表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/5

第一話 

「ありがとうございましたー」


 客が出ていく。いつもと同じこととの繰り返し。

 高校二年生の夏も、俺はこうして毎日バイトにいそしんでいた。世間では二度と来ない夏を想い、高校生たちが青春に汗を流す季節であるというのに。そんな甘酸っぱい青春など、俺の人生には何処にも見当たらなかった。


 俺がこうしてバイトに精を出さなきゃならなくなったのも、全ては親父の所為だった。

 俺の親父は最低の奴だった。お袋を殴る蹴るは当たり前。いつも酒を飲んで、毎日パチンコに行っていた。それでいて働こうとは全くしない。

 俺はいつも、泣きながらお袋を殴る親父に向かって行った。しかし所詮、こちらは子供。大抵はそのまま殴り返されて、逆にお袋に庇われ守られていた。それが、無性に悲しかった。


 そんな親父が闇金融から金を借りていたのがわかったのは、当の本人が蒸発した後だった。

 その時には俺も高校生になっていて、バイトも新聞配達からコンビニへと切り替えていた。

 俺は貧しいながらも勉強を頑張ったし、それで奨学金をもらうこともできた。こうしてバイトをすれば、それは生活費として使えるはずだった。


「いらっしゃいませー」


 しかし、現実は非情だった。

 借金があると分かったその日から、お袋はパートを一つ増やした。俺もバイトのシフトを増やした。二人して、今まで以上に精一杯働くようになった。

 しかしそうやって血へどを出すほどに頑張って稼いだ金も、借金取り達が根こそぎ持っていく。手元に残るのは、ほんのわずかな生活費のみ。餓死するほどでもなく、さりとて贅沢もほとんどできないさじ加減が憎らしい。

 おまけに、その金も何とか利子を相殺するくらいにしかならない。借金自体は、一向に消えてくれる気配はなかった。


 お袋はそれでもいつか何とかなるなんて言ってるが……俺はそんな、奇跡が起こるとは思っていない。助けてくれる神様なんてもの、この世界には存在しないのだから。現実は、希望だけじゃ何もならない。

 だから俺は非科学的な物、目に見えないものを信じない。いや、信じられない。神だとか悪魔だとか幽霊だとか。愛とか友情とかも、同じくらい疑わしい。

 俺は現実を生きる。現実に奇跡みたいな話は、無い。


 ……朝から晩まで。ただ無心に客の相手をしていれば、その日のバイトは終わる。本当は深夜のバイトの方がいいのだが、一応はこれでも高校生。さすがにやらせてはくれなかった。


「お疲れさまでしたー」


 深夜のスタッフと店長に形だけのあいさつをして、さっさと家へと向かう。

 帰りがけに店長がビニール袋を渡してくれた。いつものように、中には賞味期限ぎりぎりの弁当がいくつか詰め込まれている。俺はただ静かに、頭を下げた。

 本当は一人のバイトを特別扱いするなんてことは許されないのだろう。しかし、俺の事情を知っている店長は何かと面倒を見てくれていた。くれるという物を、断る理由は無い。


 ……昔は、帰り道にこの弁当を見ながら涙を流していたと思う。他人の同情で生かされている俺は、どれだけむなしい存在なのだろうか、と。その頃はよく、空を見上げて涙をこらえていたことを覚えている。

 俺はふと、あの頃を思い出して空を見上げてみた。今日も空は星どころか月も見えない、どんよりとした曇に覆われている。思えば、思い出す空の色はいつも黒かった。あの雲は、いつまでも俺の頭の上にあるのかもしれない。

 俺が涙を流さなくなったのはいつの日だったのか。もう、他人の同情で生きることに抵抗はない。俺が必要としているのは、夢でも希望でも愛でも、プライドでもない。ただ、今日を生き抜くための弁当のみ。


――今の俺は、途方もない絶望感に包まれていた。




「オイ」


 帰り道、俺はいつも小さな公園の前を通る。

 今は夏休みだし、昼間には多くの子どもたちが遊び回っているのだろう。しかしすっかり暗くなったその公園に、もう子どもたちはいなかった。


「オイ! そこのお前、うまそうな匂いをさせてる奴!」


 その人気のない、暗く寂しい公園の入口に、俺と同い年くらいの少女が立っていた。妙な気迫をまとって仁王立ちし、俺の事を睨んでくる。


「その袋、弁当が入ってんな。……けっこうな量。悪いが、一つくれねぇか? 俺、腹減ってるんだ」


 少女の見た目は、どう見ても家出少女だった。服装はTシャツにGパン。それらは所々に穴が開いていた。確かに服として着られるだろうが、機能的ではないように思える。ある意味、裸よりも扇情的かもしれない。ただ少女の雰囲気からして、それを狙っているわけではないようだった。

 その少女の髪は伸び放題だった。綺麗に伸ばしているのではない。所々が不揃いで、ぼさぼさだった。顔は、悪くない。むしろ、見ようによっては美人とも言えただろう。

 美人だが、誰にも見向きもされない。そんな不思議な少女だった。


「オイ、聞いてんのか!?」


 その少女が俺を睨みつける。その飢えた瞳は、彼女に限界が近いことを雄弁に物語っていた。

 突然現れた家出少女らしき人物に、弁当をたかられる。そんな奇妙な事態に、俺は頭を抱えた。

 ふざけるな、と言いたかった。

 俺が働いて、店長の同情を引いて手に入れた弁当をよこせと言うのか、と。冗談じゃない。働かざる者食うべからず。何もしていない者に優しく微笑みかけるほど、この世界は甘くない。


「……なぁ、頼む」


 そう考えてその少女から離れようとした俺の耳に、真剣な声が届く。もう一度少女の顔を見てみると、先ほどと同じ強気の瞳がそこにあった。

 俺には、その少女が何故そんな瞳をしているのかが分からなかった。俺が何もせずにここから立ち去ったら、この少女は行き倒れるだろう。誰か心優しい人間が通りかかればいいが、そうしなければこの少女の命も危うくなるはずだ。


