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第四話

 はぁ……。


 口から重く湿った息が抜けて行く。私は一人、今日何度目になるかわからない溜息をついた。一度ため息をつくと幸せが逃げると言うなら、今の私の幸せはゼロを通り越してマイナスになっているに違いないだろう。

 ただでさえ今年の夏は暑くてムカつくのに、私がため息をすればするほど湿気が多くなったみたいで、余計に気がめいる。


 はぁ……。


 ――それがまた、私のため息を招く。正しく悪循環だった。

 思えば、私は子どもの時からついてなかった。持ってきたはずの給食費は失くす。勇気を出して買った好きな男の子の写真。体験学習の、集合写真のだったけど、私はそれでもドキドキして、買うのにも凄く勇気が必要だった。……なのに、買ったその日に雨にぬれてやぶけた。

 大学時代もよく電車が遅れて講義に遅刻した。休講って聞いてた講義が実は次の講義で、私だけが欠席になって単位を落とした。就職活動も二年生の時からコツコツ準備して、二百社以上受けたのに、全部だめだった。

 なんとか派遣社員として働けてるけど……。今日もいっぱいミスして、いっぱい怒られた。『替えならいるんだから』。その一言が一番つらかった。

 そんな私の唯一の支えは、高校時代に告白してくれた彼だけ。

 私は子どもの頃から不幸続きだったせいか、少し内気な性格だった。友達だってほとんどいない。男の子なんてもっての他。そんなダメダメな私を、彼は不思議と選んでくれた。

 私はそんな彼が近くにいてくれたから、このつらい毎日に耐えてられてきたんだと思う。……なのに、最近は全然連絡とれないし。さり気なくデートに誘ってもらおうとしても、『仕事だから』って断られる。


 はぁ……。


 私は空を見上げる。ビルの明かりの所為で、星空は思っている以上に薄い。微かに瞬いているであろう星なんて、強力な光の前ではかき消されてしまうのだ。……たぶん、星も私を照らす気がないんだと思う。

 残業ばかりで疲れた体が重い。今の私の望みはただ一つ。早く帰って休みたかった。そうやっていつもの帰り道を速足で歩いているときに――彼女に出会った。


「~~♪~♪~」


 会社からの帰り道、私は人があまりいない海沿いの道を歩く。遠くの夜景が目に美しい。その光景のためカップルが多くいてもおかしくないような所だが、そうした人々はもう一本向こうの通りを歩く。

 私は、そんな綺麗な場所があるのに見向きもされない、この通りが好きだった。

 ……その人がほとんどいない通りで、その少女は一人歌を歌っていた。


「♪~~♪~」


 それは変な少女だった。使い古したTシャツにジーパン。髪もぼさぼさで、ほとんど手入れしていない。……のくせに、顔は綺麗だし、肌もびっくりするくらいきめ細やかだった。私が一体どれだけ苦労してケアしてるのか。小一時間くらい、この子に説教してあげたくなるくらいうらやましかった。


「~~♪~♪。っと」


 ……気がつけば、一曲終わってしまったようだ。正直、舐めてた。確かにこの少女の事を観察して足を止めたのも事実だが……。実際、彼女の歌声があまりに見事だったから、聞き惚れていたのもある。

 私がそのまま佇んでいると、件の少女と目があった。何かを期待する目で私を見つめている。


「………コホン」


 少女がわざとらしく咳払いし、何かの空き缶を前に出す。やっぱり、何かを期待する目。仕方ないので、私は財布からお札を一枚取り出しその中に入れてあげた。


「へへ、毎度! 姉さん、なんか悩み事かい? 何なら俺が相談に乗ってやるぜ? この、遍槙小町がな!」


 小町、と名乗った少女は胸をドンと叩いて私にそう言った。別に、その少女に相談する必要なんてなかったが……コレも“縁”かと思い、私はその少女、小町ちゃんに愚痴を聞いてもらうことにした。




「ムグムグ……へぇ、姉さん、苦労してるな」


 とある牛丼屋。最近すき焼きのような丼を売り始めたことで話題になっている店。とりあえずお腹がすいているという少女を連れて、私はそこに訪れていた。

 さっき私が渡したお札を使って、変えるだけの牛丼を目の前に並べる小町ちゃん。どう考えても、女の子には多いんじゃないかって思うその量を、彼女は私の話を聞きながらパクパクと消化していった。私はその光景に圧倒されながらも、愚痴をこぼしていく。

 会社の事。彼氏の事。

 彼氏の話をした時、小町ちゃんがあからさま嫌そうな顔したのが少し面白かった。


「恋人がいるなら、俺よかマシじゃねぇか」


 聞けば、小町ちゃんはそういう人を探して旅をしているという。随分と変わった少女だと思ったが、何とまあ。この子位の魅力があれば、彼氏の一人や二人は出来るだろうに。それに比べて、私ときたら……。正直、彼氏がいるのが不思議なくらいなのだから。

 私自身、彼の存在が本当に私の人生の中での奇跡だと思っている。彼は何で私と付き合っているのかわからないくらい、いい人だった。


 何で私と付き合いたいって思ったの?


 何度もその質問をしたことがある。もし私が男だったとしても、私は声をかけたくない。だというのに、彼は初めて出会った時から私が気になっていたという。だから、本当に疑問なのだ。彼が私と付き合いたいと思ったことが。

 私がその質問をするたび、彼は決まって顔を赤くし、そっぽを向いてこう言うのだ。


「運命、かな。一目見た時に、その瞳に吸い寄せられた。俺が幸せにしてあげたいと思った」


 ただその言葉が嬉しくて、私は彼に抱きつく。そんな毎日。不幸だけど、それでも幸せな毎日。ずっと、そんな日が続けばいいと思っていた。


 けど、それももう終わりそうなんだけどねーー。


 プハァ!


 私は口についた泡をぬぐいながらそう言った。舞台は牛丼屋から私の部屋に移り、夜も徐々に更けてきている。私はもっと愚痴が言いたかったし、小町ちゃんは今日寝るところがないと言うので来てもらったのだ。

 カシュ!

 机の上に並べた発泡酒の缶を再び開ける。気がつけば、私はもう三本目の発泡酒に突入していた。


 大体あいつもさ、もっと私にかまってくれればいいと思わない? それを仕事仕事と……仕事と私のどっちが大事なんらか。


 少しだけ呂律が回らなくなってきている。この愚痴も、もう何度目だっただろうか。思考がループして止まらない。……私は酒を飲むと気が大きくなる性質だった。良くあいつからは、一緒に飲みたくないなんて言われている。


「いや、俺は恋人がいたためしがないから何とも……っていうか姉さん、酒臭い……」

 何? 私が酒飲んじゃ悪い? 私ごとき派遣社員が、酒を飲むなんておこがましい?

