45:最下層
私は暗闇の中を落下している。
落ち始めてからもうどのくらい経過しただろう。どんなに少なく見積もっても数十秒は経っている。
ということは、もう命はないも同然だろう。これだけの距離を落下したのならば、地面に叩きつけられた時にバラバラになって死ぬだろうから。
(死にたくない)
助かる手がかりはないかと空中で手をばたつかせる。
けれど何も触るものはなく、むなしく宙を掻くばかり。
念願だったファッション改革も、それ以前の様々な仕事も。全て成し遂げられないまま終わってしまう。
「死にたくないのに!」
ポケットは空で荷物はどこかで放りだしてしまった。もっとも何か残っていたところで役に立つとは思えないが。
やがて来るであろう終わりの瞬間を想像して、私はぎゅっと目をつむった。
前世は二十歳でひどい殺され方をして、今は十歳で死のうとしている。私は前々世あたりで世界を滅ぼした魔王だったのかもしれない。じゃないと理不尽がすぎる。
と。
ぼよん、と体中に妙な感覚が走った。トランポリンで跳ねたような感触だった。
それなりの衝撃だったが、痛いとか怪我をしたとかというほどではない。
そっと目を開けてみると、辺りは薄明るくなっている。
ぽよん。また跳ねた。
二度目のぽよんは最初よりずっと弱くて、体が安定したと感じた。
私は思い切って空中で体勢を変える。足を下にして落ちる。
三度目は反発がさらに弱く、私はとうとうトランポリン(?)の上で立つのに成功した。
どういうわけか分からないが、死なずに済んだ!
そうして辺りを見回して――
「……は?」
思わず間抜けな声が出た。
トランポリンだと思っていたのは、巨大な蜘蛛の巣だった。繊細な糸で緻密に織られた巣は、淡い光にきらきらと輝くよう。美しい見た目に反してずっと頑丈らしい。落下した私を受け止めたのだから。
でも問題はそれじゃなかった。
目の前には白いナニカがいる。とんでもなく巨大なために、最初は何なのか分からなかった。
それはふさふさした毛に包まれていて、赤い目をしていた。――赤い目が八つあった。
何十メートルもの大きさの大蜘蛛が巣の真ん中で私を眺めていた。
さっきのジャイアントスパイダーはデカかったけど、目の前のこれは比べ物にならない。
恐怖を感じることすらできず、呆けたように見つめてしまう。
ふと。白蜘蛛の赤い目がすうっと細められた。そこに灯るのは、怒りと憎しみ。
シュ――と音を立てて糸が飛んでくる。
糸がひとかたまり、私の全身に絡みついた。
あぁ、これもやっぱり私を食べるつもりなのか。
諦めとも達観ともつかない感情が沸き上がる。
目の前の白蜘蛛があまりに大きすぎて、恐怖よりも畏怖のような気持ちが強いのだ。
(……繊維鑑定)
スキルを使ってみたのは、糸が美しかったからだ。
これから死ぬのが避けられないなら、この糸の情報に触れておきたかった。冥土の土産ってやつだ。
『原初の怪物・アラクネの糸。ダンジョンの主である彼女の体から紡がれた糸は、あらゆる点で最高の性能を誇る。耐火性、耐水性、耐摩擦性、対魔力性……』
膨大な情報が頭に流れ込んできた。
あまりに莫大で、しかも人間では扱いきれないほどの上質な魔力が私に注がれる。
それはまるでお酒のように私の頭を酔わせた。
『――憎い』
同時に誰かの声が聞こえる。
『憎い、憎い、憎い! あの女が憎い。傲慢にも機織りの勝負を仕掛け、わらわを侮辱して怪物の姿に変えた。あの女が憎い、女神アテナが!』
女のような声は、目の前の白蜘蛛のものだと直感で理解した。
そういえば、と思い出す。
隣国グラエキアの神話にそんな話があったっけ。
機織り自慢のアラクネという女に、アテナ女神は自分の領分である織物勝負を仕掛けた。
アラクネと女神の腕前は互角だったが、タペストリーに織り込んだモチーフが問題になった。
アテナは自身と海神ポセイドンの戦いの様子を描いたが、アラクネが描いたのは大神ゼウスと人間の女たちの浮気の様子だった。
ゼウスはアテナの父である。父を侮辱されたアテナは怒り狂い、呪いをかけてアラクネを蜘蛛の化け物に変えてしまった。
それ以来アラクネは姿を消して、世界の果てで糸を紡いでいるという……。
織物職人の間で有名なあの化け物は、こんなところにいたのか。
そして神話の時代からもう何千年も経つのに、未だに憎しみに取り憑かれている。
「あの」
糸の魔力ですっかり酔っ払っていた私は、憎しみに狂うアラクネに声をかけた。割と気楽な感じで。
「アテナ女神は、もういませんよ」
『何だと……?』
アラクネの八つの目がギロリと私を見る。本来であれば竦み上がって恐怖するところだが、今の私は酔っ払いだ。
「グラエキアは衰えて、ユピテルの支配下に入りました。アテナはミネルヴァという女神に姿を変えて、ユピテルで信仰されています。
でも、アテナはもういないんです。アテナ信仰の都市国家はまだ一応存在してるけど、すっかり弱って影響力をなくしているし。アテナを信じている人はもうほとんどいないと思います。神様なんて、信仰されなくなったら終わりですよね。
ミネルヴァはアテナに比べると、なんていうか、小粒です。工芸の神様ではあるけど、軍神じゃなくなってるし……」
『馬鹿を言うな。アテナはグラエキアの神々の中でもひときわ強い神だった。わらわを怪物に変えたのも、軍神としての力があってこそじゃ。それを小粒などと』
「や、でも、本当なので」
『アテナがいないのに、どうしてわらわはこの姿のままでいる! 呪いが解けないでいるのだ!』
なんかいつの間にか会話が成立している。
しかしそれにあまり気づかず、私は言葉を続けた。
「アラクネさんは有名なんですよ。織物の名手としても、怪物としても。私はユピテルの織物職人の子だけど、あなたの話は小さい頃から聞かされて育ちました」
『……何ということだ……』
アラクネはうなだれた。
『神であるアテナが信仰を失い消えて、化け物であるわらわは恐れられるために残ったと、そう言うのか? そのような皮肉があるか……』
恐怖の対象であったはずの白蜘蛛が元気をなくしてしまって、私は何だか気の毒になった。