 だと言うのに、彼女の目には悲壮感が無い。おまけに、現状唯一自分を助けてくれるだろう俺に対して、頭を下げようともしない。ただ、決して未来を諦めないという強い意志がその瞳には宿っていた。

 その瞳に俺は気押され、思わず目をそらす。その瞳は、今の俺には眩しすぎた。


『別に少女が飢えたところで、俺には何の関係もない。何も考えずに無視すればいい。そうすれば、弁当は全部俺とお袋の物になる』


 そう、俺の頭が考える。自分が手に入れた物は、自分の物。他人の事を気にする必要はない。自分が生き残るために出来ることをすればいい。そう、俺の経験が訴える。

しかし。

 ――しかし気がつけば、俺の右手はその少女に向かって弁当を差し出していた。


「おお! 何だ、お前結構いい奴だな! 俺の名前は遍槙小町べんてんこまち。お前は?」


 俺から弁当をしっかりと受け取った少女、いや小町は、満面の笑みで俺に名前を尋ねてくる。しかし、俺にそれに答える余裕はなかった。

 自分の行動が理解できず、思わず自分の右手を見つめる。そこには確かに、自分で弁当を取り出した感触が残っていた。……何で俺は、弁当を差し出したのだろうか。


「……まぁ、名前なんてどうでもいいよな。とにかくなんだ、ありがとな!」


 自分の右手を見ながら固まっている俺を、質問に答える気が無いと思ったのか。小町は俺にそう言ってニカッと笑ってから、遠慮なく弁当を食べ始めた。そのあまりの勢いの良さに、俺が止める暇もない。気がついた時には、もう小町はその弁当のほとんどを貪っていた。

 その姿は、まるで餌をもらった野良猫のようで。――俺は釈然としないものを感じながらも、何となく、心の奥底が温かくなった気がした。



「お! 今日も弁当くれるのか!?」


 翌日の帰り道。俺は色々と迷った挙句、結局昨日と同じ時間、同じ場所で、同じように小町に弁当を差し出していた。理由なんて、俺にもわからない。ただ、何となくそうしたかった。

 小町はやっぱり昨日と同じように笑顔で受け取る。小町が近づくと、ふわりといい香りが鼻をくすぐった。

ふと、疑問が浮かぶ。

 小町は今日も昨日と同じ、所々が破れた服装だった。破れ方も昨日と変わっていないようだから、小町は昨日と同じ服を着ているのは間違いないだろう。だったら何故、この連日の猛暑の中、この家なき子が臭わない……どころかいい香りがするのだろう。不思議でしょうがない。

 一応、風呂には入っているのだろうか?


「ああ? 風呂入る金なんてねぇよ。そこら辺の川で十分だろう?」


 そのあたりを聞いてみると、何ともワイルドな答えが返ってきた。何だ、コイツは。野性児か。見てくれだけはいい分、かなり不思議な存在である。

 俺の知る『女の子』というイメージを……常識を覆してしまいそうな奴だった。


「俺はな、呪いを解くために旅をしてるんだよ」


 小町に弁当を渡した後、何となく俺はその場に留まっていた。さっさと帰ってもいいのだが、俺と全く違い世界を生きているらしい小町に興味がわいたのだ。せっかくなので、いろいろと質問してみることにした。


 何故ここにいるのか? 何故、家に帰らないのか?

 その答えが、先ほどの言葉だった。


「俺の先祖サマが、自分の子供に厄介な呪いを残してくれやがってな。それを解かなきゃならないんだよ。もう、何代も同じことをやってる割には、未だに解けてないんだがな」


 小町は、忌々しげに空を睨んでいた。そのご先祖様とやらを想像しているのだろう。


 呪い? 呪いとは、丑の刻参りとか、人を不幸にするとか、そういうことか?


「ああ、大まかにはそんな感じで間違ってない。実際には幸運を授けたりも同じ『呪』だがな」


 そんな物はない。


「は?」


 そんな、非科学的なモノは存在しない。今は科学の世界だ。目に見えない、触れもしないものは、この世には存在しない。


「あー、そういうやつもいるよな。実際、俺も自分の呪いがなかったら、そう思ってるかもしれんし」


 だから、呪いなんてものは存在しない。お前のそれは、思い込みとかじゃないのか?

 俺がそう指摘してやると、小町は両腕を組んでうんうんと頷いた後、否定した。


「思い込みで済めばいいんだがな。こればっかりは、呪いと言わざるを得ない」


 ……すごい自信だな。根拠があるのか。


「そりゃあるさ。ああ、俺にかかってる呪いが何か言ってなかったな」


 ああ。


「俺に……というか、俺の一族にかけられた呪い。それはな、『男は良“縁”に、女は悪“縁”に恵まれる』って呪いなんだ」


 ……は?


「だからな。俺の一族に男が生まれると、その男はやたらと女に好かれたり、金のめぐりがよかったり、友人に事欠かなかったりと、とてつもなくラッキーな人生を送れるんだ」


 ……それはすごいな。


「ああ。それで、俺の一族に生まれたのが女だった場合。つまり俺だな。その場合、悪“縁”に恵まれる……端的に言えば、男運が全く無くなるんだ」


 ……それで? どうして呪いだって言いきれるんだ? 偶々男運が悪いだけなんじゃないか?


「バカ、良く俺を見てみろよ」


 言われて、俺は小町の足もとから頭のてっぺんまでをよく見てみた。

 ぼさぼさの髪の、ボロボロの服を着た家出少女。爛々とした瞳、形の良い唇。全体的に、肉食形の動物……ネコ科の動物を連想させるしなやかさが感じられた。


「な?」


 小町は判ったろ? という顔で俺の目を覗き込んできた。

 俺は小町の意図を理解できず、小首をかしげてその目線に答える。


「ほんとバカだな、お前。いいか、こんないい女がいるんだぞ? それで寄ってくる男がいないってのがそもそもおかしいだろうが!」


 ……それが理由か?