「そういうわけじゃねぇが……俺、酒の匂いがダメなんだよ。これだけで酔っ払っちまう」

 へぇ……じゃあ飲みなさい。

「いや、なんでそうなるんだよ!? 俺は未成年だって!」

 いいの。私が許す。だから飲みなさい。酔うときは酔うの。こう言う話をするときは、相手に付き合って飲むのが礼儀ってもんよ。

「ううう……俺、絡み酒って苦手だ……」


 私がきつく言うと、小町ちゃんは観念した様子ではしぶしぶと缶を一つ手に取った。くるくると周りを見回し、そこに書かれている『これはお酒です』の文字を見ては顔をしかめ、やっぱりくるくると見回す。


 カシュ……。


 そして意を決したのか、おっかなびっくりその缶を開ける小町ちゃん。それでもいきなり飲む気はないのか、缶の口から沸き上がってくるアルコールのにおいを嗅いでやっぱり顔をしかめている。

 ……何かあれね。缶の口に鼻を近づけて匂いをかいだり、行動が猫みたいね。


「チビチビ……お、意外にうまい……」


 小町ちゃんは最初、恐る恐るその液体を舐めていたが、口に合ったのか普通に飲み始めた。普通のジュースを飲むように、ごくごくと喉を動かしている。


 いい飲みっぷりじゃない。えっと、何処まで話したっけ? ああそう、だからね、私は言ってやったの。どうしてそんなに仕事ばっかなの? って。そしたらあいつ、今は言えない、もう少しだけ待っててくれ、の一点張り。何か隠してんだろうけど、私にも話しなさいよね。

「ヒック……ああ、姉さん、その通りだぜ。 男なんて、変な奴ばっかりで……ヒック……私だって、白馬の王子様に会いたいのに……」


 カシュ!

 いつの間にかこ小町ちゃんも二本目に突入。すでに顔は真っ赤だし、様子もおかしい。……小町ちゃん、泣き上戸なのね。


「ヒック、ヒック……。気がつけば兄さんも結婚しちゃってるし。 昔は私をお嫁さんにしてくれるって言ってたのに。……うう、兄さんのバカ……」


 しくしく、と目に涙をためながら一口あおる。あおる。あおる。……止まりそうにないその飲酒ペース。よくはわからないけど、彼女もまた色々とため込んでいるようだった。


 小町ちゃんも苦労してるのねー。いいわよいいわよ、今日は全部話して、流しちゃいましょ。ほら、もっと落ち着いて飲んで。ちゃんとつまみも食べなさい。

「うう、お姉さん、ありがとう。……私だってね、呪いがなければね……」


 そっからの小町ちゃんの愚痴は正直あまり覚えていない。ご先祖様の呪いがどうとかこうとか、“縁”がああとかうんとか。お姉さんも私と似てるよね、うんそうだね、とか何とか。

 ――とりあえず分かったのは。

 小町ちゃんが、お兄さんが大好きなかわいい女の子っていうことだった。




「うう……」


 朝起きると、ベッドの隣に敷いた布団の上で小町ちゃんが唸っていた。服装はさすがにあの服装ではない。一応私の寝巻を貸しておいた。……ただ、それもほとんど意味をなさないくらいに乱れている。

 うん。私はその気がないからいいけど、そっちの子や男の子がこの様子を見たら大変なことになるでしょうね。


「うううう……」


 どうやら、小町ちゃんは二日酔いになってしまったらしい。初めて飲んだ割にはゴクゴク飲んでいたから意外と大丈夫なのかとも思ったけど、やっぱり駄目だったらしい。生憎、二日酔いになったことのない私には彼女の苦しみは理解できないけど、相当にきついらしい。

 呻いている小町ちゃんをとりあえず置いておいて、散らかった部屋を少しだけ片付けて必要な物を探す。

 発泡酒の缶やおつまみのゴミはひとまず纏めておいて、ちょっとした外出用の服、財布の入ったバック、その他を見つけ出す。一応、下着だとかは片付けて置いた。すでに遅いかもしれないけど……やっぱり年上のプライドというものもある。そこまでだらしない姿を見られるのは好ましくなかった。

 僅かな生活スペースを確保し、服を持って浴室へと移動。

 軽くシャワーを浴びてさっぱりした私は、鞄を持って外へと出かけるのであった。


 小町ちゃん、起きれる?

「あーうー、無理っぽい……」


 小町ちゃんに声をかけると、言葉通りに無理そうな声が返ってきた。少し油断しただけでも胃の中身が逆流してきそうな声。とりあえず、無理だけはしないでは欲しい。


 そう、わかった。朝ごはん、簡単な物だけど作っておいたから良かったら食べて。薬もテーブルの上に置いておいたから。あ、鍵は合いカギを置いておくわ。出ていくなら、ポストの中に入れておいて。


 私はさっき買ってきた二日酔いの薬(どれが効くかなんてわからなかったから、適当に)と飲み物のペットボトルを机の上に置きながら、そう小町ちゃんに声をかけた。台所のおかゆは好きに食べていいこと、合いカギについても伝えておく。


「ありがとー姉さん。……っち、俺としたことが二日酔いなんて……」


 少しずつではあるが、小町ちゃんも回復傾向にあるようだった。何より、言葉遣いが初めて会ったころに戻ってきている。その女の子らしくないその言葉遣いの小町ちゃんと、昨日の女の子らしい小町ちゃん。そのギャップが少しおかしかった。

 私は布団の中でうんうん唸っている小町ちゃんを見てクスリと笑った後、また憂鬱な会社に向かって足を動かすのだった。




「おう、お帰り姉さん」

 ! 小町……ちゃん?


 また残業で帰りが長引いた私が家に戻ってくると、エプロンに身を包んだ小町ちゃんが出迎えてくれた。まだ小町ちゃんがいたことと、その彼女がエプロン姿で出てきたこと。その二重の意味でびっくりしたけど、帰って来たときに『お帰り』なんて言われるのは久しぶりで、本当に嬉しかった。


「姉さん、いくらなんでも冷蔵庫に酒ばっかなのは良くないぜ? とりあえず俺が食材入れて置いたけど、ちゃんとバランスよく飯食わないと」


 そう言って、小町ちゃんは鼻歌交じりにテーブルにご飯を並べていった。煮物や鯖の味噌煮、キュウリの浅漬け。それ以外にも何品かあって、その全てがおいしそうだった。思わず、ぐぅと自分のお腹が鳴る。こんなに食欲が出たのはいつ以来だろうか。


「ああ、金なら大丈夫だ。 昨日みたいに適当に歌ってたら、物好きな人が金くれたから」


 危うく警察に捕まるところだったし、と笑う小町ちゃん。確かに、小町ちゃんの姿は家で少女にしか見えない。この季節にうろついていると、警察のお世話になりそうになることも多いんだそうだ。

 ニカッと歯を見せながら笑うその仕草は、何所か男の子っぽい。青春物のドラマで主人公を張れそうなくらいだ。

 ……いけない、いくら彼氏に会えないからって、そっちの道に走っちゃダメよ、私。


「? 妙な寒気が……まだ酒が残ってるのか? ……まぁいいや。 とにかく姉さん、飯食おうぜ。姉さんも腹減ってるだろ」


 小町ちゃんはそう言って、炊飯器からご飯をよそい始めた。私は席に着き、茶碗を受け取る。


「いただきます」


 小町ちゃんが手を合わせるのに倣って、私も手を合わせる。ふっくらと炊きあがったご飯。一口含むと伝わってくる、上品な甘さと温かさ。鯖の味噌煮も、煮物も浅漬けも、何所か私の心を刺激する。私は知らず、涙を流していた。




 小町ちゃんはいつまで此処にいられるの?

