32:石鹸完成
フルウィウスの家の台所で石鹸を仕込んで、まだ数日。
本当は一週間程度は乾燥させるところだが、ユピテル共和国は日本よりも湿気が低く気温は高い。
早ければそれなりに固まっているのではないか。せっかくネルヴァがいる今日の機会に確かめてみることにした。
「あ! 結構いい感じ!」
木の箱に入れられた石鹸は、まだ少し柔らかいけれどちゃんと固形になっている。
ナイフで欠片を切り出した。
「それは何かな?」
普段台所になど入らないのだろう、物珍しそうにあちこち見ながらネルヴァが言った。
「石鹸です。洗濯でも体を洗うのでも、しっかりと汚れを落とせる道具ですよ」
「ふむ」
試しにかまどに落ちていた炭のかけらを拾って、自分の腕に線を引いた。
それから水を少しつけて泡立てると、汚れがするすると落ちていく。
「なるほど……これは大したものだ」
ネルヴァを始め、皆が目を丸くしている。
「これ、兵士さんたちのお風呂に使えませんか。清潔にしておけば病気の予防になりますから」
「…………」
ネルヴァは真剣な目で石鹸を見つめた。
「……軍隊というものは」
彼は言う。
「常に疫病との戦いだった。入浴の習慣がある我が国は、それでも他国よりはマシだが。兵士は病で死ぬか戦いで死ぬかと言われたものだ。――この石鹸があれば病を予防できると?」
「えっと、まあ、一般的なレベルの話ですけど」
ネルヴァが思ったより真剣だったので、私は焦る。
「病気の人に触ったり近くにいると、移る場合がありますよね。清潔は移る確率を減らしてくれます。入浴だけでもある程度効果はありますが、石鹸があればしっかり汚れと病のもとを洗い流せるので。お風呂だけでなく、料理の際や食事の前に手を洗うのも大事ですよ」
手洗いうがいは感染症予防の基本である。
それにしても戦死と比べるほど病死が多いのか。
確かに衛生観念のない古代世界で、軍のように人が密集して過ごせばそうなるのだろう。しかも戦闘があって怪我をする。傷口から感染する。当然の結果か。
「この石鹸はどうやって作る?」
「油、オリーブオイルや他の油でも何でもいいので油と、オカヒジキの灰を混ぜて作ります。海藻の灰でもいいかもしれません」
「普通の植物の灰では駄目なのか?」
「試してみたら駄目でした」
「……どちらにしても、それほど高価なものではないな。これは保存が効くのか?」
「はい。今はまだ乾燥が足りなくて柔らかいですが、しっかり乾燥させれば数年以上は保ちますよ。小さく切り分ければ持ち運びも便利です」
ネルヴァは頷いてフルウィウスを見た。
「フルウィウス。すぐに石鹸の大量生産の準備をするように。軍制改革が成った暁には軍の備品として採用するが、それ以前に市民に浸透させたい。ある程度数が揃ったら、フェリクスの名で主だった浴場へ配布を」
「はい、お任せください」
入浴文化が根づいているユピテルでは、市内に公衆浴場がいくつもある。
まだ数はそんなに多くなくて、主に富裕層の使うものだけど。いずれ上水道を増設したら増やす予定だと聞いたことがあった。そうなれば平民たちも通うようになるだろう。
「リディア。きみは本当に驚くべき女性だな」
ネルヴァが言う。どこか眩しいものを見る目だった。
本当は気後れしたけど、思い直した。
ネルヴァは私を同志と言ってくれた。それなら堂々と受け取らないと。
「ありがとうございます。また何か思いついたら、ご連絡しますね」
ネルヴァは満足そうに頷いた。
ネルヴァを見送ってから、私とティトスは羊毛工房へ戻った。
作りかけの衣装を仕上げなければならない。
裁断が終わった布のパーツを取り出して、順番に縫い合わせていく。
「すごい。それとそれをそんなふうに縫うんだね」
「まあね。ほら、縫い合わせる布の角度が違うでしょ? これで立体になるの」
ティトスは縫い物は未経験なので、ちょっとした雑用を手伝ってもらった。
合間に針と糸を手に取って、不慣れながらも試し縫いをしている。
まずはミミの衣装が出来上がった。
森の木漏れ日をイメージした、明るいグリーンとイエローの色合い。
ミニのティアードスカートはハイウエストで、ちょっぴり胸を強調した形になる。
ふわふわのスカートは下にパニエを合わせて、たっぷりふくらませる。
ギャザー控えめの上着はすっきりとしたシルエット。
首元に大きめのリボンをつけて、ミミの活発な愛らしさを表現してみた。
次にサリアの衣装だ。
大人っぽい彼女は夜の星空をイメージ。
ネイビーのティアードスカートは少し長めのミモレ丈、アシメントリーにして灰色の布をフリルに足した。ところどころに白糸で星の刺繍を施す。
上着は思い切って前世のブラウスのようにボタンをつける。
そのおかげでかなり細身の見た目になったので、ビスチェを重ねてアクセントに。
ミミとおそろいのリボンを、サリアのイメージを壊さないよう細い繊細な形で結ぶ。
袖は半袖のパフスリーブだ。
ボタンはユピテル共和国では見かけたことがない。
こちらも木工職人に頼んでわざわざ作った。
ブラウスの着方、ボタンの締め方は説明しないといけないね。
この衣装に、エラトの時と同じように造花の花冠やアクセサリーを合わせる。
二人分の衣装を手縫いして小物や刺繍もやるとなると、さすがに何日もかかってしまった。
けれど楽しい時間だった。
前世と違ってミシンがないから、作業はとてもゆっくりになる。ロックミシンもないので、端の始末も手間取ってしまう。
でもそのゆるやかさが、かえって想像力をかき立ててくれた。少しずつ仕上がっていく衣装が愛おしくて、針を動かす手が止まらない。
指を滑る布。返し縫いで縫われていく糸。
その感触の全てが幸せで、心から楽しいと思える。
そして出来上がった時の達成感は格別だった。
思わずティトスと手を握って笑い合ったよ。
二人の衣装はエラトのものよりも革新的で、冒険したと言えるだろう。
さて、これが新人二人に、そしてお客さんに受け入れてもらえるだろうか……?




