70:前夜
それから二ヶ月あまりの時間を、私たちは兵士の服作りに費やした。
まず、大量の羊毛の布がかき集められた。
それから型布をたくさん複製して、各地の工房に配布する。縫い方を教えた職人たちが散って行って、また新しく教えていく。
服だけではなく、従来の形の外套――フード付きマント――も作られていく。
編み物も同様だ。
職人や奴隷のみならず一般市民たちからも労働への応募があって、人海戦術で進んでいった。
半袖にしても長袖にしても、従来のチュニカとはかなり形の異なる服である。
仕立て職人からは疑問の声がそれなりに上がったが、ネルヴァは黙殺した。
会計官に就任した彼は職権をもって、兵士たちに最適な服を求めてくれたのだ。
「今は伝統よりも機能性を重んじる時期だ。アルブム山脈は春になっても雪が残る寒冷地。兵士たちが首都に凱旋した暁には、リディアの服の有用さを喧伝してくれるだろうさ」
とのことである。
唯一、魔物の絹の下着だけはダンジョンの工房で作られた。
下着はタンクトップから長袖に変える必要が薄く、元々それなりの数の準備が整っていた。
絹布の生産はダンジョンの工房でしかできないこともあって、お母さんを始めとした職人たちがその作業に従事していた。
ちょっと意外だったのは、クロステルが実に器用に機織りや縫製をこなすことだった。
彼の技術は超をつけていいほどの一流。特に機織りが得意で、新しい機織り機を紹介するとすぐに使いこなしていた。
「俺はアラクネの息子だよ? 工芸の女神と同等の腕を持つ母なのだから、息子の俺に才能があって当たり前だろう」
最初は新しい機織り機に「邪道だ、こんなのおかしい」とぶうぶうと文句を言っていたが、使ってみれば案外気に入ったらしい。
ギッタン、バッタン、トントンとやりながら、実に楽しそうに魔物の絹を織っている。
お母さんは彼の見事な腕に感銘を受けたようで、二人で話をしながら機織りをしていた。
ティトスとお母さんには、近い内にクロステルの正体を話してしまおうと思っている。きっとびっくりするだろうね。
そうしてやがて年が明けて、さらに時間が過ぎ去って。
二月も終わりに差し掛かった頃。新しく生まれ変わったユピテル軍は、執政官二名に率いられて首都を出発した。
新しい兵士の服はどうにか間に合って、全員に行き渡っている。
市民たちは街道まで出て、兵士である夫や息子や兄弟たちを見送っていた。
私の仕事はこれで終わり――ではない。
実はもう一つ、この先を見据えた計画がある。
それはこの戦争が続く間に準備を終えておかねばならない。
ネルヴァとユピテル軍の勝利を信じて、私は次の作業に取り掛かっていた。
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※ここからしばらくの間、リディアの一人称ではなく三人称で話が進みます。
その年の三月、首都を出たユピテル軍はアルブム山脈に入った。
春といえど標高の高い山々では雪が多く残り、夜には気温が氷点下まで下がる。ユピテル兵たちは厚い雪を踏みながら、一路北の土地を目指して行軍を続けていた。
「今夜も冷えるなぁ」
ある日の野営地でのこと。
夜の見張りに立った兵士の一人が、白い息を吐きながら言った。同僚の兵士が頷く。
「まったくだ。とても三月とは思えん」
「ユピテルの三月は花が咲き誇る季節だというのに。少し北に行って山を登っただけでこれとは」
やれやれとため息をついた彼は腕をさすった。
「だが、この新しい服は暖かくていいな。長袖に長ズボンなど、北の蛮族が着るような服だと最初は思ったものだが」
「俺は三年ほど前にやはり山脈を越えて、南下してきたセグアニ人どもと戦ったことがある。その時はチュニカを着ていた。今日みたいに冷える夜は、金属の鎧がひどく冷たい。知ってるか? 凍った金属は肌に張り付くと剥がれないんだ。無理に剥がすと皮ごといっちまう」
「うわ」
兵士は想像して思わず身震いした。同僚は笑う。
「この服は肌をすっかり覆うから、そんな心配はいらん。暖かい上に、動きやすいのがいい」
「暖かいといえば下着もそうだろう」
「ああ。それこそ最初見た時は、なんだこれはと思ったがな。汗をよく吸って快適で、寒い日は肌を温めてくれる。これを考えた奴は大したものだよ」
「上と下とに分かれているのも、意外に着やすいし」
二人はうんうんと頷きあう。
「会計官のネルヴァ様が調達したんだろ?」
「あのお方こそ大物だな。執政官の息子という高貴な身分なのに、親しく兵士に声をかけて、今だって俺たちと同じ天幕で眠っている。俺はあの日、フォロ・ユーノーで演説を聞いた。俺は小さい店の店主で、一応は徴兵対象になる程度の資産を持っている。だが暮らし向きは楽じゃないんだ。大黒柱の俺がいなければ、妻と子が苦労するのは目に見えている」
兵士は首を振った。
「ネルヴァ様の軍の改革は、俺のような半端な資産持ちも助けてくれた。だから俺は商人の立場を捨てて、兵士として生きていくと決意した」
ネルヴァの改革は志願制の職業軍人を作ったが、同時に兵士の給与を手厚くして暮らしていけるだけの額にした。
それまでのユピテル軍は給与こそ出るものの、食費やその他の物資の額だけ差し引かれていた。また、武器や鎧兜などの武装は自前だったのだ。
ある程度以上の余裕がある市民以外にとって、徴兵は本当に負担だった。
そして貧富の差の拡大により中産層が減って、徴兵対象になる市民の数も減る。すると兵士を集められなくなった国は焦った。徴兵に必要とされる資産の額が引き下げられて、市民たちはますます苦しくなったのだった。
それが変わった。
武装は国家の支給になり、食費などの差し引きもなくなった。
兵士は十分に「食っていける」職業に変わったのだ。
職業軍人制度は貧困層の吸収を主な目的としていたが、結果として中産階級の志願をも呼び込んだ。
「俺は故郷をなくした無産階級だよ」
もう片方の兵士が言う。
「俺自身は日雇いの仕事でどうにか食っていたが、親父は年のせいであまり働けなくてね。小麦の配給で食い物は何とかなったが、無気力になってしまっていた。兵士の給与は日雇いよりもいい。何より息子が国の役に立てると、親父もお袋も喜んでくれた。二人とも改めて働き始めて、前よりも元気になったくらいだ。……フェリクス執政官とネルヴァ様に感謝しているよ」
「そうだな……。この恩に報いるためにも必ず勝って、ユピテルの地を守らなければ」
兵士たちは夜空を見上げる。
標高の高いここは、下界よりも星が近い。手を伸ばせば届きそうな錯覚すらあった。
多くの市民にとって希望となった軍制改革は、これから真価を問われようとしている。戦いに勝たなければ故郷を守れない。
未だ残る雪の上に築かれた野営地で、夜は静かに更けていく。