「さあ。自由気ままな旅暮らしだから、いようと思ったらいつまでもいられるけど。迷惑になるならすぐ出ていくし、そうでなくても旅に出たくなったらすぐ行くかな」


 食後、私にお茶を出してくれた小町ちゃんは、晩御飯に使った食器を洗いながらそう答えた。その後ろ姿に妙な色気を感じる。新婚さんの夫が見る光景はこんな感じか……などと、しみじみと思ってしまった。


 そう……良かったら、ずっといてくれてもいいのよ?


 正直、私としてはこのままずっと小町ちゃんが此処にいてくれてもいいと思っている。料理はおいしいし、優しいし、さらにカッコいい。こんな子が弟、もとい妹になってくれたら、私は万々歳だ。


「そういうわけにはいかないだろ。迷惑もかかるし、俺も一応目的があって旅してるんだからな」


 食器を洗う手を止め、悲しげな表情で振り返った小町ちゃん。そう言って、ただゆっくりと首を横に振った。そのまま、私の前まで来て膝をつき、三つ指を立てる。


「とはいえ、その好意は感謝します。いつまでかわからないけど、しばらく御厄介になります」


 頭を下げる小町ちゃん。その姿は折り目正しく、どこか気品すら感じさせる動きだった。あまりの切り返しに、私はしばしの間呆けてしまう。


 ……! え、ええ、私は構わないわ。


 私は赤くなった頬を押さえながら、慌てて答えた。小町ちゃんには、女性もひきつけるような不思議な魅力があるみたいだった。私の言葉に満足げに頷いた彼女は、立ちあがって台所まで行き、洗い物を再開する。鼻歌を歌いながら一枚一枚丁寧に洗ってその姿は、本当に楽しそうだった。

 ……男っぽく、体一つで旅を続ける小町ちゃん。女の子らしく、おいしい料理を作れる小町ちゃん。どちらの小町ちゃんも、何所までも魅力的な子だった。


 ……はぁ。

「? 姉さん、また悩み事か?」


 私のため息に反応し、小町ちゃんが声をかけてくる。どうやら洗い物も終わったらしい。エプロンをそのあたりにかけながら、私の前に胡坐をかいて座る。その瞳は優しく、本当に私の事を気にかけてくれている事が良く分かった。……やっぱり、小町ちゃんは優しい子よね。


 うん。何で小町ちゃんはこんなにいい子なんだろうって。

「よしてくれ、照れる。……でも、それがなんで姉さんの悩み何だ?」

 私は小町ちゃん見たく明るくもないし、魅力的でもない。歌を歌う才能もないし、それでお金をもらうなんてもってのほか。そんな私と年下の小町ちゃんを比べたら、ちょっと、ね。

「姉さん……チョット待っててくれ」


 そう言って、小町ちゃんはポットにお湯を入れてくると、冷めていた私のお茶を入れ替え、さらに自分の湯呑にもお茶を入れる。私はありがたくそのお茶に口をつけた。少し熱めのそのお茶が、私の気持ちを落ち着かせてくれる。テーブルの向かいでは、同じように小町ちゃんがお茶を飲んでいた。


「あちち……それで、姉さんは俺と比べて自分が劣っているように感じる、それが嫌だと?」


 コクリ、と私は素直に頷く。小町ちゃんには、私のその反応が少し不服のようだった。少しの間眉をひそめ、言葉を選ぶように口を開く。


「あー、俺としては逆だな。むしろ、姉さんがうらやましい」

 ……私が? 小町ちゃんに比べて、何もできないこの私が?


 小町ちゃんは決して嘘はついていない。少し困っているような表情ではあるが、その目は真っ直ぐ私を見つめている。嘘偽りなく、私の事をうらやましいと思っているのだろう。

 ――それこそ、私には理解できない。

 そんな私の表情を見ながら、小町ちゃんは笑いながら……いつもと違う、自嘲気味の笑顔で言葉を続けた。


「俺だって別に何が出来るわけでもないさ。というか、本当に必要なモノは持ってない。だから、それを持っている姉さんがうらやましくて仕方ない」

 ……? どういうこと?


 小町ちゃんは一口お茶を飲み、言葉をつづる。


「俺にとっては、唄が歌えるとか料理がうまいとかは正直どうでもいい。要は、いい男が手に入ればいいんだ。むしろ、その目的が果たせないんなら無駄とすら思う」


 ――自分が持つ才能を否定し、さらには無駄とさえ言った小町ちゃん。しかしそう言った小町ちゃんの瞳は変わらず真っ直ぐだ。その様子が、小町ちゃんが本当にそう思っているからこそ、私はその考えが理解できなかった。


 小町ちゃん……。私は本当に何もできないのよ? 料理だって小町ちゃんほどおいしくないし、歌だってカラオケが精々。楽器なんて、少しも演奏したことないもの。人にやさしいわけでもない。そんな人間の、何がうらやましいって言うの?

「いや、見ず知らずの俺を泊めてくれるなんて相当やさしい人だと思うぞ。それになにより、いい彼氏さんがいるじゃねぇか。そういう人が近寄ってくれると言うのが、何より姉さんの人柄を示してると思うけどな。……彼氏さんの話をしている時の姉さん、本当に幸せそうだった。俺が本当に欲しいのは、絶対に手に入らないのは、そういう物だからさ」


 そう言って、小町ちゃんは自分の手のひらを見る。ご先祖の呪いで、男運が……“縁”が全くないという小町ちゃん。もし私が同じ立場だったらきっと早くに諦めてしまっていただろう。それでも、小町ちゃんは諦めていない。その瞳には、いつか必ずという強い意志があった。


「姉さんは……幸せになりたいんじゃいのか? ……なら、きっとその彼氏さんがいれば大丈夫だよ」


 小町ちゃんは手のひらを下ろし、私を見て微笑んだ。男くさくも無く、優しいわけでもない、儚げなその笑顔で。その姿が、何よりも彼女の気持ちを示している。

 私自身が何と思おうとも、私はただ頷くしかできなかった。


 ……そうかもしれないわね。でも、その相手が……。

『ピピピピピ! ピピピピピ!』


 私の言葉を遮って、手元に置いておいた携帯電話が鳴り響き着信を告げる。ディスプレイに表示された名前は、確かに彼の名前だった。私は慌ててその通話ボタンを押す。


「もしもし!? うん、久しぶり! ……え? 明日? 構わないけど……うん、判った。それじゃ……」


 あまりにも唐突な彼の言葉に、私は少し呆けながら通話を切った。久しぶりだった、けれどたった数秒の会話。私は久しぶりに聞いた彼の声に嬉しくなると同時に、その短すぎる時間に微妙な気持ちにならざるを得なかった。


「……彼氏さん、何だって?」


 きっと、私は凄い表情をしていたのだろう。小町ちゃんが心配そうな表情で覗きこんでくる。


 明日、夜に会ってくれないかって。……大事な話があるからって。

「噂をすればって奴だな。まったく、うらやましいぜ」

 ……何が?