 思わず聞き返す。小町の顔は、嘘や冗談を言っている顔ではない。百パーセント交じりっ気なしに、心の底からそう言っている顔だった。


「それ以上の理由があるか?」


 そう言って、小町は胸を張る。B。……いや、Cくらいか。


「ほら、こういうエロ小僧ならたまによってくるんだけどな。本当に必要なのは、全然よってこねぇ」


 エロ小僧言うな。なら、どんな男によって来てほしいんだ?


「んなもん決まってんだろう、背が高くて、年収がよくて、優しくて、………」


 小町は指を折りながら、一つ一つ数えていく。

 その後、全十八個もの条件を述べていく小町は、確かに恋に恋する少女の顔をしていた。



「あら、お友達?!」

「あー、初めまして。俺、遍槙小町って言います。よろしく」


 数日後のある日。俺は小町を自分の家に連れて来ていた。

 時刻は夕方。お袋が夏風邪で倒れたため、いつもより早くバイトを切り上げて小町に弁当を渡したら、小町の質問攻めにあい。仕方なしに俺が事情を説明すると、何故か小町を家へと案内することになった。

 何でこうなったのか、俺にもいまいちよくわからない。


「こちらこそ、よろしく。この子がお友達を……しかも女の子を連れてくるなんて……! 待ってて、今お菓子用意するから……ゴホッゴホッ!」


 馬鹿、寝ておけよ、お袋。まだ熱あるんだろ。


 俺はそう言って、布団から起き上がろうとするお袋を布団の中へと押し戻した。その際、額にも手を当ててみる。やっぱりまだ熱が残っているようだった。


「そうだぜ、病人は寝とかなきゃな。今日はいつもお世話になってるから、飯を作ってやりに来ただけだ」


 小町が俺の行動を見ながら言う。最初そう言ってきたときは何の冗談だと思ったのだが……どうやら嘘でも冗談でもなく、本当に見舞いに来たらしい。……ただ弁当をくれただけの相手、しかもその本人じゃないというのに、見舞いに来るとは。律儀な奴だ。


「あらあら、それは! そう、枯れた子だから心配してたけど、こんな可愛い彼女がいたなんて。しかももう母さんに紹介してくれるなんて……うれしいわ」


 違うよ、お袋。コイツは恋人なんかじゃない。


「ああ、コイツと恋人にされるとちょっと困るな」


 俺と小町は、同時にそれを否定した。


「そうなの? でもねぇ……わたし、あなたみたいな娘が出来たら嬉しいんだけど」


 待ってくれお袋。俺にも選ぶ権利がある。


「それは俺のセリフだ。まぁいいさ、とにかく飯作っちゃおう」


 ああ、エプロンはそこにある。


「分かった」


 俺は小町を台所へと案内し、適当に使い方何かを説明する。一通り使い方を覚えた小町は、そのまま冷蔵庫や食材置き場をあさり、いくつかの材料を取り出してきた。


「……この材料だと、肉じゃがかカレー、シチューってとこか。どれがいい?」


 夏場にシチューってのも嫌だな。個人的には、カレーがいい。

「オーケー、んじゃ肉じゃが作るわ」


 ……俺はカレーがいいって言ったんだが。


「俺が肉じゃがを食いたいからだ。お前に聞いたって、別にそれを作るとは言ってないぞ」


 小町はまるでいたずら小僧のような顔を俺に向けてきた。それが妙に様になっていて、俺はムカつくどころかむしろ呆れてしまう。

 そうかよ。まぁいいや、腹が減ってるんだ、早く作ってくれよ。


「任せとけ。俺はこう見えて、料理には自信があるんだぜ?」


 そう言ったコイツの肉じゃがは、確かにうまかった。




「あー、スイマセン、風呂までいただいちゃって」

「いいのよ。それより、女の子があんな格好してちゃダメよ? おなか冷やしちゃうわ」


 飯を食った後、小町はうちの風呂に入っていた。お袋が半ば強引に泊まっていくように勧めたからだ。何でも、俺の恋人じゃなくても、こういう娘がいる生活を一回だけでもしてみたかったんだとか。

 そう言われた小町は、『ん……そういうことなら、まぁ。お世話になります』なんて言って、大人しくなっていた。まさしく、借りてきた猫状態である。


「おい、じろじろ見るなよ」


 風呂上がりの小町は、お袋の寝巻を着ていた。少しサイズが大きいらしいが、そのぶかぶかなところがまたなんともいえない雰囲気を出している。

 そうでなくても、風呂上がりの濡れた髪だとか、赤くなった頬だとか、ぐっと来るものがある。それで何も思わない男はいないだろう。もちろん、俺もそんな男の一人である。……欲求だけは、人並みにある。


「……エロ小僧」

「あらあら、男の子はがっついちゃだめよ」


 小町は呆れて。お袋は窘めるように、俺の顔を覗き込んできた。……男一人だと、こういうときどうしようもない。

 俺は反論をあきらめ、頭を冷やす意味も込めて、風呂に入ることにした。



 俺がカラスの行水を済ませると、小町はお袋に髪を梳かされているところだった。お袋には寝ろと言っておいたが、どうしても小町といたかったらしい。お袋は妙なところで我儘だから……俺も、それ以上は何も言わなかった。

 お袋が髪に櫛を通すたび、小町の濡れた毛の一本一本がまっすぐに伸びる。カラスの濡れ羽色に輝くその髪は、いつものぼさぼさ頭と異なり、まるで何処かのお姫様のような印象を小町に与えていた。


「……オイ、何見てんだよ」


 少し見とれていた俺を、小町が睨んでくる。ふと自分の行為が恥ずかしくなった俺は、小町から目線を外した。自分の顔が火照っているのがよくわかる。


「あら、顔真っ赤にしちゃって……若いっていいわよね」


 違うよ、お袋。これは風呂でのぼせただけだ。

 お袋の言葉を否定しながら、俺は壁際に座る。そのままテレビを見るふりをしながら、小町達を観察し続けた。


「……」


 小町は髪を梳かされ、気持ち良さそうに目を細めている。まるで、陽だまりで眠る猫のようなその姿は、本当に幸せそうだった。こうしている姿を見ていると、ただの高校生のように見えた。

 だからこそ、俺は不思議に思う。――ただの高校生が、何で旅をするのか、と。


 ……なぁ小町。お前、どうして旅をしてるんだ?


