燭影揺紅
月の綺麗な夜。艶のある長い髪に複数の簪を指した女は、男に跪かれていた。
「子陵。私とかの国の婚約が正式に決まってしまいそうなの。この戦に負けてしまったら私は、かの国へ人質として嫁ぐことになるの」
女に子陵と名を呼ばれた男は、この国の将軍の一人であった。子陵は、女に護身術程度の軽い武術を幼いときからお教えしていた。女にとって子陵は、心の中身を吐露できる数少ない人間であった。
子陵は、女の声が震えていることに気が付き顔を上げようとする。子陵が顔を上げようとしたことに女も気が付いた。
「お願い。顔を上げないで。お願いよ。あなたに甘えてしまう。あなたの顔を見てしまったら、覚悟が揺らいでしまいそうで怖いの」
口ではそう言うけれども内心覚悟が決まっていないことを璃茉もまた気が付いていた。もし本当にそうならば、目の前に火ざまづく男の顔を見ても平然としていられるはずだろうし、そもそも子陵に嫁ぐことを伝えなかっただろう。子陵に伝えたのは、甘えから来ていることにも気が付いていた。彼ならば、昔のように璃茉が困っていたら助けてくれるのではないかという淡い期待。
「私は、鳳国の公主よ。民のためを思うのなら、潔く嫁ぐべきなのでしょうね。力がある家に生まれた義務なのだから、政略結婚で結婚するだろうことは覚悟していたのに……私駄目ね」
涙にぬれた声は男心をくすぐると子陵は場違いにも思ってしまった。今にも崩れそうな公主を抱きしめてしまいたくなる衝動をこらえながら、後ろに隠していた酒瓶を璃茉に見せた。
「お酒?」
「そうです。この国自慢の酒、西鳳酒です。今日は、月が美しいので、二人で月見酒といきませんか?」
子陵が、いきなり酒を飲もうと言い出したことに驚きながら璃茉は、袖で涙をぬぐいながらその申し出を受けることにした。
「そうね。こういう時は、お酒を飲んでいやなことを忘れたいわね。顔を上げることを許すわ、子陵」
子陵は、顔を上げた先に目を赤くした璃茉の姿を見て、酒を持ってきたよかったと思った。子陵の主君でもあり、璃茉の兄が子陵に璃茉が沈んでいるだろうから何とかしてほしいと頼まれたのだ。
盃に、なみなみと酒を注ぎ璃茉に差し出すと、彼女は一気にそれを飲み乾した。
「ぷはっ。この酒もしかして、兄上の秘蔵の?」
「えぇ。そうです。内緒にしておいてくださいね。こっそり拝借してきたものですから。それにしても、いい飲みっぷりですね」
もう一度坂月に酒を注ぎ今度は自分の分にも子陵はそそぐ。かなり度数の高い酒にもかかわらず、璃茉はあっという間に盃を空にする。これは、本格的に酔いつぶれる気でいるなと子陵は、苦笑いをした。
「子陵」
「何でしょうか?」
「酔った人が何言ってもたわごとにしかならないわよね」
「はい」
強い酒の影響か、頬に赤みが差している璃茉は、子陵に愚痴り始めた。
璃茉は、知らなかった。己の言葉の重みも、己の戯言を真に受けた臣下がこれからとるであろう行動も予測できなかった。もしこの時、気が付いていたらまた違う結末だったかもしれない。
璃茉が、目覚めたとき日は高く昇っていた。わずかに頭痛がして、璃茉はその美しいかんばせを、わずかにゆがめる。璃茉は、肩にかかる濡れ羽色の髪を掻き揚げ、衣服の乱れを軽くなおす。
「誰かいるかしら?」
璃茉の声を聴いた女官が「お呼びでしょうか」と入室の許可を求めてきた。女官に部屋へ入って、着替えと髪を結う手伝いをするように命ずる。
璃茉が心から信用を置いている女官春香は、部屋に一歩足を踏み入れた途端眉をひそめた。部屋の中には、強い酒のにおいが充満している。いつもは、香をたき整えられた部屋であったがこの日はまるで兵舎のようであった。
