。

「ウイスキーと、梅酒」

 オーダーし終わって、俺たちは酔いを楽しみつつ、屈託ない話をする。ある程度食べ物も食べて、飲んで、少しして、

「それで、最近どうですか」と、玲子は単刀直入に問う。

「ああ、だめだった。それまでに色々動きはあったが」

複雑ないきさつを話すのは面倒だが、玲子には色々話してしまう。それはきっと、どこか根幹の部分が共鳴しているから。男女の友情が壊れた瞬間を、別々の道を歩みながらも共有しているから。確信のない信頼が、お互いを試しているようにも思えて、まるで壊れる寸前をどこまで試して大丈夫なのかという、ある意味でとても残酷な実験をしているのに近いのかもしれないと思う。

「でしょうね」と、あきれるでもなく、納得するように頷く。「あの状態から元に戻れるとは、正直言って思ってなかった。それは、涼二自身も言っていたことだけど」

「ああ。どこにも希望のない、とは前に言ったな。ただ別れるまえ、一瞬だけ元に戻った」

「へぇ、すごい」

「うん、でもそれは完全に、二股かけられてて。だから戻ったっていうよりも一時的に連絡を取り合う程度になった、っていう感じ」

「ああ、なるほど」

「それでまた、相手から、というか彼女の彼氏から連絡があって」

「なにその修羅場」と言いつつも、明らかに顔がニヤけてしまうのを俺は見逃さない。サプライズは楽しまなくちゃいけないが、あんなサプライズ、俺はもう御免だ。

「そう、修羅場。それで、おしまい」

「すごい、本当にそんなドラマみたいなことする人いるんだ」と言い、玲子はお酒を口に運ぶ。梅酒を飲み終わり、二杯めの甘そうな、ストロベリーの赤いカクテルが微量に唇を濡らす。俺の目線が右手に持つカクテルに注がれているのをみて「ちょっと飲む?」と聞いてくる。

「ありがとう」と俺は、グラスを受け取って、数ミリリットル程度、ごくわずかを口に含む。甘い。口の中に広がる優しい甘さ。とても甘いね。そうだね。と、カクテルグラスがテーブルの上を行きつ戻りつする。グラスを手渡す時、俺の小指と玲子の人差し指が触れた。

 店内のBGMで、ラフマニノフのエレジーが流れる。玲子は短く息を吐いて、

「そっか。私もね、」少し考えてから言葉を続ける。「振られに行こうと思って、好きな人に会いに行ったんだけど」

「ああ」――髪の「理由」はこれか、と直感する。

「まだ、私のこと好きだって言われて」

「うん」

「その時は、なんか、有耶無耶になって、結局、別れることもせず、付き合ってもいない状態で、前と変わらない状態なんだ」

「そう」ここで俺は色々、勘違いをしていたんだなと思う。

揃った毛先を親指と人差し指で撫でつつ、

「髪切ったのはね、失恋して、それで髪切るのって、なんか癪に障るから、失恋する前に髪切ってやろうと思って、結構長さあったけど、バッサリ」

「振られる前に。不思議なことするね」

「自分でもそう思う」と、微笑混じりのやり取りのためか、ここで、少し張り詰めていた空気が穏やかになった。

「でも、じゃあ、両想いなんでしょ」

「うん、両想いといえば、両想い。相手はいまだに私を好きで、私はその人が好き。それは事実。でもその人が見ている私は今の私ではなくて、過去の、ずっと古い、高校生の時の私で、記憶の中だけでひとりでに美化されていった私であって、今の私とは似ても似つかない私。それでも、現実の私を見て、いまだに好きだと言ってくれた。……そこで私は振られてしまって、過去と、そこからずるずる続いている今を精算できると思ったのに」

「記憶の中の人が、どんどん美化されていくっていうのは、わかるな」自分に照らし合わせて、それは記憶を手繰ればよくわかる。自分にもかつて、本人とは別の次元で美しくなっていった女性がいたから。もう何年も前の話だが。

「とにかく、もうその人とは終わらせようと思って」

「俺には、そこが理解できないな。両思いなのに、付き合いたいと思っているのに、付き合おうとはしないところが、よくわからない。普通であれば、それは……」

 そこへ割り込んで入ってくる。その口調は確固たる決心にうらづけされているような、力強いものだった。

「でもね。」十分に覚悟に覚悟するための時間か、間をおいて、「その人と彼氏彼女になるっていうのは、なんか、とても、ずれている気がするんだ」

 ずれている。俺にはその発言の意図がわからなかった。玲子自身が直感的にそう思うためなのかというような理由がわからないが、玲子がそう思うということはそうなのだと受け入れるしかなかった。

