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第二話

第一話よりは短めです。

途中、ひょっとしたら残酷描写と思われる場面がある可能性があります。

ふむ、済まないが、そこの御仁。


「ああ? 何だ、お前?」


 本当に申し訳ない。もし良ければ、その手の中の物を分けてくれないだろうか。もう、何日も何も口にしていないのだ。


「……コレが食いたいのか?」


 うむ。この哀れな私に、ぜひ恵んでいただきたい。


「まぁいいか。ほら、食べな」


 ……暑く、うだるような夏のある日。私は、深い山の中で女神に会った。



 どういうわけか記憶を無くし、行くあても無く山の中をさまよっていた私。幾日かは山を下ろうと歩き続けたが、どういうわけかふもとにもたどり着けない。

山の中を動き回れば、当然腹も減る。しかし私は恥ずかしながら、生まれてこの方これほどの山の中で狩りなどしたことが無い。何も口にできないまま、川の水だけで過ごしていた。もちろん、それだけで足りるはずもない。

いよいよ限界かと思われた時、私の鼻が肉の焼ける匂いを感じ取った。焼いた肉がうまいとは思わないが、やける匂いは素晴らしい。これほどまでに、私の食欲を刺激する。

私は本能に従い、僅かな月明かりの元を駆け抜けた。草をかき分け岩を避け、たどり着いたその先に――彼女がいた。

 その姿はまるで女神のようだった。

 私は人の顔を覚えるのは苦手である。ほとんど無理だともいえるだろう。それでも、その整った顔は忘れられないだろうと思った。この山の中にいるのにふさわしい、使い古された衣服にも好感が持てる。

 何より、その匂い。その匂いが、その少女が他の人間と全く異なっていることを告げていた。私の鼻は、仲間内でもよく利くことで有名だったのだ。間違いはない。

 少女がその手ずから、自らがかじっていた肉を私の目の前に置いてくれる。今まで嗅いだ事のない匂いの肉。だが決してまずそうなわけではない。むしろ、今まで出会った肉の中で最もうまそうだった。

 私は恥も外聞も無く、ただ勢いよくその肉に食らいつく。私には少々熱すぎて少し口の中を火傷してしまったが、そんな事も気にせずに、私はただただ貪った。


「おう、落ち着いて食え。しかしアレだな……お前、名前は? ……なんて聞いてもしょうがないか。まぁいい、俺の名前は遍槙小町べんてんこまち。よろしくな」


 そう言って、私の頭を撫でる少女。その声が優しく、山の中に響いた。


「はは、くすぐったいよ!」


 私はお礼にと、その少女の顔を舐める。人の言葉を持たない私には、ただこうするくらしか、彼女に私の気持ちを伝えることはできない。


「あははは、わかった、もう分かったって! はぁ……『どういたしまして』ってか」


 そう言って、再び少女は私の頭を撫でる。その少女は私の言葉を、理解してくれているようだった。その表情は穏やかで、優しさに満ち溢れている。

 私は、彼女に出会えた幸運に感謝した。

 ……私の父も祖父も、ただ人のそばにあり、人とともに生きてきた。私もまた、人と――私のご主人とともにある。あり続けたい。だから、帰らなければならないのだ。


 私は、犬。ただの、犬なのだから。



「こら、暴れるな!」


 あれから、私はこの少女と共にいた。理由は簡単だ。彼女という存在についていけば、私の目的が叶えられる。そう、私の勘が告げたからだった。


「ほら、尻尾も」


 ……しかし、この扱いは困る。

 穏やかな昼下がり。今、私と少女は川の中にいた。

 きれいな水だ。一時、口にするものがこれしかなかった私が、その安全を保証する。あちこちには魚も泳いでいるし、私にそれらを捕まえる技術があったならよかったのだが――その時は、この少女とも出会わなかったかもしれない。こういうのを、そう、“縁”があった、というのだっただろうか。


 ムニュ


 先ほどから、私は体を洗われている。水浴び……というか、水を浴びるほどに飲むのは最近毎日行っていたのだが、体の方はとんと無頓着になっていた。私だけでは、全身をくまなく洗うなんてことも出来ないし、何より早く家に帰ろうと躍起になっていたからな。いつの間にか、私の体は汚れてしまっていたらしい。それが、少女の気に障ったのだろう。

 当然、川の中にいるのだから少女もその衣服を脱いでいる。使い古された衣服は無理に力を入れるとすぐに穴があいてしまいそうではあったが、少女は特に気にした風も無く、その辺に脱いで捨てていた。几帳面なご主人に比べれば、何とも大雑把な性格である。

 私の体は比較的大きい。町の中でも、私に勝てる者などそうそういなかったほどだ。その私の体に比べ、少女の頭はそれほど高い位置にあるとは言えない。よく家の前を通っていた少女と、同じくらいだろう。

 少女は全体的に細みだ。いささか、人間の女性としては肉づきにかける気がするが……逆に、動物として見ると非常に美しい肉体をしている。すらりと伸び、しなやかに動く手足は移動するのに役立つだろうし、筋肉の付き方から見て、相当な瞬発力があることもうかがえる。私にはよくわからぬが、その体は……そう。昔ご主人と一緒に見ていたテレビに出てきた、古い彫刻みたいな感じだろうか。