「何がって……明日の夜、デートなんだろ? きっと二人で買い物して、飯食って。ホ、ホテルとか行くのか……?」

 そりゃ、行く時は行くけど。

「マジか……」


 小町ちゃんが顔を真っ赤にして呻いている。初心なのは判っていたけど、こういう反応を見せる女の子も正直珍しいんじゃないかなと思う。見たところ、高校生くらいだろうに。

 その様子が少し面白かったけど、それぐらいでは今の私の心は晴れなかった。


 ……はぁ。

「おいおい、せっかくのデートなのに、暗くなっちゃダメじゃねえか?」


 小町ちゃんの言うことももっともだ。これが喜ぶべきことである以上、私は悲しむべきではない。でも。でも――


 ――デートじゃ、ないかもしれないじゃない。

「………」


 私の弱々しく、けれど断定的なその言葉に、小町ちゃんは言葉を無くしてしまっていた。目を見開いたまま、口をパクパクと開けたり閉じたりを繰り返している。


「確かに、明日はデートかもしれない。でも、デートじゃないかもしれない。むしろ、ここしばらく会いもしなかったのにいきなりだなんて……ひょっとしたら、別れ話かもしれないじゃない。ううん。きっとそう。そうに、違いないわ」

「姉さん……」


 私は確かに彼が好きだ。ずっと、彼と一緒にいられれば幸せだろうってこともわかっている。だからこそ、彼に嫌われるのが怖くてしょうがないのだ。……今まで仕事だって言って会わなかったけど、本当は新しい彼女がいるだけかも知れない。

 そう考えてしまう私の心は、深く沈んでいった。

 私は子どもの頃からついていない。たった一つ起きた奇跡が、彼の存在なのだ。……でも、私もわかってる。奇跡はずっと続かない。夢はいつか覚める。夢から覚めた時、たぶん、私は本当に何もなくなる。ダメな人間だって思ってしまう。

 ……小町ちゃんみたく、強くは生きれない。


「姉さん」


 涙を流しながら沈む私の手を、小町ちゃんはその手で静かに包んだ。温かい。血の通った、温かい小町ちゃんの手が私の心をほぐしてくれる。


「大丈夫だ、姉さん。姉さんとその彼氏さんには、確かに良“縁”がある。俺が保障する。きっと、筋金入りさ。“縁”がなけりゃ諦めろ、と言うところだが……“縁"”あるんなら、諦めんなよ。もし姉さん達の邪魔をする奴がいたら、俺が断ち切ってやるさ。だから。だから、大丈夫さ」


 そして小町ちゃんはポケットから何かを取り出すと、私の腕に結び付けた。それは、カラフルな色で編まれた腕輪。いわゆる、ミサンガ。


「俺のお手製で悪いが……お守りだ。きっと、明日はうまく行く」


 そう言って、小町ちゃんは優しく微笑んだ。その笑顔は、今まであったどんな人間よりも優しくて。……そして、悲しそうだった。


「さて、そんじゃ姉さん、出陣祝いと行こうぜ。えっと、確か……。……昆布と栗と……あった、干しアワビ。こんなこともあろうかと用意しておいたぜ。これをつまみにでもして、一杯やってくれよ」


 小町ちゃんは立ち上がり、台所へと向かって行った。少し経って戻ってくると、その手にはいくつかのつまみと、発泡酒の缶と、グラス。


「ま、順番とかは別にいいよな。こういうのは雰囲気が大事ってなもんだ。ほい、姉さん」


 て小町ちゃんは発泡酒を一缶開け、その中身をグラスに注いでいく。泡立ちすぎず、かとって決して少なくない、みるからにおいしそうに注がれていく発泡酒。半分ほど注いだところで、そのグラスを私に手渡した。


「さ、んじゃ乾杯と行こうぜ!」


 小町ちゃんは片手に残ったその缶を私の方に突き出してくる。こういう時は飲むのが礼儀ってもんなんだろ? と小町ちゃんの目が訴えている。私はただ、自分のグラスを小町ちゃんの缶に合わせた。


 乾杯。


 一口、その安い酒を口に入れる。普段は特に感慨もわかないその味。ただ、今日はいつもよりおいしかったように感じた。

 私はまだ、自分が信じられない。小町ちゃんのように強くなれない。……それでも、私を元気づけようとしてくれているこの少女が言うことを。

 ただ、信じてみたいと思った。




 っはぁ! はぁ、はぁ……


 小町ちゃんに出陣祝いをしてもらった次の日の朝、私は妙な夢にうなされて目を覚ました。

 ――それは、おかしな夢だった。

 遠い昔の時代で、着物姿で髪を結った私と、同じく着物姿の彼が寄り添って歩いている。その二人は……私たちは本当に幸せそうだった。でも、その後ろから私たちを睨みつけている、一人の女がいた。日本髪を結ったその女性は、狂って燃える炎のような目で私たちを睨んでいる。


『口惜しや……口惜しや……』


 地獄の底から響いてくるような、暗い声。


 ……私は、そこで目を覚ました。それでもその声が、耳に張り付いて離れない。どうにも、嫌な予感がした。




 それじゃ、行ってきます。

「おうー、行ってらっしゃい……痛たた」


 私の声に、布団の中からブンブンと手を振って答えてくれる。今日も二日酔いに悩まされている小町ちゃんには悪いけど、その様子に少しだけ私の気は紛れた。

 昨日の夢は何だったのか。未だに耳にこびりついて離れない、呪いの言葉。そして、昨日の彼の電話。何の関係も無いはずのその二つが、頭の中で同列に置かれている。何故か、その二つが切っても切り離せないもののように、頭に残って剥がれない。

 そんな陰鬱な気持ちのまま、私は今日も退屈で憂鬱な仕事場へと向かう。

 一歩、一歩踏み出すごとに気が重くなる。私は何でこんなに頑張って歩いているんだろう? もう休んでもいいんじゃないの? と、頭の中で声がする。逃げてしまえと言う私の声が聞こえる。


 ――ふと、私は足を止めて右手を見る。いつもは何もないはずのその場所につけられた、色とりどりの線。小町ちゃんの手作りだという、ミサンガ。

 ミサンガにお祈り、なんていうのは一体いつ以来だろうか。高校生の頃に、彼との仲が続きますようにと祈ってつけていたような気がする。あのミサンガはどうしてしまっただろう。切れてしまったのか、それとも外してしまったのか。それすらも、もはや曖昧だった。