「そっか。六十億以上も人間がいる中で、誰でもないその人と、両想いっていうのは奇跡だから、ふいにしないでね」

 だから曖昧な価値観でしか、物事を測れなかった。それがこんな間抜けな発言となって現れた。

人の心はその人のもの。それがだれであれ、自分以外の人の心が、手に取るように分かるなどとは決して思ってはいけないのだ。いつ、どういった状況であっても。それを今日、今までわかっている気がしていたが、改めて教えられた。



◆十九時半


「高校の時は」フライドポテトをつまみながら涼二は話す。

「今みたいにあけすけな性格ではなくて、誰にも何も言わないで、全部一人で抱え込んで、それが正解だと思っていて。」

「それがカッコいいと思ってた?」

「いや、かっこいいというか、正しいことだと、それが大人なんだと信じていた……かな。とても強がって」

「なるほど」

「本当に、今の自分とは、いい意味でも悪い意味でも別人で」

「それは私にもあるな。でも、私はまだ昔の自分を消化しきれてないかもしれない。……多分、涼二ほどは消化できていない」

「俺だって消化できてるのかどうかは、わからないよ」

「でも、私は昔の自分のことをそんな風に思い出すことはできないな。いまだに私は、かつての自分に蓋をしてしまいたくなるから。……昔言われたことなんだけど、人に話せないってことは、考えてるようで実はなにも考えてなんていないんだって」

「へぇ、そんなこと昔、言われたんだ」

「うん。そうやって考えると、自分の中で抱え込むことも結構あるんだよね」

「人間、ガラス張りではできていないから。それは仕方のないことじゃない」

「うん、こんな風に自分のことを話すのだって、涼二くらいだし」

「そうか」

ウイスキーの二杯目が届いたとき、「それ、少し飲ませて」と俺の持つグラスに注意を向けた。

「え、でも美味しくはないよ。度数の強さは、玲子なら大丈夫だろうけれど」

「うん、大丈夫」

 一口、啜る。途端に顔をしかめて、

「まずい」

「そりゃあ、そうだ。カクテルみたいに甘くはないからね」

「そうだ、勘違いしているようだけど、私お酒に強くはないよ」

「そうだっけ」

「うん。いつもは、他の人がいる前では、緊張して飲めないし、酔えないだけで。酔ってないように見えるだけ。自分より強い人がいるときは安心して酔えるけど」

「そうなんだ」まだまだ知らないことはお互いに沢山あるということを、改めて心にとどめ置いた。



◆二十時過ぎ


「私の顔になんかついてる?」

「いや、そうじゃなくて……横向いて」

「ん?」

「それで、こう、やってみて」そう言って、涼二は指先で、髪を耳にかけるしぐさをする。

「えっと、こう?」

 言われたとおりに私は、左手で垂れた髪を左耳に乗せる。

「そう」

「え、なになに、なんなの?」

「いや……髪がこう、かかってるのが、好きだから。それだけ。別に何もついてないから」

 意味わからん、と思った私は、だけどその言葉に翻弄されている。

 髪が、耳にかかっているのが、好き。

 普通であれば、それはまるで、「私の事を好き」と言われたみたいな、そんな錯覚をしてしまうだろう。まぁ、私たちの間柄では、そんなことはないのだけれど。私が出すため息には、ちょっとしたもどかしさが混じる。

「ふぅ……」

 私たちはお互いを嫌いじゃない。でもそれは、「好きな人」のというのは全然違う。ライクとラブの間というわけでもないし、そのどちらとも異なる。涼二は唐突にぼやく。

「俺、このぬるま湯のような関係がいいんだ。たまに会って、食事でもして、人間的な事を話せるこういう関係」

「うん、それは、私もわかる」

 この後にどんな言葉がくるのか、じっと、待つ。

「当分、彼女は出来そうにないし、結婚もできそうにないけど」

 これはきっと、気恥ずかしくなって、話の本質を逸らした。

「うん」

「重みはあっても、ドライであり続ける関係……というのも、純粋に、高校生だった時みたいに、人を好きになるという、人間としてしごく単純なことができなくなってしまった気がするから」