「あん? だから、呪いを解くためだって言っただろ」


 それは分かってるさ。ただ、何でお前が自分で旅してるんだ? 何か問題があるなら、誰かに頼ればいいんじゃないのか? お前が自分で抱えて、自分で何とかしなきゃならないわけじゃないだろう?


「ああ、そういうことか。そんなもん、自分で何とかしたかったからに決まってんだろ。人任せにしたくなかったんだ。……んじゃ逆に聞くが、何でお前はそんなに抱え込んでんだ?」


 ……俺が、何を抱え込んでるって?


「全部だ。さっきお袋さんから聞いたんだけどな。お前、子どもの頃から自分で率先して仕事する奴だったんだって? それ自体はいい事なんだろうが……まるで、何かから逃げてるみたいに見えるってな」


 言われて、俺は思わずお袋を睨んだ。お袋は俺に睨まれて少し悲しそうに目を伏せたが、小町がすぐにその姿を自分の背中に隠した。


「お袋さんを責めんなよ。お袋さんは、本当にお前の事を心配してんのさ。お前、友達の話もしないし、一回も恋をしていないみたいだってな」


 それがどうかしたのか? 友達も恋人も、生きていくには別に必要ないだろ。


「……お前、本気でそれ言ってんのか?」


 小町が驚きながら俺を見てくる。俺としては普通の事を言ったつもりなのに、小町には理解されなかったようだ。

 俺は至って真面目だった。別に友達なんかいらないし、恋愛もしなくていいと思っている。

 だってそうだろう。お袋や俺がこんなに苦労してるのだって、そもそもはお袋と親父の『愛』とやらのせいなのだから。少なくとも、早く“縁”を切っておけば、今の俺らがこんなに苦労することは無かったはずなんだ。

 そんなことになるなら、俺は始めから恋愛だとかはいらないと思う。


「……どうも、本気で言ってるみたいだな。お袋さん。こいつ、かなり重症かもしれないぞ」


 俺が黙して小町、いやその背中にいるお袋を睨んでいると、その気迫が小町に伝わったらしい。小町は何処か呆れたように首を振り、改めて俺の事を睨みつけてきた。


「……なぁ。お前が愛なんていらないっていうのは分かった。なら、何でここにいるんだ?」


 ……なんでって、そりゃ借金があるから――


「そんなもん、放り出して逃げりゃいいだろ。言っちゃなんだが、お前が背負う必要なんてないんじゃないのか? 俺みたいに、家の事は放り出して旅にでも出りゃいい。最初はきついけど、慣れりゃ楽しいもんさ」

「馬鹿言うなよ。お袋を放って行けるわけ……っ!」


 言いかけて、俺は途中で言葉を詰まらせた。そのまま、お袋の方を見て固まる。


「ほらな」


 二の句が継げなくて固まったままの俺に、小町が柔らかく微笑んでくる。それはまるで、親が子を諭しているような表情だった。


「それが答えなんだよ。よかったな、お袋さん。コイツ、ひねくれてるけど曲がってるわけじゃないみたいだぜ?」

「……そう、ね……」


 お袋はいつの間にか、小町の背中で泣いていた。それは俺が愛なんていらないといった時からか、それとも言葉に詰まってからなのかは、俺には分からなかった。ただ、お袋の泣き声だけが静かに、ただしっかりと俺の耳に届く。

 俺は逃げるように、もう寝ると言って自分の部屋へと駆けこんだ。いつもより早く布団にもぐりこみ、目を閉じる。それでも、お袋の鳴き声と小町の頬笑みが頭から離れなかった。

 結局その日、俺は久しぶりに眠れない夜を過ごした。




 小町が泊まった日からさらに数日。いつものようにコンビニから帰ってくると、小町が公園にいなかった。あんな奴だから、フラッといなくなったのかもしれない。何も言っていってくれなかったことに正直怒りを感じたが、それ以上に悲しかった自分に少し驚いた。


 胸にぽっかりと空いた、喪失感。


 ……まぁ、納得できないところもあるが、それはいい。元々、あいつは自由気ままに旅をしてここに来ただけなんだから。此処に縛られている俺とは違う。むしろあいつに弁当をたかられていただけで、あいつが出ていったのなら、この弁当は俺達の物なのだ。悲しむことではない。反対に、喜ぶべきなのだろう。

 そう、誰に言うでもなく一人心でつぶやく。両手に提げた弁当が、妙に重たく感じた。


 だが、本当の問題はその後だった。

 家に帰ってきた俺は、思わず弁当の入った袋をその場に放り出して唖然とした。

 無理やり開けられたドア。鍵は穴をこじ開けられて役に立たなくなっているし、チェーンも何かで切断されていた。その無残な光景に、俺は思わず家の中へと駆け出す。

 居間に入った時に見えた物は、荒らされた室内。ガラスは割れ、柱にも傷がつけられている。台所でも皿が何枚も割れていた。

 そして何より。


 お袋の布団が、もぬけの殻だった。


 風邪は治っていたものの、大事を取ってしばらく休んでいたお袋。

 いつも青い顔をしていたお袋。そんな体なのに、無理を押して働いていたお袋。

 ……そのお袋の姿が、この家の何処にも見当たらなかった。

 俺は嫌な想像を振りはらい、家の中を探し回る。もしかしたら、何処かに隠れているだけかもしれない。そう考えて、風呂桶の中まで捜した。それでも、お袋の姿は見つからなかった。

