66:演説
その一報は、深まった秋が終わって冬に入ったある日にもたらされた。
――異民族が大挙して南下中。ユピテルとの国境を侵すのは時間の問題、と。
ユピテル共和国は半島にある国だ。
北西にはアルブム山脈という万年雪をかぶる大山脈があって、外敵の侵入を阻む天然の要塞となっている。
アルブム山脈は高く険しい山々ではあるけれど、それでも踏破不能ではない。旅人や商人たちは行き来しているし、過去には敵国の軍が強襲してきたことすらあった。
アルブム山脈の向こう側はノルド地方といって、小部族が割拠して暮らす土地である。
そこに住む人々はひとまとめでノルド人と呼ばれている。
ノルド人はずっと昔はユピテルと敵対していたが、昨今は部族によっては同盟を結ぶ間柄だ。彼らは主に農耕で生計を維持していて、ユピテルが作った街道なども一部利用している。
今、国境に迫っているのはまた別の民族だった。
セグアニ人と呼ばれる彼らはノルド人と近しい血を持ちながらも、暮らす場所と暮らしぶりを異にしている。
セグアニ人はノルド地方よりさらに北に住み、狩猟と遊牧を生業とする。そのため一箇所に定住せず、季節ごとに移動を繰り返して生活してきた。
そして狩猟の暮らしは不安定でもある。獣や森の恵みが不作の年は、あっという間に飢えてしまう。
そういう時、セグアニ人たちは南下してくる。ノルド人の麦畑を荒らして、それでも足りなければユピテルを目指して。
ユピテルの本国は半島だが、ノルド地方の南部は属州になっている。
セグアニはしばしばそういった行動を取り、そのたびにユピテル軍と衝突を繰り返してきた。
しかし最近のユピテル軍は弱体化が著しく負けてばかりで、抑止力が弱まっていた。
今年の不作は深刻で、ノルド人たちにも餓死者が出るほどだったという。
セグアニ人は腹を満たすことができず、当然のようにユピテルに迫ってきたのだ。
彼らは定住地を持たない民。兵士となる成人男性はもちろん、女子供や家財道具、家畜までも全てが大移動の波としてやって来る。
精強な狩猟民族であるセグアニ人たちは頑強で背丈が高く、個々の戦闘能力がとても高い。また巧みに馬を乗りこなす騎馬兵でもある。
セグアニの各部族は揃って南を目指した。途中のノルド人たちの領土を荒らして、ユピテルに向かってくる。
その数、総数は五十万人以上。兵士となる男たちだけで二十万人を超える――。
ユピテルでは年末に選挙が行われる。次の年の主だった公職を市民集会で決めるのだ。
セグアニ人接近が報じられたのは年末にまだ早い時期だったが、もはや猶予はない。
早期に市民集会が招集され、各主要職の投票が行われていった。
結果、翌年の執政官――ユピテル共和国の最高官職にして元老院の代表者――は、ネルヴァの父であるガイウス・フェリクスが当選。
もう一人の執政官であるメテルスとともに対策に当たることとなった。
そしてネルヴァはこの機会を逃さなかった。
執政官である父が、現在の徴兵制から志願制へと軍制を変える法案を提出する。
提出先は、元老院ではなく市民集会。
ユピテルでは両者が法案可決の権限を持つ。
異民族の脅威が迫る現在ならば、既得権益にしがみつく元老院議員相手でも法案は通ったかもしれない。
けれどネルヴァはそうしなかった。
彼は平民たち、市民たちに直接呼びかける方法を選んだのだった。
ネルヴァの――表立っては次期執政官フェリクスの演説を聞こうと、首都中心地に多くの人が集まっている。
私もティトス、デキムス、カリオラと一緒にやって来た。
温暖なユピテルも冬はそれなりに寒い。けれどそんな寒さを吹き飛ばす熱気が辺りに満ちていた。
人々は不安そうながらも何かを期待する表情で、演説が始まるのを待っている。あまりの人混みに押されて、ティトスたちとはぐれてしまいそうだった。
やがて前方の演壇に人が立った。ネルヴァの父ガイウスだ。少し後ろにはネルヴァの姿も見える。
ざわめきを大きくする人々を手で制して、彼は話し始めた。
