黒い薬
あるところに売れないミュージシャンがいた。
日々アルバイトで生計をたて、週末はライブハウスや路上で演奏する日々。しかし年齢的にもすでに若いとはいえない彼の音楽は時代遅れと裏で笑われ、誰も彼の音楽に耳を傾けようとはしなかった。
そんな彼を支えていたのは会社員として毎日現実という戦場で戦う年下の彼女と彼とは違いとうの昔に自分達の才能に見切りをつけて社会の一員となった古くからの友人たち。そして反対している父親に隠れて仕送りをしてくれる母親の存在だった。
彼はことあるごとに「絶対に売れる」と口にしていたが、その時代遅れの音楽同様、尊大で事故満足の固まりになってしまった彼の考え方が人を遠ざける結果になっていることに気づいていない。
自分の奏でるものが絶対でその声が届かないのは周りのセンスがないのだと彼は心の底から思っていた。
今日も夜の帳が降りた町に彼の音楽と歌声が空しく響く。
その日は珍しくそんな彼の前に一人の人が立ち止まった。よく見ればそれは彼の同級生で、最近急成長している会社の役員だった。
「お前はまだそんなことをやってるんだな」
「笑いに来たなら帰ってくれよ」
旧友にも彼はいつものようにつっけんどんな態度をとった。もはや違う世界の住人になってしまった彼に自分の音楽は分からない、彼はそう決めつけていた。
「いやいや、今日はお前にいいものをやろうと思ってな」
おもむろに取り出したのは小さなビンに入った錠剤だった。しかし彼の怪訝そうな表情が示す通り、それはおかしな点を含んでいる。
「黒い、薬?」
「いっとくけど覚醒剤とかじゃないからな、これはそうだな、さしずめ『成功の元』ってとこだな」
自慢げに言うと彼はそれを彼に手渡した。
「まっ、世の中見返したいんなら飲んでみるこったな。ただ、飲みすぎには気を付けろよ」
立ち去っていく後ろ姿はやはり彼の知っている旧友のものではなくもはや別人と思えるほど自信に満ちていた。昔は大人しくてどちらかといえばいじめられっこだった彼の変化がその黒い薬にあるのだとしたら、そんな思いと怪しい薬だったら、という思いから彼はそれを飲むことを躊躇した。
しかしそれが彼の言う通りホントに『成功の元』だとしたら試さない手はない。
ステージでスポットライトと喝采を浴びる姿が脳裏に浮かんだ彼がそれを一乗飲んだのは友人が消えてわずか10分足らずだった。
薬の効き目かどうかはさておき、その後すぐに演奏を始めた彼の前におおよそ自分の音楽なんて聞きそうにない若者が数人立ち止まった。
「いい歌うたうじゃん、オジサン」
オジサンは余計だ、と思いつつ、彼は素直に喜んだ。それから、彼の音楽は様々な人の足を止めた。最初は少なかった聴衆も少しずつだが確実に増えていった。不思議と以前は彼を罵倒していたような者や彼が敬遠していたような人ほど彼を取り巻いているように見えた。そして彼は観客が増えるたびに、彼はあの黒い薬を一乗ずつ飲んだ。すると拍手と喝采が彼の周りで起こり、彼はそれこそ有頂天になった。これさえあれば成功できる、その確信はいつしか本当に近い人の心をないがしろにするようになる。
始めは彼の古い友人たちが彼の周りからいなくなった。むろん職場においては年齢的に重要なポジションを任される彼らが単純に忙しくなったと思えなくもなかったが、以前のように気軽に居酒屋で馬鹿話に花を咲かせることはなくなった。
それでも彼は歌を歌う。自分のやってきたことが間違いじゃなかったと確信しながら・・・
いつもは閑散としていたライブが割れんばかりの大歓声に包まれる頃、彼女から別れを告げられた。彼の浮気が原因だった。彼はずっと支えてくれた彼女をあっさり見限った。彼女がいなくても彼の周りにはファンの女性がいてくれたからだ。