 俺はいつの間にか、もう一度お袋の部屋へと戻ってきていた。布団の横に座り、ただ静かに震える。そこでようやく、傍に紙が落ちていることに気づいた。俺は震える手でそれを拾い上げ――そして、絶望する。


『借金の形に、母親をもらっていく』


 そこに至って、俺はようやく気付いた。いや――認めざるを得なかった。

 この家を荒らしたのは、借金取り。お袋が病気で倒れたという話をどこかから聞き取り、これ以上借金の回収ができないと思った奴らが、お袋を攫ったのだと。

 その紙には、警察に連絡しないこと、用が済めばお袋を返すことも書かれていた。しかし、俺にもわかる。お袋が帰ってくるのが、一体いつになるかわからないということが。……お袋が、大変な目にあうということが。


「――クソッ!」


 俺は脚の折れたちゃぶ台を殴りつける。右腕が痛んだだが、そんな事はどうでもよかった。

俺の所為だ。俺が、お袋を一人にしていたのが悪かったんだ。風邪が治ったからって、弱いお袋を一人にした、俺の。――俺の、所為だ。


 お袋。すまない、俺は、無力だ……。


 俺はそのまま、畳に頭をこすりつけて泣いた。立ち上がるどころか、顔を起こす気力すら湧かない。ただ、そのまま涙を流していた。

 ……どれくらいの時間が経っただろうか。


「オイ」


 唐突に、頭上から声が響いてきた。鈴のように軽く、それでいて響く声。最近、良く聞くようになった声。……そして、良く知っている、力強い気配。


「オイ、何があった?」


 ゆっくりと顔を上げた俺の前にいたのは、思った通り小町だった。片膝をつき、俺に高さを合わせるようにして話しかけて来ている。その表情は、怒り。


「何があったって聞いてるんだよ!!」


 何も答えない俺に業を煮やした小町が、俺の胸倉をつかんで無理やり体を持ち上げる。その剣幕は、四の五の言わせないだけの迫力があった。

 俺は震える唇を動かし、恐る恐る事情を説明した。小町はそれを黙って聞いていたが、俺の説明が終わった後、俺の胸倉から手を離した後、強く俺を睨みつけた。


「それで、お前は何をするつもりなんだ?」


 ………


 床に尻もちをついた状態になった俺は、ただ震えて小町の目を見ていた。質問には何も答えない。……答えられない。


「どうする、つもりなんだ!!」


 小町の怒声が辺りに響いた。

 ……どうすることもできない。俺に、そんな力はない。

 そういうことを、俺は小声で呟いた気がする。


「わかった。じゃあ聞き方を変えるぞ。お前はどうしたい?」


 小町の表情が、あの日見た表情になる。それは柔らかく、まるで親が子供を諭しているような表情。先ほどまでの怒りは何処にもない。ただ、全てを包む母性に溢れていた。


「お前が助けて欲しいって言うなら、俺が全力で助けてやる」


 俺は、小町の目を見る。その目は優しく強い、女性の目だった。



 ……………


「聞こえないぞ」


 ………けたい


「………もう一度」


 助け……たい。


 助けたい。


 助けて!!








「俺のお袋を、俺を、助けてくれ!!」





 俺は顔を伏せ、全力で叫んだ。ああ、今なら神でも何でも祈ってやる。

 だから、助けてくれ。

 少しくらい、この現実で。

 奇跡を見せてくれ。


「分かった。なら、助けてやる。まぁ――」


 俺が顔を上げると、小町はいつもの顔で、二カッと笑った。その笑顔はやたらと男くさく、しかし見る人を安心させてくれる笑顔だった。


「――お前がなんて言おうと、お袋さんを助けに行くつもりだったんだがな!」


 それでこそ男だ! と、小町は俺の肩をたたく。少し痛かったが、悪い気はしなかった。


「それじゃ、電話借りるぞ」


 小町は無事だった電話を使い、何処かへと連絡をかける。数秒後電話がつながると、少し嫌そうな顔をしながらこう言った。


「あー、俺だが。事態はわかってんだろ? アニキ。ちょっと聞きたいんだが。あの馬鹿どもは、どこに行った?」




 しばらく後、俺達が立っていたのはとあるビルの前だった。


 辺りは暗い。周囲には他のビルもあるが、何処も明かりがついていなかった。街灯も、割られていたりしてまともに灯っているものはほとんどない。空は、いつものように曇りだった。……本当に、俺の人生は太陽と無縁らしい。


 とある町の闇金融。小町がその実兄から聞き出したお袋の居場所は、そこだった。そこはとある暴力団が経営に関与していることで有名で、警察も手を出せない状況だという。


 当然というかなんというか、俺の親父が金を借りていたのもそこだった。


 そのビルの前で、俺と小町は佇んでいた。自分では見えないが、俺の顔はいまかなり真っ青になっていることだろう。一方で小町の方は、いつものように不敵な笑みを浮かべていた。

 当然俺は、この少女が何をしようとしているのか理解していた。だからこそあり得ないと言いたい。


 ここに、たった二人で乗り込もうと言うのか。


 そんな事、現実的ではない。あり得ない。しかし、小町は平然と、戸惑っている俺を置いてその店へと足を進めた。


「あぁん? 嬢ちゃん、ここがどこだかわかってんのか?」

 