 ムニュムニュ


 ……先ほども言ったと思うが、私の体はそれなりに大きい。それに対して、少女はこの歳の女性として普通くらいである。そんな彼女に、私の体は洗いにくいらしい。その結果、少女が私を抱きとめるような形で洗うという状態になっていた。要するに。

 少女の胸のコブが、私の背中を圧迫しているのである。

 圧迫と言っても圧力がかかっているわけでもなく、また少女のコブがそれななりに柔らかくて気持ちがいいため痛みは無い。ただ、少しうっとうしかった。少し離れて欲しくて体を動かせば、逆に少女が力を込めて私を抱きしめてくる。仕方なく、私はされるがままに任せることにした。


「よし、綺麗になった!」


 ふぅ。やれやれ、ようやく終わったか。

 その状態に耐えることしばらく。私の体のあちこちをいじり通した少女は、満足したのか私から離れていった。私が振りかえってみれば、なかなかにイイ笑顔をしている。

 正直、ご主人はもっと丁寧に洗ってくれたからいささか疲れてしまった。無論、空気を読む私はそんなことを顔には出さない。ただ静かに、少女の顔を見つめていた。

 腰に手を当てて、満足そうに頷いている少女。

 ……少女よ。私にはわからぬが、人は裸でいることを恥ずかしがるのだろう? いくら人気がないからといって、そのままの格好でいるのはどうかと思う。

 私はついついそう思ってしまったが……顔には出さない。

 なぜなら私は、空気を読む犬だからだ。



 ブルブルブル!


「あ! こら、水を飛ばすな!」


 済まない、それが習性なんだ。

 私は水浴びを終えた後、少女が自分の衣服と体を洗うのを待ってから、川からあがった。夏の熱気が冷えた体を一気に温める。いささか暑すぎるが、この調子ならすぐに体も乾くだろう。そのうだるような暑さの中、ふと気付く。何故、この少女はこんな山の中にいるのだろう。

 私のような獣の身であれば、本能にまかせてこの山の中に飛び込む事もあるかもしれない。生憎と、その時の事は覚えていないが……まぁ、私もまだ若いということだろうか。と、そんな事は置いておいて。

 少女はその肉のつき方や立ち振る舞いから、ただ者でないことは分かる。しかし、それでもその身は人間。それならば、こんなにも人里離れた所にいるのはおかしいのではないか。

 私はその事を、少女に訪ねたかった。しかしそれは、犬であるこの身には叶わぬこと。


「ほら、体吹いてやるから大人しくしろよ」


 私の顔を覗き込むようにして、少女が優しく私の体をタオルで拭く。とりあえず、私はそのまま身を任せるのであった。


 パチパチと、火が爆ぜる音がする。私の目の前には、橙に燃えるたき火が灯っていた。日が落ちたとはいえまだまだ気温は高い。それなのに燃える火にあたりたくなるのが、人間という生き物らしい。少女も手早くその辺りから枝を集めてきたと思ったら、あっという間に火をつけてしまった。その動きは洗練されており、長いことこのような生活をしていることが伺える。


「よいしょっと。あー、もうイノシシ肉も少ねぇな。また出てくれないかな、イノシシ。あいつ結構うまいんだよな」


 少女が袋から取り出した肉を、棒に差して火に当てる。私にはそのまま、大きめの生肉を渡してくれた。……うまい。昨日は火で焼かれていたが、やはり肉は生に限る。


「やれやれ。このまま道に迷ったままだと、そのうちこの山の主になっちまうな。そんなもんお断りだぜ。さっさと人里に下りてぇが……」


 そう呟いて、少女は紙を取り出した。私は知っている。それは、地図というモノだ。


「北極星がアレで、あの星座がここにあるから……いま、この辺だよな。……たぶん。う~、だったらもうすぐ山の外に出てもおかしくないんだが……磁石も落とすし、ついてないぜ、まったく」


 ……トントン、と少女が頭を叩いて悩んでいる。地図をくるくるとまわし、何度も空を見上げていた。どうも、そうやると自分の位置が分かるらしい。

 残念ながら、私には、地図は読めない。済まないがその点は力になれないな。もしどうやってこの山に入ったのか思いだせたなら、帰り道も分かるのだが……気が付いたら此処にいたからな。匂いも分からないし、人里がどちらなど、皆目見当がつかない。


「……また、アレやるか」


 地図を睨むことしばらく。少女はそう言って、懐から一本の棒を取り出した。

 真っ白い、妙に重たそうな棒。知らず、私の尻尾が反応する。

 ……私と、遊んでくれるというのか? 気持ちは嬉しい。しかし私はもうそういう物からは卒業したのだよ。悪いが、あきらめてくれ。

 パタパタパタ!

 いかん。尻尾が止まらない。


「ん? コレが気になるのか?」

 私がその棒をじっと見つめていると、少女は私の気持ちをくんでくれたようだった。べ、別に遊んでほしいとは思っていないぞ。私はただ、その棒が飛んで行ったらすぐに取りに行こうと思っているだけだからな!