「市民諸君。既にセグアニ人たちの暴虐は聞き及んでいるだろう。私は諸君らによって執政官に選出された以上、その責務を必ず全うしなければならない。執政官とはユピテルの最高官職であると同時に、軍団の最高責任者である。戦いの準備をしながらも国家財政に気を配って、兵士を招集しつつも諸君らが市民であると忘れてはならない。これらの責務を、喫緊の事態にありながらも保身に走る輩を押さえつけ、やり遂げなければならない」
やはりまだ反対派の勢力があるんだ。
フェリクス夫人の人脈を使って女性たちを懐柔してきた。そして今は非常事態でもある。それでもなのか。
少し前に聞いた話では、一部の強硬派が残ってしまったということだったが。
「私は偉大な祖先を持ち、彼らに恥じない行いをするつもりでいるが、それ以上に重要なことがある。それは我が身の能力と誠実さの全てを市民諸君に捧げ、この国を守ることだ。それは貴族であっても平民であっても関係がない。全てのユピテル市民が等しく果たすべき責任である。
私は諸君をセグアニ人との戦いに連れて行くだろう。たとえ厳しい戦いになっても、全ての労苦を共にすると誓おう。
諸君の指揮官であると同時に、常に傍らにいる戦友として在るように。私と共に戦い、危険を分かち合うことでユピテルを救うのだ」
ガイウスは一度言葉を切って、居並ぶ市民たちを見渡した。
名家中の名家の当主である彼だが、傲ったところがまるでない演説だった。まるで彼自身がいち平民であるかのような論調で、貧しい人々に寄り添っている。
それはきっと、ネルヴァの思いでもあるのだろう。
「さすれば必ず、神々の守護により、勝利と名誉が我らのものになるだろう!」
大きな歓声が上がった。
群衆たちは誰もが興奮した顔で、壇上のガイウスに向かって拍手喝采を浴びせている。
「俺も戦う!」
市民の一人が声を上げた。
「俺は無産階級だ。故郷を出て身寄りもなく、日雇いの仕事で暮らしてきた。本来ならば兵士になれないが、俺も連れて行ってくれ!」
「もちろんだ」
ガイウスが目配せすると、ネルヴァが前に出た。
「市民諸君。私は新執政官フェリクスの息子、ネルヴァという。年が足りないために政治の場へは出られないが、戦場ならば十分だ。無産階級も騎士階級も、もちろん貴族も。志のある者は、共に来てほしい。共に戦ってこの国を守り、勝利と栄誉とを手にしてほしい!」
また歓声が大きくなった。
興奮した人々は演壇の方に押し寄せて、私はもみくちゃにされてしまう。気がつけばティトスたちとはぐれてしまった。
(それにしても)
これだけの拍手を得ている以上、法案は可決したとみなされるだろう。
この日からユピテルの軍は志願制になる。職業軍人が生まれる。
貧しい人々は職と生きる意味を得る。配給制度だけで命を繋いでいた人々は目を輝かせて、ネルヴァの言葉を受け入れている。
彼らはきっと苦しかった。社会から切り離されて食べ物だけを恵んでもらい、ただ生きているのが。
たとえ命を危険に晒す兵士であっても、自らの役割を得たのが嬉しい。そんな声が方方から聞こえてくる。
前世の感覚を持つ私としては、戦争なんてしてほしくなかったけど。
それでも祖国の危機に際して立ち上がる人々の気概を感じずにはいられない。
熱狂的な人の波に押しつぶされそうになりながら、何とか端のほうへ避難しようとして。
――ふと、『彼』が目に入った。
その人はやはり壇上のネルヴァとガイウスの親子を見ていた。
けれど瞳に熱がなかった。誰も彼もが興奮する中で、奇妙に冷静な目をしていた。
人混みをかき分けてまっすぐに演壇の方へと向かっている。
その手の中でギラリと何かが光る。
良く磨かれたナイフを手に持っている。
歓声を上げる人々は演壇を見るのに夢中で、誰も彼に気づかない。
彼の両目に明確な殺意が灯った。
反対派。暗殺者。テロリスト。そんな言葉が私の頭をかすめる。
ネルヴァを、フェリクスの親子を殺す気だ――!