 ……だから、私はもう一度願いをかけてみることにした。あの時ははっきりしなかった、願いの結果。それを、このミサンガに願ってみる。


 ――話がある。何の話かは知らないが、昨日確かに彼は電話でそう言った。

 彼は本当に優しい人だ。はっきり言って私にはもったいないくらい。高校時代だって、何であんな人があんたみたいなのと付き合ってんの、と表に裏に何度も言われたこともある。それを一番不思議に思っていたのは私自信だというのに。

 彼は本当に、老若男女に好かれすぎていた。友人は数知れず。男女の分け隔てなく接しているし、どんな会話でも面白おかしくしてくれる才能を持った人だった。そしてなにより、良く笑っていた。――私から見て、彼は眩しすぎたのだ。まるで、太陽のような人。それが、彼を初めて見た時の私の印象だった。

 そんな彼が私に告白してきたのは、その年の秋。涼しくなってきたころ、夕焼けに染められた教室の事だった。呼んだのは彼。呼ばれたのは、私。

 私には信じられなかった。私も彼の事を気になってはいたが、絶対にあり得ないと諦めていた。それがその時、覆されたのだ。この世界に奇跡があるんだと、心の底から感じられた。私は涙を流して喜んだ。

 ……それから十年近く。まだ、世界は私に奇跡を見せ続けてくれていた。相変わらずついていないのは変わらなかったけど、それでも、いや、だからこそ彼と過ごした時間は奇跡と表現するにふさわしい。

 でも……もしかしたら、今日その夢が解けるのかもしれない。私はまた、冷たい現実に戻されるかもしれない。つらい現実に叩きつけられ、立ち上がれなくなるかも知れない。

 それでも。

 それでも私は――このミサンガに、願う。

 きっと、彼と別れることはないと。きっと、小町ちゃんの言葉を信じると。

 “縁”。小町ちゃんが言うには、私と彼の間には本当に強い“縁”があるらしい。そう言いきった彼女の顔が目に浮かぶ。私は、その小町ちゃんを信じたい。


 願いを込めたミサンガは、こころなしか少し重くなった気がした。私の思いが込められたような、そんな不思議な感じ。

 私はそのミサンガを満足げに見ながら、会社へと駆け足で歩き出した。




 夜。淡い月の光が空を照らし、私と彼を浮き上がらせている。二人、何を語るわけでもなくその月の照らす夜道を行く。彼は少し前から黙ったままだった。

 今日は本当に不思議だった。会社でも、会社を出て待ち合わせの場所に行くまでも、全く何事も無く過ぎて行った。今まで一日五回はミスしていた会社でも、今日はゼロ回。むしろ同僚が私の心配をしていたくらいの出来だった。

 おまけにここ連日の忙しい仕事は全て終わり、追加も何もない。何日かぶりに定時に帰れるという追い風まで吹いてくれた。当然、待ち合わせ時間に遅れることなんてない。余裕を持ちすぎたくらいの物だった。私の何処にも、問題がない。こんなことは人生で初めてかもしれないくらいだ。

 ただ……久しぶりに会った彼の様子が妙だった。


「悪い、遅れたっ!!」


 まず、待ち合わせの時間に遅刻してくる。聞けば、同僚がやたらとミスを連発しそれをフォローするのに四苦八苦していたのだと言う。それくらいなら珍しいこともあったね、くらいで流せるのだが……その後も彼はことごとく調子が出ない。


「おわっと……すいません」


 道を歩けば数歩以内に誰かの方にぶつかる。決して混み合っているわけでもないのに、だ。それも決まって彼の方が悪い。心ここに有らずという感じで、良く前を見ていない。


 大丈夫? 体調が悪いなら今日は無理しなくても……

「いや、大丈夫だ。……大丈夫」


 元々、真面目な割には何処か抜けたところがある人だった。でも、今日のそれは話をかけて酷い。本人がこう言ってる以上そうなのかもしれないけど……どう見ても、彼の行動は尋常じゃなかった。……やはり、何か隠している。

 私の中で疑惑が疑念に変わっていく。思考が悪い方向へと転がっていく。彼の隣を歩きながら、私はただその考えを必死に押さえていた。そんなことあるはずがない、そう考えているのに、頭の中の何所かでまたそれを否定している。

 そんな揺れ動いた気持ちのまま、私と彼は予約してあるというレストランへと向かった。それは近所でも評判のレストラン。その味や店の雰囲気がかなりの物で予約を入れないとほぼ確実に食べられないといわれるほどの店。決して安くないその店を、彼は予約してくれていた。


「えっ!? でも確かに俺は予約を!?」

「申し訳ございませんお客様。当店ではその、そのような格好の方は……」


 ……ただし、ドレスコードの存在を失念した形で。普通なら決して忘れることのないだろうその存在を、彼はこの時まで一切合財忘れていたらしい。なんとか、と食い下がってそれならば別の日に、というところまではもって行けたが、それ以上は無理だった。

 

 いいじゃない、別の日でも。……正直、いきなりこんなところじゃ落ち着かないわよ。

「あ、ああ……済まない。本当に済まない……」


 私のフォローを聞いても心ここに有らずのままの彼。青い顔をしたまま、どうしようと呟いている。……本当に、今日の彼の様子はおかしい。彼ならこのくらいの事、笑って済ませるくらいが普通だと言うのに……。

 結局私達はそこからそう離れていないファミリーレストランで食事をとった。味は悪くないし、私としては満足していたのだが……最後まで彼の表情が晴れることはなかった。


 そのまま、店を出た私達は何をするわけでもなくこうして夜道を歩いている。もちろんホテルに行こうかという雰囲気でもない。ただ、彼が歩こうと言ったからついて行っているだけ。

 ……私としては、早く話を切り出して欲しい。こちとら、さっきからの騒動何かでもう覚悟は決めているのだから。彼が何かを隠しているのは、恐らく間違いない。それが別れ話なのかどうなのかは分からないけど、ただ……この宙ぶらりんの状況を何とかしてほしい。私の気持ちはただそれだけだった。

 そんなことを考えながら歩いていたら、彼があるところでその足を止めた。それは、小町ちゃんと出会ったあの海沿いの道。私の会社からの帰り道。私の好きな、道。


「……話があるんだ」

 ……だから、私を呼んだんでしょ?