「コレはな、俺のご先祖が残した『縁切』ってもんでな。こうやって――」


 私の心の声に気付かなかったのか、少女はその棒の頭を押さえたまま、棒を地面に置いた。少し反っているその棒が、地面の上でまっすぐに立つ。


「――使うんだよ!」


 パタン

 少女が手を離すと、その棒は倒れた。その様子を見て、少女は満足げにうなずいている。

 ……? それで何だと言うのだろうか。私の期待はどうしてくれるのだろうか。見てみるがいい、少女よ。私の尻尾も元気を無くしてしまったぞ。


「よし、んじゃ明日はあっち行ってみっか!」


 やっぱり私の心の声に気づかず、その少女はその棒が倒れた方向に目印を付けていた。つまり、そっちの方が人里だと?


「あっちに人里がありゃいいんだが……俺は悪“縁”が強いからな。ここ三日くらい同じことやってるが、……この辺りをぐるぐる回ってるし。ま、“縁”があれば町に出るだろ」


 少女はそのまま地図を放り投げると、飯飯と、さっきから火にかけてあった肉を食べ始めた。ふむ。とりあえず、方針は決まったようだ。ならば、私は大人しくそれに従うとしよう。

 ……別に、遊んでくれなかったことが寂しくなんてない。



「いやー星が綺麗ってのは山の醍醐味だよな」


 食後、少女は地面に寝そべって空を見上げていた。夜空に広がる満天の星のもと、気持ちよ下げに手足を広げる。時折起きて火の管理をしているが、それ以外は静かなものだ。 私はそんな少女の横で寝そべっていた。


「そう言えば、アニキは星を見るのが好きだったな。俺にも見せるんだ、って張り切ってたことがあったっけか。アニキ……どうしてるかな」


 その瞳は、夜空を通して何処か遠く、別の土地を見ているようだった。その気持ちはわかる。私も、ご主人と一緒に見たあの空が忘れられない。この星空を見ていると、まるでご主人が戻ってきたみたいで――

 ――……?

 はて、なぜ『ご主人が戻ってくる』などと考えたのだろうか。私が家にいないからといって、ご主人までそうだと言うわけではないだろうに。そうだ。私は早く帰らなければならないのだ。ご主人がきっと、心配している。


『ご主人、今帰ります!!』

「おおぅ!? いきなり遠吠えするなよ、びっくりするだろ!」


 私の決意の叫びが、少女をびっくりさせてしまったようだ。体を起して怒鳴りつけてくる。あまりにも驚いたためか、その目からは一筋の涙が流れていた。よっぽど驚かせてしまったらしい。


「お? ……ははは、こら、顔を舐めるな! わかったわかった、もう怒ってないから、な?」


 私は少女の涙が地面に落ちないよう、顔を舐めてふき取る。何、女性の涙を拭くのは一頭の紳士としては当然の事だ。が、はて。拭いても吹いても、次から次へと涙が流れているような……もしかして、本当に泣いているのか?

 私は顔を舐めるのをやめ、少女から少し距離を取ってみた。少女は座ったまま顔を伏せ、その表情を伺うことはできない。しかし、確かに泣いているように感じた。

 私は何も言わずに、ただ静かに彼女のそばに寄り添う。しばらく少女はそのまま何もしないでいたが、やがて観念したように私に抱きついてきた。そのまま、静かに涙を落とす。


「……ありがとうな。ちくしょう、人間よりも動物の方がいい男がいやがる。俺、ほんとに男運ねぇな」


 しばらくそうやって固まっていると、少女は満足したのか私から離れて行った。もうその表所に暗い影はない。ただ、朗らかに。太陽のような笑顔で笑っていた。



 ――私は夢を見る。それは、優しかったご主人の夢。ご主人は、有体に言えば普通の人だった。優柔不断でもあったが、皆にやさしくしていた。誰からも好かれたし、誰とも仲良くしていた。

 ――そんな、悲しい夢だった。



 鳥の囀る声を聞きながら目を覚ます。どうにも変な夢を見ていたようだったが……はて、どんな夢だっただろうか。起きる直前までは覚えていた気がするのに、目を覚ましたらするりと消えてしまった。何か、悲しいものが心に残っている気はするのだが……まぁ、思い出せないというのなら構わないのだろう。

 それよりも。


「すぅ……すぅ……」


 この、暑苦しい状態は何とかならないだろうか。

 夜寝るときは別々だったというのに、朝起きてみれば少女が私の上にいる。いや、のしかかっていると言うのが正しいか。まだ日が昇り始めたばかりとはいえ、すでにじっとりとした蒸し暑さがある。このまま抱き枕になっているのはごめんこうむりたいのだが――


「うん……アニ……キ……」


 ――ヤレヤレ。仕方ない。私ももうひと眠りするとしよう。もしかしたら、今度はいい夢が見られるかもしれない。

 何せ、女神の抱き枕になっているのだから。



「くぁ、あ~あ。朝か……」


 太陽が一番高い所に上る頃に、少女は大きなあくびとともに目を覚ました。正直、私の考えが甘かったと言わざるを得ない。少女には悪いが、私はかなり前から舌を出しっぱなしだ。どれだけ息をしても、体の熱が逃げて行かない。それでも彼女の抱き枕になり続けた私を、ご主人は褒めてくれるだろうか。