 きっと、言いたかったのはこっちなんだと思う。

「色々考えすぎて?」

「そう。色々考えてしまって。昔みたいに、誰かの正面を自分も向いて、いや、向かい合って、まっすぐに純粋に恋に落ちるのは、もう無理なんだ」

――この距離を保った関係を好きなのも、恋に落ちることができないのも、それはきっと自分が傷つくのがもういやだから、っていうのもあるんじゃない、と思ったけど、私にはそんなこと言えなかった。ストンと、無邪気に、恋に落ちることができなくなっているのは、私も同じだったから。



◆二十時過ぎ


 美しく切りそろえられた髪が耳にかかっているのを見て、あ、いいなとおもう。単純に趣味の問題だ。綺麗に梳かされた髪が耳にかかっているところに、女性らしさというか、女の雰囲気を感じるのは安直過ぎるだろうか。

「私の顔になんかついてる?」

 あまりにまじまじと髪を見ていたから、不審に思われたのだろう。そういうと同時に、頬に手を当て、傾けた顔のため、耳から髪がするりと抜けおちて地面へまっすぐ伸びる。「いや、そうじゃなくて……横向いて」

「ん?」

「それで、こう、やってみて」

「えっと、こう?」

 不思議に思いつつ左手の指先で髪を持ち上げ、耳に掛けるしぐさと、その状況が色づいているように思える。

「そう、それ」

「え、なになに、なんなの?」

 怪訝そうに、眉間にしわを寄せ、問いただしてくる玲子。

リスト。耳に映る音は、詩的で宗教的な調べの……確か三番。

「いや……髪がこう、耳にかかってるのが、好きだから。」

 その瞬間、呆気にとられたような顔になる。表情は常に揺らぐ。そして柔らかくい微笑んで、空気を吐き出す。「ふぅ……」

 ああ、俺、呆れられてるなと思う。当然だ。

 自分で言ってしまってから、言ったことを後悔してばつが悪くなった。ウイスキーグラスで頬を冷やす。酔いのためか、少し冷たいなと思う。次の言葉をきりだすのに、どうしようかあれこれ考えて、

「……俺、このぬるま湯のような関係がいいんだよね。たまに会って、食事でもして、人間的な事を話せる、こういう関係」

 これは事実。相手に寄りかかるでも、寄りかかられるでもない関係を俺はどこかで、求めている。

「うん、それは、私もわかる」

 澄んだ目で、言葉を待っているのがわかる。

「……当分、彼女は出来そうにないし、結婚もできそうにないけど」

「うん」

「重みはあっても、ドライであり続ける関係……というのも、純粋に、高校生だった時みたいに、人を好きになるという、人間としてしごく単純なことができなくなってしまった気がするから」

「色々考えすぎて?」

 玲子の質問の、声のトーンが上がる。

「そう。色々考えてしまって。昔みたいに、誰かの正面を自分も向いて、いや、向かい合って、まっすぐに純粋に恋に落ちるのは、もう無理なんだ。好きになろうとしても、相手だけを、本人だけを見て好きになるっていう単純なことができなくなってしまった。必ず周りの人間との関係も考えるし、負ける試合をしないで生きてしまうような……そんな屈折した生き方しかできなくなってしまった。相手を好きになることが双方の負担になることもあると、知ってしまった。とても、さみしいことだけど」

「そうだね。私ももう、単純に人を好きには、なれなくなっている気がする。でも、さみしいかは分からないけど。それが、普通なのかもしれないね」

 俺たちの間に流れる沈黙は緊張が宿るわけではない。俺たちの沈黙は、信頼の証。

二人のグラスが空き、そろそろ頃合いかなと思う。

「そろそろ立ちますか」

「そうだね」

 店員に頼んで領収書を見ると、手際良く玲子は数字をはじいて、俺が出した数枚のお札に「これだとちょっと多いけど」といった。鮮やかな電卓さばきは、きっと仕事の影響もあるのだろうと思った。