 さっそく、ビルの前にたむろしていたチンピラが前に出てくる。やたらと派手なシャツを着た、パンチパーマの男。明らかに、その道の人間だった。


「ああ、判ってるさ。コイツのお袋さんがここにいんだろ? 会いに来たって伝えてくれ」

「ああ!? 何言ってやがんだ、この餓鬼!」


 小町は、そんな街中で見たら思わず目をそらしてしまいそうなチンピラに、しかし平然と用件を伝えていた。その態度はあまりにも堂に入ったものであり、むしろチンピラの方が狼狽しているようだった。

 チンピラが懐から何かを取り出す。それはひと振りされると、そこそこの長さの棒になった。金属製のそれは、恐らく殴られれば骨の一つや二つが折れるかもしれない。


「痛い目見たくなきゃ、さっさと帰んな!!」


 しかしそれを目の前につきだされても、小町はなおも不敵な笑みを浮かべていた。


「悪いがな、下っ端。コイツのお袋さんがお前らの後ろにいるんだ。……会わせてもらうぞ」


 そう言って、小町は懐から何かを取り出す。

 それは、白い鞘に包まれた、短い刀。いわゆる、ドス、合口というものだった。


「テメェ、鉄砲玉か!!」


 チンピラが棒を振るう、それよりも尚速く。



 ――カチンと、澄んだ音を立てて小町の持つ合口が鳴いた。



「うおおおおおおおぉぉぉぉ!?」


 その瞬間。

 あり得ないことに、今まで地面に立っていたチンピラが、重力に逆らって上空へと飛んで行った。その有様はまるで空が地面になり、天空に向かって落ちていっているようだった。


「悪いな。お前と地面の“縁”少し切らせてもらった。まあ、完全には切れてないから、死ぬ前には降りてくるだろうさ」


 俺は上空を見上げる。叫んでいたチンピラの声は、徐々に遠のいていった。


「んあ? なに呆けてるんだよ。さっさと行くぞ」


 俺はあまりの出来事に呆然として固まったままだった。チンピラは、もう空高く『落ちて』いき、すでにその姿は見えない。

 地面との“縁”を切った、と小町は言っていた。それはまさか、地面との引力を断ち切ったというのか? そんなの非現実的すぎる。

 ……今まで見たことのない異常事態。科学があらゆることを解明していくような時代に、それを真っ向から否定する現象。俺の理解力では、到底把握しきれなかった。

 そうやって呆けていると、ドタドタという足音がビルから響いてくる。結構な人数がこちらに向かってきているようであった。


「オィィィ! どうしたぁ!?」

「どこの殴り込みじゃあ!?」


「はいはい、邪魔邪魔」


 各々が俺達を威嚇しながら、数人のチンピラがビルから下りてくる。中には、明らかに日本で禁止されているはずの飛び道具を持っているやつまでいた。

だというのに、小町はそんな得物を見ても平然と、面倒くさそうにその男たちに対峙していた。


「死にさらせぇ!!」


 パアン!

 乾いた音が響く。例の得物を持つ男が、小町に銃口を向けその引き金を引いたためだった。

 初めて聞いた、拳銃が使われる乾いた音。火薬により弾丸を飛ばし、人を傷つける武器。それは、一人の少女の命など軽く握り潰してしまうはずだったのだろう。


「俺もそれで死ねれば苦労しないんだがな」


 しかし。

 明らかに拳銃で撃たれたはずの小町は、合口を握ったまま気だるそうに立っていた。


「あのクソババァ、俺らを苦しめるためにそういった武器の類と俺らの“縁”を切ってきやがったんだよ。おかげで戦場に出ても死にやしねぇ。苦しんで生き続けろ、ってことだとさ」


 パアン! パアン!

 発砲音が続く。

 それでも小町はそんな事を気にした風もなく、何の恐れも無くそいつに近づいていく。その顔は、何処までも大胆不敵で。自分に弾丸が当らないことを完全に信じ切っている顔だった。


「さて……覚悟はいいな? 逆スカイダイビング、楽しんできな!」


 ――再び、小町の合口が鳴く。


「「ぎゃあああああぁぁ!!」」


 そうして、その場にいたチンピラ達は一人残らず空の藻屑と化していった。


「もう出てこないか。んじゃ、さっさと行くぜ」


 そう言って、ビルの中に入って行く小町。

 あり得ない。俺は今日、何度その言葉を呟いただろうか。上空を見上げても、もうチンピラ達は見えない。そこには暗い空があるだけだった。

 俺は何処か夢を見ている気持ちで、ふらふらと小町の後に着いていった。




「お、お袋さん。無事みたいだな」


 俺のお袋は案外早く見つかった。

 ビルの最上階、一番奥。立派な調度品に包まれた、いわゆるボスの部屋に、寝間着姿のお袋はいた。中に入れば、手前には長椅子。お袋はその上で、青い顔をして座っていた。


「……何だ、お前達は」


 部屋の奥。ひと際大きな机の向こうに座っていたのは、先ほどまでのチンピラとは一線を画した雰囲気を持った男。

 顔に大きな傷がある。綺麗に寝かしつけられた黒い髪、理知的な瞳。それは、己の腕でのし上がってきた人間特有の、凄味を感じさせる男だった。


「コイツのダチだ。悪いが、お袋さんは返してもらうぜ」


 男がすごいプレッシャーをかけてくる中、平然と話しかける小町。俺やお袋が顔を真っ青にして何も言えないのに、何故この少女は大丈夫なのだろうか。


「無理な相談だな。この女は我々が『買った』。あの男から、借金の形にな。我々の所有物だ。知っているか? 他人の所有物を勝手に持っていったら、窃盗なんだぞ?」

「あーあー、俺はバカだから、そんな難しいこと言われてもわかんねぇよ」


 小町は、興味ないとでもいうように、手を振っていた。その様子はいっそすがすがしい。


「ただ、俺のアニキが言ってたんだがな。元々、夫が作った借金を妻が払わなきゃならん道理はねぇんだろ? んなら、テメェの行いは道理に外れるよな」


 そうだったのか? 借金取りからは親父の借金を払うのは俺らの義務、と言われていたが……。違かったのか?