「……昼? まぁいいや。朝飯朝飯……って、おい!」


 少女が焚き火に火をつけようと私から離れた瞬間、私は全速力で駆けだした。あの日、少女の元へかけた時と同じか、それ以上の速度で走る。目指す場所はもちろん。あそこだ。

 ……さて。

 しばらく後、私が水滴を垂らしながら意気揚々と戻ってくると、少女は笑いながら体を拭いてくれた。昨日の時はいささか乱暴な拭き方だったが、今日はそれが無い。まるで撫でるように、優しく拭いてくれていた。


「……ほいっと。今朝は悪かったな。ちょっとだけ、懐かしい夢を見ちまってて……暑かっただろ? 何で、逃げないでくれてたんだ?」


 少女の声が響く。私はそこまで人間の言葉がわかるわけではない……が、彼女の言葉は不思議と理解できる気がした。ふむ。私が動かなかった理由、か。


 決まっているだろう?

 オスは、黙ってメスを労わるモノなのだよ。


 私はそういった思いをこめて、少女の綺麗な瞳を見つめた。私の思いが少女に伝わるかは分からない。しかし私が少女の言葉を理解できるように感じるのと同じように、きっと少女も私の言葉を理解してくれる気がする。不思議と、そう感じた。


「そっか、ありがとうな。ってか、本当にいい男だな、お前。後いくつかの条件と、人間って最低条件をクリアしてたら、俺の恋人認定出してたぞ」


 ほう、それは嬉しいな。だが申し訳ない。私は近所に恋人がいるのでな。他の女性に手を出すわけにはいかない。


「………どうする、またお前の株が俺の中で上がったぞ。お前……本当に犬じゃなければいいのにな」


 私と少女の間には、確かに会話が成立しているようだった。少女の申し出は嬉しいが、彼女は中々に嫉妬深いのだ。この前も、ご主人に噛みつこうとしていたくらいだ。もし少女と番いになんてなってしまったら、恐ろしいことになってしまう。

 その気持ちを伝えると、少女は大きく肩を落としてへこんでしまっていた。う~む、このまま放って置くわけにもいかないな。フォローせねば。

 少女よ。少女がオスに好かれないと言うのが私にはよくわからぬが、気を落とすな。きっと、番う相手が見つかる時が来る。ただ、それがいつになるかわからないだけなのだ。


「……ありがとよ」


 彼女の肩に手を置いた私の顔を見て、彼女はそう呟いた。



「おりゃー!」


 都合、三回目の叫び声。少女と私は鳥のように空を滑り、再び大地へと着陸する。少女が先ほど立っていた場所と今いる場所の間には、大地が無かった。地面は、その遥か下にある。

 ……少女のやりたいことも分かる。しかし、こう何度も崖を飛び越える必要があるのかどうか。確かに昨日棒が倒れた方向は、そちらの方向だったとはいえ、崖を迂回していけばよいのではないだろうか。


「直進あるのみ!」


 ………聞いていないようだな。あ、済まないがそろそろ降ろしてれないか。……ありがとう。


 始め少女が崖を飛び越えた時、私はそれに着いていくことができなかった。そのため、二回目以降の崖は全て、こうして少女が私を抱きかかえたまま飛び越えているのだ。少女にお願いして、私は地面へと下ろされる。

 実は私は高いところが怖いのだが……ソレを顔には出さない。私は、空気が読める犬である。


「おいおい、そんな捨てられた子犬みたいな目で俺を見るなよ。俺が悪かったって」


 ……もう一度言おう。私は空気が読める、犬である。


「分かったよ。さて、それはさておき……もうだいぶ来たからな。ここら辺でもう一度……」


 そう言って、少女は再び棒を取り出す。その白い輝きに、私は目を奪われてしまった。私の尻尾の横揺れは昨日の比ではない。さあ、今度こそ私を楽しませてくれ。今日の私(の尻尾)は、阿修羅すら凌駕する存在だ!!


「……てりゃ!」


 パタン。


「……変化なし。んじゃ、やっぱりこっちか」


 ですよねー。

 ――ッハ! 私としたことが童心に帰ってしまっていたようだな。いかんいかん、こんなことではご主人に笑われてしまう。もっと落ち着かなければ。それはそれとして、やはりこちらに直進するのだな。道が無い道を行く、か……それもまた良いかもしれない。


「よっし、んじゃ行くか!」


 了解した。

 一人と一匹、連れ添って歩く。目の前に道なんてものはない。あるのはただ深い森のみ。さあ行こう。ここから、私達の道を作っていくのだから。


 ……実はすぐそばに舗装された道があることに気付いたのは、この少し後だった。


「道があるってことは、これに従って行けば町に出るってことだよな」


 若干盛り上がったところで水を差された私達は、何処か気が抜けた気持ちで舗装された道を歩く。焼けたアスファルトが少々熱いが、その感覚も随分久しぶりだった。

 ……微かに、遠くから汚れた空気の匂いがしてくる。きっと、人里があるのだろう。


「はぁ、ようやくだぜ。ま、山の中に入ったのは正解だったけどな。わざわざ脇道に逸れて良かったぜ」


 少女が小さな声で、ぽつりとつぶやいた。……待ってほしい。その言葉の通りなら、この少女は偶々迷って山に入ったのではなく、わざわざ迷うような真似をしたということになる。

 少女がいかに強かろうとも、人間。何の装備も無く山の中には入って行くことはほとんどないと聞く。それなのになぜ、そんな事をしたのだろうか。


「あん? いや、呼ばれてるような気がしたんだよ。ま、お前に会えたからな。たぶん、それが理由だろ」


……私に会えたから?


