自己嫌悪
そいつは自分を偽りながら過ごしていた。皆目見当もつかない『なにか』に怯えていて、結局なにもかもが謎だった。
――向き合おうともせず
そいつはアンチ自分を自負し、自己嫌悪を自称し、呆れるほどに自分を嫌うきらいがあった。だけど『なにか』を誤魔化すように、人一倍……いや人三倍に正義感は強かった。
――そんなことは無意味なのに
そいつの名は、昏久曇人。
認めたくないけど僕だった。
まあそんな聖者を演じた愚者の話。思い出しただけでも吐き気がする、忘れがたい悪夢。正直、語りたくないけれど……なんだかさらに自分が嫌いになりそうだし。
しかし語らなければならないのだ――最低で最愛の意識を保つために。
さて、今と過去との違いを語るとするなら、自己嫌悪ではなく自己否定していたという点だろう。不幸を恨み、不運を嘆き、不当を訴え、不満を洩らし、不名誉を拒んで、そうやって逃げ続けていた。呪縛から目を逸らしたところで、現実が消える訳でもないことくらい分かりきっていたはずなのに。
――まあそんな僕にも救いがあったわけで。
『間違いなく、貴様は人だよ』
「それを『お前』が言うなよ……」
でもその通り、僕は人だ。性根が腐っていても人、曲がりなりにも人、人でなしであっても人。もちろん、哺乳類霊長目ヒト科である以上、当然といえば当然だけど。その事実にどれだけ救われたことか。
そんなカテゴリーであるところの人は――こんな僕でも例外なく――感情や価値観といった「世界」を持っている。そんな「世界」の変革は、そのまま人間性をも変化させることだろう。瞬間か連続か、偶然か必然か、幸か不幸かはさておいて。
『では、貴様の「世界」とはなんだ?』
僕は……「世界」はだからこそ正義を信じていた。正義にすがりついていたとも言える。そうすることで自分は悪でないと主張していたのだ。それが無駄で無意味で無価値なことだとも知らずに、ハリボテの「世界」はただただ無知だった。
――そう例えば、答えのない命題の真実を解き明かしたかのように。
「悪を討つのが善であり、それが正義」
そんな不正解を正解のように考えていた。
というか単に自分という存在を、認めたくなかっただけなのかもしれない。だから受け入れることなく必死に否定した。そして偽りの聖者を演じ続けた。
――そんな僕は同属と出遭うこととなる。
あくまで主観的な視点であるけれど――「その日」を境として「世界」は変わった――劇的といえるぐらいに。あるいは、悲劇的に。
僕を偽る「世界」
自論を語る「世界」
僕を拒絶する「世界」
そしてなにより
それらの死角に囚われている「世界」
そんな「世界」もついに最期を迎える。
運命の歯車が動き始める6月2日
「その日」も
生憎というか
相変わらずというか
――――曇りだった。