「はっ。どこの誰だか知らんが、余計なことを。確かに、そういう話もある。法律上はな。だが、あの男が確かに我々から金を借りて、返さないのだ。なら当然、我々は利益を回収する権利があるだろう?」

「だから、難しいことはわからねぇって言ってんだろ。アニキがそう言った、ならそういうことなんだろう。アイツは金持ちのボンボンで、誰からも好かれて、友達も多いし、美人の奥さんまでもらって人生順風満帆なムカつく奴だが――」


そこで小町は言葉を区切りった。言葉の端に怒りが込められているのがよくわかる。きっと、自分と比べているのだろう。


「――それでも、嘘はつかねぇし、何より甘ちゃんだからな。俺のためにとか言って、弁護士になっちまうような奴だ。だから、アイツが言ってる方を信じるさ、俺は」


 小町は何の迷いもなく、そう言いきった。


「……やれやれ。実力行使というのはスマートじゃなくて嫌いなんだがな」


 男が懐から銃を取り出す。それは先ほど下でチンピラが取り出した物よりも大きく、素人目にも高い威力を持っているだろうということが分かった。


「見たところそこそこの上玉だし、売れば金になるんだが……バックが面倒くさそうだ。殺して、飼料にでもさせてもらうぞ」


 そんな凶悪な、明らかに人間を殺すためだけに作られたその武器を向けられても、小町のその顔は別に恐怖しているわけでもない。ただ、若干の寂しさが浮かんでいるだけだった。


「本当にやれやれだ。せっかく、話し合いで円満に終われると思ったんだがな。悪いが、あんたの人生は此処までだ。残りの人生、たっぷり悔やむんだな」


 そう言って、小町は例の合口を鞘から抜き放った。

 涼やかな音色を奏でて鞘から躍り出る合口。銀色に輝くその刀身は、まるで月のように美しかった。


「それはこちらの台詞だ。そのドスで何をしようと? ……まぁ、おのれの無力をかみしめるんだな」


 バン!

 男は小町の事を嘲笑した後、ためらいもなくその銃の引き金を引いた。先ほどのチンピラの銃とは異なる、重い射撃音が部屋に響く。俺は咄嗟にお袋を引き倒し、その上に覆いかぶさった。


「悪いな。当たらないんだよ」


 バン! バババン!

 怯えるお袋を必死に庇いながら、上の様子をうかがう。常人なら、すでに何回も死んでいるだろう暴力の嵐。しかし小町はその暴力の嵐の中で平然と立っていた。

 ……しばらくして、その射撃音が止んだ。どうやら、男の弾が切れたらしい。


「……さて」


 その頃には、部屋は無残な状態になっていた。入った時は見事な調度品が置いてあったこの部屋だが、今はそのほとんどが壊されている。それなのに、小町はかすり傷一つ負わずに、その場に立っていた。


「お前は道を外れすぎた」


 コツ。コツ。

 一歩、また一歩とゆっくり男に近づく小町。男は苦々しげにその様子を見ているだけだった。


「……」

「人と人、物と物、人と物の関わり。それこそが、“縁”。良い“縁”も悪い“縁”も、ひっくるめて世の中を形作っている。……これから、テメェの“縁”を切ってやるよ」

 

 ――コツ。


「舐めるな、小娘えぇ!」


 小町が男の目の前に来た瞬間、男はその背後から日本刀を取り出して小町に切りかかった。剣術なんてものはさっぱり分からないが、その鋭い剣筋は、まるで切れない物なんてこの世界に存在しないと思えるほど、鋭かった。


 パキィン!

 しかしその剣は、決して小町に当たらず。床に当たって、乾いた音を立てて折れた。


「何の因果か弁天の、呪い宿りしこの体。先祖の呪いを収めよと、渡されたのはこの『縁切』」


 小町の言葉が部屋に響く。

 それは澄んだ声で、何処か悲しげで――


「誰が呼んだか、ついたあだ名が『縁切弁天』。今宵その“縁”、断ち斬らせてもらいやす」


 ――何より、俺達を優しく包み込む、優しい月の光のような慈しみがあった。



 シュパ!


 小町が合口――『縁切』を男に向かって振るう。それは確かに男に触れたはずなのに、何も切らずに通り過ぎた。……いや、違うか。

 小町は、“縁”を切った。


 ……カチン

 耳が痛くなるほどの静寂の中、小町が合口を鞘にしまう音だけが響く。


「……テメェの良“縁”、確かに断ち切った。もうテメェに幸運は訪れねぇよ。残りの人生、破滅の道を行くんだな」


 そう言って小町は合口をしまい、俺らのもとに歩いてくる。その足取りはゆっくりと、しかし迷いのない歩みだった。


「……一体、何を……」


 男は呆けていた。自分の体を触り、何も傷を負っていない事を確認している。


 プルルルル!プルルルル!

