第29話「暗雲。教会が放った暗殺者…」
――◇――◇――◇――◇――◇――◇――◇――
【8月31日 15時30分(日本時間)】
荘厳な執務室で、男は額に皺を刻んでいる。
男の名前は、マルゲ・ヨハネ・デブリーク。
聖マリアナ福音教団の教祖だ。
逃げ出した聖女を捕まえるため、灰色のフリーターを雇うように指示を出した張本人だ。事前の情報では、日本は犯罪に対する危機感が低く、逃げ出した要人の確保など容易と思われていた。
それが6時間前のことだ。
スマートフォンを主とするSNSの情報には、聖女の行方を知らせる情報が飛び交っていて、朗報が届くのは時間の問題だと報告を受けていた。
「それなのに、どうだ?」
報告に来た信者の頭に手を置く。
信者は恐怖に震えていて、これから自分がどのような目に合うのか考えることしかできない。斬首、あるいは絞殺。
嘘ではない。
この男。
表舞台では教祖を名乗っているが。裏社会では名の通った極悪非道。自分が気に入らないという理由だけで、何人もの人間を手にかけてきた。時には、自分自身が刃を手に取り、絶命するまで私刑を行うのだ。
愉しそうに。
嗤いながら。
「言葉に気をつけろよ、若き信者よ。迷える羊に道を照らすのは、この私なのだぞ?」
ぐりっ、と信者の頭に教祖の指が食い込む。
苦痛と恐怖から、正気を失いそうになっている。それでも、わずかな光明に縋るがごとく、先ほどと同じ説明を教祖のマルゲに伝えた。
「ほ、報告、します。聖女シャルロット様を日本の、とある街で発見。多額の報奨金をかけて裏の人間たちが確保に向かいましたが、……その全てが失敗。依然、聖女様はその街に留まれていると、……あががががっ!』
従者が悲鳴を上げた。
渋面の教祖マルゲが指先に力を入れて、信者の頭部を押し付ける。それは、まさしく握りつぶさん勢いだった。
「それで? なにか良い報告はないのか?」
これが最後のチャンスだぞ。
私の機嫌を損ねるな。
無言でそう語る教祖を前にして、とうとう信者は己の運命を悟る。自分にとって不都合なことは耳を貸さない。教祖という絶対的な権力が、この男を怪物に変えていた。
そして、今日も。
若き信者が破門とされる。
どさっ、と倒れた信者を蔑んだ目で見てから、教祖マルゲは近くにいた従者に声をかける。
「おい、この男を捨てておけ」
「はい、教祖さま。御心のままに」
従者たちは、倒れて動かなくなった信者を乱暴に担ぐと、隣の部屋へと引きずっていく。
その光景に、まるで興味がないのか。
教祖マルゲがワイナリーから高級赤ワインを開けて、グラスに注ぐ。
「……それで? そっちの首尾はどうなんだ?」
まさか、このまま手をこまねくわけじゃあるまいな。眉間に皺を寄せている教祖を前に、従者たちは顔色を変えずに答える。
「はい、教祖様。先ほど、あの国で雇っていた情報提供者から連絡が途絶えました。ですが、ご安心を。既に、我が教会の暗殺者が現地に到着しております」
「ふん。まぁ、いいだろう。それで、誰を派遣したのだ?」
「……蛇座のサーペント卿でございます」
従者の淡々とした返事に。
教祖マルゲは興味深そうに頷く。
「ほぉ、我が教会の中でも、屈指の実力者と聞く、あの蛇座のか」
「はい。サーペント卿の腕は、これまでの実績からも証明されています。また、日本という異国であっても、かの卿なら問題なく任務をこなせるかと」
ただひとつ。
懸案事項があるとすれば。
卿が対象者を、生きたまま確保する保証がないということ。
「サーペント卿は根っからの《《死体愛好者》》。聖女様の美しさに見初められて、手が滑らなければよいのですが」
「ふふふ、構わんさ。この際、死体であっても、あの小娘を連れて帰ってこい。必要なのは女の命ではなく、聖女の死という事実なのだからな」
ふふふ。
はーっはっは!
教祖マルゲは狂ったように歪な笑みを浮かべる。
だが、彼はまだ気がついていない。
教会の暗殺者を派遣した場所が。頭のネジが外れた連中が集まる、バカ騒ぎの街であることに。
……教祖マルゲから笑みが消えるまで。
……あと、4時間30分。
――◇――◇――◇――◇――◇――◇――◇――
【8月31日 16時30分】
客の少ない寂れた喫茶店にて―
「映画、楽しかったですね!」
「あれを楽しめるとか、お前の感性はどうなっているんだ?」
映画館の近くにある喫茶店で、次郎はイスの背もたれに項垂れている。
次郎とモブ子。
そしてノラは、だらけきった様子で、先ほど見た映画の感想を言い合っていた。
今だけは、平和の時間を噛み締めるように。