◆二十一時頃


席を立って、それから、寒空の中を歩いて駅までたどり着いたはいいものの、改札の手前で玲子は香りの強いお店に足を運ぶ。

「私、これ好きなんだよね」

 そう言って甘い、南国の香りのするクリームのサンプルを手に取り、ふたを開け、俺の顔の近くに寄せる。鼻の奥へ、べったりとした甘い香りが入り込んでくる。

玲子は手にとって、手の甲へ塗る。香りを試す。続けて隣のお店で口紅を試す。手の甲や指先、一部は唇にも塗り、色や艶をみている。その姿は少し色っぽい。女が化粧をする瞬間は、男には理解しがたい緊張感がある。鏡と向かい合っている緊張感。

「これ、ダメだ。こっちは……まぁまぁかな」

次々と口紅を試すのを突然やめ、顔をあげて、俺に向けて言う。

「なんか、これ、この色、落としたくなった。落としてくる」

「おう」

そう言って、女物の店が居並ぶど真ん中で、一人取り残される俺。隣にいた人間がいなくなることの喪失感に、軽く当てられる。その時間は数分で、長いとは言えない時間だったが、脳内を駆け巡る思いは止まらない。結局のところ、俺は今、一人だという思い。

「お待たせ」

 すっきりした顔になって、帰ってきた玲子は、「私この後本屋行くけど、ここでお別れかな」と問う。二つ返事で「行く」と即答する俺。本屋は嫌いではない。新聞は毎日読んでいるし、図書館も嫌いじゃなかった。

「ほんと? じゃあ地下通って行こう。あ、でも何時までかな。九時までだったらもう閉まってるよね」

「ああ。もう九時過ぎてるし。まぁでも、閉まってたらそのときってことで」

「うん」

張り巡らされた地下道を歩く。どこまでも続いているかのような地下道を。俺たちが隣り合わせに歩く時の距離感は、肩や腕が振れるか触れないかの距離。絶対的な、埋まらない溝。

なによりも、お互いが守りあって、埋めたがらない溝。

「あ、閉まってる」

「本当だ。九時までだったか」

「もどろう」

 無駄に歩きながら話すのは、それが面白いから。それともそれ自体が楽しいから。どっちなのだろうと考えたことはない。来た道を戻りながら玲子が言った。「社会人のデートは、どこに行けばいいと思う?」と。


◆二十一時すぎ。


「社会人のデートは、どこに行けばいいと思う?」

「俺に聴かれても困る。彼女いないし。それに、別に何もしなくてもいいし、俺はね」

 別に何もしなくてもいい。それは珍しい響き。それって、デートの意味あるんだろうか?と思う。

「どういう事?」

「一緒にいられればいいんだ」

「それだけでいいの?」

「ああ、それだけで十分幸せ。幸せの沸点は、もう零度下回って氷点下だから」

――ああなるほど、と納得する。この人のいう一緒にいるは、文字通り一緒にいることなのだと理解する。

「それって、傍目には不幸せでも、幸せに感じてしまうってこと?」

「そうだよ。本当に何もしなくていい。例えばこうやって、一緒にいるだけで、俺は幸せになれる。それだけじゃない、もっとかも。付き合っているのであれば、それだけで幸せかも。会えない時間が長くても。隣にいてくれるという事の、安心感みたいな、そういうものがある限りは」

きっとその言葉の後には、もう俺には何も、手元に残ってはいないから――と、そんな言葉が続いたのじゃないかと思う。

馬鹿。

「幸せの価値は、不幸がわからなきゃ、一生わからないのかな」

 私のつぶやきは誰にも拾われなかった。それでもきっと誰かの心に届いていることを信じて、私は時代を漂流するみたいに、学生を終えたまだ若者である自分を、自分で支えながら生きている。

改札をくぐり、階段の前で私たちは束の間、立ち止まる。

「でも、あぁ、楽しかった」

 本当に明るい声で、彼は言う。久しぶりに、こんなに人間的な会話をした。それは私も同じだった。

「……もしタバコ吸ってたら、どうする」

 不意に言われる言葉。それは以前私が注意した言葉。

「え……体に良くないよ」

 とっさの受け答えがおぼつかない。

「冗談だよ。耐えてるから。俺こっちだ。じゃあね」

「うん、じゃあね」

この瞬間、目線が合う。そして、ピッタリあった目線が、すぐさま振りほどかれ、人混みの中に溶ける。迷いも、ためらいも一切なく。そしてまた二人、別々の道を歩み始める。

男女の間の友情は、ものすごく繊細な天秤の上で、不自然に釣り合いが取れているような、風が吹くだけでバランスを崩してしまうような、そんなものだと、やっぱり私は思うのです。



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