 その時、男の机の上の電話がけたたましく鳴り響いた。ディスプレイに表示された名前を見た男は驚き、小町に注意しながらも、恐る恐るその電話を取る。


「はい、はい、私で……そんな! 待って下さい、その話は……な! わ、私がいなくなったら、この組は!」


 男の顔がみるみる青くなっていく。その首筋に、死神の刃があてられたようだった。


「……行こうぜ」


 小町はそんな男を一瞥すると、俺らに外に出るように促し、そのままさっさと部屋から出ていった。お袋も、その後に続く。

 最後に残った俺は、改めて男を見た。

 その男は必死だった。さっきまでの威厳なんてどこにもない。ただ、細いわらをつかもうと必死にもがく、悲しい男の顔だった。今まで彼が築きあげてきた全ての物が、音を立てて崩れていく。

 俺はその姿に、転落していく者の影を見た。




「うっし、んじゃ行きますか!」


 昨日、つまりあの後。俺達は何事も無く家に帰り、無事に一夜を過ごした。俺達はまたあいつらが来ないかと心配したが、小町がそれは無いと断言してきた。


『もう、あいつらはそれどころじゃないさ』


 その言葉の通りだった。

 昨日の闇金融は、跡形もなく消え去った。後から聞いた話では、その暴力団の方でいざこざが起き、それどころの話ではなくなったためらしい。

 そういうわけで、俺は釈然としない気持ちのまま、小町の出立を見送ることになった。



 そう。

 小町は今日、また旅に出る。



 なんでだ? 何で今日何だ? もっと、長く留まってもいいんじゃないか?


「今日って日に旅立ちたいからさ。俺は気分屋だからな。その気分にならないと動きたくねぇんだよ。逆に、旅立つと決めたならその時に旅立ちたい」


 そう言って、小町はいつものようにニカッと笑った。


「お前には世話になったからな。昨日、ちゃんと恩を返せてよかった。そうだ、お袋さん」

「……なあに? 小町ちゃん」

「もし良かったら、夫との”縁”切っておくか?そうすりゃ、たぶんもうこういうことには巻き込まれなくなるぞ」


 小町が合口を取り出す。

 その提案は、俺も望むところだった。今まで何度俺が願っても、叶わなかったこと。あの男との“縁”が切れれば、きっと俺もお袋も、自由に生きられる。


「……止めておくわ。その“縁”を切ったら、もうあの人に会えないんでしょう? 確かにあの人はダメな人だけど……やっぱり、会いたくもあるから」

「そっか。んじゃしょうがねぇな」


 しかしお袋はにこやかに微笑んだまま、ただ力強く首を横に振った。

 ……俺としては今すぐその“縁”を切ってもらいたい。それでも、そのお袋の顔を見た俺は何も言えなくなった。今の俺は、その言葉が何処までも重いことを理解していた。俺が口をはさめることじゃ、ない。

 俺が微妙な表情をしていると、小町はそんな俺の心の内を見透かすように、顔を覗き込んできた。その小町の顔に、ドキリと心臓が高鳴る。


「なら、お前が強くならなきゃな。お袋さんを守りぬけるように」


 ……ああ、任せておけ。とびっきりのいい男になって、守って見せるさ。


 俺は笑いながら、それでも真剣な瞳で小町を見つめて、そう言った。小町も、そんな俺の言葉に満足そうに微笑んでくれた。


「ああ、そうしろよ。……さて、んじゃ行きますか」










「……待ってくれ!」



 後ろを向いて道を歩き出した小町を、俺は大声で引き留めていた。


「ああ? 何だ、まだ何かあんのかよ?」


 不機嫌そうに立ち止まる小町。あの男にも立ち向かう力強さを秘めた双眸に、俺は少し気押された。それでも、俺は引き留めないわけにはいかなかった。


 ……なあ、やっぱりこの町に留まらないか? 住む場所なら、うちに住めばいい。ちょっと狭いけど、前だって三人で住んでたんだ、問題ないさ。借金も無くなったし、俺ももっとバイトするから、生活だって今よりずっと良くなる。

 なあ、一緒に住まないか? その、俺は――






「――お前が、好きなんだ」






 俺の正直な感情を言葉にする。

 コイツがどんなに破天荒でも構わない。どんだけ好き勝手やってもいい。俺は、コイツの事が好きなんだ。惚れた弱みだ、何だってしてやる。


「ばーか」


 しかし、小町はその首を縦には振ってくれなかった。


「お前な、せっかくこれから立ち直れるって時に、俺みたいなお荷物しょってどうすんだよ? 言っちゃなんだが、お前のその考え方、お袋さんにそっくりだぞ?」


 そこまで言って、小町は笑った。


「そんなんじゃ、俺が求めるいい男にはまだまだ遠いな。悪いが、そんなお前とは付き合えない。他を当たってくれよな」


 言うだけ言って小町は振り返り、また歩き始める。

 そう言われた俺は、しばらく黙ってその小さくなる背中をみていた。小町が言っていることは正しい。確かに、今の俺が小町を背負うことは難しいかもしれない。

 それでも――



「なら、一年後……いや、三年後。……何年後でもいい!また戻ってきてくれ! きっと、お前にふさわしい奴になってるから!!」




 ――それでも、俺は叫ぶ。


 今まで、人生はどうにもならないと思っていた。

 どんなに働いても、奇跡は起きないと思っていた。出口は無いと思っていた。

 でも。

 コイツが来てから、奇跡は起きた。

 世界にはまだ奇跡がある。

 世界は見捨てたモノじゃない!

 なら、俺だって変って見せる!



「……だから言ってんだろ?」


 俺の叫び声を聞いた小町は、そう言って足を止め、ゆっくりと振り向いた。




「お前は、俺の好みじゃないんだよ!」




 輝く朝日の中、小町が笑う。その笑顔は、今まで見たモノの中で最高の顔だった。


 ……ああ。しょうがない。それならしょうがないな。


「ああ、しょうがないさ。……んじゃ、またな」


 そう言って、今度は振り返らずに小町は去って行った。




 小町が何者だったかなんか知らない。ひょっとしたら、俺があんまりにも否定したから、神様って奴が来たのかもしれない。まあそんなことは本当にどうでもいいけどな。


「またな……小町」


 俺はいつか来る小町との再会に向けて、昇り始めた太陽の下、一歩を踏み出した。





 この第一話だけ、短編として何処かの賞に応募してみようとも思っています。至らない身ですが、色々とお言葉をくれると嬉しいです。

 この後の作品はまた手直しをしてから投稿しようと思いますので、しばらく時間がかかります。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