「ああ。本当はレストランで言うつもりだったんだけど、あんまりにも予定が狂ったから……。そのまま、今まで踏ん切りがつかなかったんだ。でも、不思議とここなら言える気がする」


 そう言って、彼は話を始めた。それは私が予想していた、一番聞きたくなかった話。


「……どうしようもないくらい好きな人が出来たんだ。……その人を幸せにしたくて、でもどうしたらいいかわからなくて。だから……ここしばらくはずっと残業してたんだ。あることをしてあげたくて」


 ……やっぱり、別れ話じゃないか。心の中で何かが砕け散る。腕に付けたミサンガの重さが、今は憎らしく思える。――私は自分の心が深く深く沈んでいくことを自覚した。早く消えてしまいたい。この海の底に沈んでしまいたい。そう願う私の心を無視して、彼は話を続けた。


「一生、自分の人生のすべてをかけて、その人を守りたい。だから勇気を出して、その人に告白することにしたんだ」


 彼は輝く瞳でそう続けた。その表情は高校生の頃から変わっていない。太陽のように眩しい、あの笑顔。私の影を浮き彫りにするような、あの笑顔。

 私はもうその話が聞きたくなかった。冷たい現実の足音が、すぐそこまで歩いてきている。泣きたかった。でも、もう――涙は流れなかった。


「だから」


 だから、別れて欲しい。涙すら流れない私の暗い瞳は、彼の口がそう動くものだと思っていた。悪いことばかり聞こえる耳が、彼の声をそう聞くのだと思っていた。だから――






「だから………結婚してくれ」







 ――その言葉の意味を理解するのに、時間がかったのも無理はないと思う。





 ………………………。



 …………え?





「君が好きだ。ずっと昔からそうだったけど、もうその気持ちが抑えきれない。本当に、自分以上に、君の事が好きになってしまったんだ。愛してる。この………」


 戸惑っている私を置いてけぼりに、彼は懐から小さな箱を取り出した。正方形に近い、丸みを帯びた青い箱。開けられたその箱の中には、小さなダイヤが乗った指輪が輝いていた。


「指輪を、受け取ってくれないか?」


 彼は高校生みたいな純粋な瞳で、真っ直ぐに私の目を見てそう言った。ただ、純粋に。純粋であるからこそ、その言葉が私の胸に響いてくる。さっきまで枯れ果てていた目に涙があふれてくる。沈んでいた心が持ちあがってくる。

 どうやら、世界は……私にまだまだ奇跡を見せてくれるらしい。


「……はい、喜んで……!」


 留まる事を知らない涙を隠そうともせず、私は頷いた。涙で霞んで、彼の顔が良く見えない。ただ彼の笑顔の温かさが伝わってくる。

 彼はそのまま私の手を取り、その左手の薬指に指輪をはめた。

 月光を受けて輝く、永遠の輝き。それは私の幻想が、奇跡が、本当の意味で世界に認められたような気がして嬉しかった。







 ――そんな、最高に幸せな時だったから。


『口惜しや……口惜しや……』


 朝夢で聞いた声が聞こえてきたときは、何の冗談かと思った。地獄の底から響いてくるような、恐ろしい声。幻聴かとも思ったが、どうやらそうではないらしい。彼もきょろきょろと、辺りを見渡している。


「……何だ、妙な風が……?」


 確かに、辺りには生温かい妙な風が吹き始めていた。その風は、まるで意志をもったように、私たちの周りを回り始める。まとわりつく湿った生温かい風。それはいつかの私のため息のように、私から幸福を奪っていくよう。


『……口惜しや……口惜しや………』


 その風は再び、何処からか暗く悲しい声を運んできた。ただ、絶望と悲しみだけが込められた、呪詛の声。もう聞きたくない、そう考えてしまう声。

 私たちが思わず耳をふさいだその瞬間。

 世界が、爆ぜた。





 気がつけば私たちは炎に囲まれていた。右を見ても、左を見ても炎の壁。オレンジ色に染まるその炎は、まるで生きているかのように私達を取り囲む。そのあまりの熱気に、思わず身を縮めてしまった。

 煉獄。そう表現されるのが相応しい。まさに灼熱の地獄だった。


『口惜しい……我が恨み。口惜しや……』


 声が響く。私達から少し離れた位置に浮かび上がってくる、未だかつて見たことのない存在。――それは、一言で言えば骸骨だった。古い藍色の着物を着た、骸骨。骨のみとなったその体で立ち、何処までも暗い眼窩で私たちを見ていた。


『あの小娘の所為で邪魔出来なんだが。なれば、この身で引き裂くのみ……』


 ゆっくりと蠢くその骸骨。骨だらけの足で、しかし音も立てずに近づいてくる。高く掲げられた右腕には、まるでナイフのように長く鋭い爪が――


「危ない!」

 ザク! 「グッ!!」


 振り下ろされた爪は真っ直ぐに私を狙って振り下ろされた。あまりの事態に固まっていた私には、当然そんな物を避ける余裕なんてない。

 ただ動けなかった私を彼が私を弾き飛ばし、代わりにその腕を爪で切り裂かれた。


「っああああ!」


 溢れ出る赤い血。彼の命そのものが、流れ出していく。ただ呆けたままの私の髪を、肌を、服をあっという間に染めて行く。倒れたままの私には、それを見ているしかできなかった。


『口惜しや……その身、不幸になるが我が望み……口惜しや……』


『お姉さんも私と似てるよね』

 その悪夢を見ながら、ふと小町ちゃんがそう言っていたことを思い出す。

 自分が呪われているとも。

 ――ああ、ようやくわかった。私と彼が惹かれあっていたのも。私が昔から不幸だったのも。……あの夢の意味も。


『そう……我が呪い。その人を私から奪った……お前への呪い……』


 骸骨が――いや、あの女が私の考えをよ見透かしたように、骨の身で笑う。書く核と蠢くその頭蓋骨が、私を笑う。その笑いが私を笑い続けたかつてのクラスメイト達に重なる。過去が私を追って来る。

 だから私は、耳をふさいだ。


『そうよ……その人を置いて……死ぬがいい……』


 骸骨が再び腕を上げる。炎に照らされたその姿は、まさに死神のように見えた。

 暗い眼窩が私を見る。その穴は私の心の暗い部分を引き出していく。

 もう嫌だ。やめたい、帰りたい。

 子どもの時からそうだった。私は、結局一生不幸のまま。クラスメイト達が将来の夢についてしゃべり合っている時、私は何も言えなかった。私には、コレというモノが無かったから。そんな時は、心で耳をふさいで聞かないふりをしていた。


「……逃げろ………!」


 地面から伸びた鎖に絡めとられた私に、腕を押さえながら彼が叫んだ。その姿にも――私の心は動かない。

 彼は私がいいと言ってくれた。ダメな私が好きだと言ってくれた。

 ……でも、判った。どうして彼が私を好きだって思ってくれたのかが。結局、過去の私たちに“縁”あったからだけなんでしょう?