「公主様、湯浴みの準備をしますので少々お待ちください」
春香は、璃茉が朝から湯浴みすることに躊躇しているのを見て、失礼を覚悟で口にする。
「公主様、ヤケ酒はほどほどにしてくださいまし。お体にもよろしくないですわ」
「善処するわ」
部屋に転がる酒瓶や盃を春香は、手際よく片付けていく。
「未婚の女性が、夜中に殿方を部屋にあげるのはあまり外聞によろしくありません。次から気を付けてくださいね」
「善処するわ」
璃茉は、春香の小言を右から左に聞き流す。この国にいられるのが、あと少しかもしれない。そう考えると目じりに涙が浮かぶ。この宮廷はとても暖かい。兄上は、優しく聡明な方だし、臣下たちも優秀で愛国心に満ちたものばかり。璃茉が、生まれ育ったこの宮廷の住人は、璃茉を愛してくれた。だけど、戦の結果次第では嫁ぐ先の国では、璃茉はもしかしたら誰にも愛されることはないかもしれないとため息をつく。
「いままでの生活が、とても恵まれていたということに失いそうになって初めて気が付くなんてね」
「公主さま?」
春香が何か言ったかと聞いてきたが、璃茉は「何でもないわ」と一言返した。
廊下が急に騒がしくなった気がした。
あわただしい足音。いったい何が起こっているのか、不思議に思った。璃茉の意を汲んだ春香は、情報を少しでも多く集めようと心に決め、席を立った。
開いた戸の向こうを見上げた璃茉は、灰色の空に嫌な予感を感じた。
子陵は、血みどろの戦場の中愛馬を走らせていた。子陵はただ愛する女のために、敵の大将の首を打ち取ることに集中していた。子陵は、敵の大将の旗を目にしたその時から飛ぶ矢のように戦場をかけていた。部下が、引き留めようと声を荒揚げたが、子陵は聞かぬふりをして前に進んだ。子陵の行く手を阻むものは彼の持つ槍によってその身を貫かれ物言わぬ屍へと変わり果てる。愛する女にして公主である璃茉が、この戦に負けると、かの国の人質とされてしまう。それだけは阻止したかった。昨夜の悲しそうな璃茉の表情が頭から離れない。恐怖と不安で、今にも崩れ落ちてしまいそうな璃茉の姿は、普段の明るく無邪気な姿を見てきたぶん胸にぐっとくるものがあった。
「我は、鳳国公主璃茉様と貴様ら西夷の婚姻を阻むもの。鳳国の将軍、名を黒子陵という。いまここで、貴様の首を頂戴して、璃茉様の憂い顔を晴らして見せる」
堂々と、宣言する。昨晩向こうの使者が持ってきた書状に書かれた内容を目にしたとき思わずその書状を破き、正式な使者の首をはねてしまいそうになった。戦力さではこちらの方が不利かもしれない。しかし、地の利はこちらにあった。この戦はたった一度のチャンス。もしここで負けてしまったら、璃茉はかの国へ人質として嫁ぎ一生ふびんな生活を強いられることになるだろう。そんなことを子陵も王も許せるはずがなかった。子陵の名乗りが聞こえた鳳軍は、己の国の美姫を外の国へ嫁がせるわけにはいかないと、己の武器を構えて次々と敵を倒し始めた。この国で、璃茉の美しさも聡明さも知らない人間はいない。彼らもまた、鳳国自慢の姫を外の国にやるつもりは毛頭なかった。
「鳳国の犬風情が、この私の命を奪うだと。調子を乗るなよ。貴様は、私に指一本触れることはかなわないのだからな」
敵の大将のもとへ急ぐためできる限り軽装化した子陵と違い甲冑に身を包む敵は、くぐもった声で挑発する。そんな見え透いた挑発に子陵は乗らず、ただ戦況の成り行きを観察する。子陵は、男が腰に刷いている身の丈に合わない大剣が、むこうの武器だと見当をつけた。子陵は、凰国やその周囲の国とは、異なる形の武器に警戒していた。陽光に照らされて剣に飾られた玉が輝く。装飾華美なその剣は、儀式用の剣のようで、とても実戦向きに思えなかった。もし、あのような剣を璃茉に献上したら彼女は、どんな反応をするだろうか。璃茉は、実戦向きの研ぎ澄まされた刃物を、己を飾る玉よりも好む女だ、答えは決まっている。