「ああ。きっと、俺を呼んだのはお前だと思う……俺と、“縁”があるみたいだからな」


 ……生憎と、私は少女を呼んだ記憶などないのだが。そもそも、山の中に入った記憶すらないし。今までの犬生の中で、少女と出会ったことも無いはずだが……。


「何となく、だ。しっかりとした核心はないが……でも、間違ってないぜ。だって、お前は――っとと。まあ何だ。ちょっとした勘って奴さ」


 妙なところで少女が口をつぐんだ気がしたが、言わないとしたことを私から聞くわけにもいかないだろう。何度でも言うが、私は空気を読む犬なのだ。


「そうそう。んなことより、さっさと町に向かおうか。俺ももう、疲れちまったしな!」


 そう言って少女は足早に歩き始めた。私だって、彼女が何かを隠していることくらいはわかる。しかし今はどうしようもないだろう。……どうしようも、ない。

 私は、釈然としないながらも少女の後に従った。



「……此処が、お前の家か?」


 うむ。懐かしい。本当に、懐かしい。この庭で私はご主人とよく遊んだのだ。この家が、私とご主人の城だった。しかし――この状況は何なのだ?


 山から下りると、私はそこが嗅ぎ慣れた匂いの町だということに気がついた。心臓が高鳴る。尻尾が踊る。そこここから感じる、仲間たちの匂い。ライバルだった彼の、縄張り主張。私がいない間に広がっているようだな。――そう。此処は、間違い泣く私が住んでいた場所だった。

 ここまで来れば大体分かる。分からないが、感じる。私とご主人が共に生き、共に暮らしていたあの家が。


「あ! 待てよ!!」


 少女が後ろから叫ぶが、私はそれにかまっている余裕はなかった。血のように赤い夕焼けが、い綾に私の心をかき乱す。どうしても、いてもたってもいられなかった。早く、ただ速く。――ご主人の元に、向かわなければならない。それだけが、私の心の中に響いていた。

 そして、私はたどり着いた。懐かしい家、懐かしい庭、懐かしい匂い。確かに記憶の中にある通りの、私の、ご主人の家だった。――だが。

 私の知る家であると同時に、私の知らない家だった。


「……こりゃ、見るからにあれだな。……事件現場、だな」


 ………

 私が住んでいた家は、良くわからないテープで囲まれていた。扉は閉め切られているが、何人もの知らない人間が入り込んだ匂いがする。……少しだけ、不快な気持になった。


「あ、オイ待てよ!」


 私は少女を無視して家の中へと入った。……少しだけ、扉が開いていて良かった。するりと体を中へと潜り込ませる。


「ちょ!? ……ああクソ、チョット待てよ!」


 少女が何かを言っているが、申し訳ない。今の私には、それに構う余裕なんてなかった。時間が無いのだ。少しずつ、私この家で有ったことを思い出し始めている。……自分が何者かになっていくことが、分かり始めていた。



 ……死臭。家の中に漂う空気は、まさにそれ一色だった。立ち込める、濃密な死の気配。匂いというよりも、魂に直感させるソレ。私は、そのむせ返るような死臭の中で、私のご主人の匂いを探した。

 それは、一階のリビングにあった。テレビを見るのが好きだったご主人の、良く座っていた長椅子。ご主人は、私と一緒にそこで寝るのが好きだった。私も、そんなご主人と一緒にいるのが好きだった。……その椅子に、ご主人の匂いが色濃く残されていた。

 一緒に、一段と濃い死の匂いも。


 そう。

 ご主人は此処で殺された。


 ……そして、微かに、本当に微かに残るあの男の匂い。

 私は、初めからあの男がどことなく嫌いだった。最近、ご主人の友達になったというその男。最初に家に来た時は、思わず吠えてしまったほどだ。しかしご主人に窘められ、空気を読む犬である私は黙るしかなかった。ご主人が大丈夫と言っているのなら、それに従うのが私。

 ……思えば、それこそが最大の過ちであった。


 あの日。

 あの日、その男はご主人のもとに訪れた。笑顔ではあったが、その背後にとても大きな悪意を感じた。普段は小さかったそれは、その日まるで月が満ちるように強大になっていた。

 だから私は、全力で吠えた。


『ご主人、コイツはダメだ! 離れて!』


 しかし、それがご主人に伝わることはなかった。私は人の言葉を話せない。人は私の言葉を理解できない。そんな事、とっくに理解していた。それでも、私は吠え続ける。奇跡でも何でもいい。ご主人にこの思いを伝えるために。