 生まれ変わりだとか、そういうのはもうどうだっていい。……結局、今の私は見られていなかった。

 だったら、もう……死んじゃってもいいかな……。


「違う……!」


 腕から流れる血の量が増えても、その顔がどんどん青くなっていっても。彼は決して倒れなかった。痛む腕を無視してでも、私の横で両足で地面を握り立ち続ける。

 骸骨がその様子を見ている。その爪がきらめく。それでも彼は、決して逃げようとしなかった。


「前世だとか、そんなものはどうでもいい……! 確かに、きっかけはそういうものだったかも知れない。それでも、今日まで俺がお前と一緒にいたのは……お前が傍にいることが嬉しかったからだ! それは嘘なんかじゃない!」


 彼は叫ぶ。血を流し、満身創痍になりながらも決して倒れることなく。私の前に立って、そう言いきった。死神の暗い眼窩が彼の温かい背中の向こうに消える。


 トクン


「俺はコイツが好きだ! 一生かけて守るって誓った! コイツは、それに応えてくれた! ……なら俺の体が動き続ける限り、守り続ける!」


 トクン、トクン、トクン


 ……ああ、こんなにも心臓が高鳴ったのはいつ振りだろう。初めて彼に出会った時? 告白された時? キスされた時? あの時の夜?

 ……ううん、初めてかもしれない。


 いつの間にか、私は彼の腕を握っていた。

 私も、逃げない。


 言葉は出ない。けれども私はあふれ出る涙をそのままに、彼にそう目で訴えた。彼はただ短く、そうかと言って微笑む。私もそれに頷いた。

 私たちの幸せは、私たちが掴む。呪いなんてもの、全力で抗って見せる!


「……来なさい! 私は、私たちの幸せは、あんたなんかに壊させやしない!」


 私は叫ぶ。今までにないほどに力強く、体を縛る鎖を引きちぎってまで。これがただの強がりだなんてわかってる。それでも、これは私の、私たちが抗うべき運命。

 そうでしょ……小町ちゃん。

 私は腕に付けられているミサンガを意識する。その重さが、私を少しだけ強くしてくれる。

 頭の中で、小町ちゃんが笑いながら肯定してくれた気がした。


『ああ、その通りだな』


 そんな声が、聞こえた。私の想像でも、幻聴でもない。今、確かに風に乗って、どこかから小町ちゃんの声が響いた。


『ちくしょう。姉さんの彼氏さん、本当にめっちゃくちゃいい人だな。ホント、うらやましいぜ』


 その声は、いつもの彼女の、凛とした声。明日を信じ走り続ける、少女の声。優しくて強くて、少しだけ弱い女の子の――。


『馬鹿な……この中に、入ってこられるはずが………』


 骸骨女が驚いたように、周囲を見渡している。……そして、私の後ろを見て、その視線が固まった。


「……何の因果か弁天の、呪い宿りしこの体。先祖の呪いを収めよと、渡されたのはこの『縁切』。誰が呼んだか、ついたあだ名が『縁切弁天』。 今宵、その"縁"、断ち斬らせてもらいやす」


 その鋭く研がれた刀のような、しかし同時に月の光が優しく辺りを照らし出すような、心地よい響きの声が、私の後ろから響いてくる。

 ゴウ、との後ろの炎が大きくはじけた。

 感じる。背後にその力強い気配が。彼氏も、骸骨も。その場にいる誰もがそこを見て固まっていた。そんな中で私はただ一人笑みを浮かべながら彼女の姿を見る。


「よう、姉さん」


 ボロボロの服装、ぼさぼさの頭。何処にいても変わらない、小町ちゃんのそのスタイル。想像通りいつものようにニカッと男くさく笑う小町ちゃんが、そこに立っていた。手には炎に照らされて爛々と輝く、短い刀――合口を握り締めて。


「言ったろ、もし姉さん達の邪魔をする奴がいたら、俺が断ち切ってやるって。……悪いがな、そこの骸骨女。いい女なら“縁”が無けりゃさっさと諦めるんだな。生まれ変わった女と彼氏を恨み続けるなんざ、湿っぽすぎるだろ」


 そう言って、小町ちゃんは手に持った合口を構える。


「その因“縁”、俺がここで断ち切ってやる」


 そうして、私と彼を観客とした小町ちゃんの舞踏が始まった。



 小町ちゃんが駆ける。ネコ科の動物のようなしなやかさを持って、瞬時にトップスピードへ。そのまま合口を両手で握り、牙をつきたてるように骸骨女に穿つ。

 しかし骸骨女もさる者、その一撃を体をずらして何とかかわす。避けられてしまった小町ちゃん、だがその顔は諦めていない。唇を釣り上げた獰猛な笑顔のまま、体を反転させて体全体で着地する。その勢いを再び自身の力に変え、疾風の如く骸骨女へと向かって行った。

 体制が崩れている骸骨女はそれをかわすことができない。ただゆっくりと、その爪をもって小町ちゃんを迎撃する。


 ガキィ!


 骸骨女の爪と小町ちゃんの合口がぶつかり合い、火花が散る。その衝撃で炎の壁が揺れた。しかしその均衡も一瞬。やはり人ではない者はその惰力も人と異なるのか、完全な力比べになると小町ちゃんが不利になる。瞬きの後、彼女は弾き飛ばされてしまった。


「ック!」


 飛ばされながらもクルリと態勢を整えて、着地する小町ちゃん。そこに向かって宙を滑るように近づいて行く、骸骨女。

 小町ちゃんの顔が驚きに染まった。


 ザク!


 瞬間的に姿勢をギリギリまで低くした小町ちゃんのすぐ上を、骸骨の爪が薙ぐ。避けられたと思ったその攻撃は、しかし小町ちゃんの腕を掠っていった。傷は決して深くない。しかし小町ちゃんの腕からは、少しずつ赤い液体が流れて行く。


「……クソ。やっぱりこういうのは当たるのか。ったく、もうちょっとマシな縁の切り方しろってんだよな!」


 追撃しようとした骸骨女の攻撃を、地面に引き絞っていた自分の体の反動を利用して大きく後方に飛ぶことでかわす小町ちゃん。血にまみれたその腕をぺろりと舐めると、再び獰猛な笑顔を浮かべて疾駆した。


 瞬時にぶつかりあう二人。そして、舞う火花と二人の踊り子。

 一人は黒い髪を振り乱し、全力で駆けまわる獣の歌姫。

 一人はその肉すら落とした体で舞い続ける、死の化身。

 その幻想的であり得ない光景を、私はただただ眺めているしかなかった。二人は踊る。ステージは煉獄の最中。観客は私達二人だけ。しかし私達を取り囲む炎が二人のぶつかり合う衝撃に揺れ、幾百の観客のように体を震わせる。ただ、二人の舞踏は幻想的だった。


「……あの子は、一体……?」


 私と同じく、呆けた様子でその光景を見ていた彼が呟く。出血は圧迫することで収まっているが、それでも流した血液は少なくなく、顔も青い。彼の状態が良くないのは素人目にもわかった。

 しかし私は、それほどに心配していない。なぜなら、小町ちゃんが戦っているから。どんなに困難な道のりも歩いていける力強さを持った、あの子が戦っているから。それならきっともう大丈夫。