「とっとと名を名乗れ」
「私は、クロウス帝国の第5皇子であり、カリスティアを領主。名をラリディアン・カリスティア・クロウスだ。王の命によりそなたらの鳳国をクロウス帝国の属国とする!」
鎧からくぐもった声が空気に触れるたびに、槍を握る手に自然と力が入った。
子陵は、相手の長い名乗りの間、攻撃するにはどこがいいかと考えていた。名乗りを今更聞かなくとも、この男の素性はすでに凰国総力を挙げて調べ上げていた。敵の大将の首をとったあとの退却する方法もすでに探りはじめていた。
槍をぎゅっと握りしめ、覚悟を決める。
子陵は、慎重に間合いを測り、馬を走らせ敵の懐に飛び込んだ。
狙うは甲冑のつなぎ目。
馬と馬が交差する。
子陵は、背後ににじり寄る陰に気が付いていなかった。中つ国と異なり外つ国は、遠く文化が違う。中の国では、名乗った者同士が、一対一で刃を交えるのが、常識だが外の国に子陵の常識は通じないこと。そのことに、聡明な子陵は、この時ばかりは頭に血が上り、判断力を鈍らせていたのだ。
青天に赤いしぶきが、舞った。
「っ!」
璃茉は、弾いていた琴の弦が前触れもなく切れたことに驚き、思わず手を退けた。暴れ馬のような心臓を宥めるために深呼吸をする。兄上からいただいた日ごろから慣れ親しんだ香が、璃茉の気を落ち着かせる。
「公主様、お怪我はありませんか」
あわてて駆け寄ってきた女官は、璃茉に怪我がないことを確認し安堵の息を漏らす。その姿を視界の端におきながら璃茉は、今朝から付きまとう不安がなんなのか考えていた。
「心配しましたわ。公主さまの美しい肌に傷が残ってしまったらと心配しましたわ。嫁入り前の女ですものお体に傷など作られては、なりませんわ」
璃茉は、衣服の袖から覗き見える荒れの無い滑らかな肌を目にした。この宮廷で生まれたときから人に下賜づかれて生きてきた。身を包む衣を自分で縫ったこともなければ、洗ったこともない。水仕事をしたことのない璃茉の指は、陶磁器のようであった。公主である璃茉に課せられたのは自分を磨くこと。教養も美しさも磨き上げることだった。目が覚めた時から付きまとっていたよくない感じの正体に思い当たった。
「香鈴、春香を呼びなさい」
そばにいた女官に、情報を集めているだろう春香をここに連れてくるように命じると、璃茉は、空を見上げた。この広い空の下子陵は、まだいるのだろうか。不安を押し殺しながら春香を待つ。時間はそう立っていないはずなのに、春香が来るまでの時間が、長く感じた。
春香は情報を持って、璃茉のもとに参ったのは、香鈴を使いに行かせてからそれほど時は立っていなかった。
「春香、正直に答えなさい。嘘は許さないわ。子陵、黒子陵は今どこにいるの」
璃茉は、昨晩のことを後悔していた。しかし、時は戻ってはくれない。一度進んでしまったときは、戻れない。
部屋に、長い長い沈黙が下りた。春香は、命により嘘はつけなかった。しかし、真実を口にするのもためらわれた。真実を知って璃茉が、自分を責めることは彼女の性格を熟知している春香にとって容易に想像が可能なものであったのだ。
「教えて。子陵は、今どこにいるの。凰国は、かの国と今戦をしているの?教えて」
璃茉の真摯な瞳に気おされた春香は、恐る恐る黒子陵に関する知りうる限りの現状を口にした。朝早く、王のもとへ行ったこと。話を聞いた璃茉は、「そう、教えてくれてありがとう。わたし付きの女官は、兵たちが戻ってきたときのための準備を手伝って来なさい。――― 一人にしてほしいの」とだけ口にした。
