第二話 “ひろいもの”
建国357年 7月15日
アイデアゾンビ事案 第576号
対応 第9小隊 南西地区にて
薬物使用の痕跡 あり
アイデア 炎熱、氷結
全く、朝から体が鉛のように重い。3日経って業務に復帰したと思えばこの冗長な作業が待ち構えていた。報告書記入よりも、パソコンのキーボードが重く感じる作業はない。ショウはこの仕事を受け持つたびに、そう感じていた。毎回リョウゴ隊長の長話の方が面白いと思いながら世界一重いキーボードを叩くのだ。水を飲み、ストレッチをしながらパソコンと渋々格闘する。こんな仕事をしていては、戦闘する前にアイデアが枯れてしまう。
「あれ、今回の担当アララギさんなんだ」
「そうですよアメリさん代わってください。」
「え、私前回やったし嫌ですよ。」
「そうですよね。あとアメリさん苗字で呼ぶのやめてくれませんか?」
「あ、ごめんなさい。なんとなく慣れなくて。あと今回の地区、南西地区じゃなくて北西地区だよ。」
「そうでしたっけ。直しときます。」
「うん。めんどくさいけど頑張ってね。隊長こういうのうるさいし。」
端的かつ簡単な指摘、アメリが話しかけてくる時ははいつもそうだ。普段なら負担でしかない同僚との会話も、報告書作業中には肩の力を抜くいい機会に思える。少しずつだが、諦めがついてきた。売り物のようにまっさらな画面のまま太陽を見送ったあと、隊長からくらう説教はこんな作業よりも時間の流れが遅い。もう急いで終わらせてしまおう。
昼休憩が終わり昼食が体に馴染むほどの時間に、報告書作業は佳境に差し掛かった。現地状況や戦闘の顛末、事後処理などをあらかた書き切ったとき、ふと重要なことを思い出した。あの本である。明らかに廃ビルには馴染まない雰囲気を放っていたそれを、ショウには見逃すことはできなかった。あの日使った戦闘服のポケットをまさぐり、例のものを取り出す。この本の内容も記述しなくては、そう自分に言い訳をして震える指先でその古びた表紙をめくった。
「おいおい、ショウ仕事中に読書か?サボりにゃ感心しねえなあ」
途中まで読んだところでにやにやしながらガイが話しかけてきた。
「いじんのやめてくれ。」
「またタメ口こきやがるこのクソガキ!ねぎらいにきてやったんだぞ!」
そう言って笑いながら首を絞めるフリをしてくる。そういうところが疲れるから嫌なのに。
「ガイさん、あんた年上だけど入隊したのは同時じゃん。あと本は仕事、これも報告書に書くんです!」
「そうかよ。」
そう軽く言ってガイは作りかけの報告書に目を向ける。
「…なんで二つ目なんて望むんだろうな。身に余るのは目に見えてる。その上弱いんだぜ。」
少し悲しさを滲ませて重く口を開く。想いに耽るようなそうでないような不思議な雰囲気を纏っていた。釣られるように少しため息をつきながらショウも声を漏らす。
「そうですね…アイデアの原動力は“欲”です。だからじゃないですか?」
「…そうかもな。人間だしな。」
少しばかりの沈黙が流れる。だが、なぜかそこまで居心地の悪さは感じなかった。
「おっと、お仕事中に悪かったな。」
そう悪態をつきながら、ショウの手にガムを押し付けた。
「先輩には媚びといた方がいいぜ?」
「…今日は敬語使ってあげます。」
ガムはミント味だった。ミントの香りが鼻に抜けるのが、なぜだか普段より心地よかった。
『今宵の月』、そう題された本のページをめくるたびに、ショウのため息は大きくなっていった。これほどの期待を背負わせるには、本という紙の重なりでは力不足だったのかもしれない。内容は陳腐な恋愛小説。芸術家の主人公が一目惚れをした女と恋に落ちる。しかし主人公は妻帯者であり、倫理と恋の間に揺れる感情を描いた物語だった。大変読みやすい小説であった。逆に言えば、レトリックや内容に意外性がほとんどなかったのだ。
ここまでは「小説」の感想だ。ため息の理由は小説の内容だけにあるのではない。むしろ別の要因の方が大きい。知らない固有名詞が多すぎる。それが問題だ。実在の場所を借用したフィクションであるようなのに、すべての地名が耳にしたことのないものなのだ。最たる例はロマネ湖なるカルデラ湖だ。そもそもこの国の周りにカルデラ湖は一つもない。まずほとんど山がないのだ。他にもサルパ通りやムパク駅など知らない名前の詰め合わせで、その地名の数々がショウの心に引っかかって離れなかった。
現場から見慣れぬ本を回収。内容は下記の通り…見知らぬ固有名詞が多用されており…
ラストスクエア陸軍 特殊戦闘部隊所属 ショウ・アララギ
この文を最後に、永遠に思えた報告書にトドメをさすことができた。冒険を一つ終えたような晴れやかな気分だと、この本を読んでいなかったら言っていただろう。誤字脱字を確認した後、作り終えた報告書をプリントアウトして隊長に提出する。
「やっと終わりましたよ。リョウゴ隊長。」
「今日は一段と遅いじゃないか。どれどれ…」
そう言って報告書に目を通す。普段ならこのまま終わりだが、今日はそうはいかなかった。
「これ、この本っての、どこで拾った?」
「え、いやあの、普通に落ちてました。なんてことないですよ。」
「この本ってのは今あるのか?」
「ああえっと、今はないです」
嘘が口をついて出た。なぜ嘘をついたのか、自分でもわからない。ただ、これは渡してはいけない気がした。
「嘘つけ!あるんだろ!」
普段は聞かないような剣幕と気迫できいてくるので思わずたじろいでしまった。
「いや…はい…ありますけど…」
「なぜ嘘をついた?持ってきなさい。」
「え!回収するんですか?」
「当たり前だろ。重要な資料だぞ!」
隊長の額には汗が滲んでいた。隊長に逆らえるわけもなく、机に隠し通すつもりだった本はあえなく取られてしまった。
「…それいつか返ってきます?」
「もともとお前のものでは…まあいい、一応上には頼んでみよう。ただし、次からこういう資料は真っ先に報告するように」
そう言って隊長が本を掴んだ時、思わずそれ以上の力で離さないよう掴み返してしまった。
「なぜ離さない…?」
「…ああ!ごめんなさい!つい無意識で」
「まあいい、下がりなさい。ご苦労だった」
報告の後、自分のかいた汗の量と心にぽっかりと穴があいた感覚に自分で驚いた。報告書の重さとは、種類の違う疲労が胸に残った。好きなものを没収されるのが、ここまで胸に傷をつける行為だとは。まあ、悩んでいても仕方がない。今日は帰ろう。宿直勤務は昨日で終わりなのだ。束の間の休息である。少しだけ羽を伸ばした後、また戦場とデスクワークの往復に埋葬されるのだ。これを思い出すせいで、休日も碌に休めたものではない。まあ、少しやりたいこともできたのでよしとしようか。隊長はショウをわかっていない。完全にすべてを奪われたわけではないからだ。こういう時は誰よりも用意周到なのだ。ポケットの中に隠した本についてのメモの感触を指の腹で確かめる。それを握ったショウは、いつもより少し足取りが軽かった。
「お先、失礼しまーす。」
その声には少しだけハリがあり、いつもよりも通る声であった。