 ……しかしそれは実現されなかった。あまりにも騒いでいる私を見かねたご主人は、檻の中に私を入れる。そうなってしまっては、私は黙るしかない。私は男の事を睨みつけながら、ただひたすらに何も起きないように祈りつつ、時を待つしかなかった。


 ……そして、それは起こった。ご主人の宝物を見たいと言ったその男。ご主人が気をよくしてそれを持ってくると、その男は大層喜んだ。……その手に、ナイフを握って。

 それは一瞬の出来事だった。ご主人の首を切る男。何があったかわからず、長椅子に崩れ落ちるご主人。あふれ出る、黒い液体。

 ……私は、その光景を見た瞬間、全力で檻にぶつかっていた。体が軋む、痛む。それでも私は、何度でも檻にぶつかっていった。一瞬の後、檻のカギが外れ私は飛び出す。

 私が暴れても大丈夫だと高をくくっていたのだろう。男は……ご主人の仇は、驚いて体をこわばらせていた。その腕に向かって、私は全力で飛びかかったいく私。

 確かに、私の牙がその腕に食らいついた――


 ――そこまでは思い出した。そこまでは思い出したのに、その後記憶はぷっつりと切れる。後の記憶は山の中で彷徨っていた事しかない。どうして山に来たのか、仇がどうやって逃げたのか……まったく思い出せない。

 ……まぁいい。私は此処に帰って来たのだ。ならば、後は復讐を果たすのみ。今度こそ、あの男の命に食らいつく。それだけだ。

 私の心が、暗くざわついた。


「……遅かったな。何かあったか?」


 ……いや、何もなかった。


 私が家の外に出ると、そこには少女が立っていた。その瞳は、何処までも済んだ黒い色で。私は彼女の瞳を見つめるのが、少しずつ怖くなっていった。私の、中身が見透かされている。そういう気がするのだ。


「……そうか。……物取りの犯行、なんだってな。話を聞いてきた」


 ……

 私は空を睨み、少女には何も答えなかった。これ以上あの男の事を思い出せば、私は私で無くなる。私にとって、ご主人の持ち物がとられたのは、確かにつらい。つらいが。

 ――一番つらいのは、ご主人を獲られたことなのだ。

 私は空を睨み続ける。あの男への復讐。それだけが、今の私の心残り。


「……まだ、ダメだ」


 ギュッと、少女が私の体に抱きついた。その表情は苦しげで、とても、泣きそうな顔をしていた。


「俺も、手伝ってやる。だから、まだダメだ。……まだ、耐えてくれ」


 ……私には、その言葉に応えることはもうできなかった。



「俺はな。呪いってのは、因“縁”だと思うんだよ」


 満月がまぶしい、夜。私たちは、人通りの激しい通りの片隅にいた。目の前を多くの人間が通り過ぎていく。煙草の匂いをさせる人間。香水のにおいをさせる人間。数多の人間の匂いが私の鼻を刺激する。私の鼻は、今や冴えわたっていた。それでいて、多くの人間の悪臭に悩まされることも無い。ただ、あの男の匂いだけを探し続けていた。