さらに彼は歌う。いつかは彼女のためだけに歌った歌を振り撒いて・・・
いよいよ彼にメジャーデビューの話が舞い込んだ。
すでに彼の周りには昔から応援してくれた人の姿はなく、喜びを分かち合うことはできなかったがそれでも彼に迷いはなかった。
しかし、ちょうどその頃、母親が倒れたという知らせが入った。しかし容易に帰れるほど彼のふるさとは近くない。
ほどなく彼が大型新人として世間で騒がれる頃、ひっそりと母親は息を引き取った。父親は葬式にも顔を出さなかった息子を勘当し、二度と帰ってくるなとつっぱねた。
そして彼の周りには彼の本当の理解者がいなくなり、観衆に囲まれていないときは心を許せる友を失った。壮大すぎる夢を笑顔で聞いてくれた恋人を失い、仕送りと一緒に送られてくる好物の梅干しが届くことはなくなった。
黒い薬がなくなる頃、彼の周りからは人が消えていった。得た地位も朽ちかけ、名声ももはや過去の産物になってしまった。
ある晴れた朝、彼は廃棄物処理場の中で鉄屑に囲まれ死んでいた。みすぼらしく、ボロボロの格好で・・・
「確かマグネットと言ったかな」
ある研究室で白衣を来た研究者が話し合っていた。
「ああ、MG―net。少し前に話題になりましたね。対人関係を良好にする薬だとか」
「本来はその名の通り人を引き付けるフェロモンのようなものを体内から出して、孤独死する老人を助けたり、内向的になっていく子供たちが友達を作りやすくする目的で開発されていたらしいけど現物は欠陥品で市場に出ることはなかったな。その名前が示す通り、それまで嫌っていた、もしくは嫌われていた人間から好かれ、反対に好いていた、もしくは慕ってくれていた人を廃する薬なんてどう考えても欠陥品だよ」
「薬を飲んだ人間が世間からずれていればずれているほど普通の人間がよって来るってわけだ。そういう意味では確かにマグネットかもしれないな」
「くっついていたものをはじき、はじいていたものをくっつける。しかしそれでえた人間関係は薬がなくなると効果を失い、離れた人間は戻らない。つまり薬を飲み続けるか、本人が変わらなきゃいけないってことか」
「まぁ、学会で発表はされたけど試作の段階で研究が打ち切りになったらしいな。もっとも普通に生活する上ではあまり必要ないものなんだよな」
「まったくだ。自分の周りにいる大切な人を失って手に入れる大衆になんの意味があるんだか」
「なんでも研究社の一人が恋人を使ってそれを確かめたとか」
「恋人をモルモットにしたってことですか? イカれてますねその男」
「いや、その研究員は女性だったらしいぞ。なんでも彼氏は当時付き合っていた売れないミュージシャンだったとか・・・」
「それならもってこいの実験材料だったってことですね」
笑い合う研究者たちでさえその薬の副作用を知らない。
まがまがしいと思えるほど真っ黒な錠剤だったその薬には本当に磁石が使われていて鉄を引き寄せ、周囲に磁場を作ってしまうということを・・・
「おっこの歌・・・」
垂れ流している有線から聞こえてきたのは、前奏だけで十分時代錯誤な歌と思える音楽だった。
「なんか、むかし雑音が入ってる音源が出回って噂になったんだよ」
「ああ、俺も聞いたことある。結局初回に発売されたやつが全部回収されたんだろ。その歌手も最後は自殺したとかしないとか」
「残ってるCDはその歌手が呻いてるように聞こえるってことからネットを中心に話題になったんだ。ほら呪いのなんとかって」
「どいつもこいつもそういうの好きだな。さて、そろそろ仕事に戻るか」
二人はその歌声が聞こえるその前に有線を切り研究に戻った。
それは今から少し先の未来の話。