璃茉の喉から絞り出すような言葉に、戸惑いを覚えながらも命に従い始める女官たちは本当に優秀であった。
「公主様。あまり自信を責めないでくださいまし」
「えぇ。心配はいらないわ。子陵のことですもの……きっと敵の大将の頭を持ち帰ってくるわ。あいつは、仮にもこの国の将軍ですもの。そう簡単に破れたりしないわ」
璃茉は、自分に言い聞かせるように言の葉を口にする。
「子陵。わたしの許可なしで死ぬなんて許さないわ。必ず、生きて戻りなさい。待っているから……子陵の帰りを待っていてあげるから」
璃茉は、春香さえも下がらせた部屋の中で一人静かにそして激し天帝に祈りを捧げていた。
―――彼を、子陵を死なせないでください
子陵は、背後からの攻撃を受けた。急所を間一髪のところで避けたが、赤い血が鳳の大地を穢す。
「卑怯者っ」
「戦に、卑怯も何もない。あるのは、勝利のみだろう」
鎧兜越しでもわかる、嫌な笑みを相手が浮かべているだろうことが……子陵は、鈍い痛みに耐えながら、じっと男を睨んでいた。
「貴様にだけは、渡したくないな。あの方に、貴様のような下種に指一本でも触れさせはしない」
沸きあがる憎悪と怒り。手当たり次第に、攻撃を繰り出す。しかし、感情任せの攻撃は精彩に欠けるのか、どれも決定打にならない。力任せに武器を振り回す子陵の手から、しまったと思った時には槍が抜け落ちていた。武器を失った子陵めがけて剣が無慈悲に降りおろされる。子陵は、死に直面したその時、諦めるの文字が脳裏に浮かぶ。しかし、璃茉を泣かせるかもしれない可能性に気が付いた。ここで子陵が、死んだら璃茉は一生後悔する。ひどく緩慢な動きで振り下ろされる剣を視界にしっかりとおさめながら、必死で対抗できる武器を探していた。子陵が、衣に手を当てたとき―――
―――シャン
「生きろ」と叫ぶように、鈴の音が鳴った。
ラリディアンの首が、飛び、体はゆっくりと馬上から落下する。
子陵はさっと手を伸ばし、敵の大将の頭をつかむと全速力で馬を走らせ、離脱を始めた。
槍とは別にお守りのように懐に入れていた短刀。璃茉が、子陵が将軍になった時に鍛冶屋に作らせた刀で、柄の部分に鈴が取り付けられていた。この短刀の刃は、子陵が日頃から小まめに手入れをしているため切れ味が鈍ること無かった。
あの時、柄に下がる鈴が短刀の存在を子陵に伝えたのだ。大振り脱振るわれた剣をかわし、相手の鎧の継ぎ目に滑りこむように、すいこまれるように短刀を突き刺し、その勢いのまま首を落とした。
恐ろしいほど、よく切れた。
突然大将をうしなった敵は呆然としていた。大将の首を持った男を追いかけようとあわてて馬を走らせたが、千里を走る馬だと子陵が日ごろから豪語していた馬の速さに追いつけずすぐに雑兵の群れに紛れてしまった。
遠くから、敵の大将を打ち取った旨が、宣言される。
顔を蒼くしたたクロウス帝国の兵たちは、慌てて撤退をし始めた。
王宮に戻った子陵を迎えたのは璃茉だった。璃茉は美しい衣が血と泥に汚れることをいとわず子陵に抱き付いた。
どうやら、早馬で結果を耳にしたらしい。
「子陵!よかった。あなたが無事で。それと、ありがとう。私の結婚阻止してくれて!」
涙に濡れた頬をぬぐってやると、花がほころぶように璃末は笑う。この笑顔が見たいがために、この戦に命を懸けた。
子陵は、目の前にいる璃茉をゆっくりと抱き寄せたのだった。
授業の課題作品です。テーマは、自己紹介です。
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