「中にはうちのみたいに、かなり理不尽なものもあるけどな。大抵は、そいつが、そいつの家族が、先祖が。何かに対してやった行いに、罰を与えられているもんだと思う」


 少女は、私の横に座って私に語りかけていた。その少女の姿に、道行く人たちが訝しげな目線を向けてくる。しかし少女はそんな視線を気にした風も無く、話を続けていた。


「だから、ちょっとアレな言い方になっちまうが……ある意味で、呪われて当然って奴はいると思う。……いや、俺は別だぞ。こんな呪い、理不尽なもんの代表みたいなもんだ」


 少女が、私の頭をなでた。その手の感触が、少しだけ私の心のささくれを押さえる。そうやって撫でてくれている間だけ、私は私に戻っていられる気がした。


「それでも……呪った奴は、相手が呪われて、不幸な目に会って。それを見て、どんな気持ちになるんだろうな。……楽に、なれるのかな」


 そんなこと、私が知ったことではない。私は、ただあの男に復讐するだけだ。

 だから、私は少女には何も答えず、ただ人の流れだけを見続ける。


「……なぁ。飯、食うか?」


 私は何も答えない。不思議なことに、今私の腹は全く空腹を訴えていなかった。もう何日でも、このままでいられる。そう、私の直感が告げていた。


「……まだだ……あとちょっと。あと、ちょっとだからな」


 そう言って、少女はまた私に抱きつく。その少女が何を言いたいのか。もう、とっくに答えは出ているのだ。私は、私でない何者かになる。

 ……だが、それがどうしたというのだ。例えこの身が何になろうとも。

 私は、構わない。







 ……見つけた。

 ……さぁ。狩りを始めよう。







「オイ」


 暗い、路地裏。人気も無く、ただ異臭だけが漂う。そんな月光も届かないようなこの場所で、少女は男が一人になった所を見計らい、声をかけた。


「は?」


 少女の声に、その男は振り向く。

 この匂い。夢にまで感じた、この匂い。絶対に忘れることはない。私の、ご主人の仇。

 殺せ、殺せ、噛み砕け。殺せ、殺せ、噛み砕け。殺せ、殺せ、噛み砕け。コロセ、コロセ。

 黒い衝動が私を支配する。それは全身を駆け巡り、まるでこの身がたった一つの牙になったような錯覚さえ起こさせる。

 しかしそんな、すぐにでも飛びかかろうとした私を少女は押さえた。優しく、私の頭をなでる少女。その間だけ、私の黒い衝動は収まった。


「……何だ、君は? ……家出少女か? 悪いが、今日は女を抱きたい気分じゃないし、別を当たってくれ」


 男は下卑た笑いを浮かべながら、そう少女に言った。男のしゃべる言葉は何もこもっていない。私には、何も理解できない。それもまた、私をイラつかせる原因であった。


「……俺だって、お前となんざまっぴらごめんだ。……なぁ、あんた」


 少女がその顔を怒りに染めながら、男を睨みつける。


「……人、殺してるだろ?」

「……何の話だ?」


 ずばりと。ただ事実だけを言葉にした。言われた男は笑い顔をやめ、無表情になる。そしてすぐに、驚きと怒りの入り混じった表情へと変わった。


「あの家の……犬を飼ってた家の主。その人を、殺しただろ? 悪いがな、見てた奴がいたんだ。そいつがはっきりと認めてる。あんたが、犯人だってな」


 ……再び、男の顔つきが変わった。それは、開き直った男の顔。決して追いつめられた男の顔ではない。罪を認め、悪を悪と認識しながらも実行する、汚い男の顔だった。


「……まいったな。誰にもばれないと思ったんだが……なぜ、君がそんなことを知っている?」


 男は、懐からナイフを取り出した。それは、ご主人の命を刈り取ったナイフ。血はぬぐわれているが……べったりと、ご主人の匂いが染みついている。その匂いは優しく……そして、悲しい。


「言ったろ。目撃者がいたんだ。ただ、そいつの話を聞いてやる奴がいなくてな。俺が付き合うことにしたんだよ」

「それは……しまったな。そんな奴がいたのか。あいつに子どもなんていなかったと思ったんだけどな。まあいい。そういうことなら、しょうがない。お前を殺して、そいつも殺せばまた真相は闇の中、ってことだろ」


 男はご主人の匂いがするナイフを舌でなめた。唾液にぬれたナイフが、きらりと光る。男の瞳にあるのは反省なんてものではない。愉悦だ。少女に追い込まれて、しかし少女を殺すことに対する愉悦。いつまでも、同じことを繰り返す。いつまでも、楽しい時間を。

 ただ、それだけが男の目的なのだと、感じさせるものがあった。


「……本当に、俺は男運がないな。出会う人間なんて、こんなもんだよ。……悪い、テメェには同情できない。――いいぞ」


 そう言って。少女は、私を撫でる手を離した。

 私は解き放たれた狼のようにただ大地を脚でける。あの時と同じように、全力で走る。狙うのはただ一点。私が私であった最後の場所で――私が私で無くなる、最初の場所。


「ガァッ!!」


 カラン、と。ナイフが男の手から離れて乾いた音を立てた。男は腕を押さえて苦しみだす。私の牙は、確かに男の腕を貫いていた。そこから、赤い血が滴る。


「……なんだ、何もないのに、どうして突然右腕が……! 貴様、何をした!!」


 私からは見えないが、男が少女を睨みつけているのがわかった。その瞳はきっと憎悪と恐怖に染まっていることだろう。私がさらに強く食らいつくと、男はいっそうの悲鳴を上げて倒れた。


「俺は何もしてねぇさ。そこはな、そいつが……事件を見てた奴が、最期の最期に食らいついた場所。テメェが、『呪われている場所』」


 そう言って、少女はあの棒を取り出した。白く輝く、『縁切』と少女が呼んでいた、あの棒を。ああ。私はもう、その棒を見ても心躍らせることも無い。尻尾が震えることも無い。その事実だけが、胸にずきりと痛んだ。


「さて……覚悟はいいな?」


 少女が手を動かすと、その棒から月が生まれた。否。それは月ではない。月のように美しい、少女の牙だった。少女はその牙を片手に持って男に近づき、言葉をつむぐ。


「呪いとは、因“縁”。そいつは、テメェの行いの、今までの報いだ。……テメェは、テメェが殺した犬に呪われてるんだよ」


 そうだ。私はもう、死んでいる。それが、記憶を失っていた理由。私が山の中にいた理由。私はあの時、コイツの腕に食らいついて、殺されたのだ。


「テメェはどうしてか犬を山に捨てたみたいだが…………まぁ、そこら辺は俺の知ったことじゃない。証拠隠滅とか何とかだろ。ただ、俺とそいつに“縁”があって俺はここまでそいつを連れてきた。……でも、これ以上そいつが人を苦しめたら、きっとそいつが楽になれなくなっちまう。だから俺は、テメェの縁を切る。……ただ、それだけだ」


 ドス!

