35:リディアの訴え
ネルヴァの屋敷に到着したのは、昼になる手前の時間だった。
フルウィウスの家も十分に立派だったが、ここは何と言うか、格式が高い。
門を彩る彫刻はよく磨かれて、穏やかな眼差しで私たちを見下ろしている。
庭木もよく手入れされており、きれいな形に刈り込まれていた。
フルウィウスが名前を告げると、門番が中に通してくれた。
玄関から正面のホールを進む。
奥に中庭の光を透かす位置にネルヴァの執務室があった。
他の客と入れ替わるようにして入る。
「おや、フルウィウス。それにリディアとティトスも。きみたちがここまで来るとは珍しいな」
大きな執務机にゆったりと座り、ネルヴァが言った。
「ちょうどクリエンテスたちの陳情が終わったところでね。今は父が不在だから、俺が代理を務めている」
「お疲れ様でございます。今日はリディアが火急の用があると言い張るので、連れてまいりました」
と、フルウィウス。ネルヴァが頷いたので私は一歩前に出た。
「エラトのお店のニンフたちが、貴族の宴に出るよう無理強いされているんです」
「ほう」
ネルヴァは首を傾げただけだ。私は言い募った。
「踊り子として呼び出されれば、春を売れと言われるに決まっています。エラトの店はニンフたちにそんなことはさせません。だからどうか、ネルヴァ様のお力で貴族に断りを入れていただけませんか」
「踊り子を生業とする以上、そういった事態は当たり前なのでは?」
平然と言われた言葉に私は唖然とした。
「当たり前じゃありません! エラトたちはまだ十四歳と十五歳で、成人すらしていないんです。結婚前の若い娘がそんな目に遭うなんて、あんまりです。私はそんなつもりでエラトたちをニンフにしたんじゃありません!」
私の必死の言葉に、彼はそれでも表情を変えなかった。
「結婚前の娘が処女を失うのは、貴族であれば大事になる。結婚は家と家の契約であり、契約の遂行のためには子を成す必要がある。そして生まれる子が夫の血を引く証となるのが、妻の純潔なのだから。だが平民であれば、そこまで気にする必要はないだろう。受け継ぐ家も血も関係ないからな。そもそも踊り子や給仕はそういった仕事でもある。貴族と閨を共にすれば、縁ができる。その縁を生かすのを考えるべきだろう。何の問題が?」
私は絶句する。
……そうか。これがユピテルの『常識』なんだ。
ユピテルは家父長制で女性の立場がかなり弱い。妻や娘は家長の所有物であると公言する人までいる。
女手一つで私を育ててくれたお母さんや、夫婦で協力してお店を営んでいるエラトの両親を見て忘れてしまっていた。
フルウィウスとティトスをちらりと見た。
ティトスはともかく、フルウィウスは明らかに不快感を示している。私が間違ったことを言っていると思っている。
けれどもここで引き下がるわけにはいかない。
「男性のネルヴァ様には分からないかもしれませんが」
歯を食いしばって続けた。
「意に沿わないそういった行為は、女性にとって苦痛なのです」
正直に言うと私は前世でも男性経験がない。
けれどニュースやいろいろな話で、望まない行為を強いられた話はそれなりに聞いた。どれもが気の毒で心が痛くなる話ばかりだった。
「踊り子やウェイトレスを仕事にする人たちが、お金やその他の目的のために自分の意思でやるのであれば、私は口出しするつもりはありません。でも嫌がっている人に無理強いするのは違います。
ネルヴァ様は言いましたよね。できるだけ多くの人が幸せに暮らせるよう、改革を行うと」
まっすぐに彼を見ると、どこか戸惑ったような視線とぶつかった。
「その『多くの人』に女性は含まれないのですか。社会で暮らしているのは女性だって同じなのに。女性だからというだけで切り捨てるのですか」
「…………」
ネルヴァは答えなかった。
しばらくの沈黙を挟んで、彼は逆に質問してきた。
「踊り子や給仕が春を売るのは、ごく当たり前のことだ。あの店ではそういったことをしないと言っても、今のような事態になれば断るのは難しい。それは最初から分かっていたはずなのに、きみはあの商売を始めたのか?」
「それは」
ぎゅっと拳を握る。
「私の考えが甘かった。私はただ、エラトの店を明るくて楽しい店にしたかった。男性だけではなく、女性や子どもでも楽しめる店にしたかっただけなのです」
甘かった。本当にそれ以外にない。
この古代世界は前世と常識が大きく違う。その点を忘れて、対策が甘いままに進んでしまった。
罪悪感が胸を噛んだ。
と。
「では俺は、きみの尻拭いをすることになるな」
「……え」
思わずネルヴァの顔を見ると、苦笑したような困ったような表情をしていた。
「貸し一つだ。この前の石鹸の件もあるし、まあ良しとしよう。その貴族には俺から釘を刺しておく」
「いいのですか。でも急に、どうして?」
「そうだな――」
彼は立ち上がって中庭の方を見た。
「リディアの言葉に不意を突かれたからだよ。確かに俺はこの社会を動かす男性ばかりに目を向けて、女性はおざなりにしていた。体力の問題で兵士は男しかなれないが、子を産み育てるのは女だ。軽視していいものではない。
それに衣服の仕事に関しては、女性が多く関わるだろう。他ならぬ女性であるきみに向かって、切り捨てるとはとても言えないさ。
俺にだって母がいれば妹もいる。そう思えば、答えは出た」
「ありがとうございます……!」
私が頭を深く下げると、彼は振り返って苦笑した。
「いや、いい。何のための改革か、改めて思い出せたよ。たとえ女性でも、平民であっても意思はあるとね。ただ……」
「ただ?」
ぎくりとして続きの言葉を待った。
「きみの店の踊り子たちを、俺の家の宴に呼びたい。もちろん無体はしない。フェリクス家と繋がりがあるのをアピールして、他の貴族や騎士階級を牽制しておく。それが一番手っ取り早いだろうからな」
「――はいっ!」
何も怖いことがなく歌と踊りを披露できるのなら、願ってもいないチャンスだ。
いつものお客と違う階層の人々に見てもらえて、エラトたちの経験にもなるだろう。
「実を言えば、貴族階級に届く程度にはきみの店は評判でね。その店を囲い込み、フェリクス家だけが踊り子を呼べるとなれば、我が家にもメリットがある。先ほどは尻拭いと言ったが、なかなかどうして旨味のある話だよ」
「ええぇ……」
ネルヴァの意地の悪い笑みに、私は呆れてしまった。
この人は本当に転んでもタダでは起きない。一つのことをやる際に同時にいくつもの利益を取っていくところなど、商人顔負けだ。
「それでいてリディアに恩を売って、ますますの働きが期待できる。さあ、この件は俺が責任持って処理をしよう。なので、きみはもっと頑張ってくれ」
「はぁ……」
もう苦笑いするしかない。
フルウィウスとティトスを振り仰げば、彼らもぽかんとしていた。私の言い分はユピテルの常識からすれば間違っていたのに、丸く収まった上にメリットがあるとまで言われて、理解が追いつかないのかもしれない。
「えっと……エラトさんたち、貴族の家に行かないで済むの?」
ティトスが戸惑いながら言えば、ネルヴァが頷いた。
「そうだ。だからティトスとリディアは、今後もあの店をもり立てて行くように」
「はい、もちろんです!」
「いい返事だ」
ネルヴァが微笑む。
それで空気がぐっと和らいで、私も笑うことができた。
本当に、良かった。
ここまでで第1章は終了です。次回から新章に入ります。
お読みくださりありがとうございました!引き続きよろしくお願いします。