 小町ちゃんの事? 私にもわからないわ。………案外、女神さまかもね。


 私達はただ、身を寄せ合いながら二人の演目を見続ける。二人の踊り子が演じ続けたこの演目も、すでにクライマックス。――決着がつく頃合いだった。


『……くぉ……!』


 バキン、と音を立てて骸骨女の爪が折れる。それは一枚だけではない。すでに両の手にあったそれらの凶器は全てはがれおち、かけらが地面に散らばっていた。

 武器を無くした骸骨女。すでに、決着がついたのは明らかだった。


「悪いな……俺の後ろにいる奴の方が、ちぃっとばかしお前より面倒くさいんでな。お前ごときの呪いに、負けているわけにはいかないんだよ」


 ただし小町ちゃんの方も満身創痍の状態だった。髪は所々切り裂かれているし、服も同様。元々ボロボロの服装だったが、今はその穴の数を増やしている。そしてその両方が血まみれ。真っ赤な体のまま、それでも小町ちゃんは笑っていた。決して、弱気になっていない。

 その姿はまさに、運命に立ち向かう戦士のようだった。


『口惜しいや……! 何故、我が邪魔をする……!?』

「姉さんに借りがあるから。姉さんと彼氏さんに幸せになってもらいたいから。そして何より――」


 小町ちゃんがその合口を逆手に握って構え、そのまま骸骨女の前に立つ。二人の間を阻むものは何もない。ただ小町ちゃんはその合口に想いを乗せて振り下ろした。


「――お前みたいに、嫉妬していつまでもうだうだ言ってる女が大っ嫌いだからだよ!!」


 ドス!

 小町ちゃんの持つ合口が遺骨女の胸を穿つ。刺された骸骨女はその暗い双眸に驚愕の光を宿し、ただ己に突き立ったその合口を見つめていた。


「……その因“縁”確かに断ち切った」


 ……カチン。

 小町ちゃんの合口が白い鞘に納められる。今宵の舞踏はこれにて終幕。後に残されたのは一人の少女と――一人の、女性。


『我は……いえ、私は……』


 合口が抜かれたその時から、骸骨女の姿はみるみるうちに変わっていった。古ぼけていた藍色の着物はまるで新品のような輝きを放ちだし、その双眸にも優しげな光が灯りだす。先ほどまで骸骨でしかなかったその体も、今はたおやかな女性の体となっていた。

 長い髪の美しい女性。本当はそういう顔つきだったのだろう、穏やかな顔をして佇ずんでいる。もはや禍々しさはどこにもなくなっていた。


「やれやれ。ようやくすっきりしてくれたか。なら、もう判ってんだろ。さっさと向こうでいい男探せよ。……今のあんたなら、きっと引っ張りだこだろうさ」


 小町ちゃんが呆れた様に上に向かって指をさしながら言う。確かに今の彼女なら、さぞもてることだろう。呪われていた私としては複雑な気持ちだが……何も言う気はない。

 私は彼の手をそっと握る。それだけで私は幸せだった。


「ええ、そうね……もう心残りはないし、行くわ。 ……ありがとう、弁天様」


 そうしてその女性は、私たちの方を見て申し訳なさそうに頭を下げた後、満足そうに微笑んで消えて行った。後には何も残らない。ただ、優しげく涼やかな風が私達の体を撫でて行った。


「弁天っていうな。俺はそう言われるのがものすごく嫌いなんだよ。……まぁいいか。それより姉さん」


 クルリ、と振り返り私を見つめる小町ちゃん。少しだけ申し訳なさそうな目で私の顔を伺っている彼女は、なんだかとてもおかしかった。


「すまねぇな、俺の方で勝手に話進めちまって。もしかしてあの女に何か言いたかった事があったんじゃないか? よくも何年も呪ってくれたな、とか」


 困ったように頬を掻きながらそうやって言う小町ちゃん。まるでいたずらした子どもが親の前に立たされているみたいなその仕草。それがあんまりにも可愛かったから――ちょっと、いたずらをしてみたくなる。

 だから私は少しだけ笑ってこう言った。


 そうね。良くも私の小町ちゃんを傷つけてくれたわね、って言ってやればよかったかな。小町ちゃんは私の物だーって。

「………まぁ、何だ、俺にそういう趣味はないからな……?」


 くすりと笑う私と、若干顔を赤くしながら一歩下がる小町ちゃん。そしてそれを見ながら呆れている彼氏。穏やかな風の中、私達は確かにそこに立っていた。


 シュウウゥゥゥゥ……。

 周りの炎が収まって行く。演劇が終わり、観客に帰ることを促しているように。

 ……そうして、気がつけば私たちはあの道にいた。










「さて……んじゃ行くか」


 小町ちゃんは自分と彼の手当てを済ませると、ボロボロの服装でそう言った。一応、赤く血に染まった服とは別の服に着替えたはずなのに、それまでボロボロというのが何とも言えない。


 まさか、今から旅に出るの? 今日はもういいじゃない。ううん、怪我を治してからだって――

「悪い。俺は気分屋だから。こんなに月が綺麗な夜なんだ、そういう日に旅に出たい。……それに、姉さんの幸せへの門出だからな。“縁”起がいいだろ!」


 私の説得にも応じず、ニカッと笑う小町ちゃん。その目は強い、本当に強い意志の力を宿している。これ以上私が止めてもきっと無駄だろう。


「やっぱり正直、本当に姉さんがうらやましいよ。一緒に不幸に立ち向かってくれるいい男がいるんだからな。……彼氏さん、姉さんを幸せにしてあげてくれよ?」

「……ああ、判ってるさ」


 彼は傷ついた体を庇いながら、それでもやっぱり膝を地面につけることなく笑ってそう言ってくれた。私はそんな彼に寄り添い、その体を支える。


「よし……それじゃ、もう行くよ。じゃあな、姉さん」


 小町ちゃんは道を歩き出す。たった一人、誰とも寄り添わずに。その背中には、何所までも強い彼女の意思と――寂しさが浮かんでいた。




「小町ちゃん、また会おう!? きっと私たち、幸せになるから! 幸せになれるから! だから、また会おう!?」



 私はその寂しげな背中に向かって、大きな声で叫んだ。

 私たちは、きっと幸せになれる。私達にかけられている呪いなんてものは関係なく。私は、小町ちゃんは、それに立ち向かっているのだから!


「そうだな……姉さん! また会おう!」


 小町ちゃんが振りかえって手を振る。その顔は最高の笑顔で。泣きながら、笑っていた。




「ねぇ?」

「何だ?」


 そのまま小さくなる小町ちゃんの姿を、私と彼はずっと見ていた。一歩、また一歩と歩いて行くたびに小さく儚くなっていくその背中。でも月が、星々がその道を照らしてくれていた。きっと、小町ちゃんは大丈夫だろう。


「私ね……子どもが欲しいな。女の子」


 私がそう告白すると、彼は少し驚きながらも頷いてくれた。


「名前も決めてあるの。素敵な女の子の名前」


 それは強くて優しくてかわいくて。運命に立ち向かう、素敵な少女の名前。


「……またね、小町ちゃん」


 私の左手の薬指には、指輪が。右腕には、小町ちゃんのミサンガが。


 そう、きっと。

 私たちは幸せになれる。



第四話 完




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