 少女は、その牙を男に突き立てた。しかし、それを抜いても男から血は流れない。

――そして、私も男に触れなくなっていた。私の牙が男を通り抜け、私は地面へと着地する。


「……腕が……収まった」


 男は、不思議そうな顔をして腕を見ていた。そこには確かに、私が食らいついた後がある。血が流れている。しかし、それだけだった。もう、私が触れることはできない。


「……テメェの因“縁”確かに断ち切った。ただ……一緒に良“縁”も切らせてもらったからな。これからの人生、今まで楽しんだ以上に苦しみな」

「……何を言って……」

「おーい、誰かいるのか~」

「! ……クソ!」


 少女の後ろから声が聞こえると、男は一目散に逃げ出した。ナイフを拾って行こうともしない。――それが、私が見た男の最後の姿だった。


 キキィー! ドン!


 ……男の逃げだした方から、何かがぶつかる音と、衝撃。あの男の血の匂いが、遠くから風に乗ってくる。私はただ、その匂いが不快だった。


「おい、交通事故だ! 車が人をはねたぞ!」

「いきなり人が飛び出してきたんだ!」

「まだ息がある! 救急車だ、救急車を呼べ!」

「……悪いな。それでも、死んで楽になれないのが“縁”ってもんなんだ。テメェはこの事故じゃ死なないさ。……一生、罪を償うんだな。……胸糞悪い。行こうぜ、お前の家に」


 そうやって少女は呟くと、その牙を棒にしまった。そのまま私の家に向かって歩き出す。

 あちこちから悲鳴と怒号が上がっていく。今、賑やかなはずの繁華街は確かに喧騒に包まれて行った。怯えた人の声が、風に乗って漂う血の匂いが、嫌にわずらわしい。

 ――ああ、誰でもいいから殺したい。

 心は、まだ晴れない。



「なぁ……まだ、行けないのか?」


 ああ。あの男を殺せなかった私は、まだ行けない。


「そうか……」


 私と少女は、私の家のリビングにいた。それは、ご主人が大好きだった長椅子の前。ご主人が、最期を遂げた場所。私が今、最も落ち着くのがその場所だった。此処にいる間は、私はまた私になる。


 チャキ。

 私が静かにたたずむその前で、少女が再びその牙を取り出した。月のない室内でさえ、それはやはり三日月のように輝く。その輝きが、心地よかった。


「……お前を中途半端にしちまったのは、俺の所為だ。なら、俺がお前を送ってやる」


 少女が顔を俯いたまま、言う。表情は私の位置からでも見えない。しかし、どんな顔をしているかはわかる。――その声は所々震えていた。


「コレは、全部俺の我儘だ。俺がお前を活かして、殺した。だから、俺がけじめをつける。けじめを、つけなきゃならないんだ」


 少女は、顔を上げ、その牙を高く高く掲げ、そして謳った。


「……何の因果か、弁天の……呪いを受けし、この体。先祖の呪いを…収めよと……渡されたのは、この『縁切』!」


 少女の声が、私の体を包む。その音色はかつて母の傍にいた頃を思い出させてくれた。


 ……良いのだ、少女よ。私は、本当はずっとあの山で彷徨ったままになるはずだったのだ。それが、少女に会えた。仇に、一矢報いた。


「……誰が呼んだか……、ついたあだ名がぁ! 『縁切弁天』!!」


 それだけで、私は嬉しい。確かにあの男を殺せなかったのは心残りではあるが、仕方あるまい。それが私を縛っていることも認めよう。私が中途半端な化け物になってしまった原因であることも理解できる。

 しかし……あれ以上私が男を傷つけたら、少女を悲しませてしまうからな。


 よいオスとは、黙ってメスを労わるモノなのだよ。



「今宵、 その縁! 切らせて……もらいやす!!」


『だから、少女よ。そんなに、泣かないでおくれ。私は……貴女に会えて、満足だ』


 トス。

 少女が抱きつくように私にその牙を立てる。それは決して痛いなどということはなく。私の体に、優しく突き刺さった。ああ、心が楽になる。眠くなってきたみたいだ。


「……ごめん……ごめんね……!」


 少女が私の体を抱いたまま泣く。その涙に触れることは、もうできない。舐めてやることもできない。

 やれやれ。全く困ったものだな。

 泣き虫の……女神……さま……だ……。


 そうして私は、美しい女神の泣き顔を見ながら眠りに就いた。




 私は夢を見る。それは、優しいご主人の夢。

 ご主人は、有体に言えば普通の人だった。優柔不断でもあったが、皆にやさしくしていた。誰からも好かれたし、誰とも仲良くしていた。そんな優しいご主人は、ただ静かに私の頭を撫でてくれた。

 ああ、ご主人。お久しぶりです

 私はお返しにと、ご主人の顔を舐める。くすぐったいよ、と言いながら、それでもご主人は私の頭を撫で続けてくれた。

 ……ああ、ご主人。先ほどまで、変わった人と一緒にいましてな。随分と、泣き虫な女神様でした。……いつかまた、“縁”があったら会いたいものです。


 そんな、優しい夢。




長文お読みいただき、ありがとうございました。

ちょっと急ぎましたので、誤字脱字などありましたらご連絡ください。感想も常時承っております。

後二話ストックがありますが、書きなおすのでしばらくかかります。

では、次のお